『新年会』 その花魁は、肌を赦さない。
名を、リヴァイと云った。
灰褐色の瞳が流す視線は妖艶際立ち、煙管を燻らす唇は薄く濡れそぼつ。抜き襟から覗く頸は透き通るほどの白さを放ち、男を釘付けにする。
姿を目にすることすら希少稀なる花街随一の花魁。数多の男が床入りを望み、莫大な財産を注ぎ込んだが、その肌の滑らかさを知る者はない。
楼主の寵愛故に、リヴァイの花は未だ手折られることなく手入らずのままだと。
「──そんな噂があるのをご存知で?」
宴の最中、そんな問いが酌をするリヴァイに投げられた。
年明け最初の客はこの江戸で珍しく髷を結うことなく肩まで伸び放した髪を揺らす十九の若造だった。
両替商の子息であるこの男、名をエレンと云う。式たりに五月蝿い花街の中でも特に格式が高いことで有名な遊郭真里亞で自堕落な形をしていても立ち入ることが許されている。
エレンの親と楼主の間にはリヴァイも知らぬ関係があると郭内ではまことしやかに噂されている。
金は腐るほどあるらしい。次男という比較的自由な立場故か、連日のように通い詰めては、リヴァイを指名する。
新年早々、どれだけの大金を積んだのか。元旦から七日までは「大紋日」といい、通常の倍の料金となる期間だ。おまけに本来であれば太鼓持ちや芸者を呼び、その芸を眺めながら酒と食事を嗜むところだが、エレンたっての願いでリヴァイとふたりきりの宴となっている。融通を利かせる為、さらに金を上乗せしただろうことは想像に難くない。
「事実だとしたら……?」
「ぜひ貴方の水揚げ役として名乗りをあげたいですね」
エレンの瞳が、大きく引き下げられた抜き襟から覗くリヴァイの肌を辿る。並び腰を据えてもエレンがリヴァイに触れることはない。幾度もその視線が素肌をなぞろうとも。
「興味があります。褥のあなたがどんな声で乱れ啼くのか」
盃を煽り、一口で空にすると、リヴァイを映す瞳に熱が宿った。
「その肌が熱を持ったらどんな色に染まるのか」
劣情に濡れた視線を受け止めながらも白い肌は火照りを知らず、清いまま。
「物好きな奴だな。極上の女が集まるこの吉原でなぜ男である俺に固執する」
リヴァイは男でありながら花魁として身を置いている。
新たな酒をそそぎ、一滴が杯に垂れたところで上目遣いにエレンを窺う。リヴァイの美しい所作を眺めていた目と、視線が交わる。
「一目惚れだと、最初に伝えたはずですが」
「この花街で惚れた腫れたなんざいちばん信用ならねえ」
どんな口説き文句も平静と流すリヴァイは毎度のことで、エレンも慣れている。胡座を崩し、片膝を立てた。脇息に肘をかけ、手背に頬を預ける。
「夢を売るのがあなたの仕事では?」
「ああ、そうだな。だが、お前には必要ないだろう」
「なぜ……?」
「とっくに頭が沸いてやがる」
「辛辣ですね。だけどそんな容赦ない物言いも好ましいと言ったら?」
「つける薬もねえな」
「貴方がひとつ頷くだけで終わる簡単な話ですよ」
金に輝く稀有な瞳が細まり、笑みを象る。この色を、リヴァイは悪くないと思っている。
戯れのような言葉のやり取りの合間もエレンの目は変わらず、瞬きひとつすら逃すまいとリヴァイに向けられている。全身を隈なく辿る視線を感じながらリヴァイは居住まいを正し、膝の上で両手を重ね、瞼を伏せた。
「いい話を聞かせてやろう。頭の切れる我が楼主の戯れだ。男の花魁という特異性に加え、そうして赦さぬことでありもしねえ価値を創り出し、餌にする。事実、莫迦な男共が幻想に惑わされ群がった。莫大な金を落としながらな」
「貴方にとっては俺もその莫迦な男共のひとりということですか」
くくっと喉の奥で嗤う声に、閉じていた視界を開いた。その先でエレンが愉しげにリヴァイを見つめている。
「……そうだろうが。お前のような色男がなにをどうして俺みたいな男に狂っちまったんだか」
「ひとつひとつ教えて差し上げますよ。夜具の中で。貴方はただ、俺の申し出を受けるだけでいい」
