言霊が帰す水泡(前編) Mermaid bubbles(マーメイドバブルス)——夢野幻太郎を襲った違法マイクは、そんな小洒落た俗称を獲得しているらしい。
それを彼に伝えることすら、今はこの世の誰にも、できないのだけれど。
ガラス戸を開け放した縁側に、一人の男が腰を下ろしている。ヨコハマのコンテナヤードでひと騒動あってから、少し経った頃だった。
その身を包んでいるのは、一目で誰かわかるあの書生服ではない。地味な着流しを着たその背中を、帝統は居間の戸口からじっと見つめていた。
吹き抜けていく風のように心地いい声が、思いつくままに物語の切れ端を語っていく。それは地続きの物語であったり、まったく別の物語であったりと、実に様々だった。
そんな彼が手にしているのは、小型のICレコーダーだ。今の帝統からは見えないそれを、彼は今の状態に陥って一番に乱数に頼んで入手していた。
——時間だけは、山ほどありますからね。
書くことも、読むことも、そして聞くこともできなくなった彼は「この機会に、たっぷりと構想を練ってやりますよ」と、それでも飄々と笑っていた。
そんな彼を、どのくらい見つめていただろうか。帝統は縁側に座るその背中に向けて、いつもと同じように軽く声をかけた。
「ゲンタロー」
独特な掠れ方をしているらしい自分の声が、耳に届く。特段大きく張り上げたわけではないが、たとえ彼が庭先にいたって聞こえるはずだ。
けれど彼は、帝統を振り返ることなく昼前の明るい空を見上げながらICレコーダーに物語を聞かせ続けていた。細くやわらかそうな彼の栗毛が、吹き込んでくるそよ風に軽く揺れている。
「……」
板張りの廊下から、畳が敷かれた居間へ。帝統は足を踏み出すよりも先に、自分の肩口に手をやった。そこに垂らしている賽の髪飾りを、少し大袈裟に後ろへ払う。擦れ合った玉が、チャリッと高い音を立てた。
途端に、肩を跳ねさせた幻太郎がこちらを向く。戸口に立つ帝統に気づいたその双眸が、ふと和らげられた。
「おはようございます、帝統。よく眠れましたか?」
「おー、ぼちぼちな」
軽く返しながら、ぺたぺたと畳を踏んで幻太郎のそばへ向かう。
その間も幻太郎の表情に変化はなく、その視線だけが、近づく帝統に合わせて動いていた。
「幻太郎は、もうメシ食ったのか?」
彼の隣に腰を下ろしながら問いかけると、眉をちょっとだけ下げた幻太郎が、再び空を見上げた。
「今日もいい天気ですね」
まるで噛み合わない会話だ。帝統の言葉がまったく聞こえていないのだと、改めて痛感する。
「……そーだな。このままここで寝ちまうのも、すげぇ気持ちよさそう」
——もう昼寝の話ですか? たった今、起きたばかりでしょうに。
呆れながらも愉快そうに笑う彼の姿が、脳裏に浮かんだ。
そんな想像ができるだけの時間を、共に過ごしてきたのだ。彼と、チームメイトになってから。
こうなって初めて、それに気がつく。
こちらに視線を戻した幻太郎は、帝統の予想に反してその薄っぺらい腹を手で押さえた。
「お腹が空きましたね、そろそろ朝食にしましょうか。……なんて、空の明るさを見るに、もうブランチと呼んだ方がいい頃合いかもしれませんが」
口元は笑ったまま、幻太郎の眉だけがさみしげに下がる。
彼は今、空の明るさや腹の減り具合からしか、時間の流れを把握できない。スマートフォンのデジタル表示はもちろん、壁にかけられているアナログ時計でさえ、知覚することが叶わないのだ。
その背中を、帝統はバシバシと豪快に叩いた。
「時間なんてカンケーねぇよ、起きて一番に食うのが朝飯でいいじゃねぇか!」
帝統の表情をじっと見ていた幻太郎が、小さく肩を揺らして笑う。
「何を言っているのかはわかりませんが、貴方のことだから、きっとひどくお気楽なことを言ってくれているのでしょうね」
「お気楽って言い方が引っかかっけど、まあ、大体そんな感じだ。正解ってことにしといてやるよ」
帝統がにかりと笑うと、幻太郎の表情に見えていた翳りがふと薄まった。
よっこいせ、と年寄りじみた声を上げながら、幻太郎が立ち上がる。
「どれ、今日も朝から元気なドラ猫に卵でも焼いてやりますかね」
「お、やったぜ! 俺あれ好き」
帝統は自分もその場に立つと、台所に向かってグイグイと幻太郎の腕を引いた。待ちきれないくらい彼の言葉を喜んでいるのだと、彼にも伝わるように。
