ついついつられる 庵の部屋にチャイムが鳴り響いた。エントランスからの訪問であればインターホンの画面にカメラ映像が映る。それがない今、来客は玄関前にいると分かる。
チェーンをかけたまま、ゆっくりと玄関ドアを開けた。庵の耳に届く雨音が、ずんと強くなる。
ドアの隙間から見えたのは、夜闇を背景に立つ黒い目隠しに黒ずくめの服の男——五条だった。
案の定。
庵の部屋を訪れる人間の中で、エントランスを通らず外廊下に直接入り込むなどという所業ができる者を、庵は他に知らない。
「九州帰りなんだけど、雨で新幹線止まってこれ以上は身動きとれなくなっちゃった。ホテルも部屋取れなくてさ。ね、部屋入れて」
それらしい理由を宣う声をBGMに庵は、五条の頭から爪先まで視線を滑らせた。確かにその足元や肩はしとどに濡れている。
傘と無下限呪術があれば、どれほどの豪雨の中だとて五条がこんな姿になるわけはない。庵の同情をくすぐりにきている五条にとって、この程度は小粋な演出のつもりなのだろう。
「ちょっと何、その顔。僕の言うこと信じてないでしょ」
「信じてもらえないようなことばっかりしてきた、過去の自分の積み重ねを恨みなさい。外資系ホテルの最上級スイートとかだったら、今でも空いてんじゃないの」
「外資系ホテルの最上級スイートがお好みなら、今からでも取ろうか」
「それ見ろ。部屋取れるじゃないのよ」
「おっと、僕ってばうっかりさん」
てへ、と五条が舌を出して首を傾げたところで、その姿は一九〇を超える黒ずくめの男である。なんにもかわいくはない。
「外資系ホテルの最上級スイートで、どうぞごゆっくりお過ごしくださいな。ハイおやすみ」
庵はドアノブから手を離した。自然、ドアが閉まり出す。ゆったりとしたその動きは「待って」という声とともに、ぴたと止まった。
見れば、ドアの隙間に大きな靴が挟まっている。
「閉めないでよ。僕にまたこの雨の中を移動しろって? ひどいや、ウタヒメセンパイ」
「こんなときばっかり……」
庵がため息をつく間に、ぐいと再びドアが開く。がん、とチェーンが限界まで伸びきる音がした。
あまり乱暴にしないでほしい。己の〝規格外〟が単純な膂力にも及んでいることは、この男も自覚しているはずだ。こんなことで敷金が目減りするのは避けたい。
「タクシーでも呼べば。それまで軒先くらいは貸してやるから」
「この大雨で運転させられるなんて、タクシーの運転手って、しんどい仕事だなー。視界悪いし風で車体揺れるしブレーキも不安だろうけど、歌姫はそれでも僕を乗せて走れって言うんだもんね。あーあ、かわいそう」
「ちょっと。人をそんな冷血人間みたいに言わないでよ」
思わず眉をひそめた庵に対して、五条はニヤリと口角を上げた。そして二人の間に渡るチェーンに指をかけて、「簡単な話だよ」と言う。
「歌姫が今ここで僕を部屋に入れてくれたら、全ては穏当に解決すると思わない? 僕ニッコニコ、高専の方も安心するだろうし、タクシーの運ちゃんも身の危険とオサラバできちゃう」
「私だけがババ引く羽目になるんだわ」
げし、と玄関先に食い込む靴に蹴りを一つくれてやる。五条は微動だにしない。しないが、しかし「そういえば」とわざとらしい声をあげた。
「今回の任務先、お土産にって、帰りに焼酎持たせてくれたんだ」
ほらと五条が持ち上げて見せたのは、一升瓶の収まる大きさの紙袋だった。五条はもったいぶるように、焦らすように、ゆっくりと中から瓶を取り出す。ラベルがばっちりと庵の目に入る角度で。
「ストレートかロックがおすすめなんだってさ。でも僕は酒飲めないし。どうしようかな」
言葉に反して、瓶を再び袋に戻す五条に困っている様子は全くない。
飲めない自覚があるのだから、受け取りを拒むことだってできたはずだ。それでも彼は焼酎を受け取り、今この場で持ち出した。この男の狙いは明白だ。
それでも、罠だと分かっていても、庵の体温はぐんと上がっていた。眼裏に焼き付いたラベルを思い描けば、どきどきと胸が高鳴る。
庵は踊る心臓をなだめながら、声を絞り出した。
「何が望みだ」
「言ってるだろ。部屋、入れて」
こうしてまた、庵の連敗記録が伸びる。
(22.08.31 03:21)