やたらご機嫌な鼻歌と共に、玄関のドアが開く音がした。
ソファでうとうとと微睡んでいた千冬は、珍しすぎる一虎の鼻歌なんてものに興味を惹かれて立ち上がった。眠気と疲労で目が開かないまま、絞めっぱなしだったネクタイを緩めつつ、リビングを出る。
「~~♪」
「おかえりなさい」
やはりご機嫌な調子でブーツを脱ごうとしていた一虎に、声をかけた。
「……ッ!?」
一虎は、リビングのドアら顔を出した千冬を見て、あまりにも大仰なほど驚いた様子で後ずさり、目を見開いている。
「……?」
千冬はまだはっきりと開かない目を一虎の方に凝らした。凄んで睨まれたと思ったらしく、一虎が全身を硬直させている。
何をそんなにビビっているんだ、珍しいなと、首を捻りながら千冬は一虎の方へと歩み寄る。
――と、すぐ側に近づくまでもなく、鼻腔を煙草の匂いが掠った。
千冬は眉を顰めて一虎を見遣った。
「アンタ、またパチ屋行ってたんですか」
もうもうと紫煙の立ちこめる店にいたせいで、全身にその臭いが染みついているのだ。
(あれ、でも、もうちょっと別の匂いも……)
それが何なのか思い出すより前に、一虎が不自然に両手を後ろに隠しているのに、千冬は首を傾げる。
「別に遊びに行ったわけじゃねえって。あそこが一番自然に情報もらえんのは、オマエだってわかってんだろ」
一虎は両腕を後ろに回して微動だにしないまま、言い訳のように言った。
一虎には、稀咲や今の東卍に関して探ってもらっている。他人からきわどい情報をもらう時、パチンコ店でさり気なく隣の席に座り、騒がしい音楽に紛れてぼそぼそと言葉を交わすのは、たしかに常套手段ではあるが。
「ていうか千冬、今日は遅くなるんじゃなかったのか」
「取り引きがひとつ飛んだんですよ、オレもついさっき帰ってきた。で、今日情報提供者と会うのは四時って言ってましたよね。もう九時過ぎですけど?」
一虎は千冬と視線を合わせずに明後日の方を見て、話を逸らそうとしている。
あまりに露骨に『隠しごとをしています』という一虎の態度に、千冬は内心でさらに首を捻った。
どう考えても情報提供者と別れた後も店に残って散々打ってきましたという流れなのに、何を今さら誤魔化そうとしているのだろう。
そもそも一虎は、こんなにわかりやすく動揺するような男だっただろうか。
さすが十年間刑務所にぶち込まれていただけあって、妙に肝が座っているというか、様々なことに無頓着で、千冬にも一虎の腹の内が読めない時がある。稀咲の支配する東卍を変えるために協力してもらうことと引き替えに衣食住をすべて世話することになり、このマンションで一緒に暮らし始めてから、もう半年は経つというのに。
「別に責めてるわけじゃないですって。何そんなおどおどしてるんですか、らしくない。あ、まさか渡した活動資金全部パチスロでスッたとか……?」
だとしても、千冬は金に困っていないし、請われるままいくらでも渡してやるつもりなのに。
「いや、バカ勝ちした」
しかも一虎の答えはこれだ。
「じゃあ何で」
「……オマエが帰ってきてるって思ってなかったから、心の準備が出来てなかっただけだ」
一虎は鼻歌まで口遊んでいた先刻の様子はどこへやら、今は仏頂面というか、気まずそうな顔で、相変わらず千冬から目を逸らし続けている。
「心の準備?」
「……これ」
そう言って一虎が背中に隠していた手をのろのろと前に出した。
その手に握られているものを見て、今度は千冬が目を瞠る番だった。
一虎が手にしていたのは花束だった。
白い、大輪の花。
カサブランカだ。
(ああ、これの匂いか)
煙草の臭いに混じっていたもの。独特で強烈な花の香り。
「誰か死んだんですか?」
訊ねると、一虎がようやく千冬を見た。どこか、きょとんとした目をしていた。
「いや、別に死んでないけど」
「じゃあ、何で花束?」
「……そろそろ誕生日だろ、オマエ。過ぎてるかもしれないけど」
「え?」
そして今度は千冬がきょとんとする番だ。
誕生日。ここ数年は唯一の身内である母親とも連絡手段を断っているから、久しく誰かに言われたことなどない日。
「何で一虎君が知ってるんですか?」
