やっぱり関わるものじゃないですね「憂太にはさぁ。色々な世界を見て、経験してほしいんだよね」
目元を覆ったアイマスクのせいで、本来であれば顔の中でいちばん感情を語る場所の表情はわからない。けれど、大きく弧を描いた口元が、弾むように雄弁に語る声が男の機嫌の良さを物語っていた。
溶けきれているのか疑わしいほどに砂糖を混ぜたコーヒーとは名ばかりの液体を啜りながら、男はーー五条悟は豪快に笑う。
何がそんなに面白いのか。眉をしかめたくなるが、乙骨憂太の話をするときの彼はだいたいがこんな感じだ。だから七海は、言葉の代わりに溜息だけ吐き出しておいた。
春の初めは別れの季節である。呪術高専も『高等専門学校』と名前のとおり一応は教育機関であるために、卒業式というものが行われる。
卒業後の進路はといえば、大体が決まっている者ばかりだ。呪いだ呪術師だなんて稀有な学びと実戦の先で、いくら一般教養も嗜んでいるとはいえ、それ以外の道に進む者の方が少なかった。
活動の拠点も、他に属する場所を探さずともそのまま呪術高専で任務を斡旋してもらえる。だから卒業したからといって、そこに集まる顔ぶれはあまり変わらない。互いに、生きてさえいれば。
今年も、歴代稀有の粒揃いと言われるまでの生徒たちが卒業を控えていた。そのうちの一人、乙骨憂太に対し、五条が並々ならぬ感情を抱いているのを七海は知っていた。いや、七海だけではない。五条と関わりの深いものであれば、あらかた知らぬ者はいないのではないだろうか。本人を除いては。
特級過呪怨霊に呪われ、解呪後四級から特級に僅か数ヶ月で返り咲いた異例の経歴の持ち主。乙骨憂太という人間は、今や呪術界最強と言われる五条悟に最も近い人間としてその名を知られていた。
五条も自ら『秘蔵っ子』と称するほどだ。卒業後の進路など一つしかないだろう。それがまさか、五条の口から進学を進めるだなんて。
「……何を企んでいるんですか、一体」
そう、邪推してしまうのも無理はないだろう。なにせ、あの五条悟である。七海にとっては、実力は認めるがこの世でも片手に入るほど尊敬できない人間の一人だ。それが、まさか可愛い秘蔵っ子をそうやすやすと手放すなんてことは。
「相変わらず失礼だなぁ、七海も。こう見えても、僕は憂太のためを思って色々考えてるんだよ」
返ってくる言葉はずいぶんと軽く薄っぺらい。まるでペラペラのティッシュペーパーのようだ。サングラスの奥で訝しげな顔をして見せれば、五条はカラカラと笑っている。
「まさか。この僕が、憂太を無理やり縛りつけてでも手元に置いておくだろうなんて考えてるの?」
その言葉に、七海はゆっくりとまばたきをする。無言の肯定。それに五条は、酷いなあ、とさらに声を上げて笑う。
「そんなの意味がないだろう? 憂太が、自分から、選ぶんだよ。僕を」
クツクツと不敵な笑みを浮かべながら、高かった声のトーンが急に落ち着く。ぞわりと背筋を悪寒が走った。
子供の意思を尊重するふりをして、この人であればそう仕向けさせることも造作はないのではないだろうか。七海は相槌の代わりに、深く溜息を吐き出した。
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「七海さん、お疲れさまです」
名前を呼ぶのは、柔らかな声。振り返らなくても、それが誰なのかはすぐにわかった。
「乙骨くん」
こんにちは、と会釈をすれば、ピタリと目の前まできて乙骨も深々と頭を下げている。律儀で、素直なところは初めて会ったころから相変わらず。本当に五条の親戚なのかと疑いたくなるほどである。
邂逅は、まだ彼が四級のころだったか。一級案件の任務に同行させろと五条に言われ、重症を引き摺って帰ってきたのはなんとも今でも心臓に悪い思い出だ。
乙骨には悪いが、二度とこの師弟に関わるまいと心に誓ったのもそのときである。それくらいに、二人の関係は七海にとって異質に写った。なにせ、期待のかけ方も応え方も命がけだったのだから。
それは見ていて気持ちのいいものではなかった。けれど、だからといって止めるというのもどこか違う気がして憚られた。五条悟という目標に向かってただ真っ直ぐに進む乙骨の目を見てしまったら、それが野暮だ思わざるを得なかったからだ。
だから、こうして会えば挨拶を交わして他愛のない世間話をする。それくらいの距離感をずっと保っていた。今日までは。
「聞きましたよ。大学への編入を進められたそうですね」
そう口を開いてから、七海は自身のお節介さに内心呆れていた。七海は別に、ここの教職員というわけではない。ただの呪術師だ。生徒一人の人生に関われるほど、彼らと時間をともにはしていなかった。
なのに素通りしてしまうことができなかったのは、七海がそれだけ乙骨憂太という青年に好感を持っていたからかもしれない。
七海の言葉に、乙骨は困ったような笑顔を見せる。五条に振り回されているときのそれと同じに見えた。
「七海さんは……確か、編入して一般企業に就職されたんですよね」
七海よりもほんの少しばかり低いところから、柔らかな笑みが見上げてくる。任務のときに纏う、ひんやりとした空気とはずいぶんとギャップがある。その姿を見ながら、やっぱりこの子は五条の親戚なのだと、なんとなしに実感させられる気がした。
そうですね、と乙骨の言葉に返事をし、一間置いて再び口を開く。飛び出したのは、自分でも思わぬさらなるお節介だった。
「みんなが君を『特級』だと囃し立て、頼りにしているのか押しつけているのかわからない扱いばかりする。けれどここを卒業したからって、所謂『普通の生活』をしちゃいけないわけではないんですよ」
まるで独り言のように呟けば、大きな瞳がキョトンと見上げてくる。まだ、どこか幼さなの残る表情が余計に、七海の老婆心を掻き立てたのかもしれない。
戻ってきたからこそわかる、この世界の異質さ。
まだ十代の子供たちが命を賭して戦い、そして無惨にも散っていく姿は、この世界ではなんら珍しいことではなかった。
確かに。同じく命をかけるヒーロー漫画の主人公たちは、中学生や高校生たちが大半だ。歳を重ねて思うのは『大人たちは何をやってるんだ』という小さな苛立ち。それは、まさにその大人たちの立場に立っている自身にも向かってのことだった。
それでも。この世界でしか呼吸のできない者もいる。この世界で駆け抜けるために飛び込んでいく者も。じゃあ、と乙骨を見たときに、あまりにも五条の印象が強すぎて本人の感情がどこか見えない気がしてならなかった。
「ありがとうございます。けれど、進学はちょっと違うかなって」
ふっと、乙骨の表情が和らいだ。大丈夫です、先生とは無関係ですから、と。紡いだ顔はやっぱりどこか、困ったような笑顔だった。
「七海さんは……どうして戻ってきたんですか?」
「それは……」
「多分、同じです」
その言葉を聞いてようやく、そんな表情をさせていたのは自分が原因だということに気がつく。七海もまた困ったように笑いながら口にしようとした謝罪は、ゆっくりと首を横に振られて遮られてしまった。
ああ、多分あの人と同じ扱いを今、されているのかもしれない。そんなことを密かに感じて、七海は小さく苦笑いをした。
「何かあれば、いつでも相談してください」
ありがとうございます、と帰ってきた言葉はどこか生き生きとして聞こえた。そのまま、去っていく背中を七海はそっと見つめていた。