ふっくらとした見るからに柔らかな唇が弧を描く。会う度、リヴァイを艶やかだ、美しいなどと口説いてくるが、その本人こそが妖艶凄まじい。この軀に抱かれたいと望む遊女は少なくない。熱視線を受けても当の本人は靡きもしないが。戯れに誘いをかける花魁さえ、興味がないと無表情のまま袖にする。そんな男が、同じ男であるリヴァイを欲しいと云う。
「簡単に云ってくれるな。価値が下がる。未通が故の、立場だ」
「その心配は必要ありません」
「なぜ……?」
「楼主に身請け話を持ちかけました」
水揚げならず、身請け話までしていたとは思わず、さすがのリヴァイも呆気に取られた。
「は……? なにを云ってやがる。あいつが赦すはずがない」
「貴方次第だと、色好い返事を頂きました」
自負ではなく、事実、リヴァイはこの遊郭真里亞の稼ぎ頭だ。楼主がそうそう手放すとは思えない。
「戯言はやめろ」
「疑うなら本人に直接確認を」
「……嘘だろう……?」
初めて戸惑いを晒したリヴァイに、エレンも口調を崩す。熱烈な視線は外れることなくリヴァイを見つめる。
「だから、ねえ、お願い。俺のものになって」
「……断る。俺は外の世界を知らない。知らない世界では生きていけない」
そうだ。生まれてこのかた、一度もこの吉原から出たことはない。
「俺が見せてあげます」
エレンが初めてリヴァイに触れた。リヴァイの手を取り、自分のそれで包み込む。
「世界は広い。そして、自由だ。貴方も自由が欲しくはありませんか」
正面から濁りのない瞳が真摯に訴えてくる。それを受け止めるだけの覚悟が、リヴァイには持てずにいる。優しく包まれた手を引いて、エレンの熱から逃れる。首を僅かに右へと回し、エレンの視線からも逃れた。郭のどこかで開かれている宴の賑やかな囃子の音と愉しげな笑い声が漏れ聞こえてくる。華やかで、残酷なこの世界が己のすべて。いつまでもいられる場所ではないとわかっていても、ここから出る日を考えたことはなかった。花魁としての役目を終えたあとはただただ、静かにひっそりと生を終えることだけを考えていた。
「俺には籠の鳥が似合ってる。仮にここを出たとして、今度はお前が用意した鳥籠に入るだけだろうが」
「否定はしません。ただ、塀に囲まれた籠と出入りが許される籠では雲泥の差があるのでは……? 手放すことはできませんが、窮屈な思いはさせません」
再び手を取られ、エレンの熱に思わず視線を交わせてしまう。
「お前、本気か……?」
「ええ」
「……子も持てぬ男を本気で娶ると――?」
「貴方以外と縁を結ぶ気は毛頭ありません。貴方が受け入れなければ足繁く通うだけです。貴方が頷くまで」
「はっ、どうかしてる」
「違います。貴方に惚れただけ、ただそれだけ。貴方が欲しいだけです」
「……お前、莫迦だろう」
「ええ、そうです。貴方に惚れて貴方以外はどうでもよくなってしまったただの阿呆です。こんな愚かな男に、貴方がしたんです」
それが花街。花魁の仕事だというのに、なぜだか可笑しくなってしまい、リヴァイは小さく笑った。
「それはすまない」
「ねえ、今笑いました? 貴方が笑った姿、初めて見ました」
「そうか……?」
「ええ。そうやって貴方を笑顔にしたい。毎日好きだと伝えて、幸せにしたい」
リヴァイを包むエレンの手は、ひどく熱を持っていた。ひんやりとしたリヴァイの手を温めていく。この男と過ごせば、こんな風に冷えたリヴァイの心も温めてくれるのだろうか。そんな微かな思いがよぎった。
「……時間を、くれないか」
今はまだ、返事を返せない。
「はい」
これまで数多の男達に夢を売ってきたリヴァイが初めて、夢を見せられた。
この男なら――エレンなら、すべてを委ねてもいい。そんな風に思わせた初めての相手ならば例え裏切られることになったとしても、構わない。そう思えた時点でリヴァイの心は決まった。
「そうだな。桜が咲く頃までには返事をしよう」
「桜が咲いて春になったら……?」
「ああ。お前のものになってもいいと思えたそのときには――」
目を閉じて、温かな陽射しを浴びて満開に花開く桜を思い浮かべる。
「お前に俺の春ごと、すべてをくれてやろう」