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    shakota_sangatu

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    アオカブオメガバのその3

    #アオカブ

    タイトル未定


     突然、手術室を襲った音の衝撃に、怒号を上げていた執刀医達が一斉にその元凶へ振り返った。

     手術室と隣り合わせの処置室、その強化ガラスに広がった、細かな放射状の亀裂。ひび割れが光の複雑な屈折を生んで、すっかりと透明さを失った分厚い板は、その特性上、普通のガラスと違ってすぐさま崩れ落ちることは無い。
     手術室の方に向かい、飴細工かなにかのように、ぐにゃりとたわんだ白い罅割れ。滑らかな凹凸の先端にだけ穴が開いているのは、その部分に最も大きい負荷が加えられた証。
     想定外の衝撃を受けて、手術室の方に向けてたわんだ硝子の造形。強化ガラスだったものに空いた、先ほどまで存在していなかった歪な空虚は、まるで魔物の目玉かなにかのように人の恐怖を引き立てる。
     突然の出来事に、医師たちがごくりと息を呑み……。呆然とした彼らは、その時、自分たちが何処にいて、何をしていたのかを忘れていた。
     ピ───、心電図の音が、小刻みに鳴る。診察台の上の患者の言葉無き悲鳴すら、彼らの耳には、遠い海原で鳴る汽笛の音のように遠い。
    「カブさん、」
     遠い海原の汽笛に代わって、空虚の穴から零れ出た呼び声は、やけにはっきりと手術室に響いた。
     金縛りにかかったように、医師たちの動きを封じるのは……。魔物の目玉の向こう側に立つ、背の高い黒い人影。
     ぽっかりと空いた楕円の穴に、人の指先がかけられる。
     強化ガラスを殴り砕いたアルファの血濡れた拳が、自身の空けた穴にゆっくりと指をかけて。ひび割れたガラスの群れを、卵の殻でも剥くように引き千切る。
     カシャン───、思い出したように、透明な音を立てて崩れ落ちる硝子の群れ。透明な欠片が床に散らばる様は、幻想的で美しかった。……、その向こうから、男が姿を現さなければ。
     そう、男は……。照明の光を弾く光の群舞を、煩わしそうに踏み砕き。尻もちをついたベータたちになど目もくれず。
     本能と衝動に呑まれた、圧倒的なアルファのオーラを撒き散らして手術室へと足を踏み入れた侵入者。その熱情を宿す夜のような一瞥は、生物の本能的な恐怖を掻き立てる。
     その眼光だけで、障害物を退けた一人のアルファは、診察台の上で可哀そうなほど泣いている、いたいけな存在に近づいた。
     男が見ているものはただひとつ……、はらはらと、涙の滴を流して眠りにおちた、眠り姫のような芳しい香りを放つ人。
    「アオキさん……?」
     震えた声で、誰かが男の名を呼ぶ。パルデアの四天王と謳われるその名前、けれど、男はその呼び声に応える事無く。
     スーツを纏った腕が、不規則な脈動を続けている眠り人を引き寄せる。その拍子に、口に当てられていた呼吸器が外れて落ち、点滴のチューブが繋がれた右腕が診察台から落ちる。
     アルファのフェロモンにより、足を縫い留められた医師が引き攣れた悲鳴を上げた。
     嗚呼、死んだと彼らは思う───、だというのに。予断を許さぬ筈の身体に、負荷が与えられたのに。
     心臓を表す計器が、ぐっと落ち着いた。───、その触れ合いだけで、予断を許さぬ状況から脱したのだと。機械は確かに示したのだ。
     彼らは、眠り人を抱き寄せた雄の横顔が、うっとりと笑ったのを目撃した。
     薄い唇から、白い犬歯が牙を剥く。───、アルファは、そっと身を屈めると、すぐ傍にある頸に鼻を寄せた。
     そこから溢れる、舌の上で蕩けるほど甘い、ほろ苦い香りをいっぱいに吸い込んで。
     アルファは、あんぐりと大きく口を開く。そこにあるのは眠り人の頸、真白い、傷一つない美しい項。

