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    めっちゃ近距離、キス、服に手を入れる、下着まで脱いでいるレベルのものを投げます。
    暴力表現も投げます。

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    アホみたいに長い

    柾と浩太郎が出会った時の話 その日もオレは三階の角部屋に籠り、壁に並ぶ作曲家達に睨まれながら「それ」と向き合っていた。計算され尽くした無機質な輪郭と白と黒だけの味気ない色。散々見飽きてもう「それ」の名前すら呼びたくもないけれど、他に居場所がないからここにいるしかない。普通の小学生なら外を駆け回るような時間に、誰も足を踏み入れないこの場所でオレは一人重たい鍵盤をつついていた。

     今週の課題曲はショパンの「幻想即興曲」

     父さんの独断と偏見と好みと、主にその時の気まぐれでその週の課題曲が決められ、楽譜を渡される。1週間以内に完成させ、父さんの前で10回連続ノーミスで弾ければ向こう一週間食事を貰える。出来なければ当然なし。できるまで何週も同じ曲を練習することもあれば、弾けなくても次の楽譜が渡されることもある。

     課題曲が弾けていようがいまいが、当然父さんの機嫌が悪ければ殴られるし、門限を過ぎても殴られる。酒が入れば殴られるし、反抗すれば殴られる。一回課題曲に弾きたい曲を言ってみたらやっぱり殴られたから、それ以来弾きたい曲もなくなった。酒が入ったまま楽譜を渡されることもあって、一週間練習していざ弾こうとするとその曲を指定した覚えはないと言われることもある。当たり前だけど次の週の食事はない。

     何回かスーツ姿の知らない大人が来たことがあるけど、毎回父さんと少し話して帰っていく。そのうちに知らない大人も来なくなったし、何故か学校でも避けられるようになった。

     ふと弾くのをやめて、窓から空を見てみると、青空に雲が一つゆっくり風に流されているのが見えた。そのまま三階から校庭も見下ろしてみた。サッカー、鉄棒、雲梯、同級生も上級生も下級生も入り雑じって、めいめい遊んでいる。

    「……いいなあ」

    もう今までの人生でそんな言葉を何回つぶやいたか、何度叶わない想像をしたかわからない。
     —もしも、両親が揃ってたら。
     —もしも、母さんに引き取られてたら。
     —もしも、せめて父さんがもう少しまともだったら。
     —もしも、よその家に生まれていたら。
    そんなことを考えても現実、小学生のオレにはどうすることもできない。仮に逃げたとしても父さんがきっと見つけ出すだろうし、第一友達も親戚もいないから行く当てもない。これ以上無駄に考えて練習に差し障ってもそれはそれで嫌だったから、オレはまた鍵盤をたたき始めた。

     もう何度弾いたか、今自分がどこの何小節目を弾いているのかもわからなくなってきた。けれども憎たらしいことに楽譜が体に刻み込まれているから指は止まらない。

    いっそのこと、楽譜を抱えてそのまま……なんて考え始めた時だった。楽譜に書いてあるはずのない音が左耳に飛び込んできた。心臓が跳ねるのがわかって一気に現実に引き戻されたような気がして、オレは思わず鍵盤から手を離した。恐る恐る音のした方向を見た。

    そこにはオレと同学年くらいの「人」がいた。誰かが聞いているなんて一ミリも思っていなかったからそれはそれですごく驚いたんだけど、でもオレが慌てた理由はまた別にある。

    「あ?」

    短い黒髪のその人がこっちを向いて、杜若色の瞳と目が合う。

    「ひ……っ!」

     オレはそこから逃げ出そうとして、椅子ごと盛大に落ちた。それでもその人から逃げようとして、窓の方に走り出し、足がもつれてまた転んだ。その人はゆっくりオレに近づき、オレの前で止まって見下ろしてくる。

