すたおけ年長男子のゆるゆる集い まだ残暑が厳しいが、夕方になると秋は近づいているのだとわかる少し涼しい風が吹いて桐ケ谷の髪をサラサラと揺らす。
「おーっす」
桐ケ谷は気軽な挨拶をしながら笹塚の部屋の玄関を開いた。後ろには南、刑部、惟世が続く。四人はそれぞれ両手に食材やお菓子や飲み物の入った袋をぶら下げていた。
どういう話の流れでそうなったのかは忘れたが、スタオケの年長者の男子たちで集まろうという話になった。笹塚の部屋なら防音がしっかりしているから集まっても問題ないとなり、場所がきまった。惟世がみんなで集まって食べる飯は鍋だろうと言い出し、まだスーパーで鍋つゆの売り出していないこの時期だが予定の合わせられた今日、六人で鍋をつつくことになった。大きな土鍋は笹塚が仕事関係の人間から引越祝いにもらっていた。今日初めて活躍の場を与えられる。
「いらっしゃい」
彼らを出迎えたのは家主の笹塚ではなく、ネオンフィッシュの相方の仁科だった。柔和な笑顔がどこか引きつっている。無愛想な家主が出てこないのは想定の範囲内だったが、人当たりの良い仁科が挙動不審なのは予想外だった。
「迷子にならなかった?」
「こんなすげーマンション、見つからないはずないだろ」
一介の大学生ではとてもではないが家賃を支払えないと一目でわかるマンションに笹塚は暮らしている。セキュリティもしっかりしているため笹塚が開けてくれないと入れないが、家主は気ままなため約束を忘れている可能性を考慮して仁科が部屋で待機していた。
他愛のない会話をしながら仁科の様子を疑問に思っていた桐ケ谷だったが、リビングへ通じるドアを仁科が再び開いてその向こう側の景色を見たとき、理由を悟った。
「こんだけ散らかせるの、逆にすげーな」
どれほどの期間、掃除や片付けをしないでいればこうなるのか、生活力の高い桐ケ谷には想像のつかない散らかりっぷりだった。通り道らしきところ以外は床の色が見えない。ざっと見たところ、食べ物系のゴミが散乱していないことは救いだった。
「はわ〜」
南のくりくりした愛らしい丸い目がさらに丸くなる。刑部は閉口していたが、惟世の双眸は興味津々だと輝いていた。
「おお! 俺、知ってるぞ! こういうの、フカイの森って言うんだよな!」
惟世は満面の笑みで、楽しそうに言い放つ。
「ごめんね。ここまで散らかしてるのは初めて見たから俺も驚いた。締め切りが重なってたせいだと思う、さすがに。みんなが来る前にちょっとは片付けようと思ったんだけど」
家事があまり得意ではない仁科は曖昧な微笑みを浮かべる。荒れた部屋でゴミ袋を発見することができず、途方にくれている間に皆がやってきた。
「何で仁科が謝ってるんだ?」
惟世はきょとんとした顔で首を傾げて仁科に質問する。
「癖、かな……」
見習い指揮者の純粋な瞳を前に、仁科は苦笑いを浮かべた。もやっと微妙な空気が広がりかける。しかし室内をぱあっと明るく照らすように、南が春の日差しのような朗らかな笑顔を見せる。
「今日は笹塚くんのおうちに集まらせてもらってありがとうの代わりに、みんなでお掃除してからごはんにしよ~」
周囲にきらきら柔らかな光が広がって、皆の表情も和らいだ。
「ある程度目処がついたら、料理班と掃除班に分かれた方が効率が良い」
「だな。じゃ、俺はずっと掃除班にいるわ。飯は刑部と南に任せた」
家事能力の高い桐ケ谷と刑部と南が分担を決めた。
「よし! ちゃちゃっと終わらせるか!」
惟世の威勢の良い掛け声に合わせるように、それぞれ荷物を廊下に置いてリビングへ突入する。切り込み隊長の桐ケ谷が通り道を確保し、続く惟世は手当たり次第に床のものを拾い上げた。
「ゴミ袋はどこに?」
刑部の問いかけに仁科の視線が泳ぐ。
「探したんだけど見つからなくて。あるのかな……?」
「さすがにあるだろ」
首を傾げる仁科の怖すぎる予想を桐ケ谷が打ち消す。桐ケ谷があると言えばあるような気持ちになるので、仁科は桐ケ谷はさすが元不良グループのリーダーだと感心して整った美しい顔を見つめた。
「勝手に探して大丈夫かな〜?」
「笹塚はそういうの気にしないから、大丈夫」
「宝探しみたいだな!」
快活に笑う惟世は屈んで笹塚の抜け殻のような黒のカーゴパンツを拾う。それを見た桐ケ谷はぎょっとして目を見張った。
「あいつ、まさか洗濯もしてねーのか?」
