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    キツキトウ

    描いたり、書いたりしてる人。
    「人外・異種恋愛・一般向け・アンリアル&ファンタジー・NL/BL/GL・R-18&G」等々。創作中心で活動し、「×」の関係も「+」の関係もかく。ジャンルもごちゃ。「描きたい欲・書きたい欲・作りたい欲」を消化しているだけ。

    パスかけは基本的に閲覧注意なのでお気を付けを。サイト内・リンク先含め、転載・使用等禁止。その他創作に関する注意文は「作品について」をご覧ください。
    創作の詳細や世界観などの設定まとめは「棲んでいる家」内の「うちの子メモ箱」にまとめています。

    寄り道感覚でお楽しみください。

    ● ● ●

    棲んでいる家:https://xfolio.jp/portfolio/kitukitou

    作品について:https://xfolio.jp/portfolio/kitukitou/free/96135

    絵文字箱:https://wavebox.me/wave/buon6e9zm8rkp50c/

    Passhint :黒

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    キツキトウ

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    2023/5/25
    書きもの/「Wisteria」
    ※創作BL・異類婚姻譚・人外×人・R-18・異種姦・何でも許せる人向け。

    回想やお出かけその他諸々回。誤字脱字あったらすまぬ。

    #小説
    novel
    #創作BL
    creationOfBl
    #異類婚姻譚
    marriageOfADifferentKind
    ##Novel

    Wisteria(13)「Wisteria」について【項目 WisteriaⅢ】「背守る面影」閑話1 「背の向こうに見る景色」閑話2 「誰かと食べるご飯は美味しい」閑話3 「雨染まる君」閑話4 「身もない話2」「Wisteria」について異種姦を含む人外×人のBL作品。
    世界観は現実世界・現代日本ではなく、とある世界で起きたお話。

    R-18、異種恋愛、異種姦等々人によっては「閲覧注意」がつきそうな表現が多々ある作品なので、基本的にはいちゃいちゃしてるだけですが……何でも許せる方のみお進み下さい。
    又、一部別の創作作品とのリンクもあります。なるべくこの作品単体で読めるようにはしていますがご了承を。

    ※ポイピクの仕様上、「濁点表現」の表示が読みづらい時がありますが脳内で保管して頂けると助かります。(もしかしたら現在はポイピクさん側が小説投稿の表示を調整してくれたかもしれません。:2022/7/7現)


              ❖     ❖     ❖

    【項目 WisteriaⅢ】
    「背守る面影」
    閑話1 「背の向こうに見る景色」
    閑話2 「誰かと食べるご飯は美味しい」
    閑話3 「雨染まる君」
    閑話4 「身もない話2」



    「背守る面影」



    「あれ……これ……」
     ふと手にした本の中に、見覚えのあるものが書かれていた。朧げな思い出、だけれど大切な記憶。


              ❖     ❖     ❖


     再び里に下り始めてから三度目の冬。
     藤がこの場所へ来る前に居た家から、子供が病に罹ったので治癒を頼みたいと願われた。藤と同じ歳程の子だ。
     治癒自体はそう難ではなく、寒さも堪え、本音で言えば早く藤が待つ場所へ戻りたいので早々に立ち去る事を考えていた。

    「治すためにわざわざ来て頂いたのです。何かお礼を」

     念の為安静にと子を寝かせ、引き上げる為に立ち上がったにも関わらず、「自分達がどれほど功を成し、尽くしてきたか」「その子が今後どれ程の事を成すべきでこの者達に返していくべきなのだ」とあれやこれやと話し続けている夫婦に客間で引き留められていた所だった。
    (親が子に〝対価〟を求めてどうする……)
     村里の人々の言葉を聞くのも務めかと今まで出来る限りは聞いてきたが、そろそろとうんざりはしてきていた。しかし断りを入れて立ち去ろうかと考えていた時、思い出したかのように二人がそう告げてきたのだ。
    『自分だけの宝箱を抱えていた事がある』
     あの時は自分が生き続けているだなんて思ってもいなかったから、今ではあれだけが心残りなのだと。そう思い至ったのは藤の事だった。
    「では……外の窓から物置が見えてな、気になったものが一つあるからそれをくれないか」
     藤から聞いていた話通りならば、その場所にまだ残っているかもしれない。藤をそこへ押し込め放任していたであろう二人がそれをどうこうするとも思えなかった。その存在すら知らないかもしれない。ただ、突然そんな家を探られるような事を承諾するだろうかとも思案する。
    「特に高価なものを押し込んだ覚えもないのですが……」
     夫婦はなぜそんな場所にと顔を顰めながら、
    「手も付けず埃ばかりの黴臭い部屋なのですがね、それでもよろしければどうぞお好きにお探しください」
     関心など抱いてはいなかった。あっさりと承諾され、その無関心さに引っ掛かりは覚えたが、探るには好機かと(では心置きなく)と胸の内で返答する。そして礼を告げて向かおうかと身を動かした。だが、その後に出された言葉にぴたりと身が止まる。引っ掛かった杭を押し込む為、追いうちのように「何度も助けて頂き、多大な恩がありますから」と。
    「……」
     思わず閉口してしまう。抑えていた冷気が容赦なく胸に雪崩込んで来た。
    「おっと。……失礼」
     突如として部屋一面に白が広がる。
     藤と出合った時と同等程の大きさで現れた蛇は、音を揺らがせながら声を発する。天井に頭がつく程に背を伸ばし、そしてにゅるりと首を夫婦に伸ばしては間近まで近づくと詫びを入れた。
     目の前の女は甲高い声をあげ、男の顔は引きつった。そしてじたばたと身を騒がすと「あとの事はその者に」と、扉の付近で控えていた人物へ場を渡して足早に出て行ってしまった。
     藤の命を差し出した事と自身の子の恩を同等に置いた事に〝思うところ〟があったので、ちょっと吹っ掛けてしまった。
    「うむ、私もまだまだだな。こんな事に〝無〟でいられないとは」
     と変えるつもりもない感情で心にもない事を言う。
    (何事にも心を揺らすなと世の言葉だが、大切なものが踏みにじられたのに何も揺らがない心の無いモノには成りたくないものだな)
     そんな事を浮かべながら、はぁーと深く息を吐いた時だった。ふっと背後から小さく息を溢す音が聞こえる。やがてその人物は一つ咳払いをすると詫びの言葉を蛇へと届けた。
    「申し訳ありません。自分は少々性格が悪いもので」
     まるで心身がすっきりしたと言わんばかりに良い笑みを浮かべている。訪れた時に案内をされた限りの人物だったが、気にもせず「ああ、私もだ」と苦笑し返してしまった。


     恐らく此処の古株であろう老年の使用人に物置まで案内されると、その人物は部屋の前で待つ事になった。
     ノブがくすみ、欠けや傷が目立つその部屋の扉を開くと、埃と黴の匂いが出迎える。辺りを見渡すと壁際に古ぼけた薄い毛布が掛かった箱を見つけだす。蓋に何度も開けられた跡が見えるその箱は、自身が抱えるには少し小さく感じる。
     蓋を開けて中を確認すると、聞いていたものと類似する物達が再び開かれるのを待ち侘びていたかのように綺麗に並んでいた。大事にされていたのだろう。粗雑に詰められる事なく整列しているのを見るに、藤の宝箱はこれであろうと見当をつける。
     そうして思案したのちに目的の箱に手を掛け持ち上げようとした時だ。とさりと床に落とされたその毛布が、途端に物寂しさを訴えてきた。
     うむと一つ息つく。
    (まぁ……無いよりあってもいいだろう。捨てる事なぞ何時でも出来る)
     内心で「お前は藤を切り捨てられなかっただろうが」となじってくる己にべっと舌を出す。
     毛布を畳み、蓋を開けてそれを箱の中に押し込む。不安を感じた時にはその毛布が優しさをくれた事があると、箱の話と共に聞いていたからついでにと拾い上げていた。

     暫くして朽名が持ちだした箱を目にすると僅かに目を見開き、何も説明などしてはいないのに何処か納得した様に顔を綻ばせていた。
    「時間をとらせてすまないな」
    「お気になさらず。……このままお帰りになりますか?」
    「ああ、そうしよう。色々と忙しい身だろうからな」
     走り去ってい行った二人への挨拶はもうよいだろう。向こうも直接会う気は既にないだろうからな。
     そう煩わしさから解放され一番胸を撫で下ろしているのは己かも知れない。そんな心情を察しているのか目の前の人物も苦笑していた。
    (恐れる者が居る事なぞ元より気に留めていなかったが、こうして考えると蛇の身も使えるかもしれんな。藤に害して来る者への牽制にも使える。持てるもの全てを生かさねば)
    「今日はよく冷えるからな。早々に帰路に就こうと考えていたが、思わぬものも得た。幸いすぐに温まれる家もある。こんな日があっても良しとしよう」
    「最近は良く冷えますからね。……こんな日は生姜湯にはちみつを落としたものがよろしいかと。寒さでよく熱を出されていましたから、お渡ししていたのをよく覚えています」
    「それは初めて聞いたな」
     歩き出す道中で伝わる記憶に気が其方へ向く。誰になど疾うに承知の上だ。言わずとも浮かぶその相手が、甘さに笑みを零す姿が脳裏を過った。
    「とても幼い頃の事でしたから、覚えてはいらっしゃらなかったのかと。暑い日は冷やし飴も良いですね。好みが変わっていなければですが」
     隣を行く人物は懐かしむように笑みを浮かべている。だが、ふいにその表情に陰りが現れた。
    「もっと渡して差し上げたかったのですがね、今の主人が消費に厳しい方で。飲み物であった方が消費をごまかし易く、それがせめてもの救いでしたかね」
    「……今も好みは変わっておらんよ。喜んでいる姿をよく見るぞ」
    「それは、好い事を聞きましたね」
     相手に笑みが戻る。その瞳に水が張った気がした。
    「〝綺麗な文字を書く〟男とその妻からよく果物や野菜を貰ってな。嬉しそうな顔を見れるからその二人にも礼を告げねば」
     今度は目が開かれる。
     会った当初は表情が乏しいのかと思う程に顔に揺らぎのない者だと感じたが、今はそれも遠いものだ。
    「そうですか。それは私からも礼を告げたいですね。久しく会ってはいなかったのですが、尋ねに行くのも良いかもしれないですね」
     何処かほっとした表情で言葉を続ける。
    「前主人の時には〝子の為に二人が守ろうとしていたこの家〟を最後まで見届ける気でいましたが、それも叶いました。……そろそろ〝いとま〟を主人達に貰わねばいけませんね。昔と比べ、〝重い物〟を抱えるのも腰に来るようになりましたから」
     苦笑を見せるその相手へ此方も苦笑を返す。
    「晴らせたようで良かったな。時間が出来て再会を果たしたら、三人で此方にも顔を出しに来ると良い。きっと驚くぞ」
    「ええ、ぜひ立ち寄らせて下さい」
     和らげた顔が此方へと向けられる。
     おぼろげながらも藤は覚えているのだ。手をとった者達の事を。夢にまで魘されるこの家の記憶を、冷たいだけの記憶にさせる分けにはいかない。
     その者達が訪ねてきたら藤の成長を祝おう。美味いものや藤の好きな物を用意しよう。すでに居ない両親の分までとは言わず、それ以上の祝福を皆で祝おう。藤が生まれ過ごしてきた時間は決して無ではないのだと伝える為に。
     
     辿りついた門前で案内をしてくれた者に礼を言う。するとゆっくりと頭を下げられ礼を返された。
    「どうぞよろしくお願いたします」
    「ああ、任された」
     見送られながら立ち去ると、思わぬ手土産を抱えたその身は早く手渡したい気持ちも逸り自ずと足早になってしまう。
     幕降りるのが早い冬帳の中、寒さを通り過ぎながら早々に帰路につく。その後を追いかけて白い花が降り始めていた。


              ❖     ❖     ❖


     出る事を躊躇ってしまう二階の物置から、外を覗くのをよくしていた。
     人が行き交う様子を見ていたり、風に揺れる植物や、小さな身なのに人の思惑など露にも気にしない鳥を見ていると、陰る心情も何処かワクワクとさせてくる。けれど時々見えてくる夫婦とその子供の様子を覗くと、何処か言い知れぬ寂しさにまた落とされた。
     両親を亡くしてから今まで、とても幼かった自分の面倒を見てくれていた女性が、母の病で仕事を辞め、遠い故郷へと帰る為にこの家から去ってしまったから余計にだったのだ。
     それで無意識にも始めてしまっていたのが面影探しだった。

