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    n番煎じの乙が過去に行く話。五乙。
    いつか最後まで書きたい。

    ##五乙

    たった一言でこの世界は交わらない ハンガーに掛かっていたのはよく見慣れた、けれど知らない制服だった。半分開いたままだったカーテンの隙間から差し込んだ柔らかな日差しが、まるでスポットライトのように真っ黒な制服を照らしている。けれどこの特等席にあるのは、昨日までは別の色だったはずだ。
    「僕の……?」
     おかしいと首を傾げて、とりあえず声に出してみる。返事を期待していないそれは、部屋の中に虚しく消えていくだけだった。次いで、辺りを見渡してみる。小ざっぱりとしたそこは自分の部屋で間違いないはずなのに、何かが違う気がしてならなかった。けれど何が違うのか、上手く言葉にできない。感性の鋭さは呪術師としても大切な能力の一つであるのに、あと一歩のところで違和感の正体が掴めない。首を傾げながらぼんやりと、乙骨は制服を見つめることしかできずにいた。
     乙骨が寮での生活を始めて、一年近くが経っただろうか。呪術高専という特殊な環境にもただの学生とは少し違う学生生活にもだいぶ慣れて、呪術師として続く道をただひたすら前に進んでいる。呪いの女王に呪われ、守られているだけだった少年は、立派に呪いを祓う人間へと成長していた。周囲の想像を遥かに超えるほど強くなった少年は、黒の群れでまた、一際目立つ白を纏うようになっていた。
     資格の熟練度や武道の強さを表すものには度々、級や段といった等級制度が用いられる。同じように、呪術師も数字によってその強さを量る目安としていた。四級から始まり、数字が小さくなるにつれて強くなっていく。いちばん強いとされるのは一級だ。しかし実はその上が存在していて、何をどうすればそんな認定になるのか、取り敢えずは強さも何もかもがイカれた存在だと言われる彼らは『特級』と呼ばれた。それが、乙骨の今の等級だった。
     特級過呪怨霊を作り出すほどの呪力を自在に操るその隣には、呪いの女王とまで呼ばれた強さを誇る彼女はもういない。目標とする人が呪術師界の均衡を左右するくらいに馬鹿強い人であるがために正直なところ、自分はまだまだ実力不足な部分も多い、というのが本人の自己評価ではあった。しかしながら、信頼するに値しないと結論付けた上層部が乙骨の詳細な術式や出生について知らずとも、警戒が必要なほどの実力と認めたことに変わりはなかった。
    『憂太はまた特級に返り咲いたんだよ』
     自覚がないまま告げられた言葉は、乙骨よりもその同級生たちの喜びの方が大きかった。自分のためにひたすら走った結果が今である。与えられた等級は、所詮は他者の評価でありまだ足りないとす思っていた。けれど師と仰ぐ人が乙骨の特級昇格を嬉しそうにしてくれて、まるで悪戯を企てる共犯者を見つけたように楽しそうに笑ってくれた。そして目標とする背中を追えるくらいには、近づくことができた。それが純粋に、嬉しかった。
     制服の色を変えたのは、乙骨なりのけじめだった。今度は見つけられるようにではなく『見つけてもらえる』ようにするため。黒の集団の中で、白い制服を着ることを選んだ。最初にその人に与えてもらった色をまた着ることは、まるで背中を押してもらっているような気持ちにもなれた。
     プライドとかそういうのは、乙骨にはわからなかった。けれど、掛かっていた黒い制服を見たときに頭を殴られたような衝撃を受けた気がした。それと同時に、なぜかこれが自分のものだというのもわかっていたのだ。当たり前のようにこれは自分のもので、早く着替えて行かなくちゃ、と時間を気にした。だから余計にわけがわからないと、制服を見つめながら一人混乱していた。
    「起きてますか?」
