言の葉の窓「はっ……はっ……はっ……」
小さな足音がスラムの裏路地を駆け抜けてゆく。
西日を遮る建物の影の中、薄碧の瞳に濃い蒼の空が映る。
短めのしっぽと大きく広がる柔らかな耳はハイエナ属の獣人のそれだ。
その耳としっぽは小さな身体に対し不釣り合いに大きく、あどけなさを残している。
荒い息を吐く口元にちらりと見える牙は、まだ乳歯であろう柔らかな象牙色をしていた。
着ている服はボロだが丁寧に繕われ清潔で、貧しいなりに大切に育まれていることが伺えた。
西に傾いた陽は、ごみごみした路地の奥までは差し込んでこない。
昼の暑熱が和らぎ、住民たちが一息つく時間だ。
彼が目指すのは路地の奥。
半ば廃屋のようなオンボロ長屋の前には、すでに子どもたちが集まって戯れ、騒々しくはしゃいでいる。
その中の一人が足音に顔を上げ彼に呼びかけた。
「お! ラギーじゃん! 今日は遅かったな!!」
ラギーと呼ばれた少年は、立ち止まると膝に手を付き荒い息を整える。
「はーっ! はーっ! はーっ! ……はー、しんど。まだ始まってないよね?!」
「うん、まだだよ!」
聞かれた子が答える。
「今日はどのお話かなぁ!」
目をキラキラさせて言うその子の言葉に、他の子どもたちも口々に乗ってくる。
「ゆーれい海賊船の船長の話し!」
「えー、おれはスーパー魔法士の話しがいい! 変身して何でも解決!」
その子はシタッ!! と格好つけてポーズを取る。変身ヒーローの変身ポーズの真似だ。
と、長屋の戸が騒々しく軋む音を立てて開き、細身の中年男が現れた。くたびれた服を着て無精髭を生やし、茫々に伸ばした髪を無造作に束ねているが、子どもらを見る目には優しい光が宿っている。
男は小脇になにやら分厚い本を抱え、片手に小さな丸椅子を持っていた。
集まった子らは一斉に男にまとわりつくと、口々に「今日のお話」のお題をねだり始めた。
男は無造作に椅子を置き腰を下ろすと、膝の上に本を置いた。
子どもたちがわっと周りを取り囲んで覗き込む。
それはヨレヨレになった漫画雑誌だった。表紙には気の強そうな少年がカトラスを振り上げる姿が大きく描かれ、「冒険読み切り特集!」の文字が踊る。
男が開いたページに現れた扉絵は……。
「やった! ジャングル探検!!」
そのストーリーの大ファンであろう子が躍り上がって歓声を上げる。
「それじゃ読むぞ。集まって」
静かな口調だがよく通る声で男が呼びかけると、子どもたちは我先にとひしめき合いながら本を覗き込む。
男が漫画のセリフを読み始めた。渋みのある声が路地に響く。
けして演技が上手いわけではないが、緩急を付けてセリフを読み上げる様からは、もう何度もこうして子どもたちを楽しませてきたことが伺えた。
ラギーも男の肩越しに紙面を覗き込み、貪るように話に聞き入っていた。
そこに書かれている文字は彼には読めない。
いや、彼だけではなく、その場にいる子どもたちのほとんどが文字を読めなかった。
しかし、コミックは絵で語る媒体だ。
絵を見ていればなんとなくでも話はわかる。
そして、彼らには読めないセリフを読んでくれる大人が、ここにはいた。
同じ雑誌を何度も読んでもらったので、子どもたちの大半はセリフを暗記してしまっていた。けれど、文字を読む、ということを意識していない彼らは、それが文字と対応することをまだ知らない。ただただ心躍るお話を大人に語って貰えることを楽しんでいたのだ。
スラムの生活は苦しく、片親や両親を失った子も多かった。親がいる子であっても、子どもに本を買い与え読み聞かせる学と余裕のある家は少ない。それどころか、子を邪険にして虐げる親すら、普通にいる。
そんな環境で、大人に子どものペースで向き合ってもらえる経験は乏しく、まして本を読み聞かせて貰えるチャンスなどほとんどない。