けれどやはり、言葉を伴わない思いはこちらが予想する以上にズレてしまうらしい。
「貴方は本当に、食いしん坊ですね」
手を掴まれたまま笑う幻太郎に、胸がちくりと痛んだ。視線が、ふと足元へ下がる。
「……別に、メシが食えるから急かしてるわけじゃねぇんだけどな」
もちろん、物を食べられることは嬉しい。彼と一緒に食べられるのなら、もっと嬉しい。
けれど今は、帝統のために卵を焼いてくれるという彼の気持ちこそが、何よりも嬉しいのだ。それを伝える術がない今の自分が、ひどくもどかしい。
「……帝統?」
呼びかけられて、ハッとした。
俯いていた顔を上げると、自分を見る幻太郎の眉が、また心許なさそうに下がっている。
「なんでもねぇ! ほら、早く作ってくれよ。腹が減りすぎて、ぺたんこになっちまう」
にかっと笑って、強引に彼を引っ張った。
冷蔵庫を勝手に開けて、中にあった卵のパックを丸ごと取り出す。十個入りのそれには、まだ卵が六つ残っていた。
差し出されたパックを受け取った幻太郎が、手元のそれと帝統とを見比べる。
「……もしかして、この残りを全部独り占めしたいと?」
言葉では答えずに、ニッと口を横に広げてみせた。こちらの出方を窺っていた幻太郎の表情に、呆れにも似た受容が浮かぶ。
「言い出す前にためらいを見せただけでも上々、ですかね。でも駄目ですよ、小生だってお腹が空いているんですから。半分こです」
幻太郎は流しの作業スペースに卵を置くと、野菜室を開けてキュウリとトマトを手に取った。
「ほら、貴方はこれを切って。働かざる者食うべからず、ですよ」
「へーい」
ようやく声が出る。
何でもないような、もしくは不平を漏らすような、軽い返事に聞こえただろうか。この胸を満たすやるせなさを、隠せているだろうか。
ふと込み上げた不安に、手元の野菜を見下ろした陰で苦笑する。
声の調子を繕えていなかったとしても、それが幻太郎に伝わることはないのだ。それよりも、彼に見える表情にこそ気をつけないと。
軽快に卵を掻き混ぜる幻太郎の隣で、野菜を洗って包丁を握る。ヘタを切り落としたキュウリの実を二つに分けたところで、すかさず幻太郎が口を挟んできた。
「それで終わりにしないでくださいよ。ちゃんと、一口サイズに切ってくださいね」
「えー、めんどくせえなぁ」
「文句を言わない」
包丁を持つ手が思わず震える。弾かれたように、隣の幻太郎を見ていた。
打てば響く、いつものような返答。
期待が込み上げる。彼が食らわされた違法マイクの効果が、切れたのではないかと。しかし。
「本当は、きちんと薄切りにしてほしいところですがね。貴方の切る一口は、大きすぎるので」
「いや、それは幻太郎の口が小せえだけ——」
「面倒くせえ、は無しですよ。トマトも同じですからね」
帝統に目を向けた幻太郎が、さらに釘を刺してくる。そのセリフに、期待はあえなく散っていた。
さっきの一言は、帝統の返答と幻太郎の予想が、たまたまニアミスしただけだ。
そもそも幻太郎が本当に言葉を聞けるようになったのなら、こんなにも落ち着き払っているはずがなかった。
自分の言葉は、まだ、彼には届いていない——。
幻太郎を襲うのに使われた「Mermaid bubbles」という違法マイクは、中王区が今一番躍起になって根絶を目指しているものだという。
それを知っていたのは乱数だった。
幻太郎を診察した神宮寺寂雷から、幻太郎が声も文字も判別できなくなっていると聞いて、真っ先にこのマイクに思い当たっていた。
その効果は、あらゆる言語から相手を隔絶すること。
肉声だろうとテレビや電話越しだろうと、さらには目で読む文字でさえ、言葉という言葉の一切が理解できなくなるのだ。攻撃を受けた相手が「言葉」として認識するものが対象になるらしく、そこには母国語も外国語も関係なかった。
具体的には、耳から聞こえた言語はそのすべてがこぽこぽという水音に、目から認識した文字情報は湧き上がる水の泡に、それぞれ際限なく、頭の中で置き換わってしまうらしい。
幻太郎自身が思いついて点字も試してみたのだが、彼は「駄目ですね」と首を左右に振った。どんな風に知覚されたのかはわからないが、少なくとも「点字」としては認識できなかったのだろう。手話も同様だ。
この違法マイクについては厳しい箝口令が敷かれているらしく、表沙汰にはなっていない。
