まだ空には星が見える時間だった。特異点とは言っても星の運行は変わらない。オリオンのベルトが輝く冬の空。それを見上げてケイローンはゆっくりと白い息を吐いた。風はひそやかに夜を渡っていく。遠くさざめく葉擦れの音しかない静寂に、手にした弓を霧散させた。警戒を解いてさくりさくりと草を踏む。夜露に蹄が濡れていく。久しぶりにこの脚で駆けてみたいとも思ったが、あまりこの場所から離れるわけにもいかなかった。
ケイローンはそっと来た道を振り返り、そこに小さな灯りを見る。眠り休んでいるマスターと、それを守る英霊たち。野営はめずらしくもないが、冬の夜は長く暗い。ここはそういう土地だった。天上の星々が放つ冴えた光は青く明るい。けれどあたたかな焚き火の色はそこにあるだけで金や宝石よりずっと価値あるものだった。
熱と光を生み闇と獣を遠ざける。もちろん野盗や魔獣の類が出てくるとなればむしろ目印となり危険だが、そんなものに怯えて凍える夜を選ぶ英雄はひとりたりともいなかった。交代で番をしながら更けゆく夜が明けゆく夜へと衣を脱ぐまで絶やさず薪を焚べていく。静かに炎が爆ぜる音。ぽつりぽつりと交わす言葉。人の子の眠りを妨げないよう気をつけながらもそこには楽しげな空気が流れていた。夜食代わりにマシュマロを浮かべたココアを作る者。そのマシュマロを枝に突き刺し焚き火で炙って食べる者。眠りを必須としない身体は寝ずの番を苦にしない。
その交代の折、少し散歩をしてくると言って野営地を出たケイローンを誰も咎めはしなかった。もとより安全を確認してからの野営であるので心配されることもない。もし夜行性の獣でも襲ってきたならば、翌朝の食事に肉が増えると期待すらされていただろう。天にて輝く狩人ほどではないものの、ケイローンもまた弓を使った狩りには当然慣れている。千里を見る眼は夜の闇には阻まれない。
その眼が銀の光を地上に見る。次いで闇にくすんだ橙色と、月光を浴びて淡く輝く緑色。耳には風の音に混じって土を踏む音がかすかに聞こえ、それはだんだんはっきりとしたものとなる。狩るべき獣とは違う人の形をしたその影は、けれど獣のようなしなやかな動きでケイローンの前に現れた。さく、と踏まれた草に銀の光がこぼれ落ちる。
「アキレウス」
「俺も散歩。ちょっと歩こうぜ、先生」
佇んでいたケイローンの隣に並び、アキレウスは歩き出す。二本の脚の四本の脚がそれぞれに道なき道を掻き分けた。星の灯りが踊っている。深い藍色の空は夜明けを前に暗さを増していた。ケイローンはすいと隣に目を向ける。ずっと昔はふわふわとした明るい髪しか見えなかった角度だが、今は精悍な横顔がよく見える。長い睫毛が落とす影、真っ直ぐ通った鼻筋に、ぽってりと形のよい唇。
この特異点は人の集落がないせいか、旧い神話の時代によく似ている。植生を見る限りギリシャに近いわけではなさそうだが、それでもケイローンは郷愁めいたものを感じていた。果てない空に父なる神は居らずとも、どこか懐かしいにおいがした。土と水と、木々と岩と、そこかしこで遊ぶ妖精たちのいたところ。ケイローンはなだらかな丘の斜面で脚を止めた。数歩先を行ったアキレウスが振り返る。
「先生?」
風にはたはたと揺れる前髪を手で抑え、うつくしい男が微笑んだ。月のような瞳に夜が溶ける。斜面の上にいてもまだ少しケイローンより低い位置にある顔は、子供の頃と同じようにケンタウロスの姿を見上げていた。軽く首をかたむける仕草も変わらない。ただ声だけは澄んだ高い響きをなくしていた。大人の男のやわらかな声が、ケイローンに語りかける。
「先生がその姿だと、昔のことを思い出すな」
「まぁ、私は何も変わっていないですからね」