「さ、さすがに使用済みの下着なんかは落ちてないと思うけど」
刑部は深いため息をついて眼鏡の位置を直す。
「仕方ない。乗りかかった船だ。仁科、洗濯機は脱衣場か?」
「うん。あっちのドア」
勝手知ったる他人の家なので仁科は洗濯機のある方を指す。教えられた方向へ、刑部は着地できる場所を選んで大股で進んだ。脱衣所には最新型で最上位機種のドラム式洗濯乾燥機が置かれていた。
「宝の持ち腐れだな」
刑部は小さくため息をつく。大学受験でさえ教師と仁科に言われるがままに日本で一番難しい国立大学を受け、合格しても入学手続きを放置している有様だった。この家電も本人が選んだわけではないのかもしれない。
笹塚の部屋の惨状に、かいがいしく彼の世話を焼く人物がいないのだとわかって、刑部はホッとしたような、恋敵はまだ彼女を諦めていないと悟って舌打ちしたくなるような複雑な心持ちになる。何ならここにいる同い年の男六人は全員、彼女を憎からず思っていることを刑部は察している。
「……困ったな」
洗濯機の蓋を開けて、おそらく乾燥後に放置されている衣類を前につぶやいた。笹塚にも触れられたくないものはあるかもしれないし、刑部が触れたくないものがあるかもしれない。刑部はもう一度小さなため息をついて引き返した。不慣れな手つきで片付けをしている仁科を見て、彼の部屋もここまでではないかもしれないが散らかっているだろうと予想しながら声をかける。
「仁科、笹塚は?」
「さっき覗いたときは仕事にかなり集中してたけど……」
「そうか。乾燥し終わったものに俺が触れて問題ないのかわからないから確かめようと思ったんだが」
どうするべきか刑部があごに手を当てて考えはじめたのと同時に、惟世の生命力にあふれる双眸が更に輝いた。
「お! ゴミ袋発見!」
十枚入りと書かれた外袋は開封はされていた。使用した形跡のある大きなゴミ袋を惟世がソファー下に散らばる紙の下から発掘する。
「何でこんなところに落ちてるんだ……」
「これでゴミ捨てできるさ〜」
全く整理整頓のできていない笹塚の部屋の現状に頭を抱える仁科の隣で、南はにこにこと前向きな発言をする。
「虫さんがいないと良いねぇ」
南がぽろっとこぼした一言で見習い指揮者から血の気が引いた。
「む、虫……?」
確かにこの汚れ具合の部屋には惟世の天敵が隠れていてもおかしくない。危険に気がついて惟世はフリーズした。
「さ、さすがに虫が湧くほどは汚くしてないと思うよ! 食べ物系のゴミだけは何とかリビングに放置してないし!」
真っ青になって固まる惟世を仁科は何とか解そうと言葉をかける。
「いないよ! 多分!」
「なんくるないさ~! 虫さん出てきたら僕が責任持ってお別れするから安心して~!」
すっかり弱ってしおしおになった惟世を仁科と南が賢明に励ます。楽しそうだなと三人の様子を横目にひょいひょいと手早く大雑把にモノを仕分けていた桐ケ谷は新たな気配を感じ取って顔を上げた。
「お。ご登場」
冬眠から目覚めたばかりの熊のような、無精ひげを生やしてぼんやりとした笹塚がのそりと現れた。
「笹塚、洗濯機の中のものは出しても構わないか?」
「そのまま着るから置いてて」
無精者に現実を示すため、刑部は脱ぎ捨てられたまま散らばっていた衣類の小さな山を手で示す。主に桐ケ谷が集めて作った。
「この山が洗濯できない」
「二着で回せてたから問題ない」
これ以上何を言っても無駄だと感じた刑部は洗濯することを諦め、とりあえず洗濯機の前に衣類を移動させて積んだ。今は部屋を使えるようにすることが先決だ。
「なんでこんなに人いんの?」
一晩寝ずに仕事をしていた笹塚は眠そうな顔で仁科に問いかける。聞かれた仁科はあきれた表情を隠さない。
「今日はみんなでここに集まるって一週間前から何度も言ったし、マインも送ったし、スマホのスケジュールアプリでリマインド通知来るようにしてただろ。この部屋を使って良いって言ったのはお前だし」
仁科が少し強めの口調で言う。作曲に没頭していて全て忘れていた笹塚は大人しく現状を受け入れることにした。桐ケ谷と刑部と南がいるので、美味い食事にありつけることは確定している。
「笹塚くん、お部屋使わせてくれてありがとうな〜。お礼にみんなでお掃除してるんさ〜」
「ま、そうしないと足の踏み場もなかったからな!」
