終煙怪奇譚:「井の中のシン、大海知らず」.
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「……」
今日も見える。
神社の境内。御使い達が御座すその台座。その片側では今日もあれがちょこんと鎮座している。……本来の像は何処行ったんだ?
(あれ……犬だよな……)
吽と口を紡ぎ、どやっと誇らしげな犬が鎮座している。真っ白くてふわふわですらっとした到底石像とは思えない犬が其処に居る。
此処は幸住神社だ。そして御使いは狛犬である。犬ではない。ただ、この道を通る度に、犬を見かける度に、(その毛並みを撫でてみたい)と思ってしまっていた。
私は犬好きである。
「あ、早く行かないと」
急いで行かねば遅刻する。
書店員として今日もお勤めに行かねば。給与前で金欠なのである。
急ごうとしたその端で。
銀杏の葉が、犬のその湿った鼻先にぴとりと付着する。途端クシュっと葉を振り払うようにくしゃみをした。
犬はばつが悪いのかふんと鼻息を荒げると、わふっと一鳴きしてまた胸を張る。それが極まり手だったのか、何だか前より誇らしげだ。羞恥との勝負は早々に決した。
犬のその仕草にクスリと笑う。
「何だか今日は良いものを見れた気がする」
焦る心は私の高揚に果てへと逃げ、まずは何時もより一つ遅いバスに乗るべく、足取りよく勤務地へと向かったのだ。
乗るはずだった何時もの時刻のバスが、紙面に載るほどの事故を起こしたと知ったのは、その幾何か後の事だった。
✤ ✤ ✤
斑に揺れる心を携えて息を吐く。
普段よりも遅い時刻のバスから足を降ろし、犬のくしゃみに浮かされて到着した書店は、そこそこの品数を誇る店である。なので、ふらりと気ままに立ち寄る客人達の中に溶け込んで、近場の書店では求める物が見つからなかった者や、まとめ買いを望む者が訪れる事も多い。
書店巡りは楽しく、なじみ深い物から目にした事もない物、はたと気づく出会いで満ち溢れているので心が躍る。……自身もふらりと立ち寄っては何も得ずにそのまま帰宅する事も多いのだが、気ままな一目惚れで購入をする事もあるので、書店さんには思わず許しを願ってしまうばかりだ。
そうして一目惚れに現を抜かしては、下手をうつと金欠となるのであった。
図書館とはまたとんでもなく有り難い物である。だが、気に入るとそこから書店へと向かうのだからやはり気は抜けぬ。
仕事は仕事なのだときびきびと動く。
本を積み重ねながら、己を振り返る思考から派生したそんな戯言を捏ね繰り回して己へと披露していると、書物が並ぶ棚の中、一つの表題に目が移る。
『神の庭に御座す神使達』
どうやら神社に御座す御使いを記した書物の様だ。
手に取り軽くぱらぱらと捲りゆく。拍子に立ち止まって眺める程度ならば、品を把握する為にもなるので好いのだと。そうして作業の合い間に頁を捲っていた先輩を言い訳として引き合いに出す。
そうしてふと止めた項目は「狼・犬」だった。犬や狼が神使を務める神社の狛像は、しっかりと犬の、或いは狼の姿をしている。
はたと瞬く。
狛犬が座るあの神社。あれは本来の御使いは犬、或いは狼なのではと。誇らしげに座っていたあの姿を思い出す。
あれは通常の犬ではない。
なぜなら常日頃あの犬があの場所で鎮座している分けでなく、普段見えるものはれっきとした狛犬の像なのだから。
✤ ✤ ✤
私は神の御使いに救われたのだろうか?
なぜ時折あの犬を目撃するのか分からない。
本来の御使いはあの犬で、もしそうならばなぜ狛犬になっているのか? 謂われは? この神社の祭神が何を思って御使いに示したのか、なぜあの場所に座り続けているのか、その真意は少なくとも今は語られない。
端々分かる事あれど、実は祭神の事についても詳しい事が記されていないのだ。……あの神社は一体何時から……、そもそもあの場所に本当に在るのだろうか?
一つ知り、〝認識〟出来てしまうと次が気になる。
……。
いや、言い出すとキリがないので、書き記すのはいったん此処で止めておこう。
事故を知り、自身が今此処に在る事の御礼を告げに参拝したその翌日、あの神社はすっぽりと消えてただの空き地になっていたのだから。
一つ、ここまで生きてきた経験則で思うのは、「この世では、見えている事が真とは限らない」というものだ。
世の中には御使いの像を見て、〝考える前に〟それがその神社の祭神と思い込む者も居ると言う。
私が出会った思入れ深いこれは、誰かにとっては我楽多の様な出来事だ。私自身、現世の中で『起こされている多くの悲劇』を知った今は、この体験は些細なものだろうと思う事もある。
だが、情報は血だ。
得てして、「多くの物事は繋がっている」事の方が多い。弾け出る情報は、きっと何かしらの〝理由〟に繋がっている。
自身で調べず、自身で考えず、自身の声を持たなかったばかりに命取りどころか、自身がなぜ死んだのかも分からないままで居る事になるかもしれないのだ。〝この世〟は〝自身〟を放りだし、面倒だからと思考を怠けた者に甘くはない。一番恐ろしいのは心霊でも何でもない。思考を止めた「人に成りきれない者」なのだ。
図らずも救ってくれたあの犬の事柄が少しでも追えて、私は良かったと心から思う。
それが私が生きた中で、小さな幸が降りた神社での出来事だ。何時か、神社に出会った読者が、あの犬のその物語を知り味わう事があればよいのだが。
✤ ✤ ✤
欠伸をしながら本を閉じる。
一人の男の体験が記された本を、とある神社に関して綴られている帳面の上へと置いた。ついでに依頼書も其処へ放る。煙が消えた灰皿の傍で、置きっぱなしにしていた珈琲を見てその存在を思い出し、まだなみなみと注がれたそれを手して口を付けた。
「……ぬるい」
湯気が立っていた珈琲は疾うに冷え、喉を通って体の奥へと沈んでいく。卓上に容器を戻すと、今度は自身の身体をソファへ沈めた。
カラリとグラスの中の氷が崩れると、それ以降部屋は音を失った。
- 了 -
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エブリスタの企画「三行から参加できる」用に新しく書いたものに「終煙怪奇譚」として書き足したもの。お題は「犬」。
※ポイピクの仕様上で、拡大するとなぜか題と本文が詰まって読みづらいので、出だしに点をうっています。特に本文とは関係が無いので気にしないでください。