そんな子らには、この午後のひとときを割いてじっくりと本を読んでくれるこの男の存在はとてもとても大きかったのだ。
二十ページほどの読み切り漫画を読み終わると、男は本を閉じて立ち上がる。
「さあ、今日はこれでおしまい。解散解散」
そして男は扉の中へと、丸椅子と本を持って消えてゆく。
男の背中を見送った子らは、今読んでもらった漫画のストーリーを反芻し、あるいはキャラクターのポーズを真似て戦いごっこをしつつ、三々五々と散ってゆくのだ。
そんな日々は、ずっと、ずっと、続くのだと、あの頃は思っていた……。
~*~*~*~*~*~
ある日、ラギーはいつものように男の家の前に行った。
ところが、いつもと様子が違う。
ピルル……と、彼の困惑を写して耳が動く。
扉の前に集まった子どもたちは一様に押し黙り、耳を垂れている。
彼らから不安の匂いがする……。
「どうしたの」
少し、ドキドキしながらラギーは聞いた。
「わかんない。出てこないから入ろうとしたら、怒られた……」
ドアノブに手をかけてみると、鍵はかかっていないようだ。
思い切ってドアを開け、一歩踏み込んだとたん。
「入るな!」
と低い拒絶の声。
驚いたラギーの耳は、本人の意に反してぺたんと寝てしまう。
ビクビクしているなんて思われたくないのに……。
部屋の空気は淀んで饐えた匂いがした。本能的に踵を返してその場を離れたくなる匂い……。それを我慢して戸口から覗いていると、暗い部屋に目がなれてだんだん様子が見て取れるようになってくる。
男は部屋の奥の藁布団に横たわっている。薄暗くてよく見えないけど、顔色は随分悪いようだ。
「聞こえなかったのか。来るな。俺は病気だ。感染るといかん。帰れ」
かすれ声で拒絶の言葉を叩きつけられ、ラギーの耳はますますぺったりと頭に張り付いてしまう。
怖かった。
いつもは優しい男が熱を帯びて焦点の合わない目をしているのも怖いし、その男がどうなってしまうのかを考えるのも怖かった。
「おれ、ばあちゃん呼んでくる……」
か細い声をやっとの思いで絞り出すと、ラギーは長屋を飛び出し、一目散に家へと駆け戻った。
~*~*~*~*~*~
ラギーは家に飛び込むと、ばあちゃんの姿を探し求めた。
ばあちゃんは台所にいた。ラギーはばあちゃんに飛びついてエプロンに顔を埋め、鼻水をなすりつけながら訴えた。
「ばあちゃん、おっちゃんが……おっちゃんが死んじゃう…」
そこまで言うと、涙がこみ上げてきて言葉が続かなくなった。
ばあちゃんはゆっくりラギーの背中をさすり、話が出来るようになるまで待ってくれた。エプロンからはばあちゃんの匂いがした。その匂いに包まれて温かい手で背中をさすられていると、次第に涙は引っ込み、気持ちも落ち着いてきた。
「あのね、ばあちゃん……」
ラギーは鼻をすすりながらも先程見たことを話したが、動揺した彼の話の筋道は混乱していて、ばあちゃんが事情を把握するまでには少々手間取った。
ようよう孫から聞いたことを整理したばあちゃんは、男の様子を見に来てくれた。
ばあちゃんは長屋に来るとまず部屋の窓をあけ空気を入れ替え、数種類の薬草を煎じた薬湯と軽い食事を男に与えた。
「あんた、何日食べてなかったんだい? そんなんじゃ病に勝てないよ。孫が世話になってるそうだね。あたしらが食事を運んでやるからあんたは身体を治すんだよ」
「いいのか、ばあさん。病が感染っても知らんぞ」
男はいささか意外そうに言葉を返した。だが、ばあちゃんは臆する気配もなくからから笑ってこう言った。
「あんたの病は感染るもんじゃないよ。あたしらハイエナは鼻が良いんだ。病の匂いも嗅ぎ分けるのさ」
それを聞いてラギーの顔がぱっと明るくなる。
祖母の後ろで、身の細る想いをしながら話を聞いていたのだ。
「良かった!! 早く元気になって本を読んで! ぜーったいだよ!!」
