1.
「死になさい」と、そのひとは言った。
震え、かすれ、遠く離れた潮風にも吹き飛ばされそうな程の、か細い声だった。
サーヴァントは夢を見ない。
エーテルで紡がれた体は肉感を伴うだけの残像だ。虚数物質で以って構築された意識に新たな創造は許されない。少なくとも遺して往けない。生者の役目を奪うことを、どうやら僕たちは禁じられている。
そういうもの、としか説明できないことに理由を求めるのは性分だ。
霊核を取り巻く極小の第五架空要素、それらが形作る多能性幹細胞に酷似した物質、そこから生まれた意識こそがこの僕である。
結局のところは仮初の存在、知覚されるために纏った記憶形状型の外殻は僅かな刺激で形を変えてしまう。
例えば祈り。
例えば認知。
例えば忘却。
“我々”の自我とは願望器に集ったデータに過ぎない。
記憶などいくらでも歪み得るのだ。
観測によって在り方を決定付けられるのならば、脳を模したエーテルは世界の干渉を受けるたびにその出力値を変えるのだろう。
所詮は曖昧模糊たる霊核に内包された形而上学的存在に過ぎず、肉体のように見える細胞さえも変幻自在にして記憶形状型のエーテルの集合体でしかない。この頭蓋に脳と呼べるモノが詰まっていたとして、そこに在る海馬や扁桃体が今この瞬間形成されたものではないと、どうして証明出来よう。
(いかなる事由で物質的事物の存在は確実に認識されるか。)
散々捏ねられ引き伸ばされ散り散りに切り分けられたであろう命題に今更苛まれているのは、まさか僕だけなのだろうか。
流転し、滞留し、結合と分離を繰り返して原型などすっかり分からない。
不変な存在でありながら、頼りないほど変幻自在だ。
意思ひとつで離散する肉体のくせに、僕たちは大脳皮質の動かし方さえ判らない。
記憶すら定かでない、
痛みさえ信じ難い、
だからサーヴァントは夢を見ない。
魔力を用いた精神世界の構築は可能である、が、無意識下で、ましてこの霊基に通う程度の魔力で叶うほど容易ではない筈だ。
本来眠りさえ必要ない。全ては自律的な、人間の真似事でしかない。
ならばこの意識は何なのだろう。
終わりの見えない仮想現実がひたりと網膜に張り付いている。
視覚だけではない。物寂しい質素な庭の匂いも、山の麓で聞く海鳥の声も、どこか覚えがある。
目の前には女が一人、頸を垂れて細い肩を震わせている。
それが平時とは随分かけ離れた弱々しさであることを、如何してだか自分は知っている。
(当然だ、このひとは僕の、)
彼女の大きな手が首に伸ばされる。いいや、彼女が大きいのではない、子供である僕の首が頼りないほど細いのだ。今に力を込められて、容易く手折れるほどに。
「死になさい」とそのひとは言った。
今まさに絞められているこちらよりもずっと苦しげな、絞り出すようなか細い涙声の、確かに、それは懇願であった。
きっと何か言うべきなのだ。
首にゆるりと回されるだけの、少しの力も込もらぬ指先にまさか声を遮られているわけでもあるまいに、声帯の震わせ方を忘れたかのように喉奥が動かない。
ああいけない、残さなければいけないのに。
せめて笑ってみせたが、俯く彼女に見えるわけもない。
どうか、どうかと、
願う言葉は彼女が発したのだろうか、
はたまた僕が望んだのだろうか、
今となっては判別さえできない。
身体の内から散り散りになる。
意思を伴わないこれが、
虚数物質の離散
なのだろう。
白んで、
消えた。
2.
戦場が嬉しかった。
さては己は元より粗野な性分だったのではあるまいかと、血潮の疼きに、思えば最初から争いを望んでいたのではないかと、
そう感じたのはカルデアに召喚されたいっときのことで、血を欲し肉に駆けてゆく勇士神霊の姿を見て成る程獣とは斯く在るものかと、どうしたって自分は人の子であると思い知らされたものだ。
愛弟子にその落胆を打ち明けた時はそれは愉快そうに手を叩いていた。何がそんなに嬉しいのかと尋ねれば、先生にしちゃあずいぶんと真っ当なご意見だったもので、と細い肩を震わせるのが何とも憎たらしい。それでいて嘲りではないことも彼の声音から伝わってしまうのが少しばかり面映く、笑い転けて赤くなった頬をつねるに留めるあたりも、やはり凡夫然たる所以なのだろう。
それでも密かに焦がれた硝煙の匂いや刃の音には胸が高鳴るもので、
力を持て余した稚児のように駆け回ることさえ、ここで初めて許されたのだった。
英雄と呼ぶには程遠い。偉人に擬えるには余りに小さい。
なればこそ、人の世の永続に与しようではないか。羽虫の猛攻が雷鳴を呼び、いずれ暴風となって荒れ狂うことを知らしめようではないか、と、
振るった拳が捩じ切れたのはこれで何度目のことだったか。
内包するエネルギーなど燃やし尽くしてしまえ。
時間も空間も重力も、手に届く限りは全て使い潰せばいい。
その類の凶暴さを打ち撒けるたびに正気を、しがらみを投げ出した気になれる。聖杯に与えられた便利な体が上手い具合に狂わせてくれる。
気づけば自分は血溜まりに溺れている。
大地を抉る轟音も己を案ずる仲間の叫びもそこらに散らばっていたはずなのに、ぶちんと衝撃の割には軽やかな音ひとつ聞こえたきりであとは茶碗が割れたような甲高い音を時折拾う程度のものだ。
海の波間に少し似ていた。
・
・
・
中略
・
・
・
3.