     コンコン、とドアをノックする軽い音。同時に、誰かが名前を呼んだ。知らないはずなのに、知っている声。それが丁寧な声色で、乙骨、と紡いだ。
    「まだ寝てるのかな? おーい、朝ごはん食いっぱぐれちゃうよ」
     乙骨、とまた、今度は間延びした声でドアの向こうから呼ばれる。ここ数ヶ月で聞き慣れた声。それが乙骨を安心させ、そして堪らなく不安にさせた。
     違う、いつもみんなそんなふうには。
     スッと米神から、冷めたい汗が流れていく気がした。そういえば自分の服装だって、昨晩のそれとは違う。まだ肌寒くて、風邪をひかないようにしなきゃね、なんて笑いながら厚手のスウェットで布団に入ったはずなのに。しゃけ、と不思議な単語で会話する彼が、風邪引くなよ、と笑っていたのはつい昨日の話なのに。まだ活躍するはずだった少し重めの掛け布団は、柔らかな薄手の毛布に取って代わっていた。
     けれど、ドアの向こう側の声が嫌な感じがするのかといわれれば、そうでもなかった。本気で心配するような、優しい声。名前の呼び方なんて関係ないくらいの、親しい距離感。安心するようなそれはやっぱり、知らないはずなのによく知っていた。
    「ごめんね。ちょっと寝坊しちゃった」
     カチャ、と小さく音を立てて開けたドア。そこにいたのは、乙骨と同じくらいの身長の、同じ色だけれど形の違う黒を纏った二人だった。どちらも少し心配そうな顔で乙骨のことを見ていて、それに申し訳なさとじんわりと嬉しさがこみ上げる。
    「どっか具合悪い?」
    「ううん、大丈夫だよ。七海くん、灰原くん。すぐに着替えるから先に行ってて」
     告げれば目の前の二人はホッとした顔で、待ってます、と笑う。乙骨もそれに笑って手を振り、二人の背中を見送った。
     袖を通した黒の制服は、きちんと乙骨用に採寸して作られたのだろう。身体にピッタリとフィットするそれのデザインは、以前、乙骨が四級落ちしていた数ヶ月に着ていたものと同じだった。
     部屋の場所は同じ。窓から見た景色は季節だけが少し違っているようだった。まだ雪の心配がある季節だったのに、桜はとうに散って青々とした緑が風に揺れている。昨日よりも高く感じる空はよく晴れていた。寮には部屋がいくつもあるくせに、空室が目立つ。食堂や休憩室の場所も同じ。ただし、待っていた顔ぶれが違うように、ここで生活する人々の顔ぶれも恐らくは違うのだろう。洗面所で確認した自分も、昨日よりも髪が少し短く自信なさげな、どこか冴えない顔をしていた。
    「本当に大丈夫?」
    「うん、寝ぼけてただけだから」
     心配そうな顔をする黒髪は、灰原だ。笑いかければ、それでもまだ心配そうな顔をしている。普段はニコニコと人好きのする笑顔を見せてくれるのに、と乙骨は存在しないはずの記憶を探りながら苦笑いした。サラリとしたブロンドは七海だ。灰原と比べると、ずいぶんと表情筋は固い。口数も多くはなく、黙々と朝食を食べている。けれど、さり気なく乙骨たちの会話に聞き耳を立てているのがわかった。
     穏やかで、優しい。性格は違えど一緒にいて心地の良い二人だ。心配性だなあ、なんて笑いながら乙骨がサンドイッチを頬張れば、そんな二人の表情が小さく綻んだ。じわりと心が暖かくなるのを感じ、いつも朝は進みの遅いサンドイッチの盛り合わせも、今日は早く完食できそうな気さえした。
     呪術高専に入学して、二ヶ月が経った。呪いどころか心霊現象といった類のものとは縁遠い生活をしていた乙骨が、呪術師として勉強し鍛錬に励んでいるなんて何があるかわからないものだ。中学生のときに読んだ、階段下の物置に住んでいた少年もこんな気持ちだったのか。そんなことを稀に考えてみるが、呪力量が人より多いだけで、乙骨には有名な傷があるわけでも頭のいい優等生なわけでもない。物語の主人公でもメインキャラクターでもないが、それなりにこの異端な世界で頑張っている。
