御堂筋翔の教室へ初めて訪れた時、石垣光太郎は柄にもなく緊張していた。
後輩の教室への出入りなど部を取りまとめる石垣にとっては日常茶飯事。部外の後輩たちまで『ちわ! ノブに用っすよね、呼びましょか?』と話しかけてくれるほど、気負うことのない行動だった。
だのに、御堂筋翔。一年で、デカいのに痩せ細っていて、入部したばかりの……。御堂筋に対してだけは、石垣はどうもいつものようにいられずにいた。
(いや、『いつものように』は求められてない、か……)
ついこの間のことだった。石垣は御堂筋を相手にエースの座を賭け勝負し、負けた。インターハイでの3日間完勝を提示した代わりに御堂筋が定めたルール。御堂筋を絶対として全てに従うこと、チームメイトはくん付けか番号で呼ぶこと。
前年の部長から引き継ぎせっせと築き上げてきたチームメイトの絆は今やうすら寒い空気へと変わりつつある。けれど、石垣は未だ染まりきれないままでいた。
だからこそ、今石垣の手には、例年行う新入部員歓迎会を含めた合宿の要項をまとめたプリントがある。
ロードサイクリングはチーム戦だ。チームメイトとしての絆を無に帰しても、実際問題ゴールまでにはエースを引く人間が必要となる。だからこそ御堂筋も部を必要とした。けれどその引く、引かれるお互いがお互いを知ることは決して無駄ではない、相手のために我慢できる力になる。ならば合宿も決して無意味にはならないはずだ。
御堂筋の首を縦に振らせる、石垣はそう己を奮い立たせ、御堂筋の教室までやって来たのだった。
しかし他の後輩の手前「御堂筋クン」と呼ぶのも座りが悪く、石垣はつい半分開いた教室の扉から中を伺ってしまう。
そうして覗いた先で、石垣はすぐに御堂筋を見つけた。御堂筋は細いが手足が長く背も高い。教室の中は様々なことをする後輩たちで分かれていたが、たったひとり机に座り黒板を見つめる御堂筋はひときわ目立っていた。
御堂筋が1人でいるのは先輩として心配もあるが、クラスメイトと話していたら話しかけづらかっただろう。石垣はずんずんと教室へと踏み込んだ。視線と囁き声を集めたまま、石垣は御堂筋の横に立った。
「あー、御堂筋…くん。ちょっとエエか?」
「なんや石垣クン、わざわざ1年の教室まで来て」
ぐるん、と御堂筋の首が回る。この後輩は変なところで人を驚かせる節がある。重要なプレゼンを前にした時のように石垣は生唾を飲み込んだ。
「…毎年やっとるんやけど、新人歓迎会を兼ねて合宿しようと思うんや。ホラちょうどサイクルレースがあるやろ、肩慣らし言うか、1年の初めてのレースにちょうどエエし」
今年入部した1年はそう多くはないものの、全てが御堂筋のようにずば抜けた経験者というわけでもない。石垣は例年通り、まずはロードの楽しさを知ってもらおうと思っていた。
どこか焦りのある石垣を、御堂筋は細めた目で一瞥する。
「アァ合宿な。エエで。他の詳しいことは部室で話そうや。諸々の手配もその後でな」
首をたわませて笑う御堂筋は不気味としか言いようがないが、提案が退けられなかっただけで石垣はホッと息を吐いた。
「おお、じゃあまた放課後に」
声をかければ、御堂筋はすぐに黒板の方を向いてしまう。つられるように、石垣もまた黒板を見た。
「なんやこれ…すごいなぁ」
思わず声が出た。
日付、日直の名前。使われているのがホワイトボードでない上に未だにこれらを踏襲した伝統的な黒板に書かれていたのは、午後の小テストの範囲だった。京都伏見は自転車部がそうだったように校風自体も和気藹々としたものだが、ここまで一丸となって勉学に励んでいるクラスは、石垣が訪れた限り初めてだった。
「…ほんまキモイわ」
ポツンとした言葉に、石垣は御堂筋を見る。御堂筋は黒板を向いたままだった。先ほどは合宿を御堂筋に認めてもらうことでいっぱいで気付かなかったが、御堂筋の手元にあるのは黒板に書かれた科目の教科書、それも開かれているのは小テスト範囲該当ページだった。
石垣はその時初めて、御堂筋の『キモイ』の意味を掴みかけた気がした。
その後部室にて
「合宿はエエ言うたけど新入生歓迎会は要らんやろ。そんなもんしてるお金あったらプロテインでも買っとった方がマシや。あとレェスゥ? まァだボクゥの動きにもついて来れんのにやさしーレースで勝たせてどないすんの。間違った成功体験や、そんなんに意味なんかない。甘々やなあ石垣クゥン、甘々の甘や」