懐かしむには遠すぎる、そんな時代を生きていた。けれど不死を手放し得た安寧のその先に、今の仮初めの生がある。そこに数千年の時を隔てた体感はなく、ただ一夜の眠りから覚めただけのような気もする。芽吹くことも朽ちることもない魂と肉体が、ケイローンという男の神霊たる証なのかもしれなかった。かつて形のない島で旧い女神が怪物と呼ばれたこと思い出す。成長を言祝がれるのは人間だけで、神は違う。
「そういえば先生、さっきあっちでマシュマロ食べました?」
アキレウスはケイローンの返した言葉には曖昧な笑みを浮かべただけで終わり、昔の話はしなかった。たとえば海が見たいとぐずった日、たとえば真白い雪の積もった冬の朝、たとえば特訓を終えた後の夕陽に染まる空の下。こうしてふたりで歩いた日々の記憶を言葉にはせず、再び丘の上へと進んで行く。
「あれ、ビスケットで挟んで食うのも美味いんだな」
返事を待たずに離れる背。歩くたびにオレンジの布が風に遊ばれ揺れていた。空には色とりどりの星が輝くが、ケイローンの視線は目の前の影に奪われる。頭のなかでは幼い子どもとマシュマロがぐるぐる回っていた。手を伸ばし、捕まえる。アキレウスがうぉ、と小さく声を上げた。
「っと、何すんだ先生」
そのままぐいと布を引いてやれば、釣り上げられた魚のように青年はケイローンのそばに戻ってくる。と、と、と斜面を下りる足取りは軽く、無様に転ぶことはない。二本の脚でしっかりと立ち、わけが分からなそうにケイローンを見上げ目を細める。少し風が出てきたようだった。ばさばさとケイローンの長い髪と尾が揺れる。朝が近いのかもしれない。
「あまり遠くへ行ってはいけませんよ」
さらりとした手触りを楽しむでもなく手放して、代わりに風で乱れた緑の髪を撫でてやる。冬の空気をまとって冷えてはいるが、凍てついた鉱石のかたさは感じない。指の動きにされるがままになる髪は、その持ち主と同じく昔から素直だった。短く刈り上げた後頭部まで撫でてみると、くすぐったそうに身をよじる。その反応も素直なままで大きくなった今でも十分愛らしい。
「美味しそうですね」
「ん?」
「マシュマロとビスケットの話です」
ぱちりとまたたく蜜色の目へ向け微笑むと、アキレウスは嬉しそうに破顔した。ふにゃりとやわらかいマシュマロに、ざくざくと食べ応えのあるビスケット。甘いものと甘いものの組み合わせ。空腹は気分の問題でしかないサーヴァントの身であるが、むしろだからこそ味覚から得る幸福感が大きくなるのかもしれない。
ケイローンは自身の身体に備わる舌の存在を意識して、味わう幸福について考える。目の前で笑う青年は、寒さにほんのりと赤く色づく鼻先は、マシュマロを美味しく食べた唇は、どんな幸福な味がするだろう。前脚が強く地面を踏みしめた。東の空はうっすらと色を変えてゆき、星々が今宵最後の舞台にささやかな光を放っている。夜がもうすぐ終わるようだった。
「そろそろキャンプへ戻りましょうか」
ケイローンは上半身をそっと屈めてアキレウスの耳に唇を近づける。そうしなくとも声を届けることに支障はひとつもなかったが、したいことをするのに理由は何もいらなかった。なぜ、と己に問うこともしない。
「待っ、てくれ、先生」
「……何を?」
唐突に距離を詰めたことか、散歩を終わりにすることか。あるいはそれは、もっと前にした告白への答えなのかもしれなかった。ケイローンはその場でじっと待つ。人の子のように祈る言葉は持っていない。ただ見下ろす先にかたい面持ちで立つ青年が、次はどんな言葉を選ぶのだろうとそんなことだけを考える。予測に希望と諦めと、さらに浅ましい欲を織り交ぜて、まだ夜が続いているのをいいことに、ふたりきりの世界にいると思い込む。
「先生、俺のこと好きだって言ったよな」
「はい」
「ちゃんとよく考えてから返事をするように、とも言ってくれた」
「そうですね」
「だから返事、ちゃんと考えてきたんです」