     教えてもらって初めて、今まで素通りしていた呪いというものが実は乙骨にも見えるものだということを知った。いや、予兆はあった。幼いころに怯えていた怖い影は、皆空想の生き物なんだよ。そう両親に教えられ、見えているはずのものも空想なのだろうと見えないふりをしていた。それが、まさかの空想ではなかった。
     線はまだまだ細いが、運動神経は悪くはない。けれど、とにかく慣れないことが多い。それでも生徒数は極端に少ない中で、適性があると見込まれて乙骨はここにいた。優秀な問題児の二年に、稀に軟弱だなんだと絡まれることもある、が。
    「……え?」
    「ん?」
    「どうしたんですか?」
     次のサンドイッチが口に入る代わりに、ポツリと零した言葉。小さなそれを二人は逃すことなく掬い上げ、乙骨のことを心配そうに見ていた。休んだ方がいいんじゃない? 言葉にしないが、灰原の表情がそう、訴えているように見えた。七海の表情はやっぱりあまり変わらない。けれど今にも、乙骨を引きずって医務室か寮へ向かいそうにも見えた。
    「……はは。ちょっと、変な夢見て思い出しちゃっただけだから」
     空笑いと、微妙な沈黙が場を支配する。暫し二人とにらめっこを続け、乙骨の意思を尊重するように各々の朝食に向き合った二人の表情はやはり納得はしきれていない様子だった。
     いつもこうして心配してくれて、自分が取り残されないように掬い上げてくれる。ポツリ心の中で呟いて、乙骨はやはり、首を傾げたのだった。
     自分は乙骨憂太である。
     これは、恐らくは間違っていないだろう。二人から『乙骨』と呼ばれているのはもちろん、名前も、朝使ったタオルにはきちんと『乙骨憂太』と記載されていた。入学するときに、自分で自分の持ち物一つ一つに、丁寧に名前を書いた記憶もある。けれどこれは恐らくそれは、自分でも知らない乙骨の記憶だった。
     たまごサンドが消え去った、空の皿を見つめる。自分が自分でありながら、知っている記憶に混じって知らない記憶がきちん自分のものとして存在していた。隣に座るのは、灰原雄。乙骨と同じ一般家庭出身で、妹がいるからか意外に面倒見がいい。同じく妹がいるはずの乙骨とは大違いだ。人懐っこくて、最初に声をかけてくれた人である。向かいに座るのは、七海建人。少し無口ではあるけれど、優しくて困っているときにさり気なく助けてくれてーー。
    「え……?」
    「んん?」
    「……やっぱり、おかしいじゃないですか」
     七海を見つめながらポカンとしていれば、さっきとは違う少し呆れた顔が乙骨を見ていた。その顔をジッと見つめる。七海、ななみ、ナナミ。心の中で唱え、目を見開く。
    「七海、建人……さん?」
    「どうしたんですか。いきなり仰々しい」
     怪訝そうな顔をした七海の顔には、乙骨のよく知る七海建人の面影があった。当たり前だ。恐らくは同一人物なのだから。
    「携帯忘れてきちゃったんだけど、時間見せてくれるかな?」
    「……いいですよ」
     差し出されたのは、ツルリとした二つ折りの携帯電話だった。乙骨が小さいころに父や母が使っていたものに似ている。今でも使っている人はいるけれど少数で、そしてそれよりも厚みがあった。カチリ、と音とともに恐る恐る開けば、粗い液晶画面に並ぶデジタル数字。それが、まだ朝であることを告げていた。その下には、日付と曜日が並んでいる。残念ながら、西暦をみることはできない。けれど想像していたとおり、季節は春から夏に少しずつ移り変わるころだった。
     部屋に戻って改めてカレンダーを確認すれば、そこには二〇〇六年と書かれていた。それが本当であれば、本来であれば乙骨はまだ、五歳のはずだ。けれどどう考えても今の自分は五歳児ではない。高校一年のこの時期であれば、まだ一六歳ーーいや、もしかしたら一五歳なのかもしれない。