     部屋代わりにしていた物置には何時も使っていた薄い毛布の他に、少し大きめで幼い自分がやっと抱えられる程の箱が置かれている。宝箱として使っている籐の箱。その箱の中には、霞かかってしまった両親がちゃんと自分にも居たのだと信じたくて始めた両親の面影探しの収穫物や、その道中でふと見つけた小さな物を入れていた。
     掠れて消えていく以前の記憶を少しでも忘れない様に、まだまだ幼い自分が記憶も薄れる程に幼い頃の自分を追いかけ探していた。
     見つけた物の中には物心がつく前の、見覚えの無いくらい赤ん坊の頃の物もあったけれど、何処か目を奪われ、腑にすとんと落ちる様な感覚もあった。
     幼い子に渡すであろう毬や智恵板。渡される事がなかったのか、封が開けられていないおはじき等の小さな玩具。探検の途中で見つけ、誰かが見たらガラクタだと思いそうな小さな宝物。綺麗に文字が並ぶ数枚の紙束と、文字を教えてくれた男に、自分の名前はどう書くのかと聞いた時に書いて貰った小さな紙。……そして背に小さな縫いが施された赤ん坊や幼子が着る衣類。
     どれも幼い頃の自分にとっては大事な宝物だった。悲しい時や苦しくなった時にそっと箱を開けたり手に取っては大事にしていた宝箱。
     暗く冷たい物置に押し込められたり、怖くて部屋から出られない時の方が多くても。恐る恐る外を確認しながら、誰かに拾われたり、捨てられたりしない内に少しづつでも宝探しをしていた事もあったと思い出す。

     弟夫婦と鉢合わせそうになった時に慌てて逃げた先が、両親も使っていた事がある場所だと聞いた部屋。がらんとした部屋のその押し入れの奥の奥に潜って見つけた木箱には背守りが施された幼児服が入っていた。前から勤めていた初老の使用人が、去っていった女性の代わりに新しく務め始め、文字を教えてくれた使用人へ伝えていたそうで、あの場所の奥の奥まで探してごらんと教えてくれたのだ。
     麻、結び、折り鶴、蜻蛉、桜……。
     背守りに描かれた紋は幾つかあったけれど、その中の一つが藤の花だった。背守りの意味も知らず、可愛らしく縫われた折々の形の中でその花が色鮮やかに見えた。
     窓から見かける夫婦の子供は、自分とは違い藤に関連したものは浮かばない。丁寧に縫われたそれが、自分だけのものだと思いたかった。

     手にした本で意味を知る。
     意味を知った今では心から死を飲み込まなくて良かったと、朽名が引っ張り上げてくれて本当に良かったと思う。両親がくれたものを自ら捨ててしまう所だった。

     いまでもその箱を大事にしている。
     いつの日かに朽名がくれたお菓子の瓶も、一緒に折紙をした時にくれた折り鶴も、誰かにとって些細なものがまた自分の大切な物になっていく。

     朽名と出会ってから自分の宝物が増えていった。


              ❖     ❖     ❖


     夕餉の支度を終え、未だ帰らない蛇を待ちながら本を捲る。気がつくと陽は休息へと入っていた。廊下の灯りを点そうと身を動かす。だが丁度良く、カラカラと部屋の戸が開いていく音が聞こえて来た。
    「おかえり」
    「ただいま、藤」
     そう言うと間も開けずに抱えていた物を手渡される。
     浮かんだ疑問符は手になじむその感覚と重さで消されていく。見覚えのある箱に目が見開かれていき、蓋が開かれると「え……?」っと声をあげた。そして新しい疑問が頭の中を舞っている。疑問を解消する為に見上げた瞳は潤み始めていた。
    「手にする機会があってな。願いの礼をしたいと言われたからでは一つとな」
     訳を聞いていた藤は、「一つって言ったんじゃ?」と涙目のまま呆れていた。そんな呆れに蛇は「まとめたのだから一つだろう」と悪びれもせずに笑みを零し、べっと舌を出す。

     雪の花が舞い、草木も地も薄々と白染めていく冬の事だった。薄れる記憶に花が咲き、明かり点る部屋からは笑う声。一時の春がその窓に映り込んでいた。



    閑話1 「背の向こうに見る景色」

    「ちっちゃい……!」
     何時も見上げる蛇が、今は自分よりも下の目線にまで小さく……いや、幼くなっていた。


     それは少し前の時分。
     普段は〝提灯通り〟と呼ばれる屋台が多く並ぶ通りなどで売り歩きをしている蛙の妖が、境内の空いた場所で甘酒を売っても好いかと尋ねてきたのだ。
     境内で幽霊達が賑やかに遊んで居ようが、椅子に座りうっかりうたた寝をしている者が居ようが、果てには碁を持ちだし花を見ながら打ちだす者達が居ようが、当人は神である事などどこ吹く風と気にしてなどいないが、一応は朽名の域なので尋ねてみる事にした。
    「此処で商ってもいいかだって、朽名」
     秋の空の下、今日は少し風が強く肌寒さを感じた為か、懐の中で暖をとっていた朽名がにょろりと顔を出す。
     その姿に苦笑する。こんな事ばかりしているからこの神社の神は自分ふじなのかと勘違いされるのだ。「それでいいのか?」とも思ってしまうが、当の本人が気楽に居られるなら良いのだろう。
     だが、そんな緩やかな思考の隣で「ひえっ」と声が響く。此処は蛇の神社だが大丈夫なのかと問うと承知はしているとは言っていたが、しかし突然の姿に肝を冷やしたらしい。
     蛙が生み出した水の玉がぴしゃりと蛇の顔に飛び跳ねる。その玉は藤の胸元ごと蛇を濡らしてしまった。顔を青くしていた蛙が更に青くなる。急いで詫びを入れられてしまった。
     気にしなくともいいと言うとそれでも必死に謝られる。どうしたものかと思っていると蛙が口を開いた。
    「その……、とても言いづらいのですが、見ての通りわたくし蛙でして……。此のほうの謂われの影響で〝かえる〟のです。なので御神さんに何かしらの影響が出ているやも……」
     ただ自分は通力も弱く、もし何か影響があっても直ぐに戻るとの事。そう言うと申し訳なさそうにしゅんとしてしまっている。見ていて不憫に感じてしまった。
    「私自身が再生の神で此の力よりも高いだろうから……まぁ大丈夫だろう」
     何とも適当に返すが、当の本人に言われた事で少し気力を取り戻したらしい。
    「境内で売るという話しも、問題を起こさないなら構わない」
    「御神……!」
     表情が先よりも晴れやかだ。そして良かったと胸を撫で下ろし掛けた時だった。
    「当方の不始末を問うでなく、此方に許可まで下さるとは! 此の方、必ずや愚行は起こさぬと誓いまする」
     ずさっと雪崩れる音が聞こえてきそうなほど、素早く目の前の人物が土下座をし出す。慌てた藤が起こそうと身を屈めた。
    「問題を起こしかけているぞ。そう元気が出たならば、陽はまだあるのだから売り歩くなり何なりしてこい」
     蛙が素早く身を起こす。
    「はっ! そうですね! すみません、ありがとうございました!!」
     ぴょこっと跳ね上がるとそう告げ、さっと駆けだしていく。蛙を追いかける様に空がたなびいていった。やれやれと蛇が首を振る。苦笑を返す藤は一先ず濡れた衣服を着替える為に母屋へと戻る事にした。


              ❖     ❖     ❖


    「私が乾かしてやろう」
     そう言いながら、下心で藤から離れる事に渋りを見せる蛇に、「大丈夫だから」と笑顔で応えると羽織の中からその身を出す。そして羽織を脱ごうと藤が衣服に手を掛けた時だった。
     致し方なしと、離れがたい場所から降ろされた蛇は寒さもあるからか人の身へと姿を変える。……だが、その姿に互いにピタリと停止してしまった。
    「……」
    「ちっちゃい……!」
     藤の輝く表情とは裏腹に、惨状に苦虫を噛んだように顔を引き攣らせていた蛇が、その言葉で更に眉を顰める。
     蛇の身では分かりづらかったが、前の出来事は朽名の姿を〝引っ繰り返して〟しまっていた。

     姿が年齢の判断に出来ないこの隠世。これでも前の世では数百年と存在してきた朽名は、若人の外見でも少なくとも成人には近い姿をしている。何時から今の見た目になったかは知らないが、この神は恐らく今後も今に近い姿で居続けるのだろうと思っていた。そして後に生まれた自分は昔の朽名の姿を見る事は出来ないのだと、少し残念ではあったのだ。
     何時も見上げる筈の蛇が、今は自分よりも下の目線にまで小さく……いや、幼くなるまでは。

    「かわいいっ……!」
    「……おい……藤……」
     感極まった藤が思わず声を上げる。ようやく伸び始めた背に嬉しさを感じ、「絶対朽名より高くなる!」と初めて行った花見の際にそう宣言したにも関わらず、契り、隠世に訪れた以降はとんと背が伸びなくなってしまっていた。半ばこれ以上は無理だろうと諦めてもいた。
     だが、
    「よしよし」
     目の前の相手は姿を幼い見た目に戻している。以前よりも長い髪は結ばれてはおらず、身を伝っては床を這っている。久しぶりに見る髪の長い朽名に、姿の新鮮さと共に懐かしさもどことなく感じていた。だが、やはり大きさが自身よりも低いのでどうしてもその頭を撫でたくなる。
     歳は十代前半か半ば辺りだろうか……。もし弟が居たらこんな感覚なのかと嬉しくなってしまう。
    「藤……」
    「朽名が俺より小さいなんて……。弟がいたらこんな感じなのかな……?」
    「……」
     不服蛇な蛇を他所に、満面の笑みで藤は目の前の小さな神様に感動を噛みしめては愛で続けている。
    (……弟……だと?)
     普段は自分が藤を愛で倒し、何であるならば愛で足りない蛇は、意図しない方向へ藤が輝き出したのを見つけると不敵に笑みを零した。
    (……そうか。ならば分からせてやろう。そんな位置などに足りはしないと)
    「ああ、そうだな。好きにしていいぞ。満足がいくまで構い倒してくれ」
     ぐっと近づき、これでもかと言うほどに良い笑みを向けてくる。そんな蛇の様子に不穏を察知した藤がピタっと動きを止めた。
    「だが私も好きにするがな」
     想像通りの不穏だった。目を瞑って身構える。
     しかし、暫くしても動きの無い相手にそっと薄目を開けて探りを入れた。……ただずっと、間近で此方を観察している瞳と目が合うだけだったが。
    「あ、れ?」
     静かに観察してくる瞳に藤がたじろぐ。藤が視線を向けても、相手はただただ此方をじっと見つめるのみで一切音を発しない。それどころか一層視線を重ねてくる。
    「……ね、ねぇくちな」
     目が逸らせず、ひたすらに流れていた静寂に、耐えかねた藤が声を掛けた。しかしそれでも相手の声を得られない。
     視線が逸れないままに、また深く相手が近づいてくる。屈んで目線を合わせていたがその圧に気おされ、後退しようとしてバランスを崩してしまった。そのままぺたんと尻餅をつく。
     何時もよりも小さな身が被さってくる。視線を逸らせないまま、あうあうと動かしていた唇を紡いで更に後退を試みたが、それでも相手は笑みを絶やさずに、指先で藤の頬を捉えては今もじっと見続けていた。