銀色の鎧が放つ光は冷たかった。けれど金に揺らめくまるい瞳は生まれたばかりの星のようなまばゆい熱を帯びていた。見惚れ、灼かれ、息を呑む。ケイローンは自身がじわじわと溶かされていく蝋になったと錯覚した。胸のうちがひどく熱い。夜を渡る風は火照った頬をゆるりと撫でるが熱を冷ますことはない。見つめ合う瞳に渦まく光が弾け散る。
数日前、ケイローンが想いを言葉にした時は、こんな感情にはならなかった。もちろん冗談や軽口のつもりで言ったわけではないと誓うことはできる。だが一方で、あれが愛の告白と呼べるほど儀式めいたものではなかったことも間違いない。
起動中のシミュレーターが海と浜辺を映していて、アキレウスとふたり波打ち際を歩いていた日のことだった。見慣れたエーゲ海とは違う景色でも海は海、青く透きとおる水面に波が白く儚く散っていた。ざん、ざざん、と耳に心地よい波の歌。ブーツを脱ぎ、足首までを晒して歩くアキレウス。空は朝とも昼ともいえない中途半端な位置に太陽を輝かせ、雲がゆったりと機械的に流れていた。
もともとは足場の悪い砂浜での戦闘訓練、という名目で設定をしたはずだった。それがのんびりとした散歩になった経緯までは記憶にない。ただ他愛もない話をしながら波に足首を洗われていると、有り得なかった未来にいるという実感がふいに胸の底に打ち寄せた。いつか弱点であると教えた踵に傷はなく、アキレウスは健やかに海水を跳ね上げ笑っていた。きらきらと、飛沫は光の粒となり、ケイローンは白昼に目の眩む夢を見た。
好きだと告げた言葉には、私のものになって欲しいという切ない願いがこもっていた。それは傲慢な願い、と呼ぶべきものかもしれないが、ケイローンは一歩を踏み出し手を伸ばした。きょとんとした顔で首を傾げるアキレウスの頬を撫で、まろいやわさをなくした大人の姿をそこに見た。潮風が沈黙を吹き流し、唇が薄く開かれた。
奪ってやったのは一瞬で、あとに残ったものは何もない。味も感触も体温すらも幻のように消え失せて、ただ「先生……?」と戸惑う声だけが潮騒に紛れず耳の奥を震わせた。衝動で行動するとは我ながらめずらしいものだと思ったが、不思議と気分は軽かった。悪びれもせず、好意を口にしながらその実それが純粋な好意かどうかを疑って、結局は己のなかに根を張る欲をそのまま肯定した。
奪われた唇をその手で拭うこともなく、アキレウスは寄せては返す波の終わりに立っていた。嫌悪も怒りもない代わり、喜色も頷きも返らない。ケイローンもまたどんな反応を期待していたか、という問いへの答えは持っていない。だから落胆も絶望も後悔もないまま口元をゆるめ笑いかけることができた。それで告白は終わりだった。
そして猶予という名で思考の端に居座る話を飲み込ませ、その場はそれで何事もなかったようにシミュレーターの電源をオフにした。空も砂浜も海も消え、無機質な白い壁に戻った部屋はどこか寒々しく感じられた。アキレウス、と呼べばそれにはきちんと返事があって、そこに変な気まずさめいたものは含まれない。いつものように連れ立って食堂へ向かうこともしたし、食堂では当然のように談笑しながら食事をした。日常は何も変わらない。
心配せずともアキレウスもまたそのあたりの切り替えができぬほど初心でもなければ純でもない。生前の色恋すべてを知るわけではないが、少なくとも今のケイローンが知るアキレウスはそういう男のように見えた。そして実際その見立ては正しかったに違いない。あれから今日までの間、ふたりは凪いだ日々を過ごしてきた。
時は矢のように過ぎたとも、本のページをめくるように進んできたとも感じられる。あるいは紅茶にお湯を注いだあとで、ひっくり返した砂時計を眺めているのと近い感覚かもしれない。ケイローンはさらさらと落ちる砂を愛でながら、茶葉が開くのをじっと待つ、そんな時間が嫌いではないと思っていた。飴色の紅茶がカップのなかで輝く時を夢に見て、それを味わう瞬間を楽しみにしながら朝と夜とを見送った。