     呪霊の仕業か。けれどそれらしいものに何かをされている気配はない。微かに呪力は感じるものの、そいつのせいなのか、または学校関係者の誰かのものなのかがいまいちわかりかねていた。
     ずっと一緒にいた里香が特級過呪怨霊と呼ばれる呪いの中でも強力な類のものだったがためか、以前の乙骨の呪いを感知する精度は磁石の狂った方位磁針のようだった。四級も準二級も呪力の差がわからなかったし、近くにいると思って身構えれば里香のそれである。彼女を解呪してからずいぶんと精度は上がったと思っていたが、どうやらまだそうでもなかったらしいことにガックリと肩を落とした。
    「授業……サボっちゃった」
     ついでに、きっと自分一人のために授業を開いてくれるはずだった顔馴染みの知らない教師にも悪いことをしてしまったと、少しだけ胸を痛めていた。
     食堂を後にすると、七海と灰原は任務があると言って出かけて行った。呪術高専は呪術師としての任務も授業と並行して行われるため、こうして授業を休み任務へと向かうことも多い。二人とも、今日は先輩術師の任務に同行すると言っていた。
     実のところ、乙骨にも同じ予定が入るには入っていた。けれど気紛れな先輩術師が昨日のうちに一人で任務を片付けてしまったため、急遽の予定変更となったのだ。だから本来であれば、今ごろ教室で乙骨のためだけに行われた授業を受けていたはずである。けれどどうにもそんな気にはならず、部屋でゴロゴロとベッドに転がっていたのだった。
    「今日の、任務って」
     ゆっくりと、思考を巡らしていく。一七歳の特級呪術師である乙骨憂太の記憶を。呪術高専に入学したばかりの呪力の扱いもまだ未熟な乙骨憂太の記憶を。
     呪われた自分を受け入れてくれた同級生たち。
     優しくて頼りになる同期の二人。
     いつもふざけているけれど、誰よりも強くて優しい先生。
     優秀なくせに素行が悪いと怒られてばかりいる二年生たち。
     乙骨が任務を同行するはずだった人。
     本心まで隠すように目元を包帯で囲って、楽しそうな笑い声を上げる人。
     スラリと高い身長に、黒の中で目立つ髪色。
     真っ黒なサングラス。その奥にある、まるで晴れ渡った空のような色。
     そこまで考えて、乙骨は慌てて部屋を飛び出した。
     廊下を走りながら、思いだす。あの七海建人が同級生であるということ。七海には、曰く素行の悪い優秀な先輩が三人いたということ。その人たちを乙骨はよく知っていた。チラリと脳裏を過ぎった顔は、どちらの彼だったか。わからないが、彼に会えれば今この状況を打破する何か糸口がみつけられるかもしれない。
    「先生!」
     校舎中を探し回ってようやく見つけた人は、知っているのよりも僅かに華奢で包帯ではなくサングラスをしていた。いつだったか一緒に出かけたときに、そんな格好をしていたのを思いだす。振り返って乙骨を見下ろした顔はポカンとしていて、それがゆっくりと歪んでいくのがわかった。
    「はぁ?」
     よく知っている顔。恐ろしくキレイで、けれど乙骨が知っているのよりも少しだけ幼くみえた。サングラスをずらして見えたのは、キラキラとした真夏の青空みたいな瞳。それが怪訝そうに曇っている。ヤンキーってこんな感じなのだろうか。見下ろしてくるどうにもガラの悪い人を見上げながら、そういえば自分はこの人がずいぶんと苦手だったのを思い出していた。
    「あ……えっと」
    「先生を『お母さん』って呼ぶやつの亜種かな?」
     乙骨が固まったままで次の言葉が出せずにいれば、助け船なのかもよくわからない言葉が降ってくる。視線をそちらに向ければ、人としてはよくは知らないがある意味では自分の人生を変えた一人とも言える男が、困ったように笑っていた。
    「間違えるかよ、普通」
    「えっと、あの……すみません」
