鯉月とごはん「今、何と言った」
「ですから」
今夜はお会いできません。何の躊躇いもなく、表情も変えず、月島が言う。いや、少しため息をついたか。しかしそれは会えないことへの憂いを含んだものではなく、何回言わせるのかという気持ちから出たものと推察される。
「なん……」
「いや何回言わせるんですか」
なおも食い下がろうとする鯉登に月島はとうとう呆れた顔を顕にした。諦めきれない鯉登が繰り返し尋ねてはすげなく断られる様に、隣のテーブルから笑い声が聞こえる。見世物ではないのだと睨む鯉登の様子がまたおかしいらしく、けらけらはしゃぐ学生の声はなんとも華やかに食堂に響く。
「あんまり月島のこと困らせんなよ鯉登!」
「貴様らが!月島のことを!呼び捨てるな!」
「鯉登さんも呼び捨てはやめてください」
しれっと釘を刺して食後の熱い茶を啜っている。なんと釣れないことか。
嬉々として月島を呼ぶ鯉登の姿は学内でも目立っており、「事務の月島さん」が、鯉登に倣って「月島」と呼ばれるのに時間はかからなかった。元々慕われていた下地があったろうとは言え、自分以外の者が当然のように月島を呼ぶことに納得がいかない。月島がそれを(思い出したように嗜めるとは言え)良しとしていることにも納得がいかない。
鯉登が月島を呼び捨てるだけでなく、学外で会おうとすることに、月島の同僚は当初は良い顔をしなかった。互いの立場を考慮すると、それは自然なことであろう。三十路を超えた成人と、入学したばかりの未成年。社会人と学生。勤め先の若い青年に手を出す輩と思われてては月島にも良くないだろう。心配をうっすら顔に浮かべてこちらを見やる事務長と思われる男性に「実は私達は随分昔からの知り合いでして」とにかり輝く笑顔で断りを入れると、明らかに安堵された。
「そういうことなら、あまり冷たくするとかわいそうじゃないか」
ぽんぽんと月島の肩を叩いて去って行く。
「あなたは本当に変に頭が回りますね……」
「昔なじみを贔屓して情報を漏らすような男ではないという、お前への信頼があるからこそではないか。誇るといい」
私も誇らしい。
フフンと鼻を鳴らすと、月島は片眉を上げ、少しだけ笑った。
「そもそも別に約束してた訳でもないですし」
「い、今までだってそんなことはあっただろう」
問答が続く。そもそも、鯉登が望んでいることはそう難しいことではないはずだ。夕餉を一緒にどうかと、ただそれだけ、未成年である自分がいるため、酒を飲むわけでもない。何軒もはしごするわけでもない。食後に長々語らうことを求めているわけでもない。もちろん会計は各々で、だ。
なのに何故。他に約束が。鯉登よりも優先するべき誰かと。
像を結ばない想像が不安と悔しさを掻き立てて、つい前のめりになってしまう。
「……が待ってますので……」
「待っている!?家でか!?」
「はい、今日ようやく来るんです」
待ち望んでいた誰かが月島の家に来る。そう語る表情は、うっとりとして見えた。
「……そん……う……」
「え、大丈夫ですか。顔真っ青ですよ」
あまりの絶望に言葉が出ない。こちらの気も知らないで月島は珍しく心配そうな声を掛けてくる。あなたも今日は早く帰った方がいいのでは、などと、ああ優しい。悲しい。悔しい。
「ずるい」
思わず溢してしまったが、許されたい。今現在の肉体年齢に精神が引きずられているのだろうか。何とも子どもっぽい嫉妬だ。月島の困惑した視線をつむじに受けながら、椅子に深く沈む。
「鯉登さん……」
「いや、すまなかった。駄々をこねたな」
「駄々はいつものことなんでいいんですが。鯉登さんもそんなに好きでしたか、鯛めし」
たいめし。
「だったら一緒に食べますか?二人分くらいは余裕でありますよ」
たいめし?
