生まれ変わり・元巨ネコ山とびょと牛島くんの真っ向コミュニケーション中総体が行われている体育館でその姿を見た時、最初に感じたのは不思議な"懐かしさ"。
まるで疎遠になっていた古い友人と再会したような、一緒に暮らしてた家族の顔を久しぶりに見たような、郷愁にも似た安心と少しの寂しさを伴う温かい気持ちが牛島の胸を締め付けた。初めて感じる体の異変に首をかしげてみたが、どうしてそう感じるのかはわからない。原因を知りたくて心の輪郭に触れようとした時、数メートル下のコートから響く怒号に遮られ、触れようとしていた輪郭が淡く溶けてしまった。階下に視線をやるとコート上では黒髪のセッターが、まだ少し高い声でチームメイトにあれこれと指示とも言えない不満をぶつけている。
及川の後輩で天才セッターの卵と噂のある選手だったので少し気になっていたのに、あれではと呆れてしまう。スパイカーも言い返せばいいのに、何も言い返さず黙っているからチームの雰囲気がどんどん悪くなっていくのがコート外からでもわかった。
これ以上ないくらい眉間に皺を寄せて怒る姿は、上手い下手以前に選手としてどうなんだと呆れてしまうが、その不機嫌な姿にすらなぜか「懐かしい」という気持ちが溢れだす。
気に入らないことがあるとすぐに怒っては文句を言い、時に興奮しすぎて爪を立てることも噛むこともあった。まさかチームメイトを噛む気じゃないだろうな、とそんな心配が脳裏を過る。しかし、バスの到着を告げに来たチームメイトに名前を呼ばれると今まで考えていたことや懐かしさが泡のようにはじけて消えた。一気に興味が失せ、コートから視線を外しチームメイトの元へ向かう。
遠くから猫の鳴き声が聞こえた気がした。
2回目の邂逅は住宅街の道路だった。その姿に懐かしいと思う半面、大通りに面した道は危ないから早く家の中にいれなければと親心にも似た衝動が牛島を揺さぶった。けれど、初めて話す男子高校生を相手に「大通りは危ないから家に帰れ」と言うのは不自然だし、なら寮へと連れて帰るかと問われればもっと不自然だ。どちらにせよ今はロードワークの途中で、こちらに用がないのであれば学校へ向かわねばならない。少し待ったが何も言わないので背を向けると、影山が緊張を帯びた声が牛島を引き留めた。
偵察させて欲しいという真っ直ぐな言葉に「ついて来れれば」と返すと、生意気なことを言いながらストレッチを始めた。
アキレス腱を伸ばす姿を見て、つい「そんな短い足でついて来れるのか」と聞きそうになり、喉まで出かかった言葉をすんでのところで飲み込んだ。「短い足」なんて180前後ありそうな人間に言う言葉ではない。ただ、頭ではそうわかっているのに影山を見ていると、なぜか短くて小さな足を思い浮かべてしまう。ふわふわで丸く、ピンクの肉球が付いている小さな足。
牛島からボールを奪い宣戦布告した日向が律儀に頭を下げてから背を向け歩き出す。影山もその後へ続くのかと思いきや、それには続かずその場に留まると夕陽を背に牛島へ「及川を超える」と力強く宣言した。
牛島をじっと見つめる黒い目が、光の加減で青く煌めく。暁月とも宵の入りとも言えるその青に、戦いへの期待とは別に胸がざわめいた。なぜそう思うのか、その答えを牛島は多分もう持っている。なのに依然として輪郭は朧げで、掴めそうで掴めない。
どこからともなく猫の鳴き声が聞こえる。
素っ気なく去っていくその後ろ姿は、懐かしい愛おしさを纏っていた。
最後の春高から2年。すっかり忘れていた不可解で温かな懐古が再び胸のうちに戻ってきたのは、影山が後輩としてシュヴァイデンアドラーズに入団してきた時だ。