惟世に悪気は全くない。満面の笑みも太陽のように明るい。言われた笹塚も事実を言われたとしか感じていなかった。
部屋をぐるりと見渡し、仕事でこもっている間にずいぶん景色が変わってしまったと思う。笹塚としては、どこに何が置いてあるかは把握していたのであの状態で問題はなかった。しかし善意でしてくれたことに文句をつける気持ちにはならなかったし、この人数が座れるスペースはなかった。ただ、所在確認はしたい。
「ここに置いといた本は?」
「置いといたぁ……?」
桐ケ谷は器用に目を眇めてあきれ返った声を出す。小さくため息をついて親指でソファー脇に建てられた本のタワーを笹塚に教える。
「本は本棚に戻してやれよ」
「休み明けの授業で必要」
笹塚は塔のちょうど真ん中あたりにあった目当ての本だけを引き抜いた。
「本棚どこだ?」
「あっち」
笹塚は先ほどまで籠っていた部屋を指す。桐ケ谷は本のタワーの上半分ほどの量を持ち上げた。
「残りの半分は笹塚が持てよ」
桐ケ谷は上手く片付けに笹塚を巻き込んだ。笹塚も素直に桐ケ谷の言うことを聞いて、散らかされていた本の半分を運ぶ。
「なんだよ、こっちの部屋キレイじゃん」
仕事部屋は整頓されていたらしく、移動した桐ケ谷の苦情が聞こえてきた。
笹塚は桐ケ谷の言うことは素直に聞くのかと、仁科は複雑な気持ちになる。仁科の心の内を悟ったのか、南がぽんと軽くヴァイオリニストの肩を叩いた。
「気にする必要ないさ〜。桐ケ谷くんは他の人を巻き込むのが上手だし、笹塚くんは仁科くんには甘えてるだけだよ~」
南の微笑みと言葉は甘露のように仁科の胸へすっと入り、穏やかな心に戻れた。
家主の登場により片付けに目処が付いたので刑部と南は掃除班から離脱して食事の準備を始めるためキッチンへ移動する。大学生の一人暮らしに似合わぬ広くて立派な台所だが、おそらく使われていない。
「はわわ〜! 立派なお台所だね〜」
ほぼ片付ける必要がないのは幸いだった。白い人工大理石の調理台をスーパーで食材と一緒に買ったウエットシートで拭いた。
リビングでは桐ケ谷が掃除機をかけ、仁科がゴミをまとめ、惟世はテーブルを拭く。
「笹塚は?」
天才作曲家の姿がないことに気づいた桐ケ谷は掃除機を止めてリビングを見回す。のそのそとキッチンへ移動している笹塚を発見した。
「あいつ……」
一番付き合いの長い仁科は笹塚が何をしようとしているのか察知して、額を押さえてため息をつく。だしの良い香りが漂ってきていた。
「まだ盗み食いできる段階にないぞ」
刑部に牽制された笹塚だが諦めない。南と刑部の手元を確認する。大量の豚肉と鶏肉、白菜、にんじん、長ネギといった野菜やきのこ、豆腐、魚介類まで準備されていた。
「ばんないあるから、もうちょっと待っててね~」
「何鍋?」
「寄せ鍋だ」
生より火を通した方が安全そうな食材ばかりだったので、笹塚は空腹を落ち着かせるために冷蔵庫からレモンフレーバーの炭酸水を取り出してその場で飲み始める。
「締めは?」
「おうどんさ~」
買い出し中に話し合って、寄せ鍋の締めは雑炊派もいたが白米を炊く手間を考えてうどんになった。
「笹塚、鍋敷きはどこにある?」
カセットコンロはないだろうと予測していたので、キッチンで完成させてリビングへ鍋を運ぶ予定にしている。鍋敷きを使いたかったので刑部は家主に尋ねた。
「ない」
簡潔な返答を聞いた刑部は代用品を瞬時に考える。この家に間違いなくありそうで借りられるものを提示した。
「タオルを代用品にしても構わないか?」
「ああ」
「使って良いタオルを一枚、準備してもらえるか?」
「わかった」
自由気ままな大先生へ仕事を与えることに成功した。笹塚は刑部に言われたとおり、洗濯機の中からタオルを一枚取り出して戻ってくる。
「お。掃除する気になったか?」
タオルを手に取り戻ってきた笹塚に桐ケ谷が感心したように言う。しかし家主は首を横に振った。
「違う。鍋敷き代わり」
笹塚はテーブルに、適当な大きさに折りたたんだグレーのフェイスタオルをリビングのテーブルに置く。
「おお、なるほど! 生活の知恵だな!」
「刑部くんか南くんに頼まれただけだと思うよ」
惟世は笹塚の明晰な頭脳から導かれた行動と解釈していたが、仁科は相方のことをよく理解していた。キッチンにまで会話は届いており、刑部は具材を鍋へ投入しながら喉の奥で小さく笑う。