     頬に留まっていた指先はゆっくりと首元を辿り降下していく。辿りついたのは藤の手元だった。その指先から更に手を握られては絡められ、絡める指先が何度も藤の形を確かめるようになぞり握っては絡めて何度も触れなおしてくる。まるで相手の手が自分の掌を咀嚼していくようで。
     その最中にも眉根を歪めて真っ赤な顔で上気している藤の意識はすでに瞳から手に移されていた。爪先に甲に手の内に、辿る相手の指先を――
    「゛んっ――」
     突然舌を絡めては深く口を這わされる。何時もよりも短い気がする舌が自身を探り暴いてさいなめ倒していく。その間も手の咀嚼は止まりはしなかった。
     ちゅぱっと音が鳴ると唇が離れていく。下へ下へと向かうと今度は首元を食み始めた。甘噛むそれで首元を反らされ、喉の奥からは熱を含む息が漏れ出す。首元を這い、水音が聞こてくる頃にはすでに小さな痕が残されていた。
    「っ……」
     耳朶に唇が近づく。
     すでに身を支えている腕の力が抜けそうになっているのにも関わらず、耳元へ直接聞かされる水音が体に残っていた気力さえも奪っていった。
    「藤」
     突然挟まれた言葉にびくりと肩が跳ねる。
    「弟な分けないだろう? この姿だとしても満足させられる自身があるぞ」
     蛇は自慢げに言うが、自慢げに言われても困る。
    「い、いい。しなくていいっ」
     普段と姿は違うのに、捉え飲み込もうとしてくるそれは何時もの瞳のままだ。ぞわりと背に駆ける感覚を無視して被さる相手の身を押し返そうとしているが、がしりと囲まれた上に上手く力が入らない。
    「っ――」
    「食まれただけで力が入らなくなったのか?」
     押しても動かない相手の口元からはくすりと笑う息が漏れる。
     更に押すもビクリともせず、変わらず笑みを浮かべながら見守ってくる相手に負けず嫌いが出そうになる。元より蛇なので力は強いのだろうが、今は幼さが増している相手を押し返せないのは何だか不甲斐なさを感じてしまう。
    「お前の身体は私よりも柔いからな。守り大事に扱わねば」
    「そんな事……」
     そう扱われなくてはいけない程にひ弱だと思いたくはないが、今まで助けてもらった記憶が多いので何とも言えない。
    「過敏な場所も多いだろう? こうして赤らんでしまうのだから」
     藤の唇をむにむにと指先で弄っては楽しそうにしている。
    「も、もういいから」
     すでに手遅れなほど証明してしまっているが、これ以上上塗りはしたくない。ビクともしないと分かってはいてもぐっと手に力を込めた。すると今度は容易に相手の身が揺れ、ひょいと軽く身が離れる。
    「あれ……動いた」
    「私が力を抜いたからな」
     目を瞬かせた藤にあっけらかんと言う。
     赤い顔でむくれた藤は朽名の襟元を掴んでガクガクと揺らし、当の蛇はけらけらと笑う。
    「俺で遊ばないで!」
     藤の叫びでまた一つ笑った蛇はむくれるその身を腕に包む。疾うに傾いていた体躯は、そのまま押されると重心が取れずに後ろへと倒され、そのまま二人で倒れ込んだ。愛おし気に見てくる相手はまた固く藤を覆い捕らえる。
     再び捕まり、案の定動かせない蛇に藤が聞いた。
    「む、昔から力が強いの?」
    「まぁ、力はある方だな」
     姿が変化してもこうなのはこれも神力なのだろうか。それとも自身が持つ長い胴で物を払い除けたり相手を力強く締める蛇の技なのか……。
    (普段も軽々持ち上げられているし……)
     持ち上げられる事になるきっかけが羞恥を沸かせる出来事ばかりなので口に出すのは辞めた。
    「俺も身体が強かったら良かったのに」
     そうしたらもう少しは朽名の役に立てる事も多かったかもしれない。
     そう考えながらしょげていた藤の胸元へ蛇は触れる。
    「お前は此処が強いのだから気にするな。それで十分だ」
    「……強いかな?」
     思わぬ言葉だった。何かあっただろうかと考えるが、思い当たる節が浮かなばなくて疑問に頭が傾く。逡巡し続ける藤にそれを眺めていた蛇は苦笑を表した。
    「ああ、強いぞ。お前が気づいていないだけでな」
     その言葉で真ん丸とした瞳が向けられる。やがてその眼は解れて柔らかいものとなった。
    「……そっか。……ありがとう朽名」
    「ん?」
    「朽名は、俺を見ていてくれたから気づいたって事でしょ? だから……ありがとう」
     照れくさそうに、けれど柔らかく笑う顔に目が吸い寄せられる。散々此方から向けていたのに、今度は目が逸らせなくなってしまった。
    「それで……その……そろそろ起きない?」
     見つめ続けられ、困惑も見せていた藤が口を開く。なぜまた黙り込んでしまったのかと思っている様だった。
    「え?」
     顔の横に置かれていた手に朽名の指が絡められていく。前のように咀嚼するでもなく、がしりとその手は強く握られてしまった。
    「少し早いが……今日はもう休まないか? 藤」
    「? なんで急に……」
    「そろそろ夕刻だしな。私もこの身で、もし何かがあっても不都合が生まれてしまうかもしれん」
    「え、あ……そっか……」
     何処か迷いつつも「それもそうなのか……?」と納得しかけている。そう惑う藤の耳元へ近づくと言葉を囁いた。
    「それに私はお前に触れたくて仕方ない」
     突然の言い出しに「へ?」っと変な声が出てしまった藤が、言葉を飲み込むごとに沸騰していく。引き始めていた熱が再燃してしまった。
     目の前の顔がにんまりと綻ぶ。
     そっと握っていた手を引き寄せると、その指先で熱を上げる相手の唇に触れた。
    「染まる色が綺麗だな」
    「は? え?」
     思考が追い付かず、「どうして突然?」と処理をしている最中にまた言葉が落とされる。藤の目がぐるぐると回りだしてしまいそうだった。
    「まだ食んですらいないのに真っ赤だぞ。……それともこの姿が気に入ったのか? 兄と呼ばれながらしたいのか?」
    「しないっ!」
     そう聞くや否や即座に首を横に振る。
     自分は弟を可愛がりたくなったのであって弟に食べられたいのではない。そして知らぬ間に脚に伸ばされた指が狭間を辿っていた。
    「朽名は弟じゃないからっ」
     必死な藤の言葉に満足げな笑みが蛇に浮かぶ。
    「では私はお前の何なのだろうか」
    「朽名は……俺のつがいだよ……」
     伝え慣れないのか羞恥が邪魔をするのか。或いは両方かもしれない。その表情からは「うぅ……」という呻きが聞こえてきそうだった。
     藤の帯を緩めするりと解くと、身を人から蛇に変えて鼻先を藤の頬にすり寄せる。
    「い、いまするの!?」
     表の門が開いたままなので依頼人が来てしまうかもしれない。蛇に諦める気配がないと分かると、慌てて門を閉めに行こうと立ち上がろうとする。だが、纏う衣服を食まれては引かれ乱れていく。果てには身体へと尾先が絡み始めていた。
    「やめるか?」
    「うっ……」
     鼓動の速さがバレそうなほど辺りが静まっていく。
    (ずるい……)
     欲しがられたら自分がどうなるかなんて知りもしないで。
    「する……」
     顔を伏せて相手を見ていなくとも、蛇が喜々としているのが分かる。ぐるりと辺りに胴が巻くと、寝具代わりと言わんばかりに身の下へ白い身が入り込む。
    「時間は優にあるからな。〝此方でも彼方でも〟存分に与えよう」
    「まっ、まってくちなっ。せめて門を閉めに――」
     下方へ向かい舌でちろりと狭間に触れる蛇を見て、閉門は諦めるしかない事を悟った。自身の息が嚥下していくのに気づいてしまったから。


              ❖     ❖     ❖


     ずっと空腹だった腹が満ち、薄暗かった物置とは程遠い明るい部屋の中で佇む。重たく足にひっついていた枷が離れたばかりで、何だか不思議な感覚がする。
     初めて訪れたこの場所で、これから共に過ごす蛇は部屋なぞ好きに使えと言うのだ。だが、今まで怯えながら過ごしてきた自分はこの場所でどうすればいいのだろうか。
    「……きれいにした方が……いいのかな……」
     この場所は見た事が無い物ばかりで、好奇心と探検心を携えては様々な空間を戸口からちらりと中を覗いて周る。覗いて眺めている内に、ふと自分の手を眺めながらそう思う。どこもかしこも綺麗に整えられているものばかりだったからだ。
     暫く使っていないと言っていた蛇が、自身の力で家屋ごと綺麗に整えてしまった。その出来事に驚いたけれど、せっかく綺麗にしたのだから汚すわけにはいかない。
    (朽名は、何も言わないけど……)
     佇む自身の身を見下ろす。
     昨日は気づく間もなく寝具まで連れられてしまったけれど、新品のように綺麗になった物や部屋を見たら自身の汚れやにおいが気になってしまう。
     俯いた拍子に放置されていた長い髪が目にかかる。身体を拭く事を決めた藤は、一先ず物や水場を借りてもいいかと聞きに行く事にした。

     少し前に部屋から出た藤が、戻って来て早々に水と物を使ってもいいかと聞きに来た。わざわざ尋ねなくてもよいのにと呆れながらも何に使うのかと疑問を口にした所、身体を拭くと返って来た。
    「そんな事せずとも風呂場を使えばいい。面倒なら私が力で服も身も綺麗にするが?」
     そう聞くと藤は戸惑う。そんな戸惑う事なのかと思っていると、
    「あまり手間をとらせたくないし、今までも水を使っていたから大丈夫だよ」
     提案に戸惑いながらも遠慮していた。
     ふむと藤を見る。そしてゆっくりと手を伸ばすと体がびくりと揺れて瞳に恐れが浮上し、きゅっと藤が目を閉じた。
     恐らく以前居た場所での経験から、痛みが身体を襲うのではと反射的にそうなったのだろう。伸ばされた手は藤の目に掛かる長い前髪を横へとかき分けていった。
     何事かと、その動作に戸惑う丸い瞳が此方へとじっと向けられている。その瞳は一晩明けた今でも抜けない心労を含んでいた。長い期間積み重なった疲れは簡単に抜けきらないのかもしれない。
    (まぁ、そう簡単には抜けんだろうな)
     「再生の神」と謂われる己は体の怪我や病、そして穢れは払えるが、身の疲れまでは抜く事が出来ないのだ。体力が回復するかは藤自身にかかっている。
    「わっ」
     呆れて一息吐き出すと、遠慮ばかりする藤の身を抱えて部屋を出た。急に持ち上がった身に困惑している藤が幾つもの疑問符を浮かべて此方を見上げていた。

    「お風呂……」
     最後に入ったのは何時だったのだろうか。遠い記憶まで遡ろうとするがその記憶に触れる事ができない。
     戸惑い、「大丈夫」と言っても風呂の戸まで押され、せめて「自分で入るよ」と言ってはみたが、(……どうするんだっけ……?)ときょろきょろと見渡す。
     そうしてまごついていると、問答無用で髪も身も洗われてしまった。それが終ると今度は湯船に入れられる。
     藤がその温かさに瞳を輝かせると、蛇が頷きなぜか満足そうにしていた。
     湯に溶け込んでしまうのではと思うほどに温かさを堪能する。やがて風呂場から去っていた蛇が戻ってくるとこれ以上はのぼせるぞと言われ、藤はそろそろと湯船から立ち上がった。だが、浴室から出ようとしていた藤を蛇はまた椅子へと座らす。
     髪をわしゃわしゃと拭かれ、蛇が力を使っては髪を乾かした。そしてそのまま藤が湯に浸かっている間に持ってきていた道具でしゃきしゃきと髪を切り始める。……失敗しても長さを戻せるからなのか、切る事に容赦がない。
     やがて切り揃えた髪に満足したのか、湯で髪や身を流すと出てもいいと許可が出る。だが、短くなった髪と久しぶりに見る自分の瞳が鏡に映し出され、暫くじっと観察してしまった。
     そんな様子の藤から蛇は視線を下げる。目の前に現れている背に映し出されるは痛みの痕だ。古いものから比較的に新しいもの。小さな身がひたすら治そうとした跡だ。手に脚、先の食事の後に外した枷の痕もまだついたままだ。今まで藤が辿って来たもの全てを知るわけではないが、背が浮かべてくる過去の光景と共に、良いものでない事を今日で何度と知らされた。
     藤の話を聞く限り、疾うにその身体は伸び良く枝葉を広げ成長を始めている時期にあるだろう。それに伴って視界に映るこの身体も背が伸びては体格がそれを追っていてもよい頃だ。それにも関わらず目の前の身体は細く、抱えた時の重さも想像よりずっと軽かった。思考の隅に映る歳に見合わぬ小さな背。
     数百と生きた自身からしたら人間の歳など同じ様なものだ。だが、その背が歳に見合わぬ事など言われずとも理解していた。
     深い息が黙っていた蛇から吐かれる。
     ピタリと掌を背につけると、突然の感触に藤の身が跳ねあがった。その感触に後ろの人物に振り返ろうとするが、まぁ待てと留められる。
    (今此処で身の痕を消しても、藤の痛みは藤自身が消化しないと消せはしない)
     藤の気も知らず、独善的に消すのは自身がこの背が浮かべてくる光景を見るのが嫌だからだ。だが、目に見える痕だけを消しても藤の内に包まれたものまで消せる分けではない。
     己を救うのは己自身だ。
     此方が幾ら藤に何かをしたとして、それはただのきっかけに過ぎない。藤自身が自分で救っていかなければ何時までもそれは藤の中で廻り続ける。幾ら助けの手があろうとも、機会が幾度訪れても、すでに問題が解決していても、それに気づいて救うのは己自身なのだ。
     一時は逸らせたかもしれないが、まだこの先で藤が再び死を求めだす可能性だってあるかもしれないのだ。
     藤が何時までこの場所に居るかは分からない。だが、新しく結ばれてしまったこの縁の先が理不尽で終らない為に。少しづつでも、可能な限り取り込まれた痛みを消したくなる。藤の為でも藤のせいでもない。それを見るのが嫌な己の為に。
     勝手に名前を付けては勝手に神に祀り上げ、勝手に願いを押し付けては自身の元から居なくなっていく人間達が嫌で願いを聞く事を辞めた筈なのに、また懲りずにひとに関わり始めている。そうしてまた消えていく事を恐れているのだ。自身の身勝手を藤に押し付けながら。愚かな事だ。


