右手じゃない俺の恋人と、一か月の空白 俺の恋人は、右手ではない。
より正確に言うなら、右手ではなくなった。今から、ちょうど一年前のことだ。
相手は住宅街を気ままにうろつく猫のような男で、会えるときは会えるし、会えないときはとことん会えない。
それでも、この世で働いている大多数の人間よりは時間の融通が利く。向こうにその気があれば馬鹿みたいに残業続きな俺にも合わせられるのだから、自分たちは恵まれている方だろう。
だが、いよいよ今日は、しばらく疎遠になっていた右手と縒りを戻すことになるかもしれない。
出張先のビジネスホテルの一室でベッドに浅く腰かけた俺は、自身の膝に肘を乗せ、指を組み合わせた手に口元を預けていた。視線こそ目の前の壁をじっと見つめているが、その意識が向かう先は己の股間と前述の右手だ。
ホテルに用意されていた裾の長い簡素な寝巻きの下では、長らく放っておかれた息子が下着を持ち上げ始めている。
抜かなければ絶対に眠れないというほどではないけれど、無視して眠るにはぐずりが強い。ちょっとした刺激で烈火の如く泣きだしかねない赤ん坊を前にしたような、妙な緊張感がある。
今回の出張期間は一週間。今日がその折り返し地点で、あと二日乗り切れば東都へ帰れる。
あと二日。たった二日。されど二日。
これがあと一日であれば、俺みたいな奴でも耐えきれただろう。逆にあと三日もあるなら、さっさと降参して右手の世話になっていた。
よりにもよって、なぜこのタイミングで。やはり、俺の日頃の行いが悪いせいか——いや、今回ばかりは、俺のせいだけではない……はずだ。
右手ではない俺の恋人にも、責任の一端はある。あいつが一か月も音信不通でなければ、絶対に、ここまで悶々としていなかった。だって、向こうとちゃんと連絡が取れていたなら、なんとかして出張前に逢瀬を重ねていたはずだからだ。
別に、毎日密に連絡を取り合っている仲ではない。二、三日連続して会うときもあれば、連絡一つないまま一、二週間が経つときだってざらにある。
だから今回も、後者のパターンかなと思っていた。でも、三週間目になっても「飯が食いたい」というメッセージすら飛んでこなくて、さすがにあいつが所属しているチームのリーダーに探りを入れた。
あいつと付き合い始めて三か月が経った頃に俺の連絡先をもぎ取っていった小柄なリーダーは、隣にいたらしい作家先生と一緒になって、メッセージ上でしばらく俺をもてあそんだ。
そのあとでようやくもたらされた情報によれば、あいつは、西の方にバカヅキの気配があるからと東都を飛び出していったらしい。それから約三週間、チームメイトにも連絡を寄越していないという。
そういうことは初めてではないし、Fling Posseの二人も俺も、じゃあそろそろひょっこり帰ってくる頃合いか、という結論に至った。そこまでは、まあよかったのだ。
問題はそのあと。三日と経たないうちに、この一週間の出張が俺に舞い込んできた。担当するはずだった同僚が季節外れのインフルエンザにかかってしまい、その代打を命じられたのだった。
予定どおりの業務をこなしながら、大慌てで出張に必要な資料を作って、出張期間中のリスケジュールもした。その忙しさに押し流されて、自慰さえご無沙汰だということはすっかり頭から抜け落ちていた。
この出張が終わるまで、そのまま忘れていられればよかったのに。
現実には、このザマだ。性欲を思い出すなら、せめてあと二日経ってから——東都に帰ってからにしてほしかった。こんな、出張先のビジネスホテルで処理をするなんて、できればしたくない。
この体はもう、二人で貪る性欲の味を知ってしまっている。彼に長らく会えていないから、なおさらこの飢えを彼と満たしたかった。
でも。