両手を上げて叫ぶラギーを見て、男は苦笑していた。
その二人を見守る祖母の顔を一瞬憂いの色が過る。
が、直ぐにそれは消え、明るい声がラギーを呼んだ。
「ラギー、お前、ちょっとお使いに行っておくれ」
「うん、わかった!」
ばあちゃんは、ラギーに小銭を渡すと買い物を言いつけ、長屋から送り出した。
ラギーの足音が遠ざかると、ばあちゃんは男に向き直った。
「あんたには、言っておかなきゃならないことがある…」
彼女を見上げる男の目には、何もかも悟っているかのような色が浮かんでいた。
~*~*~*~*~*~
それからしばらくの間、ばあちゃんの作る薬湯とスープを運ぶのがラギーの役目になった。早く男に良くなって欲しい子どもたちもラギーを手伝うといってきかず、お使いの役目は次第ににぎやかなものになっていった。
スラムの住人たちは、何かと助け合って生きている。そうでなければ食べていけないし、こんな環境で生きる力を絞り出すには、支え合うことが心の助けにもなっていた。
といっても、ささやかなことでしか助け合いようがないのも事実なのだが。
例えば、身内すべてを失った子を引き取ることが出来る家などほとんどない。
あるいは、病に倒れた誰かをまるごと面倒見ることが出来る家などそうそうあるものでもない。
それでも、彼らは乏しい食べ物や水を融通し合ったり、ちょっとした手伝いを出来る範囲で施し合ってほそぼそと生きてきたのだ。
男は流れ者だった。だから、スラムの助け合いの輪から外れていた。
いつの間にかどこからかやってきて、住む者が居なかった長屋に勝手に住み着いた。細い身体と繊細な手を持っていて、おおよそ力仕事に向きそうにないのに、半端仕事で食いつないでいた。
そんな男にスラム生まれの住民たちは干渉しようとしなかったし、男もそれを望まない風情だった。ここに流れてくる者はみんな「ワケアリ」なのだ。聞くだけ野暮と言うものだ、というのが住民たちの常識だったからだ。
そんな関係が、この一件で変化した。
ラギーのばあちゃんは文盲だったが、ささやかな薬草の知識のおかげでスラムの住民たちの間で顔がきいた。そのばあちゃんが男の世話を始めたことは、他の住民たちの興味を引いた。事情を聞き、子らが楽しませてもらって来たことを知った住民たちは、代わる代わるささやかな差し入れを持ち寄るようになった。
中には、遠く出稼ぎに行った家族からの手紙を読んでくれと持ち込む者も居た。
そんな場面に出くわすと、ラギーは大好きなおっちゃんが大人たちに認められた気がしてちょっと嬉しくなり、肩を揺らしてシシシ! と笑うのだった。
そんな穏やかな日々を過ごして、男はゆっくりと回復していった。
そう、見えたのだ。
~*~*~*~*~*~
ある日、ラギーがいつものように薬湯と食べ物を持って行ったときのことだ。
唐突に男が言った。
「なあ、ラギー。お前、文字を読みたくないか?」
ラギーは突然の言葉にきょとんと男の顔を見上げた。
「ラギー、文字が読めると良いぞ。誰の助けも借りずに好きな本が読めるようになる。自分で手紙を書いて遠くの人に言葉を届けることも出来るようになるんだ。お前は賢い子だ。教えてやるから、文字を覚えろ」
「おれが……?」
「そうだ、お前が、だ」
薄碧の瞳に、ゆっくりと理解の光が灯る。
「おれも、本を、読めるようになる……?」
ひとことひとこと、手探りで確かめるように言葉を口にする。
「そうだ。読めるようになるまで教えてやる」
男の顔は大真面目だった。
ラギーの顔が歓喜の色に染まってゆく。
言葉にならない叫びと共に両手を天に向かって広げ、くるくる回る。
そうして、二人の小さな勉強会が始まった。
最初の教材は、いつも読んでいた漫画雑誌だった。
セリフの文字を棒切れで床に描いて見せ、一つ一つの文字の読みを教えてくれたのだ。