     お風呂に入ったり髪を切ったり。
     さっぱりとした身をまた引かれると、今度は寝具がある部屋にと降ろされる。昨晩があっただけに藤の頬には色が灯る。
    (言わなかっただけで、やっぱり汚れてたのかな……)
     風呂場まで連れていかれ、身を綺麗にしたのはその為なのだろうか?
     住む場所を貰い、好きに過ごしていいと言われたのだから迷惑はかけたくない。遠慮してしまったが、お風呂で身を綺麗に出来た方が良かったのだろう。
    (どうするんだろう……)
     昨日のようにするのか。あれはどういう意図なのか。何も持たない自分には不安しか湧かないのに、そんな自分が上手く相手が望む事を叶えられるのかと藤は戸惑う。
     藤が昨晩を思い出していると露にも思わず、連れてきた当人はふかふかとした寝具まで藤を呼ぶと、そのまま布団を掛けて寝かせてしまった。そして身を蛇に変え、するりと自身も寝具に登ると藤の隣に身を伏せる。……だが、疑問符を浮かべ続ける藤が此方を見たまま瞼を閉じようともしないので、静かに休ませるつもりだったのだがつい「寝ないのか?」と尋ねてしまった。
    「ね、ねるの……?」
    「ああ。疲れているならとにかく休め。病や怪我や穢れは払えるが、疲労を払うのは私には無理だ」
    「朽名、疲れているの?」
     疑問を口にするとじっと此方を見られてしまう。なんだか眉間が寄っているようにも感じた。
    「休みが必要なのはお前だ。お前自身が疲れているんだ」
    「え……?」
    「眠れないのなら寝ずともいいから目を閉じて横になっていろ。腹が減ったら起きればいい」
    「俺、まだ動けるよ。何か出来る事があるなら手伝うし、仕事があるならするよ」
     そう言うとなぜかまた眉根が深くなる。そして大きく息が吐かれた。
    「動けるから疲れていないと思うのは浅はかな事だ。倒れてから動けない事に気づいてどうする」
     そんなに休む事が嫌なのか、自分自身に素直でないのか、本当に自身の疲労に気づいていないのか、はたまた己を抑圧するのが癖になっているのか。或いは全部か。
     どうなのかは知らないが、先は湯船で瞳を輝かせていたのに今度はそれを陰らせ、戸惑いが生まれ続ける藤に蛇が口を開く。
    「仕事が欲しいなら今がその時だ。此処で休息を取るのが今のお前に出来る重要な仕事だ」
     目の前の少年の目がぱっと丸くなる。ぱちぱちと目を瞬かせると、休むのが仕事とはどういう事なのかと考え始めてしまった。
    「いいから今は目を閉じておけ。考えるのは疲れを取り払ってからにしろ」
     ぐいぐいと鼻先で頬を押され、慌てて「うん」と返事をする。
     静かに目を閉じていくと、やはり疲れていたのだろう。
     ずっと空腹だった腹が満ち、身もさらりとして痛みによる煩わしさも感じない。今までの床とは違う柔らかな寝具に乗せられている。そして身に感じる温かさと心地良さに包まれて、直ぐさま微かに聞こえる息を残して眠りへと落ちていた。


              ❖     ❖     ❖


     幸いにもあれから訪問者は現れず、それをいい事に蛇はその白い身で事を終えると今度は姿を変える。そして息を荒げているその下身へ降りると、液で濡らしていたそれを再び口に含みだしていた。
    「ぁっ、だめ、くちな――っ」
     気づかぬ間に相手に食まれ、横たえていた身が飛び跳ねる。舌先で掬い上げては綺麗にされるが、また熱を帯び始めてしまっていた。終わらせるつもりもなくそれを狙っていた蛇は更にと藤を愛撫する。もう一度藤に求められる為に。
     結局両の姿で愛でられ、ようやく門を閉めに行けたのはすっかり陽が落ちた後だった。
    「さきに……閉めて来て……」
     そう告げた藤に代わり、門へと向かった人物の満面の笑みを目撃したのは、恐らく髪を散らばせて息を荒げているそのただ一人のみだろう。


     風呂上り。
     朽名の長い髪を梳かしながら、会ったばかりの事を思い出していた。何時もより低い背丈を眺めながらふと思い浮かべる光景は、初めて安らぎを得た時の事だった。
     久しぶりに長い髪の朽名を見たので、良い機会なのだから自分が朽名の髪の手入れをしてみようと思い今こうして居る。

     あの家に居た頃、稀に隙を見ては髪を切ってくれていた人が居た。初老の男性で、藤の両親が健在の頃からその家にいると聞いた事がある。時折食べれるものもくれた人。その人が文字を教えてくれた人とよく会話をしていた事をぼんやりと覚えている。
     今も髪を切る時は朽名に手伝って貰う。
     なんだかんだ器用である。
     折り紙を折った時や、自身が食べなかっただけで自分が来たら料理も作るようになったし、爪紅も綺麗に塗るし髪も綺麗に整えてくれるし。
     ただ自身の周りを片づけるのは苦手なのである。気が進まないらしい。気が進まないから放置が多いらしい。なので片づけは主に家事が好きな自分が進んでしたり、或いは共に片づけている事が多い。けれど動けても動けなくなっても、此方の身の周りの世話はしたがる。そして自分以上にそつなくこなす上に、苦手な筈の片づけも難なくこなしているのだから出来ないのではなく、もしかしたらただ自身に無頓着なだけなのかもしれない。
     そういえばルカが髪を粗雑に切るのだと、トウアがむくれながら言っていた事がある。だから自分がその髪を整えるのだと。
     ルカも自分も、自身を任せられる相手が出来たのだから嬉しい事なのだろう。

     よしと藤が息をつく。
     髪を梳かし、整えられまとめて結われたその束は高めの位置で括られていた。藤の声が聞こえて蛇は頭を揺らすと、合わせるようにその束も揺れる。
    「……かわいい」
     藤が呟く。その言葉に蛇は遠い目になった。
     またとない機会なので後の〝報復〟を今は忘れ、存分に楽しむ事にした藤だった。



    閑話2 「誰かと食べるご飯は美味しい」

     沢山来ていた依頼の品を片づけ終わり、明日は朝寝坊をしてから久しぶりに外へ出かけようかと話し合う。
     そんな日の翌日。
     話した通り存分に遅起きし、陽で温められた寝具の上で二人で微睡む。そんな折に自身のお腹の音で起床を急かされ、二人で苦笑した。
    「偶には外でご飯を食べようか」
     ふとした思いつきで行き先を決め、身を整え出かける準備をする。がらりと玄関を通り、境内を抜けて正門に立つと、「今日はお休み」の文字を関守石へ込めた力でその上の面符に記す。
     そして楽しみだねと笑い合い、未知なる美味を求めて二人は歩き出していく。


    「すごい……!」
     秋の装いで外の景色が賑やかな中、店に近づく度にワクワクとした気持ちが逸っていた。少し離れているのに良い香りが鼻をくすぐる。隣に沿う相手へ「此処かな?」と確認し合う。
     からりと扉を開けると、チリンと鳴らした鈴の音と共に感嘆の声を漏らしていた。
    「種類が沢山あるね!」
     沢山並ぶそれ等に、声だけでも心を弾ませている事がよく分かる。足を延ばした先はトウア達に教えて貰った隣町のパン屋だった。トレイとトングを手に、綺麗に並ぶ棚を輝く瞳であちらこちらへと目を向けている。
    「朽名はどれがいい?」
    「そうだな……」
     目を輝かせた藤に思わず笑みを零した。わくわくとした声にじっと考えるが、すぐに答えは浮かぶ。初めて知る未知の味を、藤と同じもので食べたくなったのだ。
    「お前と同じものにしよう」
     うーんと藤が迷いだす。目を魅かれ、匂いにつられ、目の前の種類の多いパンは選択を揺らめかせ、藤はどれにするかに決めかねている。やがて藤は一つの提案を浮かべた。
    「じゃあ、気になるのを一づつ買って種類多めに買おう! それで半分こにしたら色んな種類食べれる!」
     楽し気な目は「名案だ!」だと訴えてくる。それに頷くと「ではどれにするんだ? 藤」と問われた声にまた頭が傾げた。ふっと笑う息が漏れる。一生懸命考えている姿が愛らしい。

     お土産用のパンが包まれ眠っている袋を、藤が大事そうに抱えている。柔らかな角食パンなので潰れない様に。そうして嬉しそうにニコニコとしている藤がその袋を手さげると、姿も味もとりどりなパン達が並ぶトレイを受け取った。
     朽名に戸を開けられ、空腹をくすぐる香りを漂わせていた店内を出て貸し出されている裏のテラスに行くと、周りの景色を眺めながら香り立つ焼きたてのパン達を乗せたトレイを台へと置く。気がつくと、少し高さのある椅子を朽名が引いてくれていた。
     お礼を言いながら座ると、街の一員として佇む木々達は色とりどりの葉を付け、少しだけ高台にあるこの位置へ街の景色と共に秋の訪れと季節の廻りを届けてくれていた。自分達が棲む夕刻街の魚が泳ぐ水路とは違った雰囲気のある川と、それ沿って佇むパン屋。此処へは来る途中の石畳が歩く度に良い音を鳴らしいたのを覚えている。
     藤達が棲む街とは別の街。夕刻街の延長で生まれたこのアルケウス街は、街中やお店もまた別の雰囲気や目新しいものに溢れており、来る度に好奇心を掻き立てられていく。街が隣り合っているのでさほど遠くないのも藤のお気に入りの一つだ。
     景色に目を移していると、もう限界だと腹の奥から訴えられる。照れ笑いを燻らせて目の前の美味を堪能する事にした。

     まずはパリパリサクサクとしていて、切られた狭間に食べ応えのある具材が挟まれたクロワッサン。瑞々しさを縁取るフリルのようなレタスと宝石のような艶のオリーブ、眼が冴えるようなとろりとした卵、そして黒胡椒がまぶされたハムが顔を覗かしている。まずはトウア達のおすすめを食べてみようと二人分頼んでみた。焼きたてだからか、齧るとバターの香りがふわりと鼻をくすぐっていく。
    「美味しい!」
     味もさることながら、パリパリサクサクのパンの食感から、卵のとろりとした舌触りに変わるのが楽しい。そして後を追う塩気と胡椒の風味がまた次の一口を誘い出す。酸味を含むオリーブと、まろやかな甘みを携えたチーズが味に花を添えていた。
     ちらりと相手を盗み見てみる。
     ハムには食べ応えがあり、黒胡椒がピリリと香るこのサンドイッチを朽名は気に入ったようだ。
     ハムは自家製と言ってた。蹄を持ち、角があるので遠目では羊や山羊にも見えそうなヌクリという獣の肉を使っていると。この隠世に存在しており、肉だけでなく乳や毛皮や角等、様々な恵みを与えてくれる。隠世に多いのはこのヌクリの肉か鳥、販売店が別の世界からの仕入れで得たもの、そして自足している者が狩猟で得たものの余剰分を店へ卸したものもある。
     自分達の食事は青果や魚が多いので食卓に並ぶ事が少ないのだが、朽名がヌクリ肉を気に入ったのなら調理法を考えてみるのもいいかもしれない。
     そうして思案しながら傍に置いていた器に手を伸ばしてみる。
     少し冷えるのでと店主に玉ねぎのスープもとお勧めされたので頼んでみたけれど、その温かさがほっと体に染み込みパンともよく合っていた。器から両手に伝わる温度も染み込んでいく。
     その美味しさと暖かさに蕩ける様子を眺めている瞳に気づかないまま、藤はほっと薄く息をつく。嬉しそうな藤に笑みを零す蛇は、二人で興味がそそられ試しにと買った次のパンを、まずは自分がと一口食んでみる。
    「美味しい?」
     香りに誘われた藤が尋ねてみる。喜色を浮かべているのでこれも気に入ったのかもしれない。
    「辛いが……少し食べてみるか?」
     一口味わっていた朽名に差し出される。元より試してみるつもりだったので頷き、差し出されているそれをぱくりと一口食齧ってみた。
     表面はかりっと揚がり、やがてふわふわもちもちとした生地は香りの良い具材を包み隠している。ごろりとした野菜や肉に、香辛料が味わいを彩る。ピリリとしつつもそれだけではない美味しさが口の中に広がり、そして質の好い油で揚げられたサクサクとした表面の衣ともちもちとしたパンがそれを引き立てていた。初めて食べたそれらと香ばしい匂いに誘われて、再び食欲がそそられていく。
     食べた事のない味わいに藤が不思議そうにじっくりと味わう。噛みしめるごとに新しい刺激をくれるそれがようやくごくりと喉を通り抜け、藤が興味深そうにこんがりと揚げられた目の前のパンへじっと視線を向けた。
    「カレー……だったっけ……? 初めて食べた。不思議な香りがするね」
    「辛いが大丈夫なのか?」
    「うん、このくらいなら大丈夫かも。……今度家でもカレーを作ってみる? 色んな具材と相性が良くてお米にも合うって聞いたよ」
    「それは楽しみだな」
    「……辛くなくても……いい?」
    「ああ、いいぞ。お前と同じものが食べてみたいからな。辛かろうが甘かろうが、例え失敗しても私が食べてやる」
     構える事が増えると蛇が喜々としている一方で、藤が最近の出来事を脳裏に過らせていた。
    「……この前のシシトウは辛かったね……」
     塩胡椒で炒められた香ばしいシシトウの風味を楽しんでいた所に、突然たった一つのそれに刺激を落とされた時の事を思い出しては藤の目が少しだけ遠くなる。
    「辛いものが苦手だったのはまた一つ知ったな」
    「わさびの辛さは大丈夫なんだけど……」
     今までワサビや胡椒の様なつんとした辛さやピリリとした僅かな辛さは大丈夫だったのだが、強く弾けてその場に留まる様な辛さが苦手なのを唐突に教えられてしまった。
    「しかし、涙目で猫の様に飛び上がった時は驚きはしたが、珍しい反応が見れたな」
     冗談めかしながらもまたパンを一口含みながら頷いている目の前の相手に、恥ずかしい場面を見られた藤は顔を反らしてはごまかす風に甘いパンへと手を伸ばす。
     優しい橙色を覗かせる南瓜餡パン。普通の餡パンのゴマの代わりに、薄黄緑色の南瓜の種がちょこんと乗っているのが可愛らしい。胡桃が生地に練り込まれているらしく、一口含んだ時の食感に期待してしまう。
    「こっちも食べる?」
     自身よりも大きい口で先のパンをぺろりと食べ上げていた朽名へ、半分づつにした甘い香りのするパンを差し出してみる。
    「ああ、貰おう」
     嬉しそうに蛇は受け取った。
    「あとね、トウア達に教わったさんどいっちも作ってみようと思う。パンも買ったし簡単だから明日作ってみるね」
     好奇心とやる気に満ちている藤がぐっと手を握る。
    「楽しみだな」
     新しい発見と期待に満ちて輝く藤の表情を焼き付け、明日の藤と美味に期待を馳せた。
    「偶に外で食べるのも楽しいね。夕刻街でも寄ってみたいお店があるんだ。この前出来ていた食堂とか」
     新しく棲み始めた人間の兄弟が開いたお店。隣り合い、一見別々の建物に見えるのだが、中は一つの建物のように繋がっており、大きな食堂のようになっているらしい。
     元いた場所よりも安全で安心が出来る場所なのだから、せっかくだし試しに隣同士で其々雰囲気の違うものを出してみようとなったらしい。けれどお店の前でどちらを食べようか迷っていたお客さん達を見かねて、その間の壁を取り去ってしまったらしいのだ。その結果、外見は別々に見えるのに中は一つのお店のような場所になったのだとか。
     隠世には食事を必要としない者も多く居るが、勿論食事が必要な者も居るし、味を楽しむ者も多いので、特に陽が落ち始めると飲食店が多い通りではよい香りが漂い始める。藤も食材を買いに来た帰りに出会ってしまった香りに誘われて、お総菜屋さんのコロッケを朽名と半分づつ食べながら帰った事もあった。
    (……そういえば、お蕎麦屋さんとうどん屋さんが張り合っている所を見かけた事も……)
     蕎麦屋の狸とうどん屋の狐が、蕎麦うどん論争を時折している。一見仲が悪そうにも見えるが、お酒が入ると笑顔で酌み交わしては褒め合っているので仲が悪い分けでは無い。むしろ酒を酌み交わしているので仲が良いのだろう。其処へ今晩の酒や、そのお供のおいしそうな〝宝〟を吟味しては抱えていた他の酒飲み達が加わりだしている所までは見かけた事があった。
     他にも多くのお店があるし、隠世にも祭事がある。新しい作り方も学べるし、それぞれにお気に入りの味があるから飽きる事がない。今日みたいに朽名の好みを知るきっけになるのだから、時折外で食べてみようとこっそり心に留めた。
     手元に残る最後の一つを手に取る。
     表面がクッキー生地のサクサクとしたそれは、半分に割ろうとするとほろほろと崩れてしまいそうで藤が躊躇う。そんな「どうしよう……」とわたわたする藤の様子に朽名は笑みを零すと、機会を逃すまいと解決案を切り出した。
    「ならば、今度は藤が食べさせてくれれば良いだろう?」
     にっと笑っていた口が「ほら」と言うと、今度はぱかりと開けられる。「えっ?」っと彷徨わせていた視線は両の手で支えられているものへと移る。そしてその手をそっと持ち上げると待ちわびている相手へ食べさせる。一口味わうと美味しそうに藤を見つめた。……まったくもって味わっているのは果たしてどちらなのか……。
    「お、おいしい?」
    「ああ。お前の好きな味だと思うぞ」
     そう言われ手元を見てはふわりとしているそれを一口含む。
     メロンパンと呼ばれていたそれは表面のクッキー生地の食感がサクサクと楽しく、パンの中のクリームがとろりと滑らかに口の中で混ざり合う。甘い香りが口に広がり、美味しさに藤の瞳が輝いた。
    「美味しいね!」
     噛みしめながら甘さを味わう。そんな合間にもはいと言うように相手へも差し出していた。美味の嬉しさを前に羞恥を消したらしい。或いは、そんな美味を二人で味わいたいのかもしれない。
     甘さに蕩ける藤を眺めながら、蛇はお茶を啜る。
     玉ねぎのスープもあっという間に飲み干し、次に味わうは目の前のその表情だ。美味しいものを共有し、自然と笑みが零れている。そんな相手を見ていると自身も同じく笑みを浮かべてしまう。
     誰かと共にする食事は美味しい。料理どころか食事をせず、味を楽しむ事も知らなかった自身がそれをしているのは、
    (藤が居たから知れた事だな)
    (朽名が居たから……)
     誰かと食べるご飯は美味しいと藤は噛みしめる。朽名が何時も一緒に食べてくれるのが嬉しい。