緊張した面持ちで監督の隣に立ち、入団と入寮の挨拶をする影山を見て最初に思ったのは「また一緒に暮らせるのか」だった。自然と浮かんだ感想だったが、そう思う自分にギョッとする。影山と一緒に暮らしたことなんてないのにそう思うのは変だ。けれどずっと影山に感じてきた懐かしさを鑑みれば、もしかしたら幼少期に交流があったのかもしれない。どちらかの家に泊まった記憶が「影山と暮らした」と錯覚させている可能性もある。そう考えれば全ての辻褄が合う。しかし、正常でありたいと思う牛島の希望的観測は、両親からの否定によって打ち砕かれた。薄っすら分かっていたが、自分が変であると認めざるを得ない。
とはいえバレーボールを軸にした日常は想像以上に穏やかで、2人の関係は「良好」といえた。
自分本位なプレーを捨てた影山は、これから世界で一緒に戦っていくことを確信させる頼もしいセッターに成長していて、セットアップや連携も順調だ。日常生活でも時折、頭を撫でたいという衝動に突き動かされたり、些細な行動にほのぼのさせられたり、心配から小言を言ってしまう以外は概ね問題ない。
周囲からは「親か!」「心配性の彼女みたいだぞ」「お前らって兄弟じゃないよな?」と言われたりもするが、当事者である影山は牛島が伸ばす手も小言も、周囲が不思議に思うほど当然のように受け入れていた。
牛島自身、なぜ影山がここまで牛島を許容するのかがわからない。ただ、撫でられて当然、心配されて当然と言いたげな涼しい顔を見ていると、牛島もこれは当然なのかもしれないと思ってしまうのだ。
月バリを読む牛島の右腕に頬を摺り寄せるようにして、影山が雑誌を覗く。首だけ伸ばし、四肢をだらんとベッドに投げうった姿は、だらしないというより大きな猫がリラックスしているようだ。視線だけで早く次のページをめくれと催促するので、ページをめくってやった。自分でめくれと思わないでもないが、この「やってもらって当然」という甘えが嫌いではないので、少しだけ困っている。
寮生としてチームメイトとして長く時間を共有していく内に気づいたのは、影山飛雄という人間がひどく猫に似ているということだ。
こうして時折、牛島の部屋にふらりとやって来ては何をするでもなく近寄ったり、逆に1番遠くの場所に陣取っては、何が楽しいのかじっとこちらを見つめていたりする。他にも窓の近くで日向ぼっこをしている後ろ姿に、しっぽの幻を見たのは一度や二度だけではない。
こうした仕草や行動を見る度、牛島の心は波立ち、あるはずのない黒猫と過ごした日々が脳内に再生される。
柔らかい濡れ羽色の毛並みに暖かな脈拍。大きな猫は青い瞳を爛々と輝かせ楽しそうに牛島を見つめ、時には文句を言う。
影山が入団してから約1年、妄想というにはリアル過ぎる記憶を持て余していたが、最近では「前世」と思うようにしている。
牛島の腕に頬を乗せたまま月バリを読む影山の後頭部に三角の耳が見える気がして、頭の丸みをなぞるように幻の耳を撫でた。
「お前は、前世というものを信じるか?」
ずっと胸にしまっていた荒唐無稽な言葉が口から零れ落ちる。影山は月バリから視線を外し不思議そうな瞳で牛島をじっと見つめた。気の強さがわかるつり目に部屋の照明が差し込み、濃紺が爛々と青く輝いている。
「俺、ずっとあんたとバレーボールしてみたかった」
「?」
「テレビで観てるだけはもう嫌だったんで、次は絶対同じコートに立ってやるって想いながら目を閉じました」
「影山?」
「同じ名前なのは神様のハカライ?ってやつらしいっす」
そう言った影山はベッドに両手をつき腰を上げ、猫のようにぐっと背を反らして体を伸ばすと軽い身のこなしでベッドを降りた。気ままな影山の背を見て、口が勝手に言葉を紡いだ。
「俺も、お前とバレーボールができたら楽しいだろうと思っていた」
何をと思ったが、振り向いた影山が驚きに瞳孔を開いた後、つうっと嬉しそうに目を細めた。そうしてどこから出しているのか、まるで本物の猫のように「んにゃぁん」と甘い声で鳴く。驚く牛島の顔を見て満足そうに背を向けた影山のその尻に、ご機嫌に揺れるしっぽが見えた。
けれどもう影山は人間なのだから、きっといつもの幻覚なのだろう。