    「い、わた…くん……」

    この人は隣のクラスの「岩田浩太郎」。野球部の元エースで、腕っぷしの強さと切れると先生すらなかなか手を付けられなくなることで有名だった。「暴君」と悪名高く、野球をやめてからはさらに荒れてて、あまりよくない友達ともつるんでて何でも目をつけられたら岩田君の気が済むまで物理的にも精神的にもサンドバッグにされるとかされないとか。

     うるさかったのだろうか。うるさくて、耳障りで、気に食わなくてここへ来たのか。一週間で曲を完成させなければいけないとか弾きながら物思いにふけることばかりで、自分の練習の音がどう聞こえているかは考えていなかった。目をつけられたかな。オレはどうなってしまうんだろう。噂通り気が済むまで殴られたりなじられたりするのだろうか。家でも殴られ学校でも殴られる?さすがにそれは嫌だ。オレはとっさに膝をついて床に頭をこすりつけて半ば叫んだ。

    「うるさくしてごめんなさい……!もううるさくしないから、殴らないでください……弾く場所変えるから見逃して……」

    オレは必死で謝った。この人まで怒らせたら本当に命に関わるかもしれない。今はとにかく許しを得なければ、という思いだった。けれどもいつまで経っても拳も平手も蹴りも飛んでこなかった。

    「……オレまだ何も言ってねえんだけど」

    あれ?と思い顔を上げると、怪訝そうにしつつ手を伸ばす岩田君が目に入った。その掌は上を向いていて、どうやら殴ったりするつもりはないらしい。

    「膝ガックガクじゃん、それで立てんの?ほら引っ張ってやるから立てよ」

    驚きすぎてオレも今気が付いたんだけど、オレの膝と体はカタカタと小刻みに震えていた。ほら、とぶっきらぼうに言う岩田君の掌にそっとオレの手を重ねると、グッと勢いよく引っ張って立たせ、そのままバランスを崩したオレを受け止めていつの間にか起こしていた椅子に座らせた。

    「お前、いつもここ来てこれやってんの?」

    岩田君はそう言いながら「それ」の屋根をぺちぺちと叩いた。その問いにオレは下を向きながらうん、と小さくうなずいた。スポーツや運動部がメインのこの学校でピアノをやっていたオレはもちろん異質な存在だし、幾度となく「女々しい」と指さされてきた。また馬鹿にされる。そう思って、オレは身構えた。

     でも、返ってきたのは全然予想していない言葉だった。

    「すっげえじゃん……」

    オレは思わず顔を上げた。岩田君は目を丸くしてオレを見ている。

    あれ?オレ今もしかして褒められたの……?

    本当なら「ありがとう」と返せばいいんだろうけど、あまりにも予想外すぎて何も返せなくて固まってしまった。そんなオレに、岩田君はオレにとっての予想外を次々と向けてきた。

    「なあ、今のもっかい聞きたい!オレ真面目な音楽は全っ然わかんねえけど、お前がやるのは何か好きかも!」

    キラキラと目を輝かせて身を乗り出してくる岩田君に、やっぱりオレは何も返せないでいた。けれども「もう一度聞きたい」「好き」という言葉を初めて投げかけられて、何だか身体中外から中までくすぐったいような、だけど何か温かいもので満たされていくような、今まで感じたことのない感情と感覚に包まれた。

    「……ダメか?」

    ずっと返答しなかったからか、岩田君はちょっと悲しそうな顔で聞いてきた。オレは慌てて首を振ってまた「それ」に向き直り、黒の鍵盤に指を置いた。手は震えて心臓の鼓動も早いまま始めたせいで、早くも数小節目で指が少し縺れた。間違えた。また最初からやり直さないとと弾くのをやめたら、岩田君が叫んだ。