自分でも失念していたくらいなのだから、勿論、千冬が自ら一虎にそんなものをアピールした覚えもない。
一虎は微妙に言い辛そうな顔になって、再び千冬から視線を逸らした。
「……場地が。千冬って友達の誕生日がクリスマスと近いからまとめて祝ったって、手紙に書いたの思い出したから」
「――」
瞬間、千冬は懐かしさに微かな眩暈を感じた。
「千冬は自分からは言わなかったけど、千冬の母ちゃんに聞いて知ってたから、サプライズで小遣いから小さいケーキ買ってやったのに、千冬は半分コしようって譲らなかったとか」
もう十年以上も前。場地が生きていた頃。たしかにそんなことが、あった。
「具体的に何日かまでは知らないけど、まあ、今月後半なんだろうなっていうのは知ってて……」
「ジャスト、今日ですよ」
「……そっか」
ようやく、一虎の表情が柔らかくなる。
「ならタイミングよかったな」
「……よく覚えてましたね、ちょっと手紙に書いてたくらいで」
「だって場地からの手紙、バカみたいに読み返してたし。多分全部暗記してる」
「うわ、コワ……キモ……」
「うっ、うるせぇ」
思わず本音を漏らした千冬に、一虎が鼻の頭を微かに赤くした。
「でもそのおかげで祝えるから、よかったんだ」
不貞腐れたような、開き直ったような態度で言ってから、一虎は手にした花を見下ろした。
「この時期だからかもっと派手な赤い花とか草とか色々あったけど……何だか血みたいで嫌だったから、これにした」
クリスマス前の生花店には、きっとポインセチアを初めとした赤い、華やかな商品が並んでいたのだろう。千冬はもう、クリスマスなんていちいち気にするような生活ではなくなってしまったが。
「並んでたので一番、オマエに合いそうだなと思って」
そう言いながら、一虎がカサブランカの花束を千冬に差し出す。
「何買うか迷ったけど、オマエの趣味とかわかんねーし。でも千冬ってのが少女漫画好きって場地が書いてあったから、こういうベタなのがいいかなとか」
「何書いてんだよ場地さん……」
そんなのももうずっと昔の話だ。
でもまあ、あまりに思いがけないプレゼントは、素直に嬉しい。
ただ嬉しいばかりではなく――一虎がこれを自分のために用意して、必死に普通の顔をしようとしているのに、目許や耳が赤くなって内心恥ずかしさで死にそうになっているのわかるような様子を見ていたら、千冬は胸の奥の方が疼くような感覚を味わわされた。
言葉にしてみれば、愛しい、というのかもしれない。
「……ありがとうございます」
これが似合うと、一虎が言ってくれたことにも、妙な具合に胸が震える。
「死んだ時はこれに埋もれられたらいいなって思いますよ」
「――は?」
千冬が花束を受け取ろうとした寸前、一虎が眉を顰めて手を引っ込めてしまった。千冬を睨んでくる。
「何縁起の悪いこと言ってんだよ、オマエ」
「いや、だって、葬式の時に使うでしょ。白百合」
千冬は花束を見て言った。
「百合……? これ、何かもっと別の名前だったぞ」
「カサブランカ?」
「そう、それ」
「カサブランカって、百合ですよ。百合を品種改良した、ユリ科の花」
「……何でそんな詳しいんだ」
「あ、少女漫画好きだからじゃないですからね。昔、親父の葬式で飾ったのを、最後に棺に入れたんです」
子供の頃のことだったが、その情景を千冬はやけに鮮明に覚えている。
「もうちょっと色のついた花も用意されてたんですけど。オレは白いヤツが、すごく綺麗で好きだった」
自分がこの花に埋もれて死ねることを考えたら、何だか清々しいような気持ちになって、千冬は笑った。
笑った千冬を見て、一虎が花束を持つ手をキツく握りしめる。
「――やっぱ、やめだ。こんなもの」
一虎が花束を床に叩きつけようとする前に、千冬はその手首を摑んだ。
その手を振りはらおうとする一虎の方に身を寄せて、ひどく悔やむような顔をしている一虎が何か言おうとするのを封じるように、唇を唇で塞ぐ。
「……」
一虎はすぐに大人しくなった。
その隙に、千冬は一虎の手から花束を取り上げる。花束は見た目以上にずっしりと重たかった。
「――別に葬式限定ってわけじゃなくて、結婚式とかでも使うんですよ」
一虎から唇を離して、千冬はもう一度笑う。