けれど、同様の効果を持つマイクの被害者は他にも複数いた。マイクの効果について詳細が判明しているのは、そのためだ。中王区が、快復した彼らに対して聞き取り調査を行なってきた結果だった。
大元になる密造者を捕まえないことには、被害は止まりそうにない。中王区は押収したマイクを解析して対抗策を模索しているようだが、まだ形にはなっていなかった。
そんなことまで知っているなんて、うちのリーダーの情報網は本当にすごい。帝統は感心するばかりだ。
幻太郎はといえば、不意を突いて襲ってきた男を当然の如く返り討ちにしたものの、警察へ通報する過程で己の異変に気がついたらしい。
コール音が止むと同時に聞こえてきた水音に混乱しながらも、とりあえず一方的に、相手の言葉を理解できなくなっていること、マイクを持つ男に襲撃されたこと、それから現在地など、警官が駆けつけるのに必要だと思われる情報を伝えたそうだ。
程なくやってきた警官に襲撃者を引き渡した幻太郎は、必要な書類はマイクの効果が切れてから提出すると、これまた一方的に免許証を提示しながら約束を取り付けたらしい。
幻太郎はこれらをすべて、警官から差し出された書類を——彼にとっては水の泡が紙面で踊るばかりのそれを——手に、神宮寺寂雷を訪ねて説明した。帝統も、寂雷から連絡を受けた乱数に呼び出されて、それを聞いた。
その後、乱数が持っていた情報を踏まえて、改めて幻太郎の詳しい検査が行われた。そこで判明したのが、マイクの効果が数字にまで及んでいることだった。
幻太郎は、時計をまったく認識できなかったのだ。数字そのものだけでなく、アナログ時計の針までもが見えないというのだから、よっぽどだ。
カレンダーの日付も何もかも、表記方法を問わず判読できないので、数字の語呂合わせで意思の疎通を図る道も絶たれてしまった。
乱数が知る限り、今までの被害者に数字まで見えなくなった者はいなかったらしい。
違法マイクの性能が上がっているのか、幻太郎の脳が一般人よりも深く言葉と結びついているためなのか。今の自分たちには、知る術がない。
とにかくこの件は、寂雷が病院を通じて中王区へ報告した。
密かに「Mermaid bubbles」と名付けられたその違法マイクが野放しのままでは、中王区の沽券にも関わる。ラップバトルはもちろん、中王区が掲げる「言葉にこそ力を持たせる世界」そのものが脅かされるからだ。
そんなマイクの性能が上がっている可能性を知らされれば、中王区は今まで以上に必死になる。密造者が捕まるにせよ、対抗手段が確立されるにせよ、早いに越したことはない。
そんなマイクの効果も、早くて三日、遅くとも一週間ほどあれば自然と消えるだろうという話だった。中王区から開示された以前の症例に目を通した寂雷が、そう知らせてくれた。
その情報も最早、水の泡と化したけれど。
「——というわけで、ゲンタローが襲われたのは百パーセントの逆恨みだって。許せないよね! そんなに目の敵にするなら、マイクを握ってる間に一行でも多く書けばいいのに」
「ああ、そうだな」
乱数の高い声が聞こえてくるスマートフォンを耳に押し当てながら、ちゃぶ台に置かれた一枚の紙を見下ろす。新聞に入っていたチラシの裏紙だ。そこには横棒が一つと、縦棒が一つ、あとは横に七つ並んだ小さな斜線が二列分、彼が愛用する万年筆で書き込まれていた。
斜線の数は、全部で十四個。
今日は幻太郎が襲撃されてから、ちょうど二週間目だった。
マイクで襲われた幻太郎が、その日から一日ごとに——日が沈んで昇るごとに、付けている印だ。日付や時刻を認識できず、マイクの効果が持続する日数について寂雷から聞くこともできない彼が、自発的に始めたことだった。
横棒と縦棒も、日を数えようとした名残りなのだろう。もしかしたら、最初は「正」の字を書こうとしたのかもしれない。けれどきっと、それぞれ漢字の「一」と算用数字の「1」だと認識されて、水の泡に成り果てた。
それで幻太郎は、日数を斜線で数えることにしたのだ。そうしなければ、彼は自分が言語を失ってから何日経ったのかすら、把握できなくなる。昨日も明日も、もしかしたら「今日」という概念までもが、わからなくなるかもしれなかった。
この世にあふれる一切の情報から切り離され、時間の流れからさえも取り残されかねない恐怖とは、一体どれほどのものだろう。