「死になさい」と、そのひとは言った。
細く小さな肩を震わせてこうべを垂れて、
震える声よりさらに震える腕に抱かれていた。
涙に濡れた頬が首筋に押しつけられる。
繰り返された折檻で青くなった肩が、腫れっきりの頬が擦れるたびに火傷に似た痛みが走った。やはり夢とは違うのだ。サーヴァントは夢を見ない。
(ああ、だけど、)
右腕を庇ったがために額を打ち付けそれは酷い出血だったと聞いているが、少々狂ったとしても筆を手放さずに済んだのは幸いだったと、笑って伝えればこの人はたちまちに顔を歪めてこの身に縋るように泣き喚いたのだった。
「死になさい寅。もう、死んでおしまいなさい。こんなむごい仕打ちを、痛みを与えるために産んだのではありません。わたしの可愛い寅坊、いっそ楽におなりなさい」
そう言って回された指先は柔らかく、暖かく、なるほど頸を落とすには鋼が必要なわけだと、待てども首筋を撫でるばかりの温度が思考を、呼吸を奪うことはなかった。
治りかけていた青痣に拳を重ねられて、肘から下はすっかり黒く鬱血している。
強い人だった。大らかなようでいて義と誇りを重んじる女性だった。
だからまさか、こんなことで涙を流すと思っていなかった。
この傷を恨めたら、痛みを与えた相手を憎むことができたなら、優しい母が、兄が、どんなに安らいだことだろう。
しかしそれでも、あの大きな手が、疲れ果てて眠った自分の髪を弱々しい手つきで撫でるのを知っている。あの恐ろしい顔が、怒鳴るためにあるような低い大きな声が、屈託のない明るさでカラカラと笑う様を知っている。
小さな世界だった。
好きだった。何もかも。
いいえ。
いいえ、母上。
僕は、これなる寅次郎は吉田を継ぐお役目を頂戴したのです。
吉田のお役目は藩のお役目、藩のお役目は国のお役目。
僕はこの国を継ぎ、義を、志を、きっとこの全身全霊を以て彼方に届けねばならぬのです。
どうして当主たる僕が楽になれましょうか。
ですから、そのように泣かないでください。また叔父上に叱られてしまいます。
僕は何だって構わないのです。僕は、寅は平気ですから。ちっとも痛くなんかありません。ほんとうです。
かあさま。泣かないで。
目を開けると裸眼の目にも確りと視認できる、鮮やかな紅が真近に揺らめいていた。
叔父に連れられて歩いたあの細道の、数多の椿によく似ている。手に取ればひやりと冷たくて、端から崩れ落ちてしまいそうで、盛りと共に潔く首落つ様が好きだなどとは、ついぞ言えやしなかったが。
「 、 ?」
白い装束を真っ赤に染め上げた弟子が何か言っている。霞んだ視界には彼の赤がやけに眩しい。
音は相も変わらず耳奥には届かず、されどその口の動きだけで何度も呼ばれたあの声を思い出していた。
こちらを見下ろす彼の目は、眉根こそ苦しげに顰められているものの、韓紅のその奥には強い志と確固たる義が棲み着いていた。
そうか、ずっとここにあったのだ。
火の粉でしかなかった僕を、彼が、彼らが灯火に変えてくれた。煌々と照らす篝火のように、旅路を言祝ぐ常夜灯のように、
きっとそれは絶えることはない。
「届きましたか」
喉がうまく震えたかも定かでない、漸く発した言葉は、何の脈絡もない問いだったろう。
僕という意識が無かったことになったとしても、
君にさえ忘れ去られ、彼方に追いやられ、英霊ではなくなる日が来ようとも、
きっと君の灯火の一部となれるのだろう。
彼は一瞬驚きと戸惑いに目を見開いたものの、直ぐに奇麗に細めて、破顔と云う他ない晴れ晴れとした顔で、吊り上げたその口はきっと、「はい」と答えたのだった。
エンタングルメントの成れ果て(虚数物質に於ける明晰判明性の分析とその実証的考察)