同じ空の下で 柄の悪い連中が集まる場所で聞こえてくるのは、喧嘩と女と悪事自慢と決まっている。そして悪事自慢の中でも「日本人」は定番の一つだ。
「メトロで平気で寝る」
「警戒してるのにスキだらけ」
「背後を気にするという発想がない」
「エクスキューズミーと声をかけると律儀に立ち止まる」
など、日本人の警戒心のなさは枚挙に暇がなかった。故郷よりずっと遠くの、銃のない平和な国。自分が生きている世界とはあまりに違いすぎて、おとぎ話に出てくる国のようだ。盛り上がる連中の話を聞き流しながら、腰のあたりにそっと触れた。冷たく重い金属の塊。それがアッシュにとっての「現実」だった。
そんな「おとぎ話の国」から来た日本人奥村英二は、あらくれ者の集まるバーでそれはもう浮いていた。見るからにおろしたての服を着て、大きな黒い瞳を好奇心に輝かせきょろきょろと周りを見渡していた。おそらく彼なりの防犯対策であるボディバッグは、逆にそこに貴重品が入っているとばればれだ。警察のエスコートがなかったら、とっくに身ぐるみを剝がされていただろう。
英二を連れてきた伊部というカメラマンはマシだった。ノーブランドのそれなりにくたびれた服装で、ぱっと見貴重品の類がどこにあるか分からない。何よりこういった場所での立ち振る舞いを分かっている。警戒しつつ、必要以上に緊張しない。過度の緊張は必ずどこかで緩む瞬間がある。悪人はそこを決して見逃さないからだ。
「おとぎ話の国」日本から来た二人の客との出会いはその夜始まり、終わるはずだった。まさかここまで深く巻き込んでしまうことになろうとは思わなかった。英二を高級マンションに匿い、この先のことを考えながら牙を研ぐ。正直に言えば、英二がいることで気苦労が増えた。それなりに命の危機を経験してきたにも関わらず、英二は相変わらずだったからだ。
「あ、アッシュ。こっち通れば近道じゃない?」
そう言って英二が指差したのは、薄暗い裏通りへの入り口だった。人気がないから怪しい人間もいないと思ったのだろうが、ここに入ったが最後、どこかでそれを見ていた輩が後を追うのは容易に想像出来た。悪人はターゲットとなる人物の行動をよく見ている。そして、チャンスは逃さない。「よくわかるよいこの防犯講座」でも開いてやろうかと苦々しく口元を歪めているうちに、英二は携帯の地図を確認しながらその裏通りに近づいていく。
「フラフラすんな、心配するだろ」
慌てて腕を掴むと、大きな瞳がこれまた無防備に見上げてくる。この目がとびきり苦手だ。アッシュを信頼しきった好意的な目だ。これまでもアッシュを心配してくれる人や優しい人は少なからずいた、だが彼らに英二と同じように見つめられても、ここまで動揺はしなかった。その理由を、アッシュは図りかねている。
「いいか、基本的に一人になるな。俺たちは追われてる身で、お前はこの街に不慣れだ。お前の国はどうだか知らないが、この街でそんなフラフラしてたらあっという間に「手ぶら」で路上に放り出されるぞ」
リンクスのメンバーがいたら縮みあがりそうな声で凄むと、さすがに反省したのか英二は神妙な顔で頷いた。
「ごめん。ちょっと調子に乗ってた。気を付ける」
「そうしてくれ」
ものの見え方捉え方が違う人間と言葉を交わし、時にぶつかりながら理解を深めていく。英二との時間は、アッシュにとってその連続だった。巻き込んでしまったことに対する負い目、無警戒な人間を匿う気苦労、そういった意識が次第に薄れ、英二の存在はアッシュにとってそれらのネガティブ要素以上の価値を持つようになっていた。
+++
セントラルパークは大都会の真ん中にありながら、無駄に自然豊かな公園だ。春には日本にルーツを持つ桜が咲き、夏は新緑が目に優しく、秋は色づいた葉で染まる。黄色や赤の葉が絨毯のように敷き詰められた散歩道を、買い物帰りに二人で歩いた。
「NYにも秋があるんだね。アメリカで紅葉が見られるなんて!」
「日本人は、日本にしか季節がないと思ってるって本当なんだな」
「そんなこと言ってないだろ」
「一般論さ」
「はいはい一般論ね。クソくらえ」
「へえ、オニイチャンたらずいぶんと『お上品』になったこと」
「誰かさんのおかげでね!」
べ、と舌を突き出すと成人しているとは思えないほど顔が幼くなる。英二は懐かしい懐かしいとやけにはしゃぎ、よく笑っていた。もしも自分が日本に行くことがあれば、秋には同じ光景が見られるのだろうか。色づいた木々と、笑う英二。隣を当たり前のように歩く自分。そんな日が。いつか。
「アッシュ」
「……」
「アッシュってば! 危ない!」
腕を引かれて立ち止まると、ほんの数歩先に昨夜の雨で出来た水たまりがあった。慌てて後ずさると靴の裏で湿った葉が嫌な音を立てた。
「どうしたんだいぼーっとして」
「いや……悪い」
まさか、自分が日本にいるところを夢想していたとは言えずアッシュは生返事をして水たまりを避けた。英二はアッシュの腕を掴んだまま隣に並び、まっすぐアッシュを見上げた。いつもの、何の警戒もしていない、アッシュの苦手な目で。
「フラフラするなよ。心配するだろ」
かつて自分が言ったセリフを英二に言われ、耳が熱くなる。自分で自分が信じられなかった。寝ても覚めても敵襲に怯え、爪と牙を臨戦態勢にしていたアッシュ・リンクスにはありえない失態だ。
「お前にだけは言われたくない!」
動揺を隠すため、アッシュは英二の額を指で弾いた。悲鳴と抗議の声をあげる英二を無視してずんずんと先に行く。むきになって追いかけてきた英二と、いつのまにか全力疾走していた。紅葉の絨毯に足を取られ、浅い水たまりで靴もデニムの裾も濡れる。なんで走っているのかも分からないまま、気づけば笑っていた。日本とNYをつなぐ秋の空に、二人分の笑い声が響いた。
end.