そして今日、ついにその時は訪れた。砂は静かに落ちきって、アキレウスはいつかの波の音を呼び起こす。淡く色づく唇が、闇にもきらめく瞳の影が、ケイローンを飲み込み溺れさせる。
あの日告げた言葉ではとても足りないくらいにあふれる想いを胸に抱え、ケイローンは今さらおそろしくなった。この子を手にするためなら何だってしようと焼け落ちた理性が叫んでいる。それは永く生きたケイローンにとってもはじめて味わうものだった。有ってはならない、けれど切り捨てることもできない想いに苦しくなって、喘ぐように息を吐く。
「はは、先生緊張してる」
笑いを含んだ声は明るかった。アキレウスはたびたび言わなくていいことまでも素直に言葉にしてしまうが、今回のそれをケイローンが指摘することはできなかった。ぐぅとも言えないままにただアキレウスの愉快げに笑う顔を見る。
「なんか、いいな、これ。先生が俺のことでこんなになるの、はじめて見た」
「そんなのは、私だって同じですよ。こんな自分は知らなかった」
落ち着かない心をそのまま映して尻尾が後ろ脚を叩く。いっそアキレウスがあの時あの場で拒絶を示していたならば、こんなことにはならなかったかもしれない。あるいは返事をするのがカルデアのなかであったなら、こんな夜でなかったら、そう詮なきことすら考える。
「アキレウス、返事を聞く前にひとつ私からいいですか」
「なんです、急に」
今度の声は笑いを含みながもやさしかった。どうぞ、と歌うように続きを促され、ケイローンは膝を折ってアキレウスを見上げ微笑んだ。
「あの時、私はあなたを好ましいと思っていた。あなたを私のものにしたいとも」
「うん」
「ですが今、私はあなたに恋をしたと言うべきだったと思います。あなたのすべてを手に入れたい」
星はもうほとんど空から消えている。藍色は薄れすっかり暗さをなくしていた。けれどケイローンの千里を見る眼は夜明けの空より目の前の存在にこそ光を与えられている。もうアキレウスの向こうは見えていない。それが恋をした者の眼なのだろう。
「…………あー」
きらめくふたつの目を閉ざし、アキレウスはその場にしゃがみこんだ。再び視線の高さが変わり、ケイローンはアキレウスを見下ろすようになる。
「先生、それ、どんな顔で言ってるか全部分かってやってます?」
うつむいていた顔を上げたアキレウスは、どこか拗ねたような目でケイローンに問いかけた。夜の終わりが近づいて、ほんのりと赤く染まった頬の色も分かりやすくなっている。寒さのせいかととぼけられるわけもない。
先ほどまでの余裕ある男の姿はかき消えて、今のアキレウスは悩ましげに眉を寄せている。それを生娘のようだと形容すれば本人はさらに頬を赤らめ怒るだろうが、ケイローンは胸の奥が疼くのを感じていた。アキレウスが言っていたように、自分のせいで常とは違う姿を見せる相手には「いい」と言いたくなってしまう。
「あなたこそ、そんな顔をされるとこちらは期待してしまいます」
ついと指の背で頬に触れた。嫌がる素振りがないのに安堵して、いっそう期待に胸を焦がす。
「期待って」
「このまま押し倒してもいいのかと」
「押し倒っ……?」
さっと警戒の色を見せたアキレウスは、バランスを崩しそのまま草地の上に尻をつけた。ケイローンが重い馬体を持ち上げにじり寄る。これがただのじゃれ合いに過ぎないことはお互いがよく分かっていた。たとえこんなやり取りははじめてでも、相手が本気かそうでないかくらいはすぐ分かる。
現にケイローンの前脚に迫られながらもアキレウスは動じない。さくりと草を踏んだ音がして、身体の両側に蹄が下りてもアキレウスは怯えなど見せず笑っている。空気はいっそ和やかで軽くなっていた。
「今の先生すげぇケンタウロスっぽい」
「ぽいではなく正真正銘ケンタウロスですけどね」
「それはそうだがそうじゃあなくて……まぁいいや。つまり先生、俺のこと抱けると思ってる、ってことでいいか?」