     五条さん、と慣れない呼び方をして、とりあえずへにゃりと笑って見せる。するとキレイな顔には、うざったいやつ、と言いたげな表情が貼りつけられていた。今まで見たことがないような、本気で邪険にするような顔。同じ人なのにまったく違って、尊敬する人なのに苦手に感じてしまう感情が居た堪れない。
    「別に乙骨も悪気があってのことではないんだし、可愛い間違いじゃないか」
     そんな気持ちをまるで払拭するように、五条の隣にいた人がーー夏油が笑う。少しからかい気味の笑い方も楽しんではいるけれど、人を無碍にしているわけではない。そういえば、五条と夏油が知り合いだったのはなんとなくわかっていた。そうか、同級生だったのか。ぼんやりと思い起こしながら、自分はこの人に懐いているらしいという情報がふと、頭の中にチラついた。
     五条悟は、傍若無人が服を着たような人間だ。
     誰が言っていたのかは、覚えていない。けれど、乙骨の知る五条の評判といえば、概ねそんな感じである。自由奔放で無理難題を人に押しつけ、まるで好き勝手やっているようにいう人もいた。
     けれど、乙骨の五条に対する印象は少し違っていた。確かに子供みたいに自由に振る舞っているようにみえるけれど、些細なことにまで気を遣い、決して乙骨のことを取り零さずに掬ってくれた。無茶をいっているようで、微妙な塩梅で手を引いてくれる。わかりにくいくらいに優しくて、それが少しだけ、寂しくなるときがある。
     見た目も中身も、儚さとは無縁な存在だ。けれどいつかふと、消えてしまわないか不安になるときがあった。飄々としていて人に託して背中を押すくせに、自分への執着はあまりないようにも見えた。
     まるで、いついなくなってもいいみたいだ。
     いつだったか乙骨の部屋を見てそう零した五条の言葉は、そのまま五条にも当てはまる気がした。もちろん、誰にも負けるつもりはなさそうだし、殺してもそうそう簡単に死んだりはしそうにない。けれどふとした瞬間に怖くなって、どこにもいなくなってほしくなくて、その手を取りたいと努力をした。
     じゃあ、目の前にいる五条悟は。
     今の乙骨憂太は、五条悟に対して『苦手な先輩』という情報しか持ち合わせていなかった。力量から考え方まできっと住む世界が違っていて、優しく接してくれる夏油や別け隔てなく接してくれる家入がいるとホッとしていた。それが悲しくて、寂しかった。目の前にいるのは、つい先程『頼れるかもしれない』と期待したその人ではなかった。
    「あの、すみませんでした。今日同行するはずだった任務、五条さんが片付けて下さったって聞いてて……お話を聞ければなって」
     おずおずと言葉を紡げば、五条はさらに怪訝そうな顔をする。雑魚すぎて覚えてないわ、と冷たくすらない声色で放たれた言葉に、乙骨は小さく肩を強張らせた。どうして担任は、学年でいちばん軟弱な乙骨をあの五条悟に同行させようと思ったのか。
    「ごめんね、乙骨。今、悟の虫の居所が悪いみたいで」
     背を向けてスタスタと先に行ってしまった五条に何も言えずにいれば、申し訳なさそうな顔をした夏油が謝る。なぜこの人が謝るのか。
     五条は夏油に多大な信頼を寄せ、まるで心の一部をそこに置いているようにも見えた。夏油もそれをしっかりと受け入れ、しっかりと隣を歩いていた。そこには、一人でポツンと呪術師の世界を思う五条の姿はなかった。高慢で、隣に夏油がいてくれればそれでいい。そんな甘えた子供のような五条しかいなかった。


    **
     どうしてこんなことになってしまったのか。呪霊の見せる幻覚か、それとも本当にここは過去の呪術高専なのか。目が覚める前はどうしていたのか。乙骨は思い出す。任務を午前中の間に終えることができたから、午後は授業に出席した。授業が終わると五条に頼まれて、狗巻と一緒に資料室の片付けをした。のんびりとしていて、本当に学生みたいだ、と呟いたら狗巻に笑われたのを覚えている。
