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    みたか

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    みたか

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    今山。
    作中の季節はいつでもいいように特に限定していません。

     駅前の映画館から線路を越えて、五分も歩かなかったと思う。住宅街の中にあるマンションの一階部分にいくつか飲食店が並んでいて、この店は真っ白い壁の前に小さな黒板のメニューが出ていた。「こんな所よく知ってたな」と、手のひらサイズくらいの店の表札を眺めていると、「ウチのお店の子に教えてもらったんです」と、旬くんははにかみながら店のドアを開けてくれた。

     注文を済ませて料理を待つ間、俺は気になっている事を訊いてみるべきか思案している。
     ――まず不思議なのは今日が金曜日だという事。何か理由がない限り、旬くんは稼ぎ時の金曜日に仕事を休まない。二つ目に、朝から夜まで今日一日の予定が決まっている事。予定と言っても大したものではないが、映画、食事、買い物、そして夕飯は俺に作ってほしいと言われている。(それからその後、もっと夜が更けてからの事も。)更に先ほど聞いた「ホワイトドルフィンの女の子情報の店選び」。旬くんは失敗したくないときの情報源として、彼女らには絶大な信頼を置いている
     つまり、俺が気になっているのは今日が俺たち二人にとって何か特別な日なのか、ということなのだ。旬くんの性格からして「記念日」のようなものは大事にしそうだ。対して俺はというと、恋人との記念日関係には苦い思い出しかない。別れるきっかけにすらなった事もある。
    「あの、冬樹さん? 大丈夫ですか?」
    「えっ」
    「何か考え事してるみたいだったんで」
    「え、そうだった? 俺は別に何も……」
     いや、訊いてみるチャンスだったのでは。そう考え出すとまた思考の渦の中で無言になってしまう。しかし後になればなる程訊きづらくなるのは明白だ。
     思い切って「旬くんさ」と切り出すと、「冬樹さん」という旬くんの声と重なった。
    「あっごめん。何?」
    「いや、あの、どうぞ冬樹さんからっ」
     こんな謎の譲り合いが発生する事だってめずらしい。旬くんに何かいつもと違う緊張感がある気がする。
    「……あー、じゃあ先に。ええと。俺が何か忘れてるんだったら本当に申し訳ないんだけどさ、今日って何かある日だっけ」
     忘れちゃったんですか、とか、やっぱ冬樹さんてそういうトコありますよね、みたいな呆れが返ってくるのを半ば覚悟していたが、旬くんの反応はそれとは違った。
    「俺が話しておきたかったのもその件でして……」
     突然恐縮しきって手を膝の上で揃えて眉をハの字にしている。
    「というのもですね、実は俺、今日誕生日なんです」
    「っハァ!? それ今、」
     椅子から腰を浮かせてそこまで叫んだところで、声を張りすぎたと気付く。何事もなかったように、そしてなるべく他の席の客を見ないように、静かに腰掛け直してから必要以上の小声で「今言う事!? もっと早く教えてよ」と付け足した。
    「すみません、何だかわざわざ言うのが恥ずかしくて」
     つられたのか旬くんまで小声になっている。
    「それに冬樹さん、誕生日とかあんま興味なさそうだな~って」
    「っ、そう言われると反論しにくいけど。でも確かに自分の誕生日には興味ないけど君の誕生日は、」
     そこまで言って言葉に詰まる。旬くんの誕生日なら祝いたい、大切な日だ、……? 何と言葉にすればいいのだろう。
     沈黙が続くテーブルに、前菜とパン、小皿料理が運ばれてきた。皿が並ぶまでの時間が異様に長く、日替わりのメニューの説明は右から左だ。
     ようやく店員が去ると、仕切り直すためにこほん、とひとつ恰好だけの咳払いをする。
    「誕生日くらい祝わせてくれたっていいだろ。この店だって俺の好きなものに合わせてくれた感じがするし、だいたい今日の計画だって君が立ててる」
    「映画は俺が観たいの観たし、夕飯だってリクエストしましたよ」
     俺の料理よりディナーこそ外食の方がいいのもが食べられるのではと思ったが、財源のほとんどは旬くんの財布なのでそこは言葉を飲み込んだ。
    「ほら、食べましょうよ温かいうちに。パン、ふわっふわですよ!」
     旬くんが言うので、俺も温かいパンに手を伸ばす。しかし、いまひとつ腑に落ちていない。それが自分でも意外だった。事前に誕生日だと知っていたとして、何をしてやれたというのだろう。それに今まで気にしたこともなかったのだから、興味がないと思われて当然だ。
