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    hitomeyokuram

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    hitomeyokuram

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    #さびしい

    A day in our life. 知ってしまったら、知らなかったときには戻れないんだな。

     ごくごく当たり前のことに思い至っただけだというのに、ジュノはなぜだか、世界の真理にふれたような気がした。
     狭い自宅の洗面台で、歯をみがいている瞬間にだ。

     ジュノはこれまでも、たいていのことは知っていると思って生きてきた。顔が気に食わないという理由で殴られかけることが何度かあって(しかし、殴られたことはあまりないのだ。こういうときは殴られたほうがいいのだろうなというときも、つい、体がスウェーしてしまう。)、世界はそういう理不尽でできていると思っていた。相手の顔が気に食わないという理由で人を殴ってもよく、相手が大学に行ってないという理由で存在を軽んじてもよく、相手が正社員でない、同性でないという理由で偉そうにふるまっても良しとされる世界に生きていると思っていた。
     そういう世界の息苦しさは、濡れたタオルを頭からかぶせられるのに似ている。時々わけもなく、叫んでどこかへ駆け出したくなり、ここではないどこかへ帰りたくなった。
     
     転役後にホヨルと暮らしはじめてなお、世界の手ざわりはあまり変わっていない。ホヨルがそばに居るぶん、少しにぎやかになったというくらいか。
     軍の不祥事がニュースになる回数は増え、隠蔽されないだけマシかと思うが、暴力行為が減っていないことはたしかだった。最近、ふたりに仕事を任せてくれるようになったとなり町の不動産屋は、身にまとった脂肪の分だけ横柄だったし、訪問先で兵役中の所属を尋ねられることもあった。師団が同じだとわかると、それだけで愛想のよくなる男もいるのだ。そういう男に出会うと、ジュノはすうっと感情がさめてゆく。チラッとホヨルを見ると、ホヨルはたいてい、にこやかに笑う口の端を、ジュノにだけ分かるよう、ほんの少しゆがめていた。

     --フリーランスのフリーって、ぜんぜん、自由って意味じゃないよなあ。

     仕事を終え、くたびれて帰る道々、いつもホヨルだけがしゃべっている。ラジオみたいだ。周波数を合わせなくても勝手に聞こえてくる、こわれたラジオ。こわれているから鬱陶しいが、時々恋しくなるラジオ。
     
     ジュノは、自分のことをホヨルのパートナーだと思って生きているが、その実、たぶん自分は、ホヨルが居なくても十分生きていけるだろうなと思っている。ホヨルが居てもいなくても、ジュノの生活には差し支えないというのが本音だが、でも、夜道で、寝室で、朝のひかりの中で、暗い空の下で、走りながら、寝ころびながら、たばこをふかしながら、ホヨルの声が聞こえなくなったら、それはきっと、寂しい。

     ホヨルが居ない世界があたりまえだったのに、ホヨルが居ることがあたりまえになってしまったから、もしこの世界からホヨルが消えたら、ジュノにとってそれは、ハンホヨル一人分が『足りない』世界になってしまう。壊れたラジオみたいなおしゃべりも、一緒に眠っているときに見せる予想以上に赤ちゃんみたいな寝顔も、なにもかも、知ってしまったから、たぶん、ジュノは、もう、知らなかったころには戻れないし、正直に言うと、戻りたくない。

    「チャギヤ、もう起きてる」
    「おはようございます」
     そういうことをぼんやり考えながら歯を磨いている鏡ごしに、寝ぐせだらけのホヨルと目が合った。
     ホヨルの、目やにでふさがった片目を見て、昨日、たき火の煙にいぶされて、髪から服まで煙たくなったことを思い出した。懇意にしている食堂の店主から「手伝いを探している人がいる」と紹介を受けたのだ。「何を手伝ってほしいんですか」と尋ねると、「紙を燃やすのに、人手がいるって」と、言われた。それで、紙くらい。と引き受けたのだが、じっさいにはぺらぺらの紙ではなく、段ボール十箱分にぎっちり詰まった紙の束だった。
    「紙って、一枚一枚は軽いのにさ、なんでこんなに……」
     ホヨルの言いたいことはジュノにもよくわかった。
     依頼主は、七十代と見える高齢者で、物置の中にある箱を出すだけでも重労働だった。そして、箱の中身はすべて紙だった。ずいぶんと昔にため込んだものらしく、若いうちに書いた日記や、もらった手紙や、子どもが持ち帰った作文、宿題、教科書に、まだ働いていたころの書類や、家に届いた封書などなど。もう何十年も放置していたのだという。
    「チラシまで、よく取っておきましたね」
     縁台に腰かけた依頼主は、ホヨルの言葉を聞くと立ち上がって、他人の持ち物を眺めるように段ボールを見下ろした。「たしか、三十くらいの年に、とっとくようになったんだ。その時は、なんでかなあ、わからなかったんだよ。これがいつ必要で、いつ要らなくなるのかが」
     だから取っておいたんだけどなあ。
     依頼主は箱の中身をひとつひとつ検分した後、「もう、要らないな」と、ふたりへゴーサインを出した。検分中の依頼主自身が、自分がためこんできた紙の束をふしぎがっていて、それがジュノには少しだけ面白かった。

     全部燃やし終わるころには日も暮れて、ゴーグルとマスクをしていても鼻の穴は黒く汚れ、目はちくちくと痛んだ。
     帰りに渡された封筒には、50000ウォン入っていた。もう少しくれたって……というジュノの心の声が聞こえたのか、ホヨルが「金はだいじにとっておかなかったんですか」と言いはなったので、ジュノは、ホヨルの背をこづいて逃げるように帰ったのだ。

     ジュノのとなりで、こびりついた目やにを落としながら、ホヨルは「結局、捨てちゃうんだよなあ」と、つぶやいた。
    「昨日のですか?」
    「うん? うん……あのじいさんは、面白かったな。最後まで、あの紙が大事なものだとは言わなかったよ」
    「たしかに」
    「いつ要らなくなるのかが分からなくて、取っといたんだって……自分じゃ、必要かどうかも判断できなかったってことだ」
     ホヨルの言葉に、ジュノは少しだけ考えてしまう。
     依頼主のおじいさんは、昨日ははっきりと『もう要らないな』と言った。けれども三十のころのおじいさんには、それが分からなかったということだ。
    「一番奥にあった箱は、ねずみに食われてボロボロだったから、一度も取り出さなかったんだな」
    「結局、とっておく必要はなかったってことですね」
    「でも、わかんなかったんだよ、その時は」
     --何にもわかんなくなるときって、あるんだよな。
     ホヨルはぽつんとつぶやいた。それから「もしおれが、よくわかんないことしても、そのときはおれの好きにさせてね」と、ジュノを見た。ジュノは口のなかの歯磨き粉を飲み込みそうになって、それをこらえて、もごもごしたまま「……ヒョンのやることは、たいてい、よくわからないので、大丈夫かと……」と、答えた。

     
     
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