     自分よりも大きな一口で先に食べ終えていた蛇が、待つ間にお茶を飲み込み一息ついていた。昔、食べるのが遅い自分にゆっくりでいいと言ってくれた事があったのだ。
     急いで食べる必要もない。だから相手と食事をする事に煩わしさを感じない。
    (『気にせずゆっくり食べろ』『お前と食べるのが楽しくて待つのも苦ではないから気にするな』『急いで食べるのは身体にも良くないからな』)
     そんな風に、むしろゆっくりよく噛んで食べろとよく言われた。そのおかげでゆっくり噛みしめて食べた方が味もよく分かる事を知っているし、身体に負担が掛からない食事の仕方も学んだ。
    (……美味しい)
     幸せを感じる味。
     そうして感じる機会が多い自分はその通り幸せ者なのだろう。
    (朽名が相手だから余計に……かな?)
     その〝おいしさ〟を噛みしめる。
     何を作るか考えるのも作りだすのも相手の好みを見つけるのも、朽名と囲む食卓が楽しい。厨の隅でうずくまり、その日の成果を齧っていた幼い自分に伝えたくなる。

     誰かと食べるご飯は美味しいと、自分は知る事が出来たのだ。


              ❖     ❖     ❖


    「あ、そうだ」
     昨日確認した事を思い出す。
     そろそろ厨で使っていた鉱物や日用品が切れそうになっていたのだ。その事を伝えて寄り道を提案すると、難なく相手は了承してくれる。

     この隠世では生活内で使う動力は幾つかある。
     水や火等の自然の中の力。その自然の力を含んでは生み出す鉱物。そして地深くや地表の大気に流れる霊気、それを分けてくれるハツチ・ククノチ・ノツチ等々といった自然を始めとしたあらゆるものの中に棲む精霊達と自分自身が持つ霊気。
     出かける前に動かした関守石も霊気を使う。隠世にはそうした道具も多い。
     霊気を使う事も多いから、隠世でも精霊を大切にしている。ただ、それは他世界で稀に見掛ける事もある〝階級〟〝崇拝〟というものではなく、〝尊敬や感謝〟から来るもの。そしてそうしたものは精霊に対してだけでなく、自身を生かしてくれる〝何か〟や共に過ごす相手、〝視力〟だけでは分からないものにもそうしている事が多い。
     この場所は〝そうしたもの〟で成り立っている。これは隠世の中の仕組みの一つだと。なので隠世の仕組みに〝合わない者達〟はこの場所では〝棲めない〟のだと、此処に来たばかりの頃にそう鍵屋が教えてくれた。幾つかの〝隠世の仕組みの一つ〟は他世界も同じようにとっている事も多い。むしろそうした世界に行く事の方が多かった。
     あまりにも危険な環境下や隠世にまで害が及びそうな世界はそもそも〝世界旅行〟では渡れない様にしていると言っていたので、だから隠世が持つ幾つかの仕組みから遠い世界や支配者の存在とそこから成る環境と階級や税のある世界に行く事が無いのかもしれない。少なくとも自分達が〝世界旅行〟で行った中には、話に聞く様な〝そうした者達〟から成り立った世界には訪れていないのだろう。
     そう考えると、それを成して隠世を保っている鍵屋が何者なのか気になってきてしまう。

    「ありがとうございます」
     夕刻街方面に戻り、お店に入ると目当てのものはすぐに見つかった。周りの静電気を含んで動力に変えてくれる薄黄色を含んだ綺麗な鉱物。
    (前の場所では自然の力と……あと蒸気も使ってた気もする)
     隠世に来る前の場所では見かけなかったこうしたものは、今では自身の生活にも組み込まれた馴染みのものになっていた。雰囲気は前に居た場所に似ているのに、違った側面も存在しているから興味深い。
     それを幾つか購入し、丁寧に包まれた荷物を受け取る。だが店主へとお礼を返している隙に、何時の間にか人の身になっていた朽名に荷物を持ってかれていた。
    「荷物ぐらい持てるよ」
    「では先に買ったそこに眠っているやつを頼む。潰してしまってはせっかくの楽しみが無くなるからな」
     店を出てから自分はそんなに柔くないと含めながら告げると、柔らかく軽い方を頼むと告げられてしまった。じっと手元の荷物を眺める。
    「柔いものを運ぶのも腕がいるぞ」
     複雑な心情を察したのかそう言われるが、やはり子供のおつかいを思い浮かべてしまう。
    (……あれ?)
     返事を返す為に顔を上げると朽名の背の向こう、離れた位置に居た人物の〝此方に驚く目〟と合った気がした。すぐに視線が逸れたので気のせいかもしれないが……。
    「どうした?」
    「ううん、何でもない」
    「残りの物も探しに行くか?」
    「うん」
     鉱物店を後にして、二人で歩き出す。
     そうして幾つか求める物を扱うお店を探しながら、散歩をしつつ気になったお店にも立ち寄ってみる事にした。


     日用品の他にも衣服に雑貨、小物や装飾品等が並ぶ街の通り道。通りすがる者達だけでなく、色とりどりの品物が並んでは賑わうその景色がまた藤の好奇心を駆り立てる。
     隠世の特性からか、店主の趣向なのか、普段着・礼服・装飾・小物・他世界問わず様々な種類の衣服を扱っているお店もあったり、中には頼んだら自身に合わせて作ってくれるお店もある。その服を作る店を開いている知り合いに、メイドという人が着るらしい服を持ってこられた時には驚いたけれど。
     この通りは見た事もない物や興味深いものが見つかる事が多いのでお気に入りの通りの一つだ。今居るのはそんな中にある一件。寒さが深くなってくるので何か良いものは無いかと覗いて入ってみた。
    (服を選ぶ感覚が自分に備わっているとは思えないけど……)
     自分達の場合は元居た場所から持って来ていたり、此方に来てから新しく買い足したりもしている。持ち物に何かあれば自身で直してしまえるので物持ちが良く、今はそこまで困ってはいないが……本音を言うと、自分のものというよりは、それが可能だからか服に無頓着であまり数を持たない相手の分を密かに探していたりもする。ただこの通りを歩く度に探してはみるものの、何時も朽名にしっくりくるものが見つからなくて断念してしまっている。そうしている内に、その服を作る知り合いが試作と言いながら尋ねに来たり、何時の間にか朽名がこれはどうだと合わせに持ってきては納得したように店主に渡しているので、気づいたら自分の方が多くなっていた。
    (……いっその事、相談してみるのもいいかも)
     服作りになると目を輝かす知り合いを思い浮かべながら、今日も腑に落ちる物が見つけられなかったので一先ずは止めておく事にした。
     ふと端の棚に目が行く。薄着や寝衣、下着やその他の細々としたものが並んでいる場所。
    (何かと使う事も多いし、多く持っているわけでも無いから、洗濯が間に合わった時の為に足しておこうか……?)
     自身の力を使うと体力が減っていく。朽名より体力も力の範囲も少ない自分は、家事が好きなのもあり普段の生活に向けるよりも基本的には依頼等に注視させていた。ただ、洗濯に困っていると知られれば恐らく蛇は難なくその困りごとを片づけてしまうだろうが……。
     考え始めては「手を煩わせない為にも買い足そうか?」「でもその時だけは自分でしようか?」「でもそれをする余裕も無かった時はどうしようか?」と藤がうんうんと悩みだす。
    (でもまぁ、多くあっても困りはしないか)
     そう結論付けて意識を戻し、次に考えるは何を選ぼうかという時だった。
    「これとかどうだ?」
     背後を疎かにして油断していた所に、肩付近から声を掛けられた。藤に合わせて屈められた身は、これ幸いと言わんばかりにぴたりと此方の身につけられている。
     そして冗談めかしてはにやりと示しているそれは藤が恥ずかしがりそうなデザインだった。
    「ちょっとあっちむいててっ!」
     しかし蛇が示した物は割と的を得てもいた。藤が普段何を気にしてしまうのか疾うに知っていたからだ。示された物は布地が少なく紐で留める物で、身に張り付き過ぎずに肌への衣擦れも無く楽ではあり、当人にとって良い点が多いのだ。……羞恥を感じる事以外は。
     縫い目が肌に触れたり、締め付けが強い物やぴちっとしている物はあまり好まず、恥ずかしくはあるが紐や面積が少ない物の方が藤は落ち着く。何ならばいっその事室内では何もつけずに肌襦袢でいるのが一番落ち着く。藤は口に出したくはないが。
     だが、それを把握しているどころか何なら藤が来たばかりの頃は朽名が用意していた上に、数年して擦れたりぴたっと張り付く下着が気になると藤がこぼしてしまい、それを聞いた相手が持ってきた物が面積の少ない物や紐に近い物だったので、ある意味諸悪の根源は彼奴へびかもしれない。示された物もそうだが、そうした好みを把握されている事自体が羞恥を沸かせる要因になっていく。
     考えるのに集中できなくなった藤が、べったりとひっついてきた朽名を他所へ向かせようとしていた。
    「今見なくてもどうせ〝夜〟には見る事になるぞ」
    「っ――!」
     真っ赤な顔の藤が「なんでそういう事言うの!」と相手の口元を手で塞ぐ。
    (器用にものをこなすのに、偶に消える〝配慮〟は何なの!?)
     藤の下着の布地が広かろうが狭かろうが肌襦袢だろうが、最終的には中身ふじに行きつくので、藤が楽な服装でいるのを望んではいる。だが、赤らめる藤の顔が愛らしく感じるのも事実なのだから仕方がない。
     藤は堪ったものではないが。
     配慮を取り戻してくれ神様と心中で藤は叫ぶ。けれどもし藤が水着でも着ようものならば、じっと上裸を眺めた末に上着を着せて前もきっちり締めさせるタイプである。自分以外に藤の素肌や露出のある服を見せるのは嫌なのである。
    「楽しみだな」
     耳元で言われ、きゅっと口を結んでは更に赤くなる。
     散々羞恥心を擽られ、それでも結局(朽名はどういうのが好きなんだろう……)と思考に入れ出すから自ら選ぶハードルを上げていた。