     カチリ。───、アルファの牙が鳴る。

     蕩けそうなほど芳しい、うっとりと綻んだ花の蕾。そのすぐ傍で牙を鳴らしたアルファの下唇からは、噛みしめた際にできた血の玉が、ぽつり、ぽつりと零れ落ちる。
     【アオキ】は赤く血濡れた唇で、眠り人の首筋に一つ口づけを落した。そうやって、眠る【カブ】に赤い血の痕を刻み。そうして、───、名残惜しそうに、眠るその人に頬ずりする。
    「じぶんのです」
     ───、望まないはずだった。理性や知性を踏みにじるような、本能に従属するアルファの衝動など。
     ───、疎んでいるはずだった。運命という言葉で片付けられてしまう、アルファとオメガの肉欲と衝動を。
     ───、だけれども。
    「じぶんの、オメガだ」
     唇から滴り落ちる血で、眠るカブの白い頬を濡らしながら。
     普通を愛するはずの男は、正気を欠いた表情で牙を剥きだしに、満ち足りた表情で、そう言ったのだった。
    【手術室に設置されていたカメラは、その一部始終をしっかりと録画していた。】



     その、切羽詰まったやり取りを、どこか遠い場所で聞いていた。



     匂いがする。ほろ苦く甘い、砂糖の香りが。
     それは、水の膜のように身体を包んでいて、息をすることすらままならない。

     ───、夢を見ていたのだ。

     それは、幼い日のホウエンの森の中での出来事。きらきらとした木漏れ日が光る青々とした森の中。
     ───、少女が居た。ただ一人だけ、冒険に出られなかった少女が居た。
     その子は笑っている、冷たい顔で、世の全てを疎んだ顔で。彼女がきゃらきゃらと笑えば、森はみるみると色を失っていく。光は褪せて、全てはセピア色に飲み込まれていく。
    「ねぇ、貴方かわいそうにね」
     彼女が居た……。あの少女を、そのまま大人にしたような。艶やかな黒髪に、真っ赤な唇の美しい彼女がいて。その傍には、黒いスーツを纏った背の高い男が居た。
     白髪交じりの髪を後ろに撫でつけた彼は、なぜかこちらに背を向けていた。見慣れた通勤鞄も、振り向けば分かるネクタイも見せてくれない。
     そんな男を、彼女が、それはもう夢見るような顔をして抱きしめる。ちらりとこちらを一瞥する、その目は【ぼく】を嘲笑っていて。
     ───、そして、無邪気に侮辱している。
    「貴方はベータだから、運命がいないのよ」
     そう言って、笑う彼女は確かにオメガだった。この世界で唯一、アルファと番になることができるオメガだ。彼女の眼差しは、その冷たい事実をまっすぐに伝えていた。
    「わかっているでしょう?」
     彼女はただ事実を云う……、無邪気に、無慈悲に。
     とたんに、ぐんぐんと、世界から光が失われていく。セピア色から、群青へと色が溺れていく。森の中は、気づけば暗い暗い夜の世界で。そこには月の光もなく、星の輝きも届かない。
     暗い世界に、取り残されるのは僕だけだ。遠くでは、楽しそうにきゃらきゃらと笑う彼女に手を繋がれた彼がいて。その姿は、きっと手の届くことのない遠くへと───。
    「君じゃない」
     闇の中で、取り残された僕は浅ましくも手を伸ばしかける。指先を天に伸ばす前に、罪の意識に耐えかねて手を下ろす。気づけば堪えきれぬ涙が溢れて、身勝手な未練の跡を地面に残した。
    「ぼくでも無いけれど、きっと君でもない、」
     だからどうか、その人を連れて行かないで。───、そんな言葉、言いたくても言えない。
     残酷な夜だった、刃のような過去だった。己を己として呪わしめた、はじまりの日の苦しい過去が育っていた。己にとってのオメガとは彼女だった、そして絶対の存在でもあった。
     ───、夢を見ていた。
     それは、胸に突き刺さって癒えることのない絶対的な傷跡。運命という言葉の定義と、その在り方を定めるに至った象徴的な出来事。
     ───、夢を見ていた。
     そう、それは、喉元に引っかかってとれない小骨のように、いつまでもいつまでも違和感として残り続ける……。悪夢、であった。
     匂いがする。ほろ苦く甘い、砂糖の香りが。
     それは、水の膜のように身体を包んでいて、息をすることすらままならない。
     ぼくの身体から、発されるはずのないその匂いは、ぼくの心をがんじがらめにして追い詰める。


