フラスコの硝子越しに見た黄金の輝きが恐ろしかった。逃れるために遮二無二に暴れて、ぴしりと硝子にひびが入ったのと同時に、「あっ」と誰かの声が聞こえた。
それが一番最初の記憶だ。
ぱかりと目を開ければ、茜色の空が眼前に広がる。懐かしい過去の残滓を振り払いつつ、体を起こした。額に青筋を浮かべた女が目の前に……いや、自分ひとりしかいない学校の屋上を見回して、昼寝をしたのだったと思い出す。制服についた埃を叩き落として立つ。ふわあとあくびをひとつ。ぐうと大きく伸びをする。
たくさん寝たら、今度はおなかがすいてきた。
「……帰るかあ……」
「あ、の、ねえ!」
はて、なにか聞こえただろうか? わからぬふりをして、そそくさと校内に通じる扉へ向かおうとすれば、襟首をがしりと掴まれた。慣性にしたがって首が締まり、うめいた。
「なんだよ、香純」
「なんだもどうだもないわよ、もう! 電話にも出ないし、こんなことだろうと思った! またサボってるってあんたのお父さんに言いつけるからね!」
「成績がちゃんとしてれば、サボっててもなにも言わないと思うけどな」
がるがると吠える女の声を聞き流す。名前を綾瀬香純という。小学校のころからのクラスメイトだった。一人になりたがる蓮をあれこれと気にかけてくるのを、さすがにいつかは飽きるだろうと放っておいたら、ずるずると付き合いが長引き、いつのまにか同じ高校に通っている。
「ちょっと、蓮、聞いてる!?」
「聞いてない。それよりもう下校の時間だから、いい子はおうちに帰るべきだろ?」
「もう! いいわよ、あんたのお父さんに言うから! はい、あんたの荷物!」
ぷんすこと怒りながらも、教室に放置していたカバンを渡してくる女を、蓮は珍妙なものを見る目で眺めた。
帰路の途中で香純と別れて、自宅に向かう。近所に母親と一緒に住んでいるらしい。ちらりとそんな思考が浮かび上がるが、自宅の玄関ドアを開ければ、ふわりと食欲をそそる匂いが鼻孔をくすぐって、考えていたことなど吹き飛んだ。
ただいま、と言えば、応えがキッチンのほうから聞こえてきた。手を洗って、荷物を自室にしまって、ダイニングに飛び込む。
「腹減った」
「ちょうどいい。できたところだ」
淡々とした声音で告げられて、多少目を伏せた。湯気がたつ料理が並べられた食卓のそばに立っているのが蓮の父親だ。短い金髪に碧い目の背が高い男であった。その美を体現した顔立ちも色彩も、なにもかもが蓮とは似ていないが、血がつながっていないのだから当然といえば当然だ。
「今日はどうだった」
「まあ、いつも通り」
おかずを頬張りながら答える蓮に、養父はそうかと頷いた。これで会話が終わってしまうとそわそわしてしまう。昔はこうではなかったのに。走り寄れば蓮を抱き上げて、蓮の気が済むまで話を聞いてくれていた。とはいえ今の体の大きさでは抱き上げるのは無理かと思いつつ、蓮は箸をもつ自らの手を見下ろした。
昔の、というより、蓮が中学に通い始めるころまでは、養父は今よりも髪が長くて、目は金色だった。そうして蓮もまたもっと幼いこどもの姿かたちをしていたのだ。正直なところ、いまだに自分自身の体の大きさに慣れていない。
異常を自覚するきっかけはなんだったろうか。日がな一日閉じこもっている蓮を、養父が公園に連れ出したことだったろうか。
養父は蓮の情操教育にかなり苦心していたようだが、好きに遊んでおいでと言われたところで、外の世界に対して蓮はあまり興味を持てなかった。家のなか、時間の流れさえ止まっているようなあの閉鎖的な空間が心地よかったのだ。清潔に保たれているシーツに寝転んで、養父にくっついて眠るのが好きだった。起きていても、窓から差し込む光を受けて輝く金糸やその横顔に目を奪われて、夢か現か分からないくらい微睡んでいるような時間だった。
何度日が昇り、月が沈んだかも分からないくらいの時がすぎて、はてと養父が首をかしげた。
「卿、成長しないな」
抱き上げた蓮の頬をむにむにともみつつ、不思議そうにそう呟いていたのを覚えている。
当時の蓮は”せいちょう”とはなんなのかと、養父の真似をして首をかしげるばかりだったが。
「ああ、いや、そうか。私も長いこと身体の変化がない生活を送っていたからな……気づくのが遅くなってしまった」
すこし困ったようなほほ笑みを浮かべて、養父はそういった。
そうして蓮は公園デビューするはめになったのである。連れ出されたところで、すぐになじめるわけもなく、父の後ろに隠れて、その長い金の髪を握りしめていた。
野良猫じみた警戒心でちいさいこどもを観察している蓮を、養父はおもしろげに眺めていた。
「卿、最初のころは私に対してもそうであったな」
なんとなくフラスコの硝子越しに見た光が、まぶたの裏に蘇った。
養父に背を押されて、こどもと交流を重ねるうち、蓮は一緒に遊んだことのある相手が、気が付くと見上げないといけないほど大きくなることに気が付いた。その日の夜、養父の膝の上で足をばたつかせながら、「不思議だ」と養父にその気づきを語った。
「本来であれば、卿もあのように大きくなるんだ」
驚いて蓮は目をまあるくした。養父を見て、自身の手を見下ろして、また養父を見た。
だって、長いこと一緒にいるが、自分も父も姿かたちが変わったことなどない。友達のように髪の長さが変わって視界を遮るようになったことも、爪が伸びて切らなくてはいけないとぼやいたことも、ないのだから。
であるから、世界でふたりきりの同類に違いないと、幼いころの蓮は思い込んでいた。
「でも俺、大きくなりたくないな」
「どうして?」
「特にこまんないし、おれはこのままのほうが好き」
時間の流れさえ止まっているような、閉じた空間はとても居心地がよかった。
であるから、そのあとの養父のつぶやきは自身の考えを肯定しているようだったから、深く考えずに聞き流した。
「……まあ、これはこれで渇望は問題ないか……?」