     必要なものを幾つか買い足し、その後も店を訪ねては求めていた物も見つけ出す。そんな中で新しい出会いもあった。
     通りから少しだけ入り込んだ場所で見つけた雑貨屋。
     青味のある店前には幾つかの植物が置かれ、品物を整理する為か或いは換気の為か、一時的に扉が開かれていた。覗いてみると白くて長い何だか既視感を感じる物が視界に映り込み、それを手に取り眺めてみる。
    「……朽名」
    「ん?」
    「ちょっと蛇になってみて」
     藤の掛け声に、当人は何の抵抗もせずに身を変える。何時もの様に藤の身に添うと何事かと顔を覗かせた。
    (にてる……)
     意図せず雑貨屋で見かけた〝へびぬい〟に笑いがこみ上げそうになってくる。どうやら店の者によると以前二人を街中で見けて作ってみたくなったと言うのだ。
    「か、買うのか? 私が居れば好いだろう……?」
     先まで余裕を持ってして藤の様子を味わっていたとは思えない程に動揺を見せる蛇の言葉。それに対して即座に藤が「買う」と応答する。

     こうして思わぬ新たな仲間を得た藤は、喜々として帰路についていった。幾つかの成果物を入れた肩掛けに、ふわふわで可愛らしい蛇をちょこんと覗かせながら。


              ❖     ❖     ❖


     見慣れた我が家に無事帰宅し、荷物を置いて一先ず休憩とする。夕時にはまだ早いと、炬燵に入りながら二人でお茶を啜る事にした。
     最近寒さが増し始めたので、この隠世では明日にも冬が来るのではと早めに炬燵を出しておいたのだ。
    「君はここね」
     今日出会った新しい仲間にも掛布を被せて傍に置く。
     炬燵に入るともれなく蛇もついてくる。冷えた身を温めようと蛇は早速中へ潜りこんでいた。自分と相手の湯呑へ熱いお茶を注ぐ。湯気がくゆる水面みなもを少し冷ましたくて、お茶と共に持って来ていた、沢山の橙色がひしめき鮮やかさで賑わう籠へと手を伸ばす。一房、二房と皮を剥いていくと、一粒取っては口に含む。優しい甘さに口元がほころんだ。
     その甘さを御裾分けしようと、掛布を捲っては一房を蛇に差し出してみる。案の定自身の傍に頭を寄せていた蛇はぱくりとその房を口に含んだ。
     炬燵の端からぴょこりと出した尻尾の先を持ち上げては此方に礼を告げていた。
    (この炬燵って前に居た所から持ってきたんだっけ)
     蛇の動作に息を落としながら、ふとそんな些細な事を思い出す。


     寒さが増して肌に触れる空気が冷たい。
     洗濯物を干し終わるとそんな気温から逃れるように早々に室内へと逃げ込む。すると、居間には見慣れないものが置かれていた。
    「これ、何?」
     卓のようでいて、その周りには布団がついている。ぽふりと布団を抑えると、敷物と掛けられた厚みでふかふかと藤の手を押し返してきた。
    「炬燵だな」
     藤が来て初めての冬を迎えた頃、以前手を冷やしては洗濯場から戻って来たのちに風邪を引いていたのを見て、その存在を思い出した朽名が炬燵を物置の奥から引っ張り出してきた。ついでに暖かい半纏も用意してくれていた。
    「炬燵?」
     初めてそれを見た藤が首を捻る。ゆらゆらと頭を揺らしては興味深そうに目の前の物を観察していた。
    「まぁ、入れば分かる。私も初めて使った時は人間のずるさに舌を巻いた」
     思い出してはうんうんと蛇は唸る。
    「……持ってくるの、大変じゃなかったの?」
     麓から此処まで運ぶのは大変ではないのかと疑問に思った藤が言う。
    「前の管理人が置いていったものだ。気にするな。少し古かったが、綺麗に直したから使えるぞ」
     そこは信頼の出来る再生の神様だ。不安など感じていない。ただ気になるのはその様子だった。
     此処までどうやって運んだんだろうという疑問は取り敢えず置いておき、藤が掛布を捲るとほんわかと奥から暖かさを感じる。
     さっきまで寒さに震えていた身をうずうずさせていると、半纏を着せてきた朽名に「さぁ早く中へ」と言わんばかりにぽんとその場所を打っては促された。
    「人間は炬燵に入る時に蜜柑を食べるらしいぞ」
     すっと手の上に鮮やかな色の蜜柑が置かれる。
     かわいらしいまあるい蜜柑を眺めて楽しんでいると、横から剥かれた実を口元に押し付けられ、言葉を渡す間もなく反射的にパクリと口に含んでしまった。柔らかい実に歯を立てるとじわり甘味が口内に染みていく。
    「美味しい」
     藤が浮かべた表情に満足すると、蛇は己の口にもその甘い粒を含んだ。すると段々と身を解され、暖かさに平伏していた藤が其方をじっと見ては口を開いた。


    (あの時初めてこの心地を知って、思わず「みんなこんな良いもの使ってたの? ずるい!」って言ったんだっけ……)
     その後にも自分の言葉に大きく笑いながら、「ああ、人間はずるいだろう?」と寒さに弱い目の前の蛇は言っていたっけ。
    (……頭隠して尻尾隠さず)
     仕舞い忘れている白い尾に苦笑する。
     炬燵の中は蛇の長い胴が渦巻いているのに、掛布の端から尻尾の先だけがひょろりとはみ出していた。蛇の姿で居る時のちょっとした動作が何時も藤をほっこりさせてくる。
     そうして寒さを炬燵で癒し、また甘い蜜柑へ手を伸ばしては頬を緩ませた。温かいお茶も含むと今度は内側からもぽかぽかとした暖かさを藤へ伝え、ほっと息をつきなが傍にあるふかふかの白い隣人へ手を伸ばす。

     炬燵に潜っていた蛇がふと気がつくと、藤が早速へびのぬいぐるみを抱きしめていた。
     思いのほかふかふかしていたのだろう、それを抱きしめている藤が笑みを浮かべいている。……頬ずりまでしていた。
    (……いいんだがな……)
     蛇は炬燵から頭を出して這い出ると、人の身へと姿を変える。そして藤が煎れてくれていたまだ熱を持つ茶をすすっと口に含む。藤の笑顔と腕の中に居る自分そっくりな蛇に、複雑な心境でその様子を見守る。
     いつぞやの蛇の脱皮を気に入っていたの然り、蛇の人形を気に入っているの然り、蛇の口内を観察したり鱗をなぞったりと……。普通の人間よりも、藤が蛇を気に入っているのには気づいている。だが、目の前にそっくりな相手が居るのだから此方を抱きしめないのはいささか不服ではある。

    (……今日は何を作ろうか。やっぱり寒くなってきたから温かいものが良いかな。……この時期朽名が好きなものは確か……)
     お茶を啜ってから湯呑を覗き続けている蛇をよそに、うつらうつらとしている藤はその端で今日の献立を想いながら、再び懐の白い相手へ顔を埋める。炬燵の暖かさと、すぐ傍に居てくれる〝二人〟の安心感にとても居心地がいい。
     その隣で蛇が顔を上げる。
     もう少し自身の存在を示しておく必要があるかと藤を構う為に其方を向くと、
    「ふふっ、くちなみたいで……かわいい……」
     あちらそちらと歩き回ったからだろうか、気づくと藤はへびのぬいぐるみを抱きしめたまま炬燵で寝ていた。
    「まぁ……好いか」
     手元の自分に似たへびを抱きしめながら眠る藤が愛らしくて負けた。
    (そうだな。今日は私が作るか。温かく、藤が喜びそうなものを)
     藤と囲む食卓を想いながら、また一口お茶を啜った。そろそろ水底が顔を出しそうな水面に、柔らかな笑みが浮かんでいた。


     その後、とある者達がそれを抱きしめているのを見て心を和ませるのだが、蛇はまだ知る由もない。



    閑話3 「雨染まる君」

     今日の境内はちょっとだけ賑やかだった。
     少し小さめの幽霊達がぴょんぴょんと楽しそうに、敷石の上から落ちない様にと渡っては戻りを繰り返して遊んでいる。丸く天青色の幽霊達が、そろそろと咲き出した紫陽花に似ていて思わずクスリとしてしまう。
     だが、境内で楽しそうに跳ねている幽霊達を見ていたら急に雨が降り始め、ついと洗濯物を干していた事を思い出す。
     幽霊達は雨が降るのが楽しいのか、見上げたり雨粒を追いかけたりしている。ひとしきり楽しむと拝殿の屋根の下まで駆けていき、水気を払う様にふるふると身体を震わせた。みんなで並んで落ちてくる滴や景色を楽しむのも居ればふりゃりと身体を緩めてくつろいでいたり、中には何処から持ってきたのか蕗の葉を笠にしているのも居る。
     幽霊達を心配した藤はほっと息をつくと、急いで洗濯物を取り込みに向かった。