「19時までに届く予定なんで、本当にさっさと帰らないといけないですけど」
「待て」
「はあ」
「鯛めし?」
「鯛めし」
こくりと頷く月島の瞳には一点の曇りもない。つまり、今晩は月島の家に鯛めしが来る。どうやら鯛めしを食べるため、鯉登と夕餉には行けない。そして今この流れは、
「来ないんですか?」
「い、行く……」
この流れは、お宅訪問である。断る理由がどこにあろうか。一転、鯉登の沈んでいた心身はフワッフワに浮き上がった。
「どうぞ。狭いですが」
「お邪魔しもす……」
玄関を上がってすぐの廊下に現れる調理台におののきながら、鯉登は慎重に足を進める。構造上、食卓と寝室が一つ所に収まっている月島の部屋は、つまりここに入れば月島の普段の生活が全て集約されていると言っても過言ではないのではないか。執心して付いて回ってはいるものの、部屋に入るのはこれが初めてである。そわつく鯉登をよそに、月島は調理台下でごそごそしている。「鯉登さん何合くらい食べますか?」示された炊飯器はおよそ一人暮らしが持つサイズではない。
男二人が動き回るには狭い調理スペースを大人しく家主にまかせ、鯉登はうろうろと部屋を見回す。たたまれた洗濯物。箱買いの2Lペットボトル。小さなテレビと本棚。中には仕事関連と思われる冊子と明治時代関連の書物がいくつか並んでいる。何とも遊びのない部屋だ。今度何かゲーム機でも持ち込んでやろうと思いを巡らせていると、待ち焦がれていた呼び鈴が鳴った。
「……随分な量だな!」
「言ったでしょう。二人分くらいは余裕だと」
笑う鯉登に、少しだけ照れを見せて月島が箱から鯛めしの素を取り出した。流水で丁寧に解凍すると、十分に水を吸わせた米の上から慎重に出汁を注ぎ、大ぶりの切り身をそっと置く。炊飯器のスイッチを入れると、ようやく月島が着座した。
「大体1時間弱ですかね」
それまでは待機です。どうやら今晩は完全に鯛めしのみを楽しむつもりらしい。道中コンビニやスーパーにも寄らず冷蔵庫を開けることもせず、副菜を準備する様子のない月島は、本当に楽しみにしていたのだろう。可愛げのあることだ。勘違いで乱入してしまうことになったことは申し訳ないが、愛らしい姿を見ることができたことをありがたく思う。
置かれたままの箱を覗き込めばまだいくつかのパックが潜んでいる。贈答用と思われる品のいいパッケージに見られる賞味期限を確認して、しばらくは外食を共にするのは難しいかと首を捻り、「これは冷凍庫に入れておかないといけないんじゃないか」と月島を突付いた。
「しかし、貴様がお取り寄せグルメを楽しむタイプだったとは」
「まあ最近になってからですけどね」
炊飯器からぽこぽこと音が聞こえる。狭苦しいちゃぶ台には早々に二人分の椀と箸が並んでいる。
「米は昔から好きでしたし、何でも食べましたけど。たまにこだわるのもいいかなと」
「ふふ、それはいい傾向だぞ月島ァ」
「あなたのおかげですね」
ふくふくと笑う鯉登に静かに笑顔を返すと、月島はすっくと立ち上がった。同時に炊飯器のタイマーが鳴る。
「出来上がりました」
「いや月島ちょっと待たんか」
詳しく!と立ち上がろうとしてちゃぶ台に足をぶつける痛々しい音を無視して月島は黙々としゃもじとインスタントのお吸い物のセッティングを始めた。
鯛めしは非常に美味かった。月島の部屋には椀も箸も一人分しかなく、それらを鯉登に差し出した月島は汁椀に鯛めしをつぎ、割り箸を使い、お吸い物は二人ともマグカップを使うという、何とも情緒のない有様ではあったが、艷やかな米は出汁をしっかりと吸い、鯛はふっくらとその旨味を主張してきた。大いに満足し、ご馳走様と手を合わせると、時計は21時をとうに回っていた。
「そろそろ帰らないと。お腹の調子はいかがです」
「満腹だ。急にすまなかったな。手土産も持たずに」
手伝おうとする鯉登に結構ですと返して、てきぱきと月島が流しに食器を運ぶ。部屋の中をまだ美味しい匂いが漂って、少し眠い。去るのは心から惜しいが、昔なじみという立場があってしても、あまり遅い時間まで学生を家に留めるのは良くなかろうと、大人しく鯉登は上着とカバンを手に取った。
月島が律儀に玄関先まで出て見送ってくれようとするのをむず痒い心地で受け、じゃあ、と振り向く。室内外の温度差で、鯉登の鼻の頭が冷える。
「鯉登さん」
「ああ」
「次は雑炊にしましょう」
では、と軽く頭を下げた月島の鼻も赤い。
「待て待て待て月島」
「いやちょっとうるさいですよ。近所迷惑なんでボリューム下げてください」
閉めようとした扉の間へとっさに靴を滑り込ませ、嫌そうな顔をした月島に窘められる。結局、押し問答を繰り広げることになると察した月島が折れて「そこまで送りますから」と出てくることになったのだった。
言外に「また来てください」と潜ませられて、静かにしていられるはずがあるか!
せっかく大人しく帰ろうとしたのに、月島自らがかき乱してくるのだから敵わない。
駅までの道のりは静かで、二人の足音と虫の声が響く。月が随分明るい。秋が深まる気配がする。
すっかり涼しい顔に戻った月島の方をちらちら見やりながら、鯉登は向こうしばらく分の手土産を考えることに必死になっていた。