君のよすがになりたい夏の終わりに差し掛かっても、東京を包む空気はいまだに暑い。海に臨む有明基地は都心の立川とはまた違い、湿気た風が穏やかに吹いている。いくらか淡くなった青空が窓越しに広がっていても、鳴海は見向きもしなかった。ところせましと棚が並ぶ隊長室の中、唯一がらんとした窓際に腰を下ろして、膝に置いた一冊のアルバムを熱心にめくっている。
保科はその様子を眺めつつ、照れくささにむずむずと口元を緩めた。鳴海の視線の先、すべてのページの中には、遠い記憶の中の自分がいた。
くしゃくしゃの笑顔で竹刀を握る少年。兄にぶら下がるようにして歩く七五三。思春期らしいぶっきらぼうな学ラン姿。どれも気恥ずかしくも懐かしい。
それにしても、鳴海はこの何の変哲もない写真たちをあまりにも真剣に眺めていた。最後のページにたどり着いてはまた戻って、を繰り返している。道場の風景、名前も覚えていないクラスメイトと写った保科、おくるみに包まれた赤ん坊、そのあたりを何度も見返しては、ふうん、と気のない息を吐いて目の前の保科をのぞき込む。どうやら紙の中の保科と自分の知る保科を見比べているようだ。目が合うたび薄紅色の瞳がきらめく様子に、保科はふわふわと落ち着かない気分になる。
「……面白いです?」
「うん」
幼いころの思い出を一切話さない鳴海にこれを見せるかどうか、一度は悩んだが、やはり躊躇しなくて良かった。いつだって保科の揶揄いに、想像通りのバカみたいな反応をするくせに、たまに見せる本音には思いもよらない優しさが滲んでいるのだ。知れば知るほど奇妙で、野の花のような愛情深さがある。
保科は目じりを甘く垂らして笑うと、アルバムを引き寄せた。同じ距離だけ鳴海が近づいてきて、ページを覗き込む。
「ガキの頃から変わらんな」
「それ褒めてます?」
「褒めてねえよ。ただ子どもの頃からバカっぽい顔してて面白い」
これとか特に、と指さしながら憎まれ口を叩くわりに、前髪の隙間からのぞく眼差しは柔らかい。時を越えて向けられるその視線があまりに真っ直ぐだったので、保科は返す言葉を忘れた。
沈黙が続いた後で、ふと一つの思いつきが浮かぶ。
「鳴海さんもアルバム作りません?」
「……は?」
「僕、ちょうどこないだ実家からフィルムカメラもらって帰ってきたんです。それで撮りましょうよ」
「なんでだよ」
「僕も鳴海さんのアルバムで面白がりたいなぁ思て」
「…………」
「本音いうと鳴海さんの写真がほしいだけやけど」
鳴海は口を閉じたまま、苦々しく保科を見た。なので、そんなに重たい理由なんかないと言わんばかりのおちゃらけた笑顔で見つめ返す。
部屋の隙間ばかり埋めて、寂しさの埋め方はいっこうに上手にならないこの人に、今みたいな瞬間をあげたい。思い出を語り合うことや、時間の経過をいとおしむことを二人でしてみたい。押しつけがましいだろうかと思いつつも、保科の頭はその光景を想像していっぱいになる。なんとしても言いくるめたい。そんな気概が、お気楽そうに緩んでいた目元を頑なにした。
本音を隠しきれなかった保科の表情のせいか、なぜか睨みあう二人である。
「じゃあ……最初はここを撮る」
何度かの視線の空中戦のあと、根負けした鳴海が舌打ちして目をそらす。
「お前のは道場だったから、ボクは隊長室にする」
「え、ここですか?」
「ボクが一番長く過ごしている場所だからな」
不貞腐れているのはふりなのか、口元を曲げていても声色はどこか浮ついていた。保科もそれが感じられて内心ほっと息を吐く。
「ふふ、意外と素直やないですか」
柔らかい西訛りが弾むように笑う。菫色の瞳に柔らかく見つめられた途端、鳴海の肩にグッと力が入った。どんどん赤くなる頬の彩度に比例して、突き出された人差し指が保科の胸筋にぐいぐい押し込まれる。