     資料室には呪霊や呪い、過去に行われた任務の記録など様々な類の資料がおいてあった。ふとその中の一つ、呪いに関する史実をまとめたものに興味を持った。乙骨は、別に特別読書が好きなわけでもない。慣れない呪いの世界に関することは、実践と五条のうんちくで賄うことができていた。だから特段、自分からそういった類の書物を求めることはしなかったのに。
     けれど昨日は違っていて、五条に確認してそれを部屋に持ち帰っていた。資料のタイトルは言わなかったが、後で戻せばいいよ、と簡単に借りてこれたそれ。読んでいるうちに意識を失っていたようで、気がつけばこの様だ。
     資料は呪術高専について書かれていた。二〇〇六年、新入生二名、二年生三名、三年生……と続き、生徒たちの請け負った任務やそのときに出た負傷者についてなどがまとめられていた。内容はあまり覚えていないが、ウトウトと船を漕ぎながら感じたフワリとした呪力を思い出す。大して強くもないそれは、包み込むように乙骨の周りを漂っていた。呪術師なのだから祓えばいいものを、低級だろうと睡魔を優先したのが徒となったか。
    「思い出した……」
     微かに感じていた呪力は、確かに睡魔の中で感じたそれと同じだった。
     元に戻るためには、呪いを祓う必要があるだろう。乙骨は考える。この光景は呪いの見せる幻覚なのか、この記憶は誰のものなのか。人間が本当に過去に行けるとは思わないが、例えば『禁忌』としてそんな呪いがあるのだろうか。どう動くのが正解なのかは、まだわからない。とりあえずは、この世界に見を置いて情報を集めるのが妥当だろうか。
     五条と会ったあと、再びベッドに転がってあれこれと考えていればいつの間にか外には夕日が差していた。結局、風邪でもなんでもないのに休み倒してしまった授業に申し訳なさが募る。任務から帰ってきた灰原が、控えめにドアをノックしながら様子を伺ってきたのは知っている。もしかしたら、七海もいたかもしれない。けれど寝ているフリをして、その場をやり過ごした。
     呪いか現実かもわからないこの世界で、幻覚か人間かもわからない人たちなのに。しっかりと罪悪感は感じるのだな、と乙骨なんて暢気なことを考えいた。まるでちゃんとこの世界を構成する人間の一人であるみたいなのは、今よりも一回り以上若いけれど知っている人たちばかりだからか。
     ベッドに転がっていただけで、別に睡魔が訪れることはなかった。一日引きこもって鈍った身体を解すために、部屋を抜け出し日の落ちかけた中庭へと出ていった。じんわりと汗が滲むような暑さは少しだけ和らぎ、髪を揺らしていく穏やかな風が心地よかった。
     中庭には花壇がある。心優しい友人がいつも水やりを欠かさないそこには、小さな蕾がいくつも並んでいた。今、目の前にあるそこは、まだ小さな目がいくつも並んでいる。乙骨は植物に詳しいわけではない。けれど、去年見たひまわりのそれに似ているような気がした。
     自分の、本物の記憶。そして誰のかわからない、自分のみたいな記憶。少しずつ遡っていくうちに、二つの記憶が混じってどれが本物なのかがわからなくなってくる。
     呪術高専に来てから乙骨は、稀に交わす妹とのメッセージくらいしか親族と呼ばれる人たちとの交流はない。それだって、頻度が高いわけでもやり取りが続くわけでもない。妹の誕生日にお祝いのメッセージを送って、次にやり取りをしたのは乙骨の誕生日だった、なんてくらいだ。きっと他から連絡が来ることはないし、登録だけはしてあるが乙骨から連絡をすることもないだろう。それでも、今の小さな繋がりだけで十分に満足だった。