「……帰っても、あいつがいるとは限らないんだよな」
気まぐれな根無し草の顔が、脳裏を埋め尽くす。そもそもまだ西から帰ってきていないかもしれないし、帰ってきて、また違う場所に飛び出していったあとかもしれない。
仮に今彼と連絡が取れて二日後の約束を交わしたとて、あの根っからのギャンブル中毒者が必ず俺を待ってくれているという保証はない。期待に胸を膨らませて帰った分、肩透かしを食らって大ダメージを受ける。そんな可能性だって、大いにあった。
それなら——東都で一人虚しく抜くくらいなら、このまま義務的に済ませてしまった方がいいのでは。
「……」
ごくりと唾を飲み込む。この場で叶えられる自慰か、いつになるかもわからない性交か。ぐらぐらと揺れ続ける天秤が、即物的な方へ傾きかけた瞬間だった。
「うわっ」
枕元に置いていた携帯電話が、突然鈍い振動音を響かせる。
サイレントモードにしておいてよかった。バイブレーションの振動だけでも驚いたが、音ありだったらもっと心臓に悪かっただろう。
「こんな時間に誰——」
いぶかしがりながら携帯電話を手に取って、これ以上ないほどに目を見開く。次の瞬間には、着信に応じて携帯電話を耳に押し当てていた。
「もしもし!」
「うおっ、デケー声だな」
呑気にガサついた声が、鼓膜を揺らす。
ああ、彼だ。
焦がれ続けた彼の声が、電波に乗って、俺に届いている。
口を開けば、自覚している以上に恨めしげな声が出た。
「第一声がそれかよ。一か月も音信不通にしておいて」
若干潤んですらいる俺からの抗議に、快活としか言い様のないカラッとした物言いが返ってくる。
「はは、わりー、わりー。まあ、いろいろあってな。その分、土産話はたんまりあるぜ」
土産話より何より、今すぐにお前を感じたい。
これまでは薄ぼんやりとしていた渇望感が、見上げるほど大きな岩になってのしかかってくる。
ごわついたコート越しに抱き締めた体の厚み、髪の毛にまで染みついた煙草と汗の匂い、こちらの芯までじりじりと温めるような高い体温。そのすべてが、愛おしくてたまらなかった。
いつの間に、これほどダメにされていたのだろう。青天の霹靂のように俺の人生に割り込まれてから、まだ片手の指がたっぷりと余るほどしか経っていない。にも関わらず、この男のいない日々をどうやって過ごしていたのか、すっかり思い出せなくなっていた。
「……会いたい」
ふと、一言がこぼれ落ちる。溜まっている性欲も、無沙汰をなじる怨嗟も、すぐそこにあったはずなのに今は随分と遠かった。
彼の姿をこの目に映せるのなら、その体をこの腕に抱き締められるのなら、他には何もいらない。学生時代にさえ抱いたことのない甘酸っぱくて重たい感情が、堰を切ってあふれだしていた。
思いのほか長くなった沈黙のあとで、へへ、と小さな笑い声が聞こえてくる。まるで不意に贈り物をもらった子どものような、それでいて、どこか大人びた面映さも含んでいるような、そんな声だった。
聞いただけでは、彼の表情まで思い描くことができない。彼との関係も随分と長くなったと思っていたけれど、まだまだ深いとは言えないんだ。長引いた空白の日々と相俟って、つきりと胸が痛む。
そんな俺の寂寥感を拭ったのは、結局、痛みをもたらした張本人だった。
「東都に帰って早々ツイてるぜ。一点賭けの大勝利ってな」
どういう意味だ。尋ねる前に、向こうがさらに切り出してくる。
「なあ、どこで落ち合う? 俺は今——」
現在地を伝えてくる声に、胸がギュッとなった。
彼も、俺と同じように思ってくれているんだ。会いたいと。自ら進んで、待ち合わせを決めようとするくらいに。
すごく嬉しい。けれど——。
「俺、今東都にはいないよ」
「あ?」
「出張中だから。……飴村さんか夢野先生から、聞いてないのか?」