     ───、夢を見ていたのだ。


     カブが目覚めた時、体にはバイタルを計る装置が繋げられていて、モニターには酸素飽和度と心拍数を示す数字が映し出されていた。
     我が身になにがおこったのか、苦しみ悶えた記憶の向こうに、かすかに覚えているのは、暴漢から謎の液体を注射されたこと。記憶の糸を手繰るうちに、カブの目覚めに気づいた看護師が医師を連れてきて、いくつかの質問をされた。
     意識が明瞭か、チェックされたのだと思う。ただ、その中の最後の質問がカブのバース性を問うものであり、いくらなんでも、そんなセンシティブなことを聞いてくるとは思っていなくて少しだけ戸惑いはした。
    「ぼくは、ベータだよ、」
     そう伝えれば、医師は何故か複雑そうな表情を浮かべる。気の毒そうな、憐れむような表情に違和感を覚えて。どうしたのかと、問い返そうとするカブを制して。
     見せられたのは、幼い頃に見たきりの、バース性の診断を行ったあとに受け取る証明書に入っているものと同じ書類。
     無言で真新しい紙に印字されたソレを差し出され、カブは何故かひどく恐ろしい気分になった。なぜだろうか、暴漢たちに襲われた、とぎれとぎれの記憶の向こうに、嫌な予感を呼び寄せる何かが転がっている。震える手でその書類を受け取るカブに、医師が眠っている間に血液検査をしたことを告げた。
    「カブさん、あなたの身体はオメガに変異しています」
     現実とは、平等に、時に不平等に、恐るべき今を指し示す。医師の言葉より先に、書類に印字された、バース性を表す『Ω』の文字が目に入っていた。遅れて、医師からの無慈悲な説明が……。
     カブは、ただ息を詰めることしかできなかった。──、理解ができなかったのだ。
     何故ならカブは今までベータであり、今も精神性はなにも変わっていない。身体もただ、どこか怠い感覚があるだけで……。それ以外、なんら異常はなく……。
    「おそらく、暴漢から投与された薬剤に、オメガに転化する作用があったのだと思われます」
     医師からの説明は、まるで水の膜を通したように聞こえた。そんな恐ろしい薬が、あることさえ知らなかっし、自分がまさかそんな薬を投与されるとも思っていなかった。
     そんな薬を投与されて、カブの身体はオメガに転化したのだという。───、どうすればいいのかが分からなかった。今までベータとして生きていた人生が、誰かに歪められてしまうことがあるなど知りもしなかった。
     そして、そんな風に身体を作り変える薬を投与されて、カブはどうしてか生きている……。
    「危ない所でした、心拍が低下して……、何度ショック状態になったことか」
     反応のないカブに何を思ったか、医師は何気ない調子でそんなことを説明し始める。彼にとっては、もはや済んだこと。こうやって、カブは今生きているのだから、説明しても構わないと思ったのだろう。もしくは、感情が表出されていないだけの状態を、落ち着いていると勘違いされたのか……。
     ただ、茫然としているカブの前で、医師は一台のノートパソコンを用意し始めた。画面には、手術室と思わしい場所の静止画が表示されている。
     心のおぼつかぬカブの前で、医師は何のためらいもなくその動画を再生した。───、1匹のアルファが、本能のままに振舞う姿が収められたその光景を。