暗記したセリフと、吹き出しの文字が一致することを知ったとき、ラギーは知る喜び、理解の快感を知った。
やがて、他の子らもだんだんと勉強会に集まるようになり、男の部屋は小さな教室のようになっていった。
スラムの大人たちの中には出どころの怪しい本や文具を差し入れしてくれる者もおり、次第に教材も増えていった。
教わったのは文字だけではなかった。
男は簡単な算数も、子らに教え始めた。
スラムの外の世界のことも色々話してくれた。
幸福な時間が過ぎていった。
学ぶことは楽しかった。
読める本が、増えていく。
世界が、広がっていく。
それは例えようもなくワクワクすることだった。
そんなある日、男が子どもたちに言った。
「いいか。文字はな、世界に通じる窓なんだ。人は言葉を使ってお互いを知る。でもそれはその場に居ないと出来ないことだ。だがな、文字は時間も距離も越えて、人と人をつなぐ力がある。『いま・ここ』という狭い部屋から、もっと広い世界を見せてくれる窓を開く鍵なんだ」
子らの大半は、ちょっとよくわからないぞ、という怪訝な顔をしていたが、何人かの聡い子の瞳に理解の光が灯ったことを、男は見逃さなかった。そしてもちろん、ラギーもその一人だった。
「俺がいま言ったことが良くわからない子もいるだろうが、このことだけは覚えていてくれ。いつかきっとわかる日が来る。……言葉は、文字は、世界に通じる窓を開く鍵なんだ」
この言葉は一粒の種のようにラギーの胸に深く深く根を下ろし、やがて見事に開花してゆくことになる。が、それはまた別の物語…。
~*~*~*~*~*~
子どもらと男の学びの日々は穏やかに過ぎていった。
ときに子ども同士が喧嘩したり、男の都合で勉強会の無い日もあったが、小さな幸福の日々はこともなく過ぎていくように見えた。
しかし、そんな幸福な日々はゆっくりと終わりに向かっていたのだ。
男は再び顔色が悪くなってゆき、元々細かった身体は折れそうなほどに痩せ細り、そのくせ腹が妙に膨れはじめた。そしていつからか、男の身体からは奇妙に甘ったるい匂いがするようになった。獣人の鼻でなければ嗅ぎ分けられれないであろう微かな、だが確かな匂い。
ラギーは、その匂いが嫌いだった。それで男を嫌うということはなかった。だが、その匂いには不吉な予感がつきまとっていた。
ばあちゃんなら、もしかしたら何か知ってるかもしれない……。けれど、それを聞くのは怖かった。この幸福が終わるのではという予感が胸にくろぐろと湧き上がると、喉が詰まるような心地がした。
そしてある日、不安は現実になった……。
~*~*~*~*~*~
その日、ラギーはいつものように薬湯と食べ物を持ってきた。
だが男は、いつにもまして顔色が悪く、気分がすぐれない様子だった。
「なあ、ラギー。お前に話しておきたいことがある」
ラギーの耳がピクッと動く。嫌な予感に胸が塞がる。
「そこに座って」
ラギーは黙って寝床の横に置いてある丸椅子に腰掛けた。
男がいつも漫画を読んでくれる時に座っていたあの椅子だ。
「お前、気がついてるかもしれんが、俺はもう長くない」
ラギーの目が見開かれ、身体がこわばるのが見て取れた。
「こんな話をしなけりゃならんのは、俺も残念だ。だが、お前にだけは言っておきたかった」
ラギーの耳が力なく垂れてゆく。目は、合わせることが出来ないまま、足元を見ていた。男は、黙ってラギーの力なく垂れた手を取ると、しばらくそのままそっと握っていた。どれほど時間がたったろうか。ほんの一瞬だったような気もするし、とても長い時間そうしていたような気もする。
男が、沈黙を破って言葉を継いだ。