     なのに今、二つ折りの使い慣れた知らない携帯電話には妹から意外のメールがいくつも並んでいた。そのどれもが『元気にしてる?』と言った生存確認のような簡易的なものだ。非術師の彼らがどんな説明を受け、どんな気持ちで乙骨を送り出したのか。正直なところ、わからない。けれど、暖かくてすぐったい感じと、胸がムカムカと気持ち悪くなるような得体の知れなさ。そんなのを乙骨は感じていた。
     思い出される家族に纏わる記憶も同じだ。テレビで見るような、なんでもないぬるま湯のような光景。それが当たり前で、知らないもので、気持ち悪い。もしかしたらそれは、少し前の乙骨であればもう少し興味のあった日常なのかもしれない。友人と談笑し、部活動に励み、家族揃って温かい夕食を食べ、温かい一番風呂の争奪戦を妹と行う。けれどどれも、今の乙骨にとってはどうでもいいものだった。自分とは無縁なものだった。
    「……里香ちゃん」
     いらぬ記憶避けるようにして、彼女のことを思い出してみる。彼女が亡くなってから、解呪するまでの数年間。この世界にはそんな記憶は存在しなかった。それじゃあ、それよりももっと前。同じ学校で一緒に帰ったり遊んだりしたこと、もらった指輪、嬉しそうな笑顔。この世界のどこにも、存在しない。
     肺炎で入院した記憶はある。そこで長い髪の少女が目に留まった記憶も。けれどすぐに看護師に呼ばれて、乙骨が彼女に話しかけることも彼女が乙骨に気がつくこともなかった。
     ほんの、些細なできごとである。
     看護師に呼ばれ素直に従った乙骨がその後、彼女に再び出会うことはなかった。もしかしたらすれ違うくらいはしていたかもしれないが、二人の時間が交わることはなかった。だから、以後の記憶のどこにも彼女がいない。もしかしたら、交わらなかったことによって今も彼女はどこかで元気に過ごしているのかもしれない。彼女が生きているのであれば、それは嬉しいことである。なのに胸の奥がザワリとして、戸惑いと不安でいっぱいになる気がした。
    「何ぼんやりしてんだよ」
     よく知った、けれどどこから荒っぽい声に振り返る。そこには、今はなんとなく会いたくなかった人がいた。ゾウの描かれたパックのミルクティーをズズッと吸いながら、怪訝そうな顔で乙骨のことを見ている。
    「……五条、さん」
    「げ。泣いてんのかよ」
     今さらホームシックにでもなってるわけ? 面倒臭そうな声がそう、乙骨に向かってやる気なく投げられる。頬を触れば確かに湿っていて、自分が泣いていることにようやく気がついた。
    「弱っちいから帰りたくなった?」
     サングラスの向こうに見えるのは、感情のこもらない瞳。それがじっと乙骨を見つめている。
     この世界の乙骨は、驚くほどに弱くて未熟だった。特級だバケモノだなんて力は見る影もなく、精々、非呪術師の学生と比べれば少し運動神経がいい程度。知識を詰め込めど身体は追いつかず、膨大な呪力も宝の持ち腐れ。優秀な同級生二人を追いかけるのがやっとだった。
    「……嫌です。帰りたくない」
     けれど、途中で投げ出すのは嫌だった。別にヒーロー願望があるわけでも、人助けをしたいわけでもない。けれど呪いや呪術だなんて無縁の場所とは違う世界を知って、気がつけばそこに飛び込んでいた。飛び込んだそこは、初めて自分から選んだ居場所だった。
    「ふーん。まあ、頑張ればいいじゃねぇ? 弱いやつは嫌いだけど、お前の粘り強さ、嫌いじゃないし」
     やっぱり、素っ気ない物言い。それに居心地悪く感じていれば、ポンッと何かを投げられて慌ててキャッチをした。見れば、五条が飲んでいるのと同じパックのミルクティー。ポカンとしていれば、五条はかったるそうな顔をしながら乙骨に背を向ける。
     優しいのに、わかりにくい。やっぱり人の根っこは、そうそう変わることはないのかもしれない。そんなことを考えながら、ストローを刺して甘ったるいミルクティーを啜った。
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