The Hole 2月島は絶望した。もし時間を戻せる力が自分にあったのなら、数十分前の自分に忠告したい。家を出ろ、と。
「信じられないっ!なんなのそのおっさん!なんでキスしてたの!?意味わかんないっ!」
目の前で叫ぶ女性…もとい、月島の彼氏である鯉登の婚約者であり、月島の務める会社とズブズブに癒着をしている政府の要人の娘、美月を、月島は死んだ魚のような目で見つめた。もう終わりだ。月島は前科者であった。前科者を雇ってくれる企業はそう多くない。その上家族にも恵まれなかった月島は荒れた青年時代を送ってきた。そんな彼を救ってくれたのが、今の上司である鶴見であり、そして月島を配下にしたいという鶴見の進言を快く受け入れてくれたのが、鯉登の父親であった。そんな彼らを今、月島は裏切ることになってしまった。もう、死にたい。いや、死のう。月島はゆっくりと立ち上がり、一言「すみませんでした」とだけ告げると部屋を飛び出した。玄関を抜けた途端、目の前に広がる空。そういえばここはビルの最上階だったではないか。よし、飛び降り自殺しよう。月島は手すりに足をかけた。しかし、後ろから物凄い勢いで引っ張られ、そのまま背中から地面に落ちた。這いつくばる月島の頬を、鯉登が打つ。
「バカ!ないしよっと?!死ぬ気か?!」
「はい。そのつもりです。こんなことになっちゃって、もう終わりですよ。全部終わり。恩を仇で返すなんて…、俺なんか死んだ方がいいんです」
「早まるな!とにかくここで待っちょってくれ。美月を説得してくる。あいつはそん辺ん聞き分けられんおなごとは違う。おいが戻ってくるまで勝手な真似すんじゃなかよ?」
「はあ…、まあ、鯉登さんがそう言うなら、そうします」
鯉登は心配そうに月島を一瞥したが、すぐに部屋に戻っていった。玄関のドアが閉まっているというのに、中から女の叫び声がする。当たり前だ。小さい頃から大好きだった婚約者が浮気していたのだ。しかもこんなおっさんと。死にたいのは自分ではなく、美月の方ではないのだろうか。月島は倒れた格好のまま、美月の気持ちを考えた。そして、やっぱり自分が死ぬ以外に選択肢はないと結論づけた。だが愛しの鯉登がここで待っていろと言ったのだ。月島はそれを無下にして自殺を試みるほど、自我というものを持ち合わせてはいなかった。だから先程鯉登に引き倒された格好のまま、都内の最高級マンションの最上階という絶景スポットの廊下で、30分ほど静止していた。すると程なくして玄関の扉が開き、まさか月島がまだ寝転がったままだと思っていなかった鯉登が「うおっ」と驚き、そして言った。
「起きろ月島。話はついた。まあ、まだ怒っちょっが…、とにかく今日はもう帰れ。送ってく」
鯉登は月島を抱き抱えて起こすと歩き出す。話がついたとはどういうことなのだろうか。まだ怒っていたということは、浮気自体を許容したわけではないだろう。月島はあまりに絶望していた。顔面蒼白な彼の表情を見て、鯉登は苦笑いをする。そしてエレベーターが地上に着いて、周囲に誰もいないことを確認すると、鯉登は小声で言った。
「あのな、月島にはゆちょらんかったが、美月は浮気しちょる」
「…は?こんな時に冗談ですか?」
それは微かに耳に入ってくるような小さな声だったが、月島の耳にはしっかりと届いていた。だが、あまりにも信じられない内容だったので、月島は全く信じられなかった。そんな月島の様子に、鯉登は眉を下げて微笑んだ。
「本当じゃ。多分1年くれ前からだ」
「え…、えぇ?」
「勿論、じゃっでおいが浮気してんよかってわけじゃなか。ただ、月島が思うほどあいつはショックを受けたわけじゃなかと」
鯉登の言葉に、月島は何も言えなかった。てっきり美月は鯉登の事を好きなのだと思っていた。美月とは鯉登経由で何度か会っているが、常に鯉登にべったりで月島のことは視界にも入れないような女だった。人は、あんなに好き好きオーラを出しながら浮気をすることが出来るものなのか。月島は付き合ったらとことん一途なタイプで、浮気をされたことはあれど、したことは全くなかった。だからこそ、美月の行動が全く理解できなかったし、彼女の浮気を知りながらも婚約関係を続ける鯉登のこともよく分からなかった。困惑する月島に鯉登は続ける。
「なんていうか、美月とおいはもう、男女ん関係ちゅうよりは家族なんじゃ。一緒におる時間が長すぎたし、そいにおいは多分同性愛者だ。じゃっで、美月をおなごとして愛すっことは多分、これから先も難しか思う」
「そ、そんなこと言ったらだめですよ。鯉登さんは大学を出たら俺と別れて美月さんと結婚するって、そう約束してくださったじゃないですか」
月島は半年前の事を思い出す。婚約者がいる人とは付き合えないと突っぱねても決して諦めない鯉登に、月島がそう提案したのだった。月島の立場上、本来なら鯉登の想いなど最初から拒否するべきだった。それなのに、期限付きの恋人だなんてバカみたいな提案をしてしまうほどには、月島は鯉登の事を愛してしまっていた。狼狽える月島に、鯉登はニヤリと笑う。
「ああ、結婚はする。じゃっどん月島、わいと別れるつもりもなか」
「何言ってるんですか、そんなこと出来るわけないでしょ」
「できる。月島が美月に好かれればよか」
「いや、無理ですよ。彼女の顔見ましたか?一生許さないって顔してましたよ」
「大丈夫じゃ。あいつはおいに似ちょ。美月もきっと、月島んことを好きになる」
「なにを根拠に…」
「とにかく!」
呆れた顔の月島の両肩を鯉登は勢いよく握りしめた。目と目があって、鯉登の真剣な目つきに生唾をのむ。鯉登との付き合いは長くないが、それでもわかる。彼がこういう目をしたときは、必ず良くない発言が飛び出すのだ。
「月島は、明日からうちに住め!」
そして月島の想像通り、斜め上の突拍子もない言葉が、彼の形の良い唇から紡がれたのだった。