「ああ、いえ、そう、ですね……」
「なんだよ」
どうにも言い淀んだケイローンに、アキレウスはぴくりと眉をつり上げた。その劣情を受け入れるかはともかくとして、己の持つ魅力はしっかり分かっているのだろう。そのあたりは母である女神に似たのかもしれない。高慢と呼ぶにはまだ可愛らしい不機嫌で、ケイローンを見上げ唇を尖らせる。
「抱けると思う、ではなく抱きたいと言ったらあなたはどう思いますか?」
「…………え」
「言ったでしょう? あなたのすべてが欲しいのだと。そのためにはもちろん身体を許して欲しいと思いますし、それ以上にあなたが閨ではどんな風に乱れるか、どんな顔で私を求めるか、その姿を見たいと思います」
「え、ぁ……」
今度の言葉は本気だった。アキレウスもそれを感じたのだろう。ごく、とかすかに喉が鳴った。
「俺、は」
「はい」
「先生が俺のこと好きだと言ってくれて嬉しかった。ちゃんと家族だとか友だとか、そういうのだけじゃねえのは分かった上で、俺は嬉しいと思ったんだ。だから、たぶん俺も先生と同じ意味で先生のことが好き……なん、だと思う」
おそらくそれが、アキレウスがはじめに用意していた答えなのだとケイローンは考える。けれどその答えは清らかな好意だけを前提としたものであり、その前提が崩れた今、新たな答えを出してもらわなければならなかった。ケイローンは静かにアキレウスが言葉を探すのを待っている。もう猶予を与えてはやれなかった。
「ただ、俺と先生がそういう仲になるのはどうなんだ、とは思ってた。サーヴァントだし、先生はもう俺だけじゃなくみんなの先生って感じだし」
「それは」
「関係ないって言うんだろ? それくらい俺にも分かってる。そんな理屈だとか体面だとかで切り捨てられる感情だったら恋なんて言わないはずだしな」
ふぅとひとつ息を吐いたアキレウスは、まだ何かを迷うように目を伏せる。だが沈黙はそう長く続かずに、ケイローンが見守るなかでアキレウスの唇は開かれた。再びぱちりと視線が合う。
「先生は見たいと言ったがな、俺は先生に抱かれる俺をいまいち想像できてない」
ついでに俺を抱く先生も。と言い添えて、アキレウスは悩める子どもの顔をした。それは本人としては真剣な話のつもりなのだろうが、聞いているケイローンはつい笑ってしまいそうになる。嫌だとも無理だとも考えないで、想像しようとしてみたことの意味を聞きたい。その想像はやはり人馬が相手なのだろうか。馬の交尾と同じと思って変な想像をしていないとも限らない。
ケイローンは堪えきれず肩を揺らして笑っていた。それから少し身体の位置を変え、上体を地に座るアキレウスに近づける。むっとした顔は笑うなと言いたいのだとは分かったが、その唇が言葉を紡ぐことはできなかった。ちゅ、とかすかに濡れた音が互いの耳を震わせる。唇に熱が灯ったようだった。
「想像は、経験に勝るものではないのでは?」
「まずはヤッてから考えろって言うのかよ」
「そうは言いませんが……想像できるできないは大した問題ではないと私は思いますよ」
もう一度唇を重ねても、アキレウスは悩める顔のままで受け入れる。そしてそんな悩みとどう折り合いをつけたのか、舌を伸ばして深い口づけをねだってきた。ケイローンは拒む理由もないので思うまま舌を絡ませる。どこか甘い味がした。
「ん、まあ、これは……できるな」
こく、と互いのものが混ざった唾液をためらうことなく飲み込んで、アキレウスの唇はゆるやかに弧を描く。
「うん、そうだな。想像より、ずっと甘くて……悪くない」
笑いかけてくる顔は、色事に慣れた男の余裕をすっかり取り戻したようだった。その順応の速さにケイローンはふっと苦笑をこぼしたが、それはころころと表情を変えるところも可愛いな、と思ってしまう自分に向けてのものなのかもしれない。恋、というのは己の感情ひとつままならなくて、だからこそ深みへとはまっていく。もう戻れも止まれもしない予感にケイローンは目を細めた。