    【手術室に設置されていたカメラは、その一部始終をしっかりと録画していた。】

     ───、それは。オメガのフェロモンに誘発されたアルファの行動としては、度々起こりうる模範的な例と言える。強いていうならば、常時抑制剤を服用していたアルファが、持ちうる最後の理性で項を噛まなかったこと。
     不幸中の幸いと言うべきか、ヒート中のオメガとその場に出くわしたアルファ……、最悪の組み合わせにおいて、誰もが想定する、よくある悲劇を生まなかったと。
     ──、己の唇を噛みしめて、血を滴らせるアルファこそが想定外。
     まるで、ディスカッションで話し合っているかのように他人事だ。カブの精神を無視したこの暴挙が、まるで喜劇かなにかのように見えているのだろうか。
    「そんなこと、ありえない」
     パソコンの画面に映し出された記録を前に、淡々と話す医師はベータであった。彼が話し終えるのを待たずに、地獄から湧き上がるような絶望の声が上がる。
    「こんなこと、ありえない」
     頭を抱えたカブを、不思議そうに見やるベータの医師。彼は、説明中はずっと沈黙を貫いていたカブが、顔色を青くして譫言のように呟くのをじっと見つめる。
     一見、綻び一つ見えぬ、まるで健康体のような成人男性が。ベットの上で身を起こし、頭を抱えるその光景。
     小柄ながらも、良く鍛えられたその体格、ロマンスグレーの髪は艶やかに、血色も決して悪くはない……。右腕に繋がれた点滴用のパックと、胸につけられた心電図の計器類さえなければ、彼が病人であるなど誰も思うまい。
     掌で覆った顔の隙間から覗く、カブの頬は生命の息吹に満ちた薔薇色だ。---、この命の漲りを感じさせる顔色が、つい数時間前までチアノーゼを起こして蒼白だったなど、誰が信じるだろうか。
    「カブさん、」
     医師は、努めて冷静な口調で患者の名を呼んだ。呼びかけに反応して、カブがゆっくりと顔を上げる。微笑めばきっと優し気で、ベータらしく秀でて美しいということはない容貌が医師の方を見て。それから、一時停止されたままの、監視カメラの映像を見た。
     嘘だ、と。その薄い唇が、音もなく声を紡ぐ。───、画面の中で動きを止めたままの男の姿に、欲情を露わにしたアルファの姿に、わなわなと指先を震わせて。
    「全て、事実です」
     ひゅっと、息を呑む音がした。カブは、淡々と事実を突きつける医師の言葉に、ぞっとした表情を浮かべる。ゆっくりと、事実を否定するように首を振って。けれども、その動作は、彼の身に起こった変質の、その特徴的な事物ともいえる存在をカブに知覚させる。
     ちゃりちゃり、ちゃりちゃり……、何かが揺れる音がした。
     違和感に気づいたカブは、ベッドの上に投げ出していた腕を持ち上げて。震える指で、そっと自身の身体を手繰っていった。
     カブの指先が、恐る恐る己の首元を手探る。───、白い指先が冷たい金属質な感触を辿った。
     そう、カブの首には。金属で作られた、つるりとした手触りの首輪が巻かれていた。
     どこにでもいる、平凡であるはずのベータの男。ベータとして生きてきたその人生をあざ笑うかのように、指先に触れた首輪はちゃりちゃりと音を立てている。
    「貴方が、オメガに変異したのは、」
     医師は深い憐れみを込めて、ベータだった筈のカブに、その身に起こった悲劇を伝えた。
     医師の申告を受けて、首輪の呆然と縁を辿っていた指先に力が籠る。その姿を、医師は痛々しいと感じた。医師は、アルファとオメガの因果から自由であった者が、そうでない者へと転落した不幸を想像し。これからの人生を創造して、これほどの苦痛は無いだろう。という思いで。
     眉を寄せて、気の毒そうな表情で。カブの身に起こった不幸に、共感した様子を見せた───、ベータの男が。
     けれども、朗報があるという様子で。不幸の中に、それでも光はあったのだというように、ベータの男はありのままの事実を伝える。
     カブの身に起こった不運と。奇しくも同時に起こった幸福を、医師は僅かに微笑みながら、口にした。
    「アオキ氏のフェロモンを受けて、貴方の容体が安定したのが良かったです」
     そう言って、医師は。未だに一時停止で固まった画面の中で、カブを抱き寄せたままのアオキを示す。ベータの彼の目には、アオキが、とても真剣な表情でカブを抱きしめているように見えていた。
    「よかったって、なにがだい?」
     茫然と、言葉を紡ぐカブ……。この人格者が、そんな風に棘のある言葉を吐き出すのはとても、とても珍しい出来事であったけれど。