自分は彼のように想像力が豊かなわけでもなく、経験したことといえば、敷かれたレールを歩くだけの果てない日々に虚無感を抱いたくらいだ。そんな自分には、彼のその絶望を曖昧に思い描くことすらできなかった。
「……ちょっと帝統、ちゃんと聞いてる? また、お馬サンの新聞に夢中になってるんじゃないよね?」
「んなもん、読んでねぇって」
それを広げたとして、頭になんか入ってこない。
今、帝統の脳裏を埋め尽くしているのは、たった一つだ。大部分が水の泡と化す世界に、一人きりで放り込まれた幻太郎のことだけ。
そんな彼は今もじっと縁側に座り、その身に風を受けていた。日が暮れるにつれて色を変えていく空や、そこを飛んでいく鳥たちを見上げながら、作品の構想というヤツをICレコーダーに吹き込んでいる。
「それならいいけど……」
若干沈んだ乱数のトーンが、次の瞬間また力一杯に炸裂していた。
「——とは、なんないよ!」
「うわ、びっくりした! 急にでけぇ声出すなよな!」
思わず、スマートフォンを耳から遠ざける。乱数は帝統の抗議には答えずに、思いのほか真剣な調子で続けた。
「やっぱりそろそろ交代しよ、幻太郎の家に泊まるの。今は、帝統の方が心配だよ。何もわからない幻太郎もしんどいだろうけど、帝統もしんどいでしょ」
ずっと、何もわかってもらえないのって。
言われて、スマートフォンを持つ手が震えた。図星だ。
言葉が通じないことは——自分の発言を受け取ってもらえないことは、決して気分のいいことではない。たとえ相手に、どれほど悪気がなかったとしても。
自分の中に降り積もっていくその重みを、否定はしない。それでも。
「……ありがとな、乱数。けどこれは、俺がやりたくてやってることだから」
「帝統……」
「交代してもさ、たぶん変わんねーんだよ。乱数が今、そうやって俺らのことを気にかけてくれてるみてぇに」
電話の向こうで、乱数が言葉に詰まった。
「逆に悪いな。お前を一人でやきもきさせちまって。でもやっぱり、俺はここに……幻太郎んとこに、いてぇから」
ICレコーダーに向かって独り言を続ける幻太郎の背中を、じっと見つめる。
最初は、タダ飯と寝床にありつけてラッキー、くらいだった。
こんな状態になった幻太郎を、一人で放っておくわけにはいかない。けれど、乱数には仕事がある。多くの人間が携わって形になっていく、ファッションの仕事が。
ならば、融通の利く自分が適任だろう。そう考えてのことだった。
帝統の「仕事」は、幻太郎が元に戻ってから再開すればいい。帝統の滞在を察した幻太郎が、付き添いの礼に軍資金くらいは出すとも言ってくれたし、満場一致の良策だったのだ。寂雷の言っていた最長期限の一週間が過ぎ、そこからさらに二、三日が経過するまでは。
襲撃から十日が経っても幻太郎の症状に変化はなく、寂雷に再検査してもらっても、めぼしい発見はなかった。中王区からの新情報も同様だ。
その日は乱数と帝統とそろって幻太郎の家に泊まったのだが、翌日、幻太郎が体調を崩してしまった。ひどい頭痛と吐き気に見舞われているようだった。
幻太郎はただでさえ、世の中のすべてがわからなくなっている。そんな状態で複数人と対面するのは、脳への負担が大きすぎるのでは——とは、寂雷の見解だ。けれど自分と乱数には、意を唱えるだけの根拠も理由もなかった。
たしかに今の幻太郎が受け取る情報量は、少ないに越したことはないだろう。
彼の家には一人だけ残ることになり、帝統が自らその役を買って出た。自分の「仕事」は、他者と関わるものではないから。
けれど、この頃にはもう、帝統の方こそが幻太郎のそばにいないと落ち着けなくなっていた。用を足すために彼から離れたわずかな時間でさえ、彼の様子が気にかかって仕方がないのだ。
乱数の提案を呑んで彼の事務所なりパチンコ屋なりに行ったとして、いっときでも幻太郎のことを忘れてリフレッシュできるとは思えない。むしろ、下手をすれば眠ることすらできなくなりそうだった。
乱数も一緒に泊まった十日目の翌日以降、帝統は幻太郎と布団をくっつけて眠るようになっていた。それぞれが眠りに落ちるまで、伸ばし合った手の先で互いに触れているのだ。
どんなに言葉が通じなくとも、相手はたしかに今そこに存在していると——一人きりで、次元の違う世界に放り込まれたのではないと、実感できるように。