その二人には、彼から連絡があったらそう伝えてくれと言付けてきた。彼は、戻ったら一番に、チームメイトたちへ連絡をするはずだから。そう、思っていたのに。
「聞いてねえな。そっちにゃ、まだ連絡してねーし」
「えっ……」
けどそっか、お前よそに行ってんのか。
独り言のように続ける彼の声が、頭の中を素通りしていく。ちょっと待ってくれ。ええと、それはつまり……。
「……真っ先に、俺に電話してくれた——のか……?」
どうして、と、考える前に口から疑問が漏れ出していた。電話の向こうにいる彼が「あ?」と、さっきとまるで変わらない調子でリアクションを返してくる。
「そりゃ、アンタが仕事終わってんならさっさと捕まえてぇしよ」
そう言って笑う彼の顔が、今度は目の前に見えた気がした。自分だけを真っ直ぐに映す、彼の瞳が。
自分の妄想でしかないその像が、瞬く間に潤んで歪む。込み上げてきた嗚咽を噛み殺すと、代わりとばかりに大粒の涙がぼろりとこぼれ落ちた。
軍資金を得るための、見え透いたリップサービスでも何でもない。彼にとっての事実を、ただ口にされただけだ。それが、どうしようもないほどに胸を打つ。
この一か月の空白と、予定外の激務で擦り減っていた精神のせいだろうか。
チームメイトよりも優先された。たまたまに過ぎないだろうその小さな事実が、幼い優越感と独占欲をたしかに満たしていた。
「なんだよ、泣いてんのか?」
唇をきつく引き結んで嗚咽をこらえていたのに、どうにも隠しきれてなかったらしい。
意地悪そうに笑われて、珍しくこっちの機微を感じ取ってくる彼に、嬉しいやら悔しいやらで胸の内がさらにぐちゃぐちゃになる。
「うるさい……っ、お前が、好き勝手に振り回してくるから……!」
「お。文句が先に出るようになったじゃん」
重畳、重畳、と書生服姿のチームメイトを真似てからかってくる彼の内側に、揶揄にとどまらない温かなものを感じてしまった。いよいよ、涙腺が馬鹿になる。
くそ、なんなんだよ今日は。甘やかしの大盤振る舞いか。そんなことしたって、一か月の空白から生まれた懊悩の恨みは、チャラにしないからな。
そうは思っても、今口を開いたらそれこそ子どものような嗚咽が止まらなくなりそうだった。グッと、呼吸ごと飲み込む。
そんな俺の状態を、どう受け取ったのか。電話口で、彼が不意に声を落とした。
「……あー、お前、マジでこっちにいねぇんだよなあ。もったいねぇ」
何がだ、という疑問が俺の首を傾げさせる。電話越しでそれを見ることができない彼が、構わずに言葉を続けた。
「なあ、しゅっちょーっていつ終わんの」
「……明後日……」
鼻をぐずぐずと言わせながら、なんとかその一言を返す。
「明後日な。じゃー、それまで勝負しようぜ」
「しょうぶ……?」
「そ」
一層潜められたダミ声が、本当に耳元へ囁きかけるように低く笑った。
「その日まで我慢して、どっちがより『キモチイイ』になれるかどうか」
何だそれ、主観的過ぎるだろ。どうなったら勝ちとか、判定のしようがなくないか。
そんなツッコミが、浮かばなかったわけではない。でも、この勝負で大事なのは、きっとそこじゃなかった。
骨の髄までギャンブルを愛するこの男が、こんな勝負を自ら仕掛けてきたこと。そして、この勝負に乗りたいと思う互いの気持ちそのものが、何よりも重要だった。
一か月の空白。欠乏した相手の存在。それを、対面でこそ埋めたいと、そう願う心こそが。
ゆるんでしまった鼻を啜り上げ、ホテルの寝巻きの袖口で、濡れた目元をごしごしと拭う。耳元に押し当てる携帯電話を、ぎゅっと強く握り締めた。
大きく息を吸い込んで、腹に力を込める。
「……乗った」
みっともなく語尾が潤んだままの一言に、彼は電話の向こう側で「そうこなくっちゃな」と、やっぱり屈託なく笑った。