              ❖     ❖     ❖


    「えっと……朽名……」
     二人で食事を終え、藤が境内へと掃除に行った隙に、蛇は〝藤が片づけようと予定していた〟依頼品や書きものの整理をしていた。今後〝藤が〟自分へと構う時間を得る為に。だが、下心を携えて作業をしていたそんな蛇が、藤の姿を見てぎょっとする。
     ぽつぽつとしていた雨は次第に大降りになり、それに急かされる様に慌てて洗濯物を取り込んでいたら足を縺れさせて転んでしまったのだ。
     掌と膝には擦り傷と打ち身が出来てしまっている。ひりひりとする感覚が膝から伝わるが、ただ幸いにも他の箇所で痛みは感じない。だが、一応傷を水でさらしてはきたが、服が泥だらけな上にまだ膝に赤味を残しており、加えて濡れぬようにと捲し上げているので膝の惨状も見えてしまっている。見ると中々参事である。しかし隠すと後々蛇が黙っていない上に、隠そうものならすぐにばれる事はよく知って居るので、素直に相手の元へ伝えに来たのだった。……朽名の元に来る前も後も怪我をする事は多々あり、これ程やらかしたのは此処に来てからはそうなく、実に久しぶりな出来事だったので何処か懐かしく感じてしまった。
     そう呑気に思っていたなどとは言えない。言ったら今日は一日中傍から離れず家事も一切させてもらえなくなりそうなので言う分けにはいかない。
    (〝余裕の笑み〟で朽名の表情を崩してみたいとは思った事はあるけど……)
     これじゃないと藤が眉を寄せる。ふーと息をつき、また静かに息を吸い込むと気を取り直して本来の目的を口にした。
    「洗濯物を取り込む時に転んじゃって。ごめん朽名、これ治してほしい」
     雨粒が風に揺られ、屋根や地へと打ち付ける音が部屋にも響いている。蛇は言いかけた言葉をぐっと飲み込むと、一つ息を吐き出して藤を傍へと座らせた。
    「此処へ座れ、藤」
     呼ばれた藤は襖を閉じて静かに傍へと座る。
     捲っていた着物の裾を避けて赤味の残るその場所がよく見える様に片膝を立てた。
    「あっ! 舐めなくていいからっ」
     以前からの朽名の行動を思い出し、咄嗟に相手の肩を抑える。
     抑えられた当人はその行動にじっと見つめて藤へと抗議を送り返す。しかし力ではかなわずそっと手が押しのけられてしまうと抗議空しくちろりと舌先で舐められてしまった。
     ピクリと肩が揺れる。こうされてしまうと恥ずかしい上に嫌でも相手を意識してしまう。自身に触れ、そして離れていった舌先へ意図せずに追いかけていたその視線。追ってしまったそれに気づき、其処からそっと逸らす。
    「どうしてお前だけにこうするか分かったか?」
     前にもそうした事を考えた事がある。その時は自分が贄だからだと思っていた。けれど……こうされると……
    「嫌でも考えるだろう? 私の事を」
     贄から番に関係が変わってからはよく分かる。贄だからで片づけて居たもの達が一変してしまった。朽名の持ち物としての贄ではなく、朽名の〝番として〟傍に居るのはふじだから。
     意識の仕方や関係が変化し、かつ明瞭化した事で〝自身の気持ち〟がより気づきやすくなったのだ。
    「お前にしかしないぞ」
     にっこりと笑みを浮かべている。
     そのままの意味なのだろう。『何度もそう言っているだろう?』『ただ治すだけで簡単には終わらせはしない』と言い含める様にじっと此方に笑みを浮かべてくる。そんな目の前の光景に、今度は膝ではなく耳までが赤くなっていく。
     そうして事の処理に頭が追い付かず、真っ赤なまま固まる藤のその肩に、朽名が顔を伏せると先に感じた焦りを引かせる為に静かに息を吐く。
     少しでも、ほんの些細でも藤が傷つくのが嫌なのだ。自分に傷を治す力があって良かったと心底安堵する。だが、それと共に何時もの独占欲と不安がまた己の心を煽るのだ。失うのが嫌ならば大切に閉じ込めておけと。臆病者に己自身が囁いてくる。まるで別の道を辿った己が宿ったかのように。
     すると乗せられた重さに、今度は停止していた藤がハッとする。未だ自分の服が濡れ汚れているのに気づいのだ。そして何時の間にか朽名はもぞりと背後へと腕を回そうとしていた。
    「く、くちなっ、服汚れちゃうから離して」
    「このまま綺麗にするぞ?」
    「でも、お風呂も入りたいし。ついでに着替えてくるよ」
    「……」
     これ以上手間を掛けさせるのもと思い、ついでに温かいお湯に浸かろうかと考える。だが、
    「あれ?」
     次の時には何時も通りの服装に戻っていた。心做しかおろしたての様な手触りだ。
    「体が冷えたなら私が温めよう」
    「え?」
    「その後ゆっくり風呂も手伝おう。更に温まるだろうからな、眠くなったら寝る世話もしてやろう。疲れが良く取れるようにな」
     その言葉に藤が慌ててぶんぶんと首を横に振る。温められるの意味を理解してか首元も赤かった。
     裾が捲られたままの其処から、腿まで見えるたおやかで綺麗な脚が伸びている。藤は羞恥心に耐えるのに必死で気づいていない。それに一人気づく蛇は、密かに指先を忍ばせるとつっーと絶妙な力加減のまま内腿をなぞり撫であげた。
     藤の背が飛びあがる。
    「あまり私を不安にさせるな、藤」
     擽る様な声音を出されながら耳元で囁かれ、今度は肩が飛び跳ねる。藤の柔らかな頬を捕らえている指先にはすでに上がる熱が伝わってしまっているかもしれない。
    (ち、近い)
     地につけていた筈の手に、何時の間にか相手の手を重ねられている。その手をすりすりと指先で撫でられながら、間近に迫る相手の顔は藤をじっと捉えていた。
    「傍から離したくなくなるだろう?」
     また藤が赤味を増やす。それでもかまわずに、その要因になっている相手は言葉を贈り続け、頬に添える手の親指はふにふにと唇の感触を楽しむ。
    「染まる頬が愛らしい。唇の赤さも食みたくなるな」
     ふっと息が落ち、また柔らかさを増す表情に藤の奥で音が速くなっていく。やがて頬を捉えていた手はするりと首元で遊んでいくと、胸元を経由しては下り下って背後へと向かい、控える帯の結び目へと辿りついていく。
     そんな中で、相手から色々とつつかれている藤はぐるぐると目を回し始めていた。
    (ちゃんと話しても駄目だった……!)
     隠しても、話しても。
     陥落させようと一手一手と打ってくる相手に、ふぇーと情けない声をあげたくなってしまう。
    「……くちなばかり、余裕でずるい……」
     照れもせずにそう簡単に相手に触れてるなんて。朽名にゆらゆらと心を揺らされる自分は何時も調子を崩されてばかりだ。
     震える身で目一杯視線を移す。思わず口から「うぅ」と言葉が漏れ出てしまった。
    「……いつか……反撃してやる……」
     真っ赤な顔と潤んだ瞳でじっと上目に睨みながら小さくぼそりと呟いた言葉。子供じみた駄々なのだが、すでに自分には余裕なんてない。笑みを浮かべて陥落を狙う朽名によって余裕なんてなくされた。
     呟かれた言葉に、にこにこと崩さずに笑みを浮かべていた朽名はまじろぐ。そして突然くっくっと声を漏らしたかと思うと笑いだしてしまった。
    「んむっ」
     笑いながら藤を抱きしめる。
     当人の思惑通りぽふりと藤がくっつくが、それでもふふっと笑う音が溢れているのが聞こえてきた。
    (……すごい笑ってる……)
     朽名が楽しそうなのが嬉しいような不服なような。だがここまで深く笑われると思わず口から出てしまった言葉を取り消したくなる。まさに口は羞恥の門だ……。
    (その言葉が反撃になっているな)
     予期せぬ藤の言葉ですっかり調子を崩した蛇はようやくして波が治まってくる。
    「覚えているか? いつの日だったか。むくれて布団に隠れたお前が、突然唇に触れていった事があったろう? 『いつもやられっぱなしだから仕返し』と」
     まだ少し笑いながら話す朽名に、あれは確か朽名の元へ来て幾何か経った頃だったようなと思い出す。
     何も考えずに怖いもの知らずな勢いでしてしまった事など換算しないでほしい。現にあの後更に仕返しし直されてしまった。
     口を結び、思い出しては羞恥にふるふると肩がわななく。
    「驚かされている事など沢山ある。笑わされる事も幾度となくある。何度も嫉妬に揺らされた事もある。お前を見ていて心が落ち着かなくなる事など山ほどある。それでも足りないのであれば……」
     身を離し、じっと視線を移されると目が離せなくなってしまう。
     藤の言う所の〝余裕の笑み〟を携えた顔が藤の目の前に現れる。何時も自身の胸の奥を急かしてくるその顔が現れて「んぐ」と藤が言葉を飲み込んだ。
    「沢山仕返していいぞ、藤。なんなら練習をするか?」
    「え?」
    (ど、どうやればいいんだろう)
     突然の〝反撃の練習〟に藤が戸惑う。
     好きにしていいぞと言わんばかりの相手に、突然そう示唆されると反撃するとは言ったもののどうするか迷ってしまう。
    (……俺から〝仕掛ける〟……?)
     何時も朽名から仕掛けられてばかりだ。触れられ灯をつけられ、そして触れたくなって余裕を無くされる。意図して自分から灯を付けに行く事が少ない。
    (俺が仕掛けて崩せたら……)
     これも一つ、反撃出来た事にならないだろうか……。
     少なくともあの時の反撃では僅かにでも驚かす事は出来たのだ。その後に反撃仕返されてから上手く保てなかっただけで……。

     息を飲むとそっと顔を近づける。柔い唇を相手に合わせ、水気を含むその場所がピタリと自身と重なり合う。改めてこうして合わせると何時もとは違う様を心の奥から響かせて来る。まるで初めてそれをするかのようで。
     初めて触れ合うどころか疾うの昔に合わせた回数など数えるのを忘れている。それこそ、その理由は〝余裕が無くて〟だ。
     口を合わせながら藤が身を乗せると、気づいた朽名がそれを受け入れる為に身を僅かに傾けた。


     思えば何時からだろうか。
     藤は唇を合わせるのが上手くなっていた。最初は翻弄されるままだったり、与えられるままの刺激を消化するので精一杯だったり、突然現れる口元の温かさに驚いていたのに、次第に中で触れ回る舌に一生懸命応えようとし出したのは何時だったか。
     仕返しをしてもいいぞと言った今では普段とは違い、藤へと動かさずにいる己の中に与えようと頑張っている。仕返す側である筈なのに、とろんとした瞳で時折口を開けては熱の帯びた息を零しているのが可愛らしい。
     僅かに藤の肌に浮かんでいた雨粒を指先で拭う。
     此方に観察する余地がある事に気づいたらしい。少しむっとした表情が現れると、ふわふわと触れていた動きが重さを増して絡んでは箇所を刺激してきた。
    (っ……)
     背がそわりと感覚を受け取っていく。今のは中々に。
     食らいつく様に藤が口を合わせ、無意識なのだろうが、細身の体の重さが自身へと委ねられていく。
    (愛おしい)
     こうして時折見せる負けず嫌いで、此方を驚かせて来るのだからまた愛おしい。
     仕返すなんて処ではない。表情も仕草も行動も、とっくの昔から藤の全てが自分に刺激を与えている。藤は此方に余裕があると思っているが、そんなもの考えるまでもなく自身から尽きている。情けない姿を見せない様にしているだけだ。だから藤の言葉を借りるならば〝ずるい〟のだろう。
     されるより与えたくて仕方ない。可愛らしく自身の中で動いていく舌先を激しく絡めてしまいたい。藤が一番好く感じる箇所を愛撫して回りたい。うずうずと気持ちが逸り加速する。
    (……これだけでも大分仕返されている気がするがな)
     こんなにも愛らしい藤に与えられないなんて。与えられるままに、お預けを食らい続けるのは心労を増していく。
     己を律するが、無意識に藤が身も唇もぐっと押し付けてくるのが更に堪らない。狙ってしているのか分からないが、自身の首元へ藤が細い枝を巻き付けてきたのがもう我慢の限界だった。
    「藤……もう欲しくて仕方がないのだろ……?」
     問われた言葉に藤が顔を強張らせる。
    「お前の身が打ち明ける様に早く欲しいと此方へ言い続けていたが」
     身が傾いでいた事に気づいた藤が目を伏せていく。
     当初よりも藤の身は大きく朽名へと傾いていた。ぴたりとつく互いの狭間が熱さを携えている。片手で自身を支えながら地に座り愛しさを享受していた身体に、藤の身は完全に寄り掛かっていた。
    「何だか……いつもとちがうから……」
     普段が普段なだけに、微動だにしない相手のその内が何処か寂しさを増幅させていた。何時もはその温かさが自身を満たしてくれるのに。
    (……まだだめかも)
     まったくもって余力を持てない。そんな自分を悠々と相手に見透かされてしまった。自分より長く存在している相手を揺らし続けるのはやはり難しいのだろう。
    「これじゃ……朽名を崩せないね……」
     残念そうに藤が眉を落とす。そんな藤にはたと相手が返してくる。
    「余裕があるなど言っていないが」
    「え?」
     疑問符を浮かべた藤の唇に食らいつくと、受け取った以上に深く中を愛撫していく。その激しさから漏れる音を聞きながら、そんな素振りは無いのに逃げられたくなくて腰を捕まえる。
     これだけでも己がどういう状況なのか気づかれてしまいそうなものなのだが。与えられるものを飲み込むのに精一杯で気づいてはいないのだろう。
    「私は耐えられなかったぞ」
     腕をとられ、手をとられ、するりと細い腕を辿られて手が案内された先は、正直に身を膨らます場所だった。それに気づくと、腹部の奥がどくりと震えて独自の感覚が身を駆ける。求められた時に、自身が〝どうなるのか〟また自覚してしまう。……墓穴を掘ったのは自分なのではなかろうか。
    「あっ、ぅ……」
     うまく言葉が発せられない。
     その正直さが動揺と共に呼吸を荒くさせていく。
     自分の顔が今どんな色を浮かべているかなんて言わずとも分かりきっていた。優しく頭を撫でているその手がまた心をさらさらと揺らめかせていく。
    (これ…どうなんだろう……、俺、朽名を落とせたの……かな? でも、何時もの朽名にも見えるような……仕返し、出来てるのかな……)
     果たして上手く言葉を返せない自分は今余裕があるのだろうか。真っすぐに此方に伝えて来た相手の方に分がある様にも見えてしまう。少しは出来たのかと思うものの、それでもまだまだ難しいのだろう。
    (朽名の方が、長く生きているんだもんね)
     そう考えると少し寂しくなる。培うだけの経験を持ち、自身が知らない時を過ごし、知らない面を映しながら生きてきたのだ。
    (……まだ、知る事って出来るのかな……〝自分がまだ知らない朽名〟をみたいかも。どうしたらみれるのかな……)
     色づいたまま悩まし気に眉を下げて停止してしまった藤に、苦笑する蛇は一つ息をつく。恐らく今は少しづつ消化している最中なのだ。急かさずに、出来る限り藤が思うだけの時間を渡そう。どれほど己が藤を前にして心が揺さぶられるのかに辿りつく様に。
     だが恐ろしくもあるのだ。〝その末〟で、藤の嫌気を誘う程に余裕もなく曝け出す姿を、ましてや不安に揺れて〝藤を大事に閉じ込めておく〟事を脳裏に過らす己を知られてしまうのが。


     はたと思い至る。
     動揺とその後の藤の愛らしさに、雨の中転んで身を冷やしてしまっている所をつい引き留めてしまった。
    「悪かったな藤、つい引き留めて。身体が冷えているだろう? ゆっくり風呂に行って――」
     するりと自身の帯がゆるくなる。後ろへと伸ばされていた藤の手が着ている浴衣の帯を解いていた。
    「今……してほしい……」
     散々焚き付けられ燻られた奥底の熱を、手放し、見てみぬふりをするにはもう遅い。
     胸元で見上げられながら向ける瞳が、欲するものでゆらゆらと揺れる。静かに近づいてきた水を含む柔らかなその唇は、隙間なく口を塞いでいくと熱が流れ込んできた。絡めてくる藤に応えながらその身に纏う境界の要に手を掛け、地へと落とす。

     逃げぬようにと細い枝が此方へと固く結ぶ。枝を絡めている相手のまだ濡れる淡い白縹色の瞳が揺れ、雨が花を瑞々しく艶めかせるように、そこに咲く花が色を増やしては此方を甘く艶やかに誘惑していた。