     何も知らない医師は、ただ、カブがまだまだ混乱の中にあるのだと。ひとりの憐れな、オメガへと転じたベータへの憐憫を深めて。同時に、この目の前の特異なオメガに、舞い降りた朗報を伝えるべく口を開く。
    「きっと、アオキ氏と貴方のフェロモンが……、貴方の身体に合ったのでしょう。---、嗚呼、運命ですね」
     和やかな口調は、物語で読むアルファとオメガの、運命の物語を思い起こしてのもの。きっと、幸せに違いないと。口角を上げた医師は、患者の目が濁ったことに気づかない。
     乾燥して固まりかけたような泥のような、カブらしくない光の無い目。徐々に見開かれていくその黒色は、目の前の景色をどのように捉えたのだろうか。
     まるで、変わってしまった世界の色はどんな色だろう。---、正面の椅子に座る医師の目の中に、群青に光を弾く首輪をつけた自分を見つけた彼の世界は。
    「それで、いつ、噛んでもらいますか?」
     医師は、男から漂う悲壮感の理由をはき違えたまま。曇りない善意を纏って、泣き笑いの表情で固まったカブに尋ねた。
     ひゅっ……、首輪を纏った喉が、湧き上がる怖気に震える。
     清潔な白壁、カーテン越しの太陽の日差し。目に眩しい白を背景に座るベータの医師は、己の発言がどれほど無知で、多くの偏見を抱えているのか知らない。
     人の無知が故に起こされる事態を、時になんと呼ぶか知っているか。
     地獄というのだ。
     時に、善意が招く地獄程、凄惨で悍ましいものはない。───、今だってそうだ。この医者は、人より少しだけ共感性が低かっただけで。目の前の患者は、不幸にも己の感情を隠す術に長けていただけ。だから、一見、ただ狼狽えている程度の仕草にしか見えぬカブの様子は、この時は残念ながら見逃された。
    「とは、言いましても」
     医師は、パソコンのキーを操作すると、カブの身体検査の結果を画面に表示した。片手でパラメーターの値をマウスで辿りながら、医師はカチカチと手元のペンの音を鳴らす。
     その間に、カブはそっと顔を伏せる。医師は無言のカブをちらりと横目に見るも、特に話しかける事はせず、再びパソコンの画面へ視線を向けた。
     無機質な音だけが、しんとした室内に響く。
    「────、─────、」
    「現在、カブさんの身体は第二性が発現したての子どもの状態、生まれたてのヒヨコのような物であるという見解です。内臓も出来上がりきれていないようですし、発情期も安定していない。このような状態での番契約は、命に関わるかもしれませんので、1、2か月は様子を見てから……、となりそうですが、」
    「──、────、っ、」
     カブの身体が、不意に横に傾いだ。
    「カブさん?」
     慌てて立ち上がる医師の前で、カブは大きく肩を震わせて始める。大きく目を見開いたまま、己の身体の異変に気付いて自ら口を抑えるも……。一度始まったそれは、もはや自力では収めることができない。
    「ぁ───、ひゅぅ、っ、ふ、ぁ、ひゅ、」
     ───、過呼吸だ。オメガに転化してすぐの身体はとても不安定で、精神はとても疲弊しやすかったのだろう……。と、いうのが医師の所見。
     零れていた涙の痕はそのままに、自らの息に溺れながら目を虚ろにしたカブの処置をした医者は、跳ねあがった心拍数により鳴り響くアラームのボタンを止めて、見守りを待機していた看護師に任せて席を立った。
    「かわいそうに、まだ不安定なんですね」
     善意の地獄はまっすぐに、それを歩まされる者の心情など慮るよしもなく。
    「はやく、2か月経つといいのですが……、」
     それが祝福に向かうと信じた、医師の言葉は、朦朧とした意識のカブには届かない。
     そのかわりに、頭の中には、声がずっと響いていた。
     ───、二人並んで歩く、黄昏色の帰り道。傍らを歩く彼が、仄かに微笑みながらカブに目線を向ける。
     恋していると、貴方は言った、ベータである僕に恋していると。
    『貴方は、この世にただ一人だから、』
     嗚呼、そう言った君は、ぼくをみてどう思うだろうか。きっと居たはずの運命を奪うように、オメガになってしまったぼくのことを。
     きゃらきゃらと、笑い声がする。──、彼女はカブの中の、暑い暑い夏の森にずっといる。
     艶やかな髪の、赤い唇の美しい彼女。そう、彼の運命はきっと、彼女のように芳しいものであったはずなのに。
     僕が──、奪った────。
    『貴方はベータだから、運命がいないのよ』
     嗚呼、彼女の声がするから。ぼくはまた、あの夢の森に行かなければならない。


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