終煙怪奇譚:「山笑」――自分は森や木々の中を歩くのが好きで、ふとした時に山を登り歩く事が多かったのです。
まぁ、本格的に登る人達のように、そう高い山を登る事は無いのですが。所謂ハイキングに近いのでしょうか。
基本的には低すぎず、それでいて高すぎない山へ向かい、森の中の空気を楽しむんです。
その日も知人と共に生きたい場所へ目星をつけ、森の中を進んでは景色を楽しんでいました。
ただ登りも半分を過ぎ、森深い中を知人から少し離れては進み、疲労を産み始めた身体を感じてはそろそろ沢が見えてくる筈なので、そこで休息を取ろうかと考えていたんです。
ふと辺りを見回しました。
淡い色の何かが木々に絡まっているのが見えたんです。
「何だろうか、自分の知らない植物でも絡んでいるのか」「ああ、絡まっているという事は蔦か何かなのだろうか?」と思いながらも後で知人とそれについて話したり、帰りがけにでもまた確認しながら行けばいいかと一先ず目的の場所まで向かう事にしました。
登る程に、歩く度に増える木々に絡まる長い長い蔦。その先で。
水の流れる音が木々の間から溢れ、木漏れ日が覆うその場所に……見惚れてしまうくらい美しい人魚が沢で水を跳ねさせていました。
そして惚れ惚れとしていた此方に気づくと浮かべたのです。
不気味なほどにんまりとした笑みを。
その人魚が跳ねる動きで鱗が巡る尾鰭をたわめかせると、空を裂いては森の中を悠遊に泳ぎ、奥へ奥へとその姿が消えていきました。木々に絡んでいた筈の長い長い髪を自由に波打たせながら。
泳ぐそれで気づいたのです。木々に絡まっていたのは植物ではなく、人魚が持つ途方もなく長い髪の毛だったのだと。
目の前の光景に私は呆然としていました。目を開いたまま。
そんな中で何度も何度も何度も。あの〝笑み〟を白く捌ける脳内で復唱していました。
私は段々と怖くなりました。あの長い長い蔦のように絡まっていた髪が今度は自分に絡み付き、私の中の何かを何処かへ連れ去ってしまう感覚が背から上り詰めたのです。
時間が止まったのかと錯覚しそうなくらいに動きを止めていた私は身体を揺らしました。先までの恐怖からではなく、背後から後追いで登っていた知人に声を掛けられたからです。
知人に連れられ、休息に入っては落ち着き出した私は、木々に白っぽい何かが絡んでいなかったかと訊ねましたが、沢でのそれどころかそんな髪すら見なかったそうで。
あれは本当に存在していたのでしょうか?今でも時折脳裏に現れるのです。隙間から覗く、鈍い赤色が頭の中から出て行かないのです。
長い長い髪の、山の人魚の、山を逆さにしたように、裂けるのではないかと思う程のあのにんまりとした笑みが。
今、私の目の前、その鏡に映っているのです。
――これが私が今まで生きてきた中で、とても印象に残る出来事の一つです。
此処まで読んで下さり有難う御座いました。これをふと手にした誰かへ、そして私を産み育ててくれた両親に感謝を伝えたいです。ただもう告げる事も、伝える事も出来ないのが悲しいですが。
私はこれから山に行きます。もう誰にも見られたくないから。
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狭く雑多に物が散らばる事務所の中で、男が煙草の煙をふかしながらその紙を硝子机に置く。
薄暗い部屋でチリチリと赤が灯る。暫くしてふかしていた煙草を灰皿で消すと、記録をとる為、壁一面に広がる棚へと向かった。
- 了 -
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● お題
山
蔦
人魚
三題噺(ホラー)
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