「そこは悪くない、ではなくよかったと言ってほしいですね」
「それはもう一回、先生からしてもらわなきゃ言えないな」
「おや、では遠慮なく」
煽る言葉に乗せられて、喰らいつくように口づける。これまで肉欲に溺れた覚えなどはなく、これからもそうだろうという漠然とした幻想は、舌を絡ませるほどに溶けていった。熱くとろける口内の肉を貪るうちにもっともっとと欲は深くなっていく。
「は、ぁ……、先生、こんなキスすんの……」
ぷは、と大きく息をして喘ぐアキレウスを見下ろすと、唇だけでなく瞳もとろりと濡れていた。ケイローンは心臓がどくどくと脈打つ音を聞きながら、熱を持つ身体を持て余す。ばさりと尻尾が地面を打つのを恥じる思いはあるものの、もはや自身の意思ではどうすることもできなかった。
「よかった……です」
観念したようにそう呟いたアキレウスに、ますます熱を煽られる。頬の火照りを朝日が射したせいにするにはまだ早い。東の空が太陽に焼かれる前にケイローンは立ち上がった。手を差し出せば、アキレウスもそれに縋って二本の足でしゃんと立つ。尻を気にするのは濡れた草の上に座ったからだと分かっているが、その姿を見るのはどうにも落ち着かない心地がした。
流れる風が肌を撫でる。重ねたままの手と手が分け合う熱はぬくかった。沈黙は少しの間ふたりを支配していたが、それもすぐに流れていく。どちらからともなく野営地へ向けて歩きつつ、これからのことを話し合った。手を繋ぎゆったり進むうち、朝日もまた同じようにゆるゆると世界を照らしていく。
「別にすぐにでも肉体関係を持とうと迫るつもりではないんですよ」
「え、あんなキスしておいてよく言うな?」
「それはそれ。あなたがいいと言うなら今すぐこの場で抱こうとだって思いますが」
「出たな先生のケンタウロスムーブ。じゃあはっきり言っときますけど嫌ですよ、今ここじゃ」
アキレウスは呆れたような顔をしているが、それは今ここじゃなければいいという意味かと聞き返したならどんな顔をするだろう。ケイローンは口元がゆるみそうになるのを堪えながら、握っていた手を指を絡める形にした。恋人繋ぎという名称を、アキレウスはきっと知らずにいるのだろう。気にするでもなく次々言葉を紡ぎだす。
「……マシュマロって、そのままでもふにふにしてて美味いけど、火で炙ってみても美味かった。他にもココアに入れたりビスケットで挟んでみたり、俺が考えたことない食べ方だって美味かった」
まっすぐ前を見つめるその先は、焚き火をしていたキャンプ地だ。ケイローンはアキレウスが何を言いたいのか何とはなしに察したが、黙って続きを促した。足取りは軽いというより浮ついていると言っていい。
「だからまぁ、同じなんじゃねえかと思ってな。俺は先生のことが好きで、けど先生とそういうコトする想像なんか上手くできない。それでもそれを好きにならないとは今の俺には言い切れない。マシュマロみたいに食べてみたら違うよさに気づくかもしれないし、むしろそっちの方が好きだと思うかもしれない」
「そう、ですね。そうなると嬉しいと思います。ただ食べられるのは私でもマシュマロでもなくあなたの方ではありますが」
「あーもー、そうやって茶化すのよくないと思いますー」
ふたり一緒に笑い合う。朝日を浴びて、アキレウスの髪は金色に光っていた。それをうつくしいと思う。ケイローンはぎゅっと強く手を握り、幸福の在り処はここだと心が叫ぶのを聞いていた。長くなってしまった散歩もそろそろ終わりが見えている。森からは明るい鳥の声がした。
「実際、さっきキスしてきた時の先生も、その前の俺が欲しいって言ってきた先生も、見たことも想像したこともなかったはずなのにだいぶ好きだと思うしな」