     俺はいつも自分にだけ都合がいい。
     手に取ったパンを半分にわると、ふんわり湯気が立って消えた。旬くんは日替わりメニューの野菜の煮込みをスプーンで掬ってパンに乗せている。食器の当たる微かな音、それだけ。
    「いつも通りが一番幸せだと思って」
     旬くんがぽつりとつぶやいた。
    「だから、自分の新しい一年が始まる日に冬樹さんといつもみたいな一日が過ごせたら最高だなって思ってたんです。でも独りよがりでしたね……」
    「いや、そんな風には思って、ないけど」
    「ああ、えっと。何て言ったらいいんだろう。これ言うのめちゃくちゃ恥ずかしいんですけど……、冬樹さんが俺の事好きでいてくれたり大事に思ってくれてる気持ちを無視してたかな、なんて……」
     へへ、違いましたかね? と頬を赤くしながらパンを口に詰め込んでいる。
     参ったな、心底。俺自身より俺の気持ちが分かってしまうのだ。
    「……違わないよ、」
     やっとそれだけ口にする。
    「そうですか? それならやっぱり、ごめんなさい。ちゃんと先に話してこういうふうに過ごしたいって相談したらよかったです」
     そこへ、お待たせしました。と二人分のパスタの皿が飛び込んできた。トマトとニンニクとオイルの香りが鼻の奥を刺激する。じんわりと目の奥にもこみ上げるものを感じて、大きく息を吸い込んだ。
    「すごくうまそうだ」
     ごまかすように声を張ると、旬くんの顔がぱっと明るくなる。
    「! ですね! いただきます!」
    「いただきます」
     これを一口食べたら俺の気持ちをきちんと話そう、そう思うと気が急いた。フォークでパスタをひと掬い、皿の端で巻きつける。それを口に含むと感じる、チーズの香り、出来立ての熱さ、トマトの酸味と甘み、それから……
     目の前の旬くんに目を移すと、にこにこしながら料理を味わっている。
    「君にだけ謝らせちゃったな」
     そう言うと、旬くんの丸い目が俺を見つめた。
    「本当に俺はいつも旬くんにばっかり気を遣わせて、ごめん」
    「気を遣うだなんて。俺はしたいようにしているだけで」
    「でも、自分の誕生日だって言い出せなかっただろ」
    「それは……確かにそうですけど……」
    「俺はずっと自分の価値観や直感だけを大事に生きてきたけどさ、今更になってそれが間違っていた時とか、他人の価値観を受け入れる事が怖いんだ。以前だったらそんなことはなかったのに、思ったことを口に出せないこともある。そもそも、間違ってるなんて考えた事もなかったからな」
     旬くんは黙って話を聞いてくれる。
    「旬くんといるとその怖さが濃くなったり薄らいだりするんだ、悪い意味じゃなくてな」
     実はそれはごく普通の事なのかもしれないと思う。俺の持ち合わせていた過剰な自信がそげただけで。
    「だから、何も言えなくなる時と俺の価値観を押し付けるときとあるかもしれないけど、君はどんな時も君の価値観を俺に押し付けてほしいと思うんだ。……ん、いや、それはおかしいか……。俺に君の事を大事に考えたり、受け入れる練習をさせてくれないか」
     頭の隅にあったひとしきりを出してみて、これであっているだろうかと考えてしまう。「なるほど、わかりました」旬くんは皿の端に静かにフォークを置いた。
    「白状すると、俺も実は誕生日ではしゃぐなんて、冬樹さんに子供っぽいと思われるんじゃないかと思って言い出せなかったんです。冬樹さんがどう思うかなんて言ってみないとわからないのに。俺たち二人ともその『練習』、必要かもしれないですね」
     神妙な顔つきで話はじめ、最後はにこやかにそう言うので、思わず俺も破顔する。
     二人で何となく笑い合って、それが収まったのをきっかけに旬くんがパン、と両手を合わせた。
    「それじゃ、あらためて。いただきます」
    「ああ、いただきます」
     フォークで掬ったパスタからはまだ熱さを感じた。旬くんが一口ずつ交換しようと言うので、一口分パスタを巻き取ったフォークを交換して食べた。必要以上に、おいしいとうまいを繰り返し口に出しながら。そうやってどうにか発散しないと、この幸福な気持ちの遣り場が分からなかったからだ。

    ◇◇◇

     夕方、マンションの窓から見える空は上等な卵の黄身のような色をしていた。クリームを添えたパウンドケーキくらい焼いてみるかという気持ちで買った、手元のボウルの中の卵と同じ色。
     キッチンに立ちながら、いつも通りが一番幸せだと呟いた旬くんの顔を思い出す。君が自分の幸せのために俺の事を愛してくれているなら、俺も自分の幸せのために君を愛し続けていいだろうか、この先も。

     了
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