    閑話4 「身もない話2」

    「……」
     服を脱ぎかけ、少し視線を降ろして自身を見る。
     早朝、すぐ隣で蛇が眠る中で静かに瞼を開いた藤は、食事を作りだす前にお風呂に行こうかと脱衣所に来ていた。
     一枚二枚、するすると服を緩めていく。だがふと、幾何か前に朽名が置いた鏡に目がいった。それと共に「鏡があった方が便利だろう?」と言っていた朽名の言葉が過る。
    (……気のせい……かな?)
     自身が映されいる鏡を通してじっとその場所を注視する。そして静かに瞼を伏せると、首を横に振っては再び視線を鏡に戻す。
    (……気のせい……気のせい)
     他の体型はさほど気にならない。変化を感じないから気にならない。だが、何故だかそこが気になってしまう。
     少しだけ……いや、きっと僅かに。
     以前よりもふくりとしている様な気がするのだ。胸が。
    (前の姿なんて、早々じっくりとみた事なんてないから……勘違いしているだけで……)
     そう、だから決して膨らんでなどいないのだ。
     何度も頭の中で呟きながら自分へと言い聞かせる。
    「……」
     うっすらとあばらが浮くその上には柔らかな小さな丘がある。脱ぎかけの薄い寝衣を腕に引っ掛けながら、そっと掌でその胸に触れてみた。
     下から添えられた指先達で軽くふにふにと押すと、答える様に相応の波になる。
     思い出したくなんてなかった「胸を揉まれると育つ」なんて何処かで耳にした本当かも分からない言葉が、藤の脳裏で騒ぎだしていく。やがて映し出されていくのは過去の光景達だった。
     んぐと唇を結ぶと遠い目をしながら視線を鏡から床へとそっと逸らすと、僅かな静寂の後には薄い息が吐かれていた。自身がこの場所へ来たわけを思い出す。
     昨夜の情の痕を残した体は、疲れを含んでいる。朽名は身体の痛みや怪我・病に穢れは和らげられるが、疲れは藤の体力次第なのだ。なので起きて間もなく湯舟へと浸かる事も多い。
    (お風呂……入ろ――)
    「んっ!」
     背後からガシリと捉えられ、胸に触れていた掌が別の何かで包まれていた。意図しているのか分からないがその先が頂上の尖りを押し込んでいく。
     室内の冷気で冷えかけていた体に温かな温度が素肌に触れてピクリと身が跳ねる。肩にはふわりと重みが乗せられた。
    「どうしたんだ? 〝物足りなかった〟のか?」
    「ちがっ――!」
     何が足りないのかと、問われている意味を思考に組み込んで言葉にする前に、重ねられている掌で自身の掌ごと丘を踏んでいく。
     その動きの先が尖りに当たる事で生み出される軽い刺激が、背を駆けて下っていくのをはっきりと認識していた。
     むき出しの肩に触れる息が肌を擽っていく。それが更に藤の羞恥心を駆り立てていた。
    「自身で触れる程物足りなかったか? 満たせてやれなかったのならば今からでも――」
    「そうじゃないっ、そうじゃないっ!」
     ぶんぶんと首を振りながら身体を身悶え、相手に意志を伝える。けれど相手の「違うのか?」の言葉にぴしりと身体が静止した。
    「ちがう……」
    「ならばどうしていたんだ? 此処で佇んでいたら身体を冷やすぞ」
     冬が迫るこの場所で、衣服を脱ぎかけの状態で佇んでいたらそれは身体が冷えていく。相手はそんな藤の身体を温めるかのように捉えた腕を深めては、触れる肌へ温度を渡そうとしている。
     肩からの熱が藤に浸透し、相手の唇が首元に触れると小さな音を立てた。
    「それは……えっと……」
     冷えた身体に一層その熱を感じながら、言い淀む藤は目を泳がせる。触れられすぎて胸が膨らんでいる気がするなんて恥ずかしすぎて言いたくない。
    「と、とくにりゆうはないよ」
     鏡越しににこりと笑みを作ってみる。
     だが、その笑みが何だか引きつっているのが傍から見てもよく分かる。
    「……」
     じっと鏡の中の此方を見つめてくるのに、何も発さない相手に段々と藤の笑みがまた崩れていく。
    (かえる……)
     怒られているわけでも睨まれているわけでもないのに、まるで蛇に睨みつけられて動けない蛙の気分を刻々と味わっていく。
     更に口を噤む藤はその視線から逃れるようにふいっと顔を逸らした。
    「……えっと……くちなもおふろ、はいる……?」
     話を逸らすべく思考していた片隅で、乱入者が来た事でまた忘れられていた当初の目的を再び思い出す。自分は此処へ温まりに来たのだ。
     相手が自分を探しに来たのか、温まりに来たのかは分からないがそう提案をしてみた。
    「そうだな。私も共に入ろう。今日は寒くて仕方ないからな」
     鏡に映される柔らかな笑みとその言葉にほっと心で息を吐く。
    「だが理由を聞いてからな」
     優しい声色のまま自身の耳元で囁かれ、途端に心がきゅと締まる。冷たい声色ではないのに、内心が蛇に頬を撫でられた蛙だ。
     耳が食まれ、ちろりと舌先で耳朶を舐められる。それが下ると今度は首元を食んでいった。ちゅっと鳴る水音と藤の吐息が同時に零れ落ちる。
    「こうしていれば此処でも温かいだろう?」
     囁かれるそれでさわりと背に何かが走っていく。晒されている肌はすでに赤味を帯びており、相手の手が下方から藤の頬に触れてくる。
    「それで、どうして鏡の前で佇んでいたんだ? 自ら胸にまで触れて」
     逃がさないように閉じた腕の中。
     その身を動かせない中で、あうあうと藤が言い淀みながら「どうしよう」と困っている。鏡越しに此方を見ていた藤の瞳がふっと伏し目になり、開こうとした口をまた閉じた。
    (……そんなに言いづらい事なのか?)
     その様子に蛇の方が困惑しそうになる。だが、苦笑交じりに眉を曲げていたそれが、一層深くなりそうになった。
    「……体の調子でも悪いのか?」
     もしそうだとしたら、なぜこうして言い淀んでいるのか。
     そんな事はないだろうと分かりつつも、知らぬ間に藤との距離が離れたのかと僅かに不安が過ってしまう。痛みをまた独りで抱え込み、己に教えてくれもしない距離に戻ってしまったのかと。

     朽名が頬を寄せる。縋る様に。
     そうしてするりと自分へと触れてくるその表情かおがどこか寂し気に見えてしまった。
    (っ――)
     何時の間にか巻き付く腕は藤の胴をまた深く抱きしめている。その様子を見ている内に、蛇の姿で寂し気にする朽名に見えてきて、きゅうっと心が音をたてた。
     あんなに渋っていたのに、脳裏でしょぼくれる白い蛇に観念して藤が白状しだす。言葉の端を震わせながらぽとぽとと音を溢して教えてくれる。
    「前より、その……む、胸が……膨らんでいる気がして……」
    「……どうしてそう感じたんだ?」
     すぐ前までの陰り始めていた脳裏に、今度は疑問符が飛び交う。
     傍に居ぬ間に、起きて早々独り胸に触れているその姿に、己が藤を満たせなかったのかと思ったら違うらしく、けれど誤魔化したがる藤の様子にてっきり此方へ移る前のように体の不調をごまかしているのかと。
     そう判断していた朽名は目を開く。
    「く、くちなが……朽名が、たくさん……さわるから……」
    「触ると……」
     言葉を渡すでなく零してしまった朽名の呟きに、上気している顔を携えて言葉を続けていた藤は言うかどうか迷っていた事も白状した。
    「む、胸を揉まれたら、育つって聞いた事があって……。そんなこと……ないと思うけど……多分……」
     もう許してくれと言わんばかりに藤が顔を覆う。(こんな他愛も無い事、下手に隠さずサラッと言ってしまえば良かった)のだと、ふるふると震える体は羞恥と戦って居た。
    「それは……悪かったな……」
     そんな事があるのかは分からない。ただ予想外な藤の言葉に、目をぱちりとさせてはなぜか謝罪を口にしていた。
    「具合が悪い分けではないんだな?」
     顔を覆ったままこくこくと藤が頷く。
     藤の返答に、ほっと静かに息つく。そして目の前に映し出されている藤の胸に目を向けると首を捻った。なぞる様にじっと観察をしていく。そして再び首を捻ったのだった。
    「触るぞ」
    「んっ」
     顔を覆っていた藤は突然飛び上がる。
     蛇が再び藤の胸へ掌を乗せると揉みだしたのだった。疾うに藤は掌を退けているので直にだ。
    (……かさをました……のか?)
     突然得た感触に犯人はふむと一つ頷く。
     胸の変化になど気にも留めていなかった蛇は、今までよくよく見ておけばよかったかと考える。
     番う事で身に変化が起こる事は重々承知している。此方に来てからすぐに起きた変化には気づいたが、時間が経つごとに現れる事もあるのかもしれない。
    (番い此方に来た事で、人とは遠い者になってはいるかもしれないが……経験で人の身は形を変えるとも聞くし、今後はより藤を見ておくべきだろうか。胸があろうがなかろうが、藤であるなら気にも留めないが、藤自身が気にするのならば見ておくべきだろうか……?)
     思案しながらも手は止まらない。離しがたい藤の身から手を離せずにいた。
    「私はどちらとしても気にしないが……仮に膨らんだとして、胸があるのは嫌なのか?」
    「え? そ、れは……いやというか……その……気にはなるよ……んっ――」
    「あまり気になるのならば私が力を使っても良いが……膨らんでいるかも分からんな。今後はしかと確認しておこう」
    「あっ、も、わかったから、てをはなしてっ――」
     蛇は真面目に考えているのだろうが、藤からしたら内容の恥ずかしさに目が回る。だが、確認を続けるその手が止まらない。
     予期せず与えられ続けた刺激に、息が荒くなり始めた藤はぎゅっと動いていたその手を握った。
    「もう、さわっちゃ……だめ……」
     藤の言葉に動きが止まる。
     部屋の寒さなど消し飛び、肌を晒す藤の身体は熱を含む。それでいて潤む瞳で此方を見てくるから、次に熱を帯びたのは此方だった。
    「ぁ――っ」
     尖りに指を添えるとふにふにと弄りだす。育つ以前に散々教えられてきた藤が身を揺らした。
    「あ、や、なんでっ」
    「胸が気になるのならば……触れるのも駄目か?」
    「ん、……ぁ…」
     言葉が耳を擽っていく。指先が藤を辿るごとに、艶を持つ唇から熱が混ざる音が生まれては空に溶けていた。
    「こうも甘く溢すのに?」
     ふにふにくにくにと。そして今度は尖りを摘ままれると指先でなぞられる。そこから軽く引かれるとまた藤が小さく音を溢す。指が離されると今度は程よい加減で丘が波を打ち、波を作っていた風はまた藤の好い場所で遊び始めた。
    「止めたいならば、心から願ってくれ、藤」
     甘い音を吐きながら、止まない愛撫に腰が砕けそうになった藤は、思わず目の前の鏡へと手をつく。耳元で触れる息や熱が、鏡を見ずとも相手が自身へと間近に迫っている事を知らせて来ていた。
    「私の我儘を止められるのはお前だけだからな」
     戯れながら間近で請われるその言葉に、ぞくぞくっと背筋に何かが駆けていく。
    (うそ、だめ……)
     今までこれだけで達した事はないのだ。
     それなのに水を含んだそれが流れ出しては垂れそうになる狭間へ、訴えかけるように脚を閉ざす。だが訴えも空しく、軽い衝動の末につつっと内腿を伝い始めたそれはぽたりと床へ落ちていき、反れる背が背後に居る相手に押し付けられていく。
     誰もいない腹部の奥でどくりと唸るが、きゅっと僅かに締まるそこが物寂しい。
    「少しイったか?」
     流れ出した液はぬるりと奪われる。指先で糸引く透明なそれに白が混じっていた。
    「もういらないか? 藤」
     首に柔らかく温かな感触が落ちると次には軽く食まれている。項を食まれる感覚と水音がもどかしい。
     そんなもどかしさに襲われながら、今は胸の尖りをじっと動かさずに、まだ捕らえたままの相手の指先に意識が向かってしまう。さっきまであんなに自身を責めたてていたのに、今は微動だにしない指先にむずむずと身体を逸らせる。
    「昨日もして……起きたばかりなのに……」
    「私はまだお前に触れたいが?」
    「~っ」
     自身に問うつもりの言葉は無意識に吐かれていたらしい。それを拾い上げた相手の希望に、身体はふにゃふにゃと力が抜けてとすりと床にへたり込む。やがて見上げると、笑みを崩す事は無いのに熱を帯びる瞳が此方を覗き込んでいた。とうとう観念した藤は鏡を背にして相手へ向き直る。そして弱々しく腕を広げては欲した瞳でおねだりをした。
     降りて来た相手へ腕を回して唇を合わせる。
     藤へと絡め続けている相手の片手は、すでに手にしていたものをとろりと物寂し気にしていた場所へと注ぐ。待ち受けていたその場所は難なく掛けられた指を受け入れていき、あと少しもすれば早くくれと催促しだすだろう。

     その後更に腰を抜かし、くたりと相手へ身を預けている藤の姿が、湯気をくゆらせて揺れる水面に浮かび上がっていた。




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