ぼそりと独り言めいた声であったがケイローンの耳がそれを聞き逃すことはない。アキレウスの声に比べれば、爽やかな鳥の歌でもただの雑音に成り下がった。ケイローンの目の高さからはしっかり顔を見ることはできないが、ほんのりと耳の先が赤いことだけはよく分かる。
「そんなことを言われると、やはり期待してしまいますよ」
「だーかーらーこんなとこで変な下心出さないでくださいって」
そう言ってつれなくされてしまっても、ケイローンの期待はしぼむことなくふわふわと浮かんでいた。繋いだ手がまだ離されない。今はそれだけで十分だろうと思っていた。そのせいで、続くアキレウスの言葉に思わず脚を止める。
「カルデア戻ったら俺の部屋来てくださ、ッうわ」
そのまま進もうとしてつんのめったアキレウスが振り向いてケイローンを見上げるが、ケイローンは返す言葉すっかり見失しなっていた。ふわふわと浮いていた期待は今や破裂しそうになっている。
「い、いいんですか……?」
散々求めておいてこれは、今さら何を言っているのだと呆れられるかもしれない。けれどその言葉はケイローンが頭で考えるより先に喉からこぼれ落ちたものだった。かすかな震えが繋いだ手から伝わったのか、アキレウスの目がぱちぱちと驚いたようにまたたいた。ぐぅ、と喉が震えてまたひとつ情けない言葉が転げ落ちる。
「本当に?」
かすれた声はそれでも届いてくれたらしい。体勢を立て直したアキレウスはケイローンとまっすぐ向き合い破顔した。屈むようにと示されるままに従うと、ぎゅうと抱きしめる腕に囚われる。アキレウスからはふわりと夜の残り香が漂った。
「……俺はまだ、抱かれたいとは思ってない。けど先生が抱かれる俺を見たいと言っていたように、俺を抱く先生のことは正直見てみたいと思う。好きだから、俺の知らない先生をもっと知りたいし、俺を欲しがる先生のこと、もっといっぱい見せて欲しい」
「それは、抱かれてもいいと言っていませんか」
「そう聞こえるように言ってるんですよ言わせんな」
投げやりな口調に苦笑する。ここまで言わせて尻込みしては、男としても師としても、何よりかの大神の子として恥だろう。ケイローンは抱きしめてくる身体をしっかり両腕で抱きしめ返し、そのままアキレウスを抱き上げた。昔と比べればだいぶ重くなった身体だが、それでも抱えることに無理はない。
「ちょ、先生……!」
慌てた声が耳にくすぐったくて笑いとともに身体が揺れてしまう。そのためにアキレウスがじたじたと暴れるが、結局はケイローンの肩に手を、腕に尻を支えられて安定した。向き合う視線の高さはアキレウスの方がいくらか上になる。
「このままあなたは私のものだと見せびらかしに行きたい気分ですね」
「それ、古代でも蛮族がやることだろ」
「いえいえ、現代でも浮かれたカップルがやることです。カルデアのアーカイブにもありました」
「ええ……そんなんなおさらやめて欲しい……」
足先でケイローンの腹を軽く小突きながら、アキレウスは言葉どおり嫌そうな顔をした。照れとは違う心からの嫌がりようは、カルデアの浮かれカップルたちを思い浮かべているからか。あるいはカルデアには生前からの顔見知りが少なからずいるからか。
どちらにしてもケイローンも本気だったわけではないのですぐにアキレウスを解放した。ここで機嫌を損ねてしまっては、との下心がなかったと言えば嘘になるが、そうでなくとも相手が嫌がることを進んでするほど愚かではない。アキレウスは何か言いたそうな顔をしていたが、小言を言うほどでもないと判断したのだろう。やれやれといった様子で先へ進んでいく。
それを追いかけ隣に並んだケイローンは、早く帰りたいですねと言った。アキレウスはその言葉の意味を察してほんの一瞬歩調を乱したが、こくりと小さく頷いた。先生尻尾揺れてますよ、と指摘されて何とか取り繕おうとしてみたが、結局それはキャンプに戻るまでどうにもできずびゅんびゅんと空を踊っていた。