なぜ、そこまでして幻太郎といたいのか。そもそもなぜ、こんなにも彼のことが気にかかって仕方ないのか。その理由は、未だに掴めていない。
もし「Mermaid bubbles」で襲われたのが乱数でも、自分は同じようにしていただろう。ならば、これは生まれて初めて得た仲間を——Fling Posse(ダチ)を心配しての行動ということか。
そうは思えど、その結論で終わるのはどうにも据わりが悪かった。どうしてなのかは、やっぱり謎のままだけれど。
幻太郎に訊けば、何か帝統が見過ごしていることに気がついてくれるだろうか。彼の症状が治らないことには尋ねようがなく、かと言ってこんな話を乱数に振るつもりもない。少なくとも、今のところは。
そんなことをつらつらと考えていると、電話口で乱数がため息をついた。
「わかったよ、幻太郎のことは帝統に任せる。代わりに全部解決したら、た〜っぷり話を聞かせてもらうから、覚悟しててよね!」
「おう、任せとけ」
「帝統は忘れっぽいから、日記でもつけといた方がいいんじゃないの?」
「いらねーだろ。んなことしなくても、だいたい幻太郎が覚えてるだろうしな」
「他力本願だな〜」
ゲンタローに講談料を取られても知らないよ、なんてからかわれて、そこは俺の交渉術の見せ所だな、と笑い返す。
乱数との他愛ないやりとりのおかげで、胸のつかえがだいぶ解れていた。
「明後日には、また適当に食料買っていくから。欲しい物があったら言ってね」
「助かるわ。ありがとな」
買い出しも、雑談も。
軽く返す帝統の内心を受け取ったのか否か、どーいたしまして、と明るく締めた乱数からは読み取れない。
それでも、少しも気にならなかった。帝統が投げたボールを乱数がその手で受け取ってくれたことだけは、間違いないからだ。
自分が話して、相手が返す。その声の調子を、この耳と頭で聞く。
表情の見えない電話でのやりとりであろうと、そのささやかな応酬が叶うだけで、こんなにも心が軽くなる。こんなこと、幻太郎がああならなければ改めて思うこともなかっただろう。
幻太郎は今、それらをすべて取り上げられているのだ。物語を書くという仕事に関することだけでなく、起きてから眠るまで、ずっと。
帝統は通話を終えたスマートフォンを仕舞うと、その場に立ち上がった。ぺたぺたと畳を踏み、幻太郎に近づく。彼の一人語り——ネタのストック作りは止まっていた。ちょうど、小休止しているのかもしれない。
表の方からは、学校帰りらしい女子が楽しげに談笑する声が聞こえていた。
「げんたろ——」
乱数が買い物してきてくれるけど、何かいる物あるか。
口に出せば一言で終わるそれを、どうやって彼に伝えようか。考えながら彼の肩に手を置いた瞬間、電流でも流されたようにその体が大きく跳ね上がった。
弾けるように振り返った幻太郎の顔が、驚愕や恐怖に満ちている。自分のミスに気づいて、血の気が引いた。
「わりぃ、幻太郎! 急に触っちまって」
賽の髪飾りも鳴らさないまま、普段どおりに接してしまった。畳を踏み締めるかすかな音は、おそらく表の雑談に掻き消されている。
今の幻太郎にとって、その耳に入る言葉はすべてが均一だった。声の高低も、大小も、近いか遠いかさえも関係ない。全部が全部、同じような水音に置き変わるのだ。
だからこそ帝統は幻太郎に近づく前に賽の髪飾りを鳴らして、己の存在を彼に知らせるようにしていたのに。
「ほんとに悪ぃ。びっくりしたよな」
幻太郎の隣にしゃがみ込んで、がばっと頭を下げる。すると、ほっそりとした指先が帝統の頬に触れた。幻太郎だ。
促されるように顔を上げると、彼は眉を下げて申し訳なさそうに笑っていた。
「すみません、大袈裟に驚いてしまって。貴方は何も悪くありませんから、そんな顔をしないで。ね?」
「な——」
なんでだよ、悪いのは俺だろ。
喉まで出かかった反論が、かろうじて口の中でつっかえる。
自分の気持ちのままに言い返したって、幻太郎には届かない。こちらの言い分を理解できない彼を余計に困惑させ、気落ちさせてしまうだけだ。
込み上げてきた思いを、奥歯で噛み砕く。そのまま衝動的に、幻太郎を力一杯抱きしめた。
「……っ、ごめん。ごめんな、幻太郎」
ありがとな、と笑ってみせられれば一番なのに。
わかってはいても、このときばかりは、どうしても実行に移すことができなかった。