「みんなでご飯はでーじ楽しいね〜」
南はにこにこしながら手のひらの上で豆腐にすっと包丁を入れた。
寄せ鍋は完成したが、鍋敷きのない家に鍋つかみがあるはずもなく、さらにタオルを二枚笹塚に出してもらった。
惟世がタオルを鍋つかみ代わりに使って、張り切って鍋をキッチンからリビングのテーブルへ運ぶ。
紙製の椀、紙コップ、割りばしをそれぞれの手元へ桐ケ谷と仁科が手分けして配る。それぞれいただきますと挨拶をして鍋パーティーは始まった。
笹塚が誰よりも早く、具材を椀に山盛り取って食べ始める。
「そんなに急いだらやけどするだろ」
「仁科は笹塚の母なのか?」
仁科の心配と桐ケ谷のツッコミも知らん顔で笹塚は黙々と食べすすめる。
「うまい!」
惟世は豚肉と白菜を一口食べて、おいしさに感動のあまりキーンと響くほどの大声を出した。
「刑部も南もすごいな!」
「今回の味付けは刑部くんがやってくれたんさ~」
刑部はどこか得意気に口角を上げる。
「市販のものだが、もみじおろしと柚子胡椒も用意してあるから使ってみると良い。アクセントになる」
鍋の脇にはもみじおろしと柚子胡椒のチューブが並べられていた。
「鍋奉行……」
桐ケ谷がぼそっとつぶやいたのを刑部は聞き逃さない。
「だしと醤油の味一辺倒にならない工夫を伝えたまでだが?」
「なるほど」
不穏になりかけた幼馴染同士の空気を壊したのは北海道が産んだ天才作曲家だった。二杯目を食べていた笹塚はもみじおろしのチューブを手に取り、躊躇なく押し出す。てんこ盛りの鍋の具材の上にさらにもみじおろしが小さな山を作った。
「出し過ぎだろ、それ……」
仁科は笹塚の椀のカオスっぷりに戸惑いながら、自分の鶏肉一切れしか入っていない椀の縁に柚子胡椒を少量出した。ちゃんと火の通った肉に爪の先ほどだけ添えてみる。
「本当だ。これもおいしい」
いつも胃を痛めているヴァイオリニストが口の中のピリッとした刺激を楽しんで穏やかに微笑んだので、刑部も自然に頬が緩んだ。
仁科は自分以外の五人の食べる量の多さを目の当たりにしてあっけにとられていた。仁科より小柄な南もにこにこしながらぱくぱく食べている。桐ケ谷も細身の身体のどこに吸い込まれて行くのだろうかと不思議なほどの量の食べ物を摂取していた。
「仁科! 食わなきゃなくなるぞ!」
惟世が仁科を心配して声をかける。
「結構いただいてるよ? みんながすごすぎない?」
「そうか?」
何度もうなずく仁科は、本人としては普段より多く食べたくらいだ。気の置けないメンバーとの食事は楽しかった。
中身が空に近くなったのを見計らって南が鍋を持って立ち上がる。
「締めのおうどん、準備してくるさ〜」
「手伝うよ」
仁科は南と一緒にキッチンへ行く。うどんを六玉、ふたりで袋を開けて鍋に入れて火にかける。あれだけ食べたあとにこの大量のうどんを食べきれるのか仁科は心配になったが、みんなのところへ持って行くと鍋はあっさり空になった。
「ごちそうさまでした! やー、ホント美味かった〜。やっぱこういう時は鍋だよな! 同じ釜の飯を食う! いいことだ!」
満腹になった惟世は満面の笑みを浮かべてお腹を擦る。
「ごちそうさま」
食べ終わった途端に笹塚は床に寝転んだ。
「笹塚くん〜、牛さんになっちゃうさ〜」
南が笹塚を起こそうとして身体を揺さぶるが、徹夜で仕事をしていた大先生はすでに電池が切れていた。
「笹塚、せめて部屋で寝ろ」
仁科も声を掛けたが返答はないので小さくため息をついた。
「仕方ない。片付けたらゲームでもする?」
「そうだな。笹塚、起きたらひとりぼっちはかわいそうだもんな」
腕を組んだ惟世は仁科の提案にうんうんと何度も深くうなずく。お人好しな指揮者の提案にトランペッターたちは顔を見合わせたが、互いににやりと笑う。
「しゃーねー。みんなでできるの、あんの?」
「本体はあるけどソフトはどうだったかな……」
仁科のつぶやきで惟世は出かける前に七瀬に言われたことをハッと思い出す。
「そういえば七瀬に、集まるならこのソフトは必須だって渡されてた!」
惟世が羽織のポケットから人気キャラクターの描かれたゲームソフトのケースを取り出す。中身はすごろくゲームとカートゲームのソフトだった。情け容赦など存在しないゲーム大会の開催が決定したのだった。