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    hitomeyokuram

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    hitomeyokuram

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    日記

    20220709 ねとさんと見にいく予定だった「メタモルフォーゼの縁側」が週末休映と、数日前に知った。別の映画館でなんとかスケジュールを組めないか、色々な劇場の上映情報を首っぴきでしらべまくった。
     ねとさんが「モガディシュ二回目見たいんやろ?ええで」と言ってくれたのがうれしくて、じゃあ!と時間をしらべたらぴったりの時間があって、とにかくそのことを支えにこの数日は頑張っていた。

     金曜、仕事を終えてから、テレビもニュースも見ていない。(こどもたちと何が起きたかという話はした)ねとさんとも、明日はいつも通り楽しもう、映画もビールもやろう、と話をして迎えた土曜日だった。

     ねとさんと「モガディシュ」を見ることについて、内容が内容だけに今見るとしんどいのでは……という心配はあった。
     韓国映画の持つ力は、映画が描いた1990年から現在が地続きだと否応なく感じさせる。また、モガディシュ自身が実話をベースにしていることや、金曜日に起きたこと、そういった諸々をふくめて、受け止めがしんどいのではと思っていたのだが、ぶじ、見終えた。

     二回目のモガディシュもズンと来た。
     北の人たちが夜道を逃げるシーンが苦しくてくるしくて、動悸が激しくなって、それは映画が終わるまで続く。前回もそうだった。

     今回も、テジュンギから目が離せなかった。
     目がいい。その視線がいい。冒頭、反乱軍の青年らのエリアへ足を運ぶシーンなどを見るに、元々は遊び心のあるだろう彼が、襲撃を受けたホテルでリム大使へすぐに駆け寄るシーンからずっと、毛を逆立てた動物に似た緊張感をみなぎらせている。ひっきりなしに首を動かし、目を動かし、今置かれている状況で選びうる最適解を必死に計算しているような姿に、呼吸を忘れてしまう。

     韓国大使館へ逃げ込もうと考えるリム大使を察して「(糖尿病の)薬が切れたからか」と言ったテジュンギと「これからは対案なしに俺に意見するな」と、強い口調で(この映画のなかでもっとも強いと感じられる口調で)返すリムヨンス。

     このシーン、テジュンギとリムヨンスの双方が共にもっとも感情的になったシーンだな……と思いながら見ていた。

     そこからずっと、テジュンギの目は動いている。リム大使をぶじに逃がすための動線、気に食わない南の参事官の動向……ずっとずっと動きつづけている。
     カンテジンが勝手につくった転向書を燃やしたあとすぐにそばにあるものを投げつけたのは、カッとなったのではなく、あの時点で自分がすでにボロボロで、体格差があるため(大意)だというクギョファンのインタビューを読んでいたので、ここでもまたすでに自身の取りうる最善策を考えぬいて行動している……とおもった。テジュンギ、ボロボロになればなるほどギラギラに輝きだして(輝きだすように見えて)おそろしいほど美しい。

     わたしはクギョファンの、自身が演じたキャラクターに対する解釈というか(あたりまえなんだけど)その解像度の繊細さが大好きで、笑っているから笑っているのではなく、怒って見えるから怒っているのではなく……という人間の複雑な部分を、とても計算して組み立てているような印象を受ける。
    (ご本人は服装から自分が演じるキャラクターのことを考えてみるなどして、感覚的な方なのかもしれませんが……)

     テジュンギという人にそもそも備わっていたユーモア、ふるまいの優雅さ、余裕さといったもの。あのホテルのシーン以降、それらをなみなみとたたえていたはずの体には、ひりひりとした緊張感がみなぎった。背を丸めて夜道を走るテジュンギは、よりいっそう小さくエネルギッシュに見えはじめ、ふれれば切れるのでなくふれたところから崩れて漏れだすような何かに満ちていると思って、それからずっと、わたしはテジュンギの虜だ。

     最後、イタリア大使館へ車を横付けに停めるシーンも、自分が座る左側を、追いかけてくる政府軍の側にして停めていた。
     いつから傷を負っていたのだろう。銃撃を受けてからイタリア大使館に到着するまでずっと、あの目は必死に最適解を探して動きつづけていた。

     外交官、諜報部員、その家族、それぞれに立場がちがい、考えが違う。
     そういう様々な思惑とは関係なく、思わずえごまの葉に伸びた箸、北の子供を抱いて走り始めたカンテジンの手のひらが子供の後頭部をすっぽりと包んで守る姿、そういうものにどうしようもなく救われる気持ちになりながら、ずっとぐるぐると動き続けていたテジュンギの目ばかり思い出している。

     ずっと持っていたライター、リム大使かカンテジンがこっそり持ち帰っていてほしいと願う。

     見おえてから合流してくださった方と、おたく三人でビールを飲んだ。
     急な誘いにもかかわらず、しかもこんなタイミングで来ていただけてほんとうにうれしい。

     わたしは、話が色々なところに飛んで、枝分かれしてゆくのが大好きだ。人と話しているときの、そういう瞬間の多幸感は、なにものにも変えがたい。そういうとりとめのない話し方ができる(映画だけでなく社会や生活やそれ以外の好きなもののことを話せる)というのは、誰とでもできることではないし、今日、わたしはほんとうに沢山の話を聴けて、話せて、幸せだった。

     連れていってもらったビール屋さんで、元々の好みと暑かったのもあって、酸味のあるものを二杯飲んだ。三杯目を頼むときに「さっきの二杯がおいしかったのでそれをふまえておすすめしてほしい」と言うと、白ワインの樽で仕込んだビールを紹介してくれた。「これがもしおいしいと感じたなら、ここから(おすすめできるものが)もっと広がっていきます」と、おっしゃっていた。またそれがめちゃくちゃおいしくて! 帰りに「おいしかったから、そこからまたおすすめしてもらったのを買って帰りたい」というと「考えてました」と、言ってくださった。うれしいな。コルク付きの、瓶内発酵するビール。大事に飲もうとおもう。

     そこからまた場所を変えて話した。
     ひとりの帰り道に、今日あったことをつれづれと思い出しながら、わたしは、それぞれに違いのある者どうしが有機的につながってゆくのがすごく好きなんだ……と思った。それは単純に、出会う=つながるとかじゃなくて、お互いに能動性を持ちながら、少しずつやり取りの中で手を伸ばしてゆく感じ。知りたい、わかりたいという気持ちのあるなしで、話の行く先は変わる。人と話をするなかで、そのやりとりを通じて、自分の裾野が少しだけ広がってゆたかになるような気持ちになることがある。今日がそうだった。そんな日だった。いつも通りに過ごして良かった。自身の生活の上にすべてがあると改めて思えた。

     ほんとに楽しかったな………。
     でもしばらく、魚の小骨のように、テジュンギの目はわたしのなかへ引っかかったままだろう。たぶん、カンテジンも、忘れられないはず。おたくはそう思ってる。
     
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