「……なら葬式の話なんてするなよ」
「だって結婚式よりも現実的じゃないですか、オレたちには」
重たい花束を、千冬は両手で大事に抱え直した。側で嗅ぐと匂いがさらにキツくて、頭の芯がクラクラする。
「そりゃ結婚式なんて挙げようがないけど」
また不貞腐れた顔で言う一虎に、千冬は噴き出しそうになるのをあやうく堪えた。
稀咲の周辺を嗅ぎ回っている今、いつ消されてもおかしくない、綱渡りのような生活を送っているから――と言ったつもりだったのだが。
一緒に暮らし始めてから、いつの間にか、ベッドを共にするようになった。
自分たちの関係が恋人だのと言うつもりもないし思ってもいないから、『結婚』果てしなく遠い文字には違いないものの。
「まさかオレと結婚したいんですか、一虎君?」
からかうつもりで言ったのに、一虎が笑いもせずじっと自分を見返すものだから、千冬は誰かが死んだのかと迂闊に口にしてしまったこと以上に、自分の馬鹿な質問を後悔した。
「そういうんじゃないだろ、オレら」
「……はっきり言うなあ」
千冬だって同じつもりでいたはずなのに、いざ一虎にそう言われると、バカみたいに胸が痛む。
愛してるだの好きだの言う予定もなかった。実際自分が一虎を、一虎を自分がどう思っているかなんてわからない。最初に寝たのは酒の勢いで、どっちが誘ったのかもお互い曖昧なままだ。暇潰し。性欲の解消。慰め合い。そういう言い方が一番しっくりくる関係だとわかっている。
(本当に、バカなこと言った――)
ムッとした顔の一虎の顔を見ていられない。何回か寝ただけでオレの女みたいなツラしてんじゃねえよ、とこの綺麗な顔で吐き捨てられるところを一瞬にして想像してしまった。
「紙切れに名前書いて誰かに許してもらうようなもんじゃない。オレは別に神様の前で誓わなくても死ぬまで千冬といる」
「――、……」
なのに実際に一虎が口にした言葉はあまりに予想外のもので、千冬は逸らしかけた目を一虎に向けた。
「縁起悪いのは嫌だから、もっと別のにする。それは捨てるから返せ」
「嫌ですよ」
先刻の一虎と立場を替えたように、千冬は慌てて花束を背中に隠した。
目許や耳が赤くなっているのも、さっきの一虎と一緒だっただろう。
「絶対嫌です。もらったもんは返しません」
頑固に言い張る千冬に、一虎が目一杯嫌そうな顔を作っている。
「オレだって絶対嫌だ。捨てる」
「そもそも資金はオレが用意したんだから、オレのもんです」
それを言ったらお終いな気もしたが、捨てられてしまうよりはマシだ。
千冬を見て、一虎はますます顔を顰めた。
「種銭はオマエのだろうけど、増やしたのはオレだ。……住むところも喰うもんも着るもんも全部千冬に用意してもらって、金も渡してもらって、結局オマエのものでオマエにあげるもん買うのは変だと思って、ちゃんと増やした分で買ったんだからな」
「……じゃあどのみちこれはオレのです。返しませんからね」
「頑固ヤロウ……」
「お互い様です」
千冬が笑って言うと、一虎も仕方なさそうに苦笑した。
「つかそんな抱き締めたら、服に花粉つくぞ。一回ついたら落ちないから気をつけろって店で言われた」
「いいですよ、服なんてどうでも」
「……オレは嫌なんだけど、オマエがくれた服汚すの」
千冬はもう一度笑って、両手で抱えていた花束を下ろした。
一虎がやっとブーツを脱ぎ捨てて、千冬に近づいてくる。
そっと抱き締めてくる一虎の体に、千冬は遠慮なく凭れた。
「来年は別のもの用意するから、考えとけよ」
「一虎君が選んだものなら何でもいいですよ」
「……オマエがちゃんと喜ぶのがいい」
「喜んでないように見えます?」
「……」
一虎が千冬から少し体を離して、じっと、目を覗き込んでくる。
千冬は一虎の目に映る自分を見た。
こんなに幸福そうな男を見て、喜んでないなんて思うなら、一虎の目は節穴だ。
「結構バカだよな、千冬」
どういう意味だよ、と問い返すより早く、一虎が再び身を寄せてくるのを見て、千冬は目を閉じた。
今度は一虎から唇を重ねてくる。
煙草と花の香りで噎せ返りそうになりながら、千冬は花束を手にしたまま、一虎の背中に両腕を回した。