    「えーっ!何でやめちゃったんだよ!」

    「だって間違えたから……」

    「全然わかんなかったぞ?もっかい!今度は間違えても止まるのナシな!」

    それは逆に難しいような気もしたけれど、岩田君に押されるままオレはもう一度弾き始めた。

     見られながら弾いている状況はいつもとそう変わらないのに、不思議なことにあまり緊張はしなかった。鍵盤が軽くて、さっきより指もよく動く……気がする。

     弾き終わると、オレの右側から拍手が聞こえた。岩田君はいつの間にやら窓際に並んでいた椅子を持ってきて座っていたようだった。岩田君は勢いよく立ち上がって、オレの肩をガシッとつかんだ。

    「お前やっぱしすっげえな!両手両足使ってあんなことできるって器用だな!何食ったらそんなに器用になれんの!?全然紙も見てなかったけど全部覚えてんのか?一体どうやったら……」

    さっきよりもキラキラした目でものすごい勢いで質問攻めにされた。あまりの勢いに答えられずにいると、遮るようにスピーカーからチャイムが聞こえた。予鈴だ。

    「あんだよもう終わりなのかよぉ……」

    岩田君は不服そうにスピーカーをにらみつけ、やっとオレの肩を解放してくれた。楽譜を片付けてふたを閉めて、岩田君と教室に戻ることにした。

     教室に戻る途中、岩田君はオレに話しかけてきた。

    「そういや、お前の名前何?」

    「オレは緋村、柾……」

    「まさきって言うのか!オレは岩田浩太郎!」

    「知ってる、有名だから」

    岩田君は「有名」という言葉を聞いてわかりやすく嬉しそうにしていた。
    ……まあ悪い意味で、だけどさすがに言えない。そんなやり取りをするうちに、教室の前に着いた。

     また来てくれないかな?
    生まれて初めてそう思ってしまった。父さんを除いて、ちゃんと聴いていてくれたのは岩田君が初めてだったから。けれども同時に、そんな要求はおこがましいよなとも思った。でも、やっぱり岩田君にもう一度聴いてほしかった。

    「あの、岩田君」

    「名前でいい、んなよそよそしい呼び方すんな。君もなしでいい」

    「……浩太郎、また明日も聞きに来てくれるかな……?普段は、その……あ、あんまりほめてもらったことがなかったし、また浩太郎に聴いてもらいたいなあ、なんてね……ダメだよね。おこがましいよね……」

    語尾が小さくなりながら、我ながら聴いてほしいようなそうじゃないような、浩太郎じゃなくてもイライラしそうな曖昧な質問をしてしまった。

    「何言ってんだ」

    ……やっぱりダメか。オレがこんな要求するなんて間違ってるんだ、と思っていたら浩太郎はパッと笑ってオレの肩をバシッと叩いた。

    「明日も行くに決まってんだろ!」

    「そうだよね、ダメに決まっ……えっ?」

    んじゃまたな、と手を振って、浩太郎は教室に入っていった。残されたオレは、自分の要望が通ったことが半ば信じられず、一人廊下に立ち尽くしてしまった。明日も来てくれる。明日も聴いてくれる。そんなことを言ってくれたの浩太郎だけだった。しばらく立ち尽くしていたけれど、本鈴の音に我に返って慌てて教室に入った。

     昼休みがあまりにも濃厚すぎたからか、午後の授業はあまり頭に入ってこなかった。まだ身体はじんわりと温かい。今まで父さんにはもちろんほめてもらったことはないし、浅井先生もレッスンに関しては厳しい先生だったから、褒めてはくれるけどそれでも条件付きだった。だから何の条件もなく純粋にほめてくれて、聴きたいと言ってくれて、ただただ無条件に肯定してくれたのは浩太郎が初めてだった。

     今まで誰も踏み入れなかった領域にずかずか入ってきて、半ば強引に距離を詰めてきて、バシバシ叩いたり掴んだり多少痛かったけど、その手は父さんのそれとは違ってものすごく温かかった。人の手ってこんなに温かかったんだ。

     オレは浩太郎のキラキラした目とパッと笑った顔を思い出しながら、明日を楽しみにすることにした。
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