予定 五条からの着信でスマートフォンが震えだしたのは、庵が酒のアテを整えてテーブルに並べ、本日の晩酌に選んだ缶ビールのプルタブに指をかけた瞬間だった。
庵の指先はまだプルタブを持ち上げてきってはいない。キンキンに冷えた手の中の缶ビール。ミョウガをのせた冷奴に、きゅうりの浅漬け。スーパーでセールになっていた豚バラと冷蔵庫に残っていた野菜を適当にキムチで和えた炒めものは出来立てで、ほかほかと湯気を立てている。
缶から手を離すとき、爪の先でプルタブを一度はじいた。名残りを帯びた指先がテーブルの上で震え続けているスマートフォンの応答アイコンをスワイプする。
「いいこと思いついたから、聞いてほしくて」
スピーカーモードのスマートフォンから聞こえてきた五条の声は、名乗りでもあいさつでもなかった。庵はもうさっそく、受話してしまったことを後悔した。
「それはアンタ以外の人間にとっても『いいこと』なのかしら」
「正月、一緒に初詣行こ」
「……一応聞いてやるわよ。なんで?」
テーブルに肘をついてスマートフォンを見やる。ビデオ通話ではないので、五条の名前と、刻々と増えていく通話時間が表示されているだけだ。強いて言えば、のぞく庵の顔も映っている。眉間にしわがよっていた。
「家の正月行事、ここんとこずっとブッチしてたんだけどさ。いつもサボってるわけじゃないよーってエクスキューズするためには、そろそろ出といた方がいいタイミングなんだよね」
「ああ、それで京都に来るって?」
「そ。脚しびれるの嫌だし、顔出すのは朝の最低限のとこだけのつもり。さっさと東京戻ってもいいけど、それってなんか家に振り回されてるみたいじゃん」
実際そうなんでしょうよ、と庵は思ったが、言わない。
五条家は呪術界において御三家などと称されるだけあって、下にも置かれない権威とネームバリューを誇る。家の看板の前で個人の事情が打ち消されがちなのは呪術界あるあるで、御三家に数えられる五条家がその例に漏れるわけがなかった。
ただ、五条の場合は彼自身が当主の座にあること、ほかに鍔迫り合いする相手が家の中におらずその政権がワンマン状態であること、なにより六眼と無下限呪術のハイブリッドであることが、看板に押しつぶされる個人という図式があることを忘れさせる。
「だからさっさとずらかって、残りの時間で初詣ツアー・イン京都してやろうと思って」
こういうフリーダムなように見える振る舞いも、それを助長しているのだろう。
「メンツは」
「僕と歌姫」
「却下。さようならお元気でよいお年を」
終話のアイコンをタップした。通話時間は五十秒。目の前のキムチ炒めの湯気は健在だ。セーフ。
ウキウキと缶ビールを手に取ったところで、再びスマートフォンが振動した。伏せておけば良かったと思ったのは、表示されたのがまたもや五条の名前だったからだ。今度は缶ビールを片手に持ったまま通話を開始する。
「ちょっと、急に電話切るとかなんなの」
ぶーぶーとわざとらしいブーイングを浴びせてくる。予想はしていたが、それと苛立たないことはイコールではない。
「話が終わったから切ったの。あと、アテが冷める」
「話しながら飲めば。僕、別に気にしないし」
「私も何を遠慮してたんだろうって思ったところよ、今」
「気が合う〜」
「気が合うの意味、辞書で引いてきなさい」
言葉をたたきつけながらビールのプルタブを上げた。プシュッと音を立てて開いたそれをまず一口、二口、三口。ぷは、と息をはいて、のどごしと苦味を味わう。続けて箸を手に、「ねえ歌姫」という五条の呼びかけを聞きながら冷奴に向き合う。
「僕と年明け早々一緒に過ごせるなんて、めっちゃ縁起がいいよ? そのチャンスを棒に振るとか、もったいな」
「縁起が、いい……?」
箸をつかむ指先が揺らいで、つまんでいた豆腐がびちりと皿に落ちた。
縁起がいい。いいことが起こりそう、吉兆。ハッピーなイメージと五条の姿とが、庵の頭の中ではうまいこと重ならない。なんなら彼の出現は庵にとっては凶兆である。
先の五条にならって「ねえ五条」と呼びかけた。
「私、お正月の過ごし方は決まってるの」
「天皇杯観るんだろ? でも今シーズンって、正月には大会終わってるじゃん」
それを知っているのか。伊達に腐れ縁を続けているわけでもないのだなと、庵は少し驚いた。しかし詰めが甘い。
「花園と高校サッカー忘れてんじゃないわよ。駅伝もね」
キラリと光るプレーを見ると、ああ今年も若者の前途は多望だいい年だと新年の先行きを好感することが、呪いなんてものを相手に命のやりとりをして生きる人間にも許されるような気がするのだ。初詣と同じくらい、庵にとっては大切なルーティンだった。
「まーじ、そっちもかい」
スピーカーから聞こえた五条の声は、珍しく素直に驚いているように聞こえた。ビデオ通話だったらその表情を見ることができたのだろうか。そう思うと、初詣ツアーを断るよりよっぽどもったいないことをした気がしてきた。
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