ハンプティ・ダンプティ▽新宿行って懐かしい気がしたぐだおと、ぐだおを見守る王様の話
▽ぐだキャスギル
新宿に行った。知っている新宿とはかなり違っていたが、そこここかしこが新宿だった。見覚えのない道もあったが、見覚えのある道もあった。よく食べていたジャンクフードも久しぶりに食べたし、駅に行けば通学に使っていた路線の案内図があった。懐かしい、と思う前にそういえばそんな事もあったっけ、と考えて自分がずいぶん遠くへ来てしまったような気がした。ごくごく普通の家庭に生まれて育って平々凡々な学生だった自分が、英霊と契約して戦うマスターなんていうファンタジーなものになって、人類の存亡を懸けて過去の世界中へ行って、何度も死にそうな目にあって、仲間も大切な人もたくさんできて、失って、今もまだ戦い続けているなんて、昔の自分なら夢にも思わなかった。平々凡々な日々が続くと当たり前のように思っていた頃からずいぶん遠くへ来たものだ。あの何もない日々も楽しかったが、今も充分楽し――
「立香?」
はた、と我に返る。椅子に座ってテーブルに頬杖をついたままぼんやりしていたようだ。立香が顔を上げればベッドでクッションに寄りかかって座り、データチェックをしていたギルガメッシュがこちらを訝しげに見ていた。
「なんですか?」
「貴様こそどうした。珍しく真剣な顔をしおってからに」
「オレはいつでも真剣ですよ?」
椅子から立ち上がってベッドまで行き、端に腰かける。ギルガメッシュに背を向ける形になったので、彼の姿は見えない。両の太腿に肘をついて指を組み合わす。
「ちょっと昔の事を思い出してました」
「昔の事?」
「カルデアに来る前の事です」
「ほう。話してみよ。退屈しのぎ程度に聞いてやる」
「別に楽しい話じゃないですよ?」
首をひねってギルガメッシュを見ればクッションに肘を乗せて頬杖をついてこちらを見下ろしていた。視線の高さは同じ筈なのに、見下ろされる。
「よい。数字も見飽きたところよ」
「じゃあ話しますけど、」
体勢を戻して手を見下ろす。本当に楽しい話などない。ごく普通の両親に育てられ、特に波風もなく学生生活を送っていた。友人たちと遊び、得意でもない勉強をし、家では漫画を読んだりゲームをしたりして過ごす何の変哲もない学生だった。街でカルデアのスカウトに声をかけられなければそのまま平凡な生活を送っていただろう。取り立てて話すような事もない人生。こんな話を聞くくらいなら特異点での出来事の話の方がまだ面白いだろう。ギルガメッシュの好む冒険譚である筈だ。
「…………面白いですか?」
「面白くはないな」
「デスヨネー」
だから言ったのに、とぼやくがギルガメッシュからの返事はなく、背中に視線だけを感じる。
「そんな面白くない人生を送ってた自分からしたら今はずいぶん遠くまで来たなーって思ってたんですよ」
仰向けに倒れ込めば後頭部に肉の感触。太腿だろうか。だとしたらこれは実質膝枕ではないだろうか。
「戻りたいか、以前の生活に」
立香の行動を咎めもしないギルガメッシュを見上げれば見下ろす真紅と目があった。
「今も楽しいですよ? 命が危なかった事は何度もありましたけど」
「……そうか」
金に縁取られた目が伏せられ、視線が外れる。長い睫毛が瞳にかかるのが月並みだがきれいだと思った。たまにしみじみ思うが本当にきれいなひとだ。顔面偏差値がインフレを起こしているカルデアでもかなり上位だと思う。
令呪の刻まれた右手を差し伸べて頬に触れれば金の髪が柔らかく甲に触れる。以前の生活では決して出逢う事も存在を知る事もなかっただろううつくしいひと。伏せられていた瞳が立香を捉える。鮮やかな血を閉じ込めたような透き通る真紅の瞳。
「王様に出逢えたし、よかったと思いますよ、オレは」
「そうか」
手を掴まれる。右手同士が重なって、指が滑り込んできた。握り込めば目を閉じたギルガメッシュがすり、と頬を擦り寄せる。可愛い、などと思うのは不敬だろうか。思うだけなら伝わらないからセーフだろう。
「立香、もう寝ろ。明日も早いだろう」
「はい? まあ、そうですね。寝ましょうか」
よいしょ、と起き上がった立香はギルガメッシュの隣へ寝そべる。向かい合ったギルガメッシュに、珍しく抱き込まれた。額のあたりにギルガメッシュの唇が触れる。
「どうかしました?」
「気にするな。気まぐれだ」
とは言うが戯れに抱き締めたにしては背中をあやすように叩いてくるし、やはり珍しい。なぜだかは解らないが抱き締めてくれるのは大変良い気分なので立香からも抱き返す。金属の装飾品のない鎖骨に顔をうずめ、ギルガメッシュの甘い匂いを吸い込みながら目を閉じた。
***
抱き締めて数分で眠りに落ちた立香の頭を撫でていたギルガメッシュは嘆息する。平凡な生活に戻りたいか、と訊いた時に立香は今の生活が楽しいと答えた。今の、毎日命の危機に晒されているような生活が、だ。それはごくごく普通の人間として生きてきた立香からしてみれば異常な世界であり、それに慣れきってしまう事は立香から〝普通〟を奪うのには充分だろう。やがて普通の世界に戻っていかねばならない立香にそんな異常は不要だ。が、しかし今の生活には必要なものでもある。その歪みは世界のために必要なものなのだ。立香がこの異常な道を進んでいくために必要なものだ。知らず歪んでいく立香に、己は何もしてやれる事はない。何もしてはいけない。歩みを止めさせてはならない。そこに一分の迷いもあってはならない。もしかしたらこの先はもっと壊れていくかもしれない。と言っても根底は変わらないし、そこが立香の良さでもあると思うが、立香が何かを失っているのは明白だった。何も変わらないのに何かが壊れていく。その一端を己が握っているのも解っていたが、手放せるほど寛容ではなかった。歪んでいくこの子どもを愛おしいと思ってしまったのだ。歪んでもなお真っ直ぐな立香を。最後のその日まで、手を放すつもりはない。ならばせめて愛でてやらねば報われぬだろう。この感情は報いる報わないの話ではないし、そんな憐れみのような無惨な感情ではないが。
「良い夢でも見るがいい、立香」
癖毛の頭にくちづけて、脱力した身体をぎゅうと抱き締める。せめて、この腕の中にあるうちは、その眠りが安らかなものであるように。