「ラギー。お前は賢い。このままスラムの底に埋もれていくには惜しい。なんとか手段を見つけて学校へ行け。俺が死ぬまでにはまだもう少し時間がある。死ぬまでに教えられることは全部教えてやる。大した教材もないここで、教えてやれることはそんなに多くはないが、な」
ラギーの目から静かに水滴が滴り落ちた。
「おれ……」
そのまま言葉にならず、鼻をすすり上げ、藁布団に身を投げ、押し殺した声で泣き始めた。
男は黙って小さな背中にそっと手を置き、ラギーが泣き止むのを待ってくれた。
やがて真っ赤になった目と鼻をこすりながら起き上がったラギーに男は言葉をつづけた。
「俺が居なくなったら、お前が子どもたちに本を読んでやれ。文字を、算数を、教えてやれ。そうすれば、学校に行けない奴らも勉強できる。そうやって年上の子が年下に文字を伝えてゆけ。だがお前は、いつまでもここに居残るなよ。外の世界へ行くんだ。言葉の窓を開けて、そこから飛び立て」
ラギーはその言葉に再び泣きそうになったけれど、今度はぐっと涙を飲み込んだ。
「わかった……。おれ、がんばる……」
それを聞いた男は破顔した。久しぶりに見る明るい笑顔だった。
「よし。それじゃあ、特訓だぞ。時間はあまりないからな。その前に、お前には渡すものがある。そこの棚の上にある本を取ってくれ。……ああ、見えにくいか。椅子の上に乗ってみろ。お前の背丈でも手が届くだろう」
椅子をガタガタと棚の下に寄せ、その上に乗って見ると、なるほど、棚の一番上、子どもの目線だと見えなかった位置に一冊の分厚い本があった。
その本を手にとって男の傍らへと戻る。
「ラギー、これはな、辞書という本だ。この本には言葉のすべてが詰まっている。これからお前に、この本の使い方を教える」
「使い方…? 読み方じゃないの?」
訝しむラギーに男は言葉を続ける。
「ああ、そうだ。使い方だ。もちろん、この本を端から全部読むのも良い。それはとても勉強になることだ。だが、この本は『使う』為にある。言葉というのは、とてもたくさんあって、お前がまだ見たことも聞いたこともない言葉や文字がある。そのすべてを教えていくには、俺の時間はもう足りないんだ。だからこの本の使い方を教えてやる」
「これ、そんな凄い本なの?」
ラギーの目に強い光が宿った。世界を食らう貪欲。
「そうだ。これは、広大な言葉の世界を旅するための地図のようなもんだ。言葉の世界で、知らない言葉に出会った時、それがわかるように助けてくれる本なんだ」
男は辞書を持つラギーの手を取り、辞書ごと包み込んで捧げ持った。
それはあたかも、この世にまたとない至宝を捧げ持つ神官のようなうやうやしい仕草だった。男は手を下ろすと、ラギーの瞳をまっすぐに覗き込んだ。
「この辞書は、お前にやる。大事にしろよ。いずれ俺の形見になるんだからな」
ラギーは、深く頷いた。
小さなその手には、辞書の重みと、男の手の温かさが残っていた。
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スラムの外れの寂れた墓地に、一人の少年が佇んでいる。
すらりと伸びた手脚とまだ筋肉の付ききらない体躯の薄さは、少年から青年への過渡期のアンバランスな危うさを秘めていた。
少年は使い込まれた辞書を胸に抱え、もう片方の手には道々摘んで来たのであろう野草の花束を持っていた。
名前すら刻まれていない小さな墓石の前にぬかずくと、花を添えてしばし祈りを捧げる。そして顔を上げると、墓石を見つめながら話し始めた。
「昨夜、黒い馬車が俺を迎えに来たんだ。あんたのおかげッスよ。俺、窓を開けるよ。世界を見に行ってくる。……ホリデーにはまた来るッスから。それまで待ってて。そのときには土産話をたくさんもってくるッスよ。それじゃ……。行ってくるッス!」
少年が歩み去った後には、小さな墓石の前に供えられた小さな花束が、サバンナの乾いた風に揺れていた。