来客を告げるメイドの声に、女は慌てて身なりを整えた。思っているよりも早く到着したらしい。2人分の足音がどんどん近づいてくる。
入室の許しを得て、ドアを潜ってきたのは影のような男だった。長い黒髪をまとめる黄色いリボンだけが色鮮やかだった。
「ご機嫌いかがかな、ご婦人」
「あなたのお陰で良い日々を過ごせているわ」
ふふ、と女は笑った。
影のような男は占い師なのだ。最初は胡散臭いと女も警戒していた。しかし失せ物探しや悩みに対して、ぴたりと当たる預言を繰り返されたら信じるしかないだろう。
「今日はどのようなご用件かしら?」
珍しいことに男の方から会いたいと連絡が来たので、女は興味深げに男を見た。
「ご懐妊、おめでとうございます。まずはあなたのために言祝ぐことをお許しいただきたい」
奇妙な微笑みを浮かべた男の言葉に、女ははっと驚いた様子でまだ平べったい腹を両手で押さえた。
「私に、こどもが……?」
戸惑いだ。戸惑いしかなかった。
なにぶん腹もまだ膨れていない。実感を抱くには何もなさすぎた。しかし男はそれが事実であると言い切る。
しばしの間を置いて女は男を信じることにした。彼の占術の正しさは、女も知るところであった。
「御子に良き名をと思い、駆けつけた次第でございます」
じんわりと喜びが湧き上がる中、女は男の言葉に耳を傾けた。
「この子にはどんな名前がふさわしいというの?」
「ラインハルト。ラインハルトと名乗るべきでしょう、あなたは」
男の言い回しがいささか奇妙であることに女は気が付かなかった。男が告げた名前を繰り返し呼んで、おのれの腹を撫で擦るばかりだ。
女は幸福の中にいた。だから男が「御子の気配を感じたい。あなたの腹に触れてもよいか」と尋ねた時、断りはしなかった。もちろんみだりに接触を許すのは良くないことだが、影のような男は一度も女に劣情を抱いた様子はなかったし、この男が幸せの一片でも感じられれば良いと思って許した。
女の腹に触れて、男は筆舌に尽くしがたい感情を垣間見せた。それはすぐに隠れてしまったが、瞬きの間しか見えなくともあまりに鮮烈だった。
ひとりで道を歩きながら、水銀の蛇は先程のことを思い返した。生まれた!生まれたのだ。今すぐにでもあの腹から取り上げたかった。なんとか衝動を飲み込んで、当たり障りない世間話をして退出したが。
ふふふ、と勝手に笑い声がこぼれた。徐々に高笑いし始めた男に、あたりにいた人間がぎょっとする。だがそれがなんだという。
男は来たる幸福の中にいた。