4階のベランダで陽に当たりながら免疫力作るついでに景色を眺めていたら、ふとこそばゆさ感じた腕にまだちっこい2~3㎝くらいの子カマキリが登ってきていて、腕を軽く上げたらすすっと指先まで到達して景色を眺めだして。その様子に笑みを浮かべてしまった。
そんでどうしようって風にしているから脇の平らな縁に指先付けておろしてあげたら、今度は小さなその腕のかまをぎゅってしてからじっと此方を見たり首傾げたりしながら警戒していたから様子が可愛くて思わずまた笑って。
しばしそうしてこっちを見てくるから、「にらみ合いみたいになっちゃうか」と思って其処から目を離して景色に視線を戻したら、また自分が腕をついている手すりに来ようとしてきて、「手すりを渡りたいのか」と思って道を譲ろうと手すりから退いたら、自分のその動きに驚いたのかぴゃーっ!て反対側に走っていったからまた可愛くて笑っちゃった。何ならその後一度止まって此方の様子確認しだしたから余計に(笑)
もしかしたら、大人のカマキリだったらこういう行動はしていないのかもしれないね。
あのちっこい体で4階の高さまで登るか飛んできたかしてきたのかと思うと凄いなって思うし、カマキリは一度に沢山生まれるけど生き残るのはほんの僅かだから小さくてもあそこまで何とか大きくなったのかと思うと尊い。
それに今日もまた夏燕が沢山飛んでいるのも見れたからまた尊い。飛んでいるあの子達は巣で待つ子達の為に沢山のご飯を探しているのである。こうして自然の素直な循環と繋がりを繰り広げている場面を見つけるとまたまた尊い。
これが今日あったちょっと嬉しかったこと。
「勘違い」して「ねじくれている者達」よりも、平気で他者を貶める事で己自身の命の価値を「己自身で」貶める者達よりも、自然の方が余程力強い。そして己さえも貶めるそんな者達よりも、ただひたすらに前を見つめて芯を強く携えて歩み続ける人々の方が余程美しさがある。
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目にみえて分かり易いのが「子孫を残す」という事なだけで、様々な「繋がり」と「そうした事を知る」というものが生きる事なのだなとか、自然は人間が押し付けている階級というものではなく循環なのだなとやっぱり自分は思う(それに、例えば人間が人間の物差しで強者と「したもの」だって、何れは虫に食まれたり土に還り食まれて養分に成り植物に食まれてはまた誰かの糧になる)。自然を眺めているとそう感じる事が多い。
「めだまやきのお池」の時のように、「虐げる〝犠牲〟と感謝する〝糧〟は全く違うもの」だと余程思う。
「命を命で繋ぎ、私の〝手〟も誰かの糧になる。それが廻る世界。だから私は今日も、私を生かしてくれた自然と〝手〟を貸してくれた誰かに礼儀を持つのだ」
死というそのきっかけは何にせよ、近いうちだろうが遠い未来だろうが死を迎えたらそれが「己という者の」終わりだっただけの事。何かを考える度に思う事柄。
自分が〝何かしらの手〟に助けられ、今日まで自分という「存在」が自分という「者」を〝守り続けてくれて〟、自分のしたい事や好きな事に目を向けられた「己」は余程幸せな生き方をしているのだろう。だから「糧」をくれた誰かや繋げられた分、誰かさん達の私欲によって『悲惨』を迎えた誰かを知り得え、そして自分の〝終り〟というものが来るまでは少しでも想い考えそうして「繋ぐ」。
世界の中に世界はあり、「それまで」は「生きる屍」にならずに何者にも「己自身」を差し出さずに「自分がしたいと思う事」をしたり考えたり、或いは大切なものを守るために少しでも「繋げたり」していくだけの話。
経験し考えて答えだす。信じるのは神でも天でも仏でも「何者か達」でもなく、そうして積み重ねてきた己自身。「誰か達」や神を当てにできないし、当てにしてはいけないし、「信用」してはいけない。人は人の脚でしっかり立たなくてはいけないと常々思う。
創作活動してても思う些細な事柄。性格が悪く地学も思考力も無く偏屈な自分でも理解できた事だった。
今日出会った小さなカマキリの話をしたら楽しそうに聞いてくれた祖父に嬉しくなった。そして何時もの様に「生き物談義」になった(今日はカマキリや燕や狸の話)。
創作活動と育ててくれた祖父母が居なければ自分はこうして生きていなかったかもしれない。