「今度絶対にカメラを持ってこい! 忘れたらもう付き合ってやらんからな!」
「はいはいわかっとります」
いつもの癇癪を適当にいなした保科は、胸元から奪い取った右手の小指を自分のそれで結んで言った。
「鳴海さんの写真いっぱい撮ったげますね」
「……ボクはボクの好きなものを撮るぞ」
「うんうん。あんまり僕のことばっかり撮ったらあかんで」
「黙ればか!!」
その日以降、保科のフィルムカメラには少しずつ鳴海の日常が記録されていった。宣言通り、一枚目は散らかったままの隊長室だった。次に雑然とした第一部隊の当直室、黙々と訓練する隊員たち、ヘリポートから見下ろした有明の海。しかめ面の長谷川と鳴海の親子のようなツーショットは保科が撮ってやった。鳴海が撮りたがるのは大体が第一部隊の日常で、次に多いのは東京の風景だ。怪獣解体現場や再建中の建物など、無機物ばかりを撮る鳴海を見兼ねた保科が、カメラを奪い取ってしまうほどだった。
久しぶりに休暇が被った月曜日、徒歩で保科宅に向かう途中の一枚でフィルムが巻き取られる音がした。コンビニのビニール袋をぶら下げた鳴海が、街灯の光を飛び越えようとしたのを撮った瞬間だった。
「もう無くなったのか」
「僕が預かってから結構撮りましたからね」
SNSに毒されている割に写真に写ることにはあまり興味を示さない鳴海である。長谷川や顔見知りの第一部隊員にも聞いてみたが、保科が居ないあいだはほとんどカメラに触れなかったらしい。長谷川いわく、撮るもの自体より、撮った瞬間が大事なのだという。意図を図るには鳴海の脳内は奇怪すぎるので、あまり間に受けなかったが、それでも保科はうろたえた。あの日頭に思い描いたとおりのことを、鳴海もまた想像したのかもしれないと思った。写真に映し出された感情を二人で話せたら、というような願望だ。遠い日の思い出がなくとも、日々が続く限りは過去が積み重なっていく。保科が忘れても鳴海が、鳴海が忘れても保科が憶えていることが、アルバムを通して数えられたら良い。そういうものが、死と隣り合わせの人間を引き戻すきっかけになるのではないか。いざという時、自分の命を駒のように扱う鳴海を知る保科としては、切実な想いなのだった。それでも、鳴海本人にこんな重たい感情を察せられるのは恥ずかしすぎる。
「明日朝イチ現像しに行きましょか」
「起きられたらな……」
「じゃあ僕だけで行ってきますわ」
「おい!」
珍しく色っぽい嫌味を言うので、反射で本音を漏らしてしまった。暗い夜道でははっきりとわからずとも、喚いた鳴海の耳の先が赤くなっているのがわかる。飛び跳ねた髪をかき上げてやり、抓るように触れた外耳の熱さに胸がときめく。保科は周りに誰もいないのをいいことに、鳴海のうなじを撫でおろすと、浮かれた声で囁いた。
「だって久しぶりのおうちデートやもん」
「か、かわいこぶるなっ!!」
正直かわいいと言われるつもりはまったくなかった。熱い肌と大きな瞳の揺れる様子のほうがよっぽどかわいい。保科は本気で思って、訝しげに眉をひそめる。
「いや、あんたが言うなや」
「はあ? 僕はかわいくないが? かっこいいが?」
「かわいいなんて一言も言ってないですけど?」
「かわいいと思ってる顔だったろうが!」
どちらともなく歩き出した二人の指が、中途半端に絡んでは離れてを繰り返す。それでもバカみたいな会話を続けながら、保科は今この瞬間を写真に残せたら良かったと思う。死にたくないと願うための原初の欲求は今、この平凡な帰り道のぬるい指先にあると確信できたので。
現像してからの話を追加したい…。