助けてよ、ヒーロー(2) 場地の様子がおかしくなったのは、今考えてみれば、羽宮一虎が少年院から出所してきた後からだったのだ。
「あー、今日はちょっと用事あるから、先帰るわ」
東卍の集会もない日、いつもみたいに一緒に帰ろうと場地の教室に向かっても、そんなふうに断られる。断られるだけなら千冬も気にしなかったかもしれない。場地は場地なりの交友関係を持っている。佐野万次郎とツーリングに出かけたり、その彼に対する愚痴を零すために龍宮寺堅と会ったり、林田春樹の飼い犬と遊ぶためその家に向かったり――そういう時、千冬は誘われない限りついていかないようにしていた。場地がどれだけ創設メンバーを大事にしているかを知っているつもりだったし、そこには自分などが入り込めない絆のようなものがあることもわかっている。そして、それがあってこその場地圭介だということも。
そもそも千冬が勝手に場地にくっついて回っているだけだったし、だから用があると言われれば、いつだって即引っ込むようにしていたけれど。
「そう……っすか」
自分と目を合わせずにいる場地に違和感を覚えた。千冬が言ったつまらないことにいい加減な相槌を打つことはあっても、どこか気まずげな、それでいて思い詰めたような眼差しを遠くに投げることなんて、なかったはずなのに。
学校の行き帰りが一緒にならなくても、同じ団地住まいだ。母親から「これ、場地さんちにお裾分け持っていって」と頼まれ、わざわざ場地にメールや電話で断りを入れる必要もなく、千冬は作り過ぎた煮物の詰まったタッパーを持って五階の場地家に直接向かった。これを口実にして場地と久しぶりにゆっくり話ができるだろうか。それとも出かけていて、会えずにいるだろうか。何となくそわそわする気分で、千冬はドアチャイムを鳴らした。
「はーい」
キンコン、と古いせいかどこか調子外れのチャイムのあと、明るい、元気のいい声がドア越しに聞こえた。
(あれ?)
場地の声ならもっと低い。しかし少年のものだから母親の涼子のものでもない。前に団地で顔を合わせたマイキーのものでもないし――誰だ? 首を捻る途中でドアが開き、中から現れた学生服姿の少年を見て、千冬はさらに怪訝になった。
見慣れない学生服。派手な黄色で染め分けられた髪。やけに目を惹く左耳の鈴型のピアス。首に居座る厳つい虎のタトゥーに反して妙に甘い、王子様でもやってるのが似合うんじゃねぇのかってくらい整った顔立ちと、印象的な右目の泣きぼくろ。
「誰、オマエ」
千冬の頭に浮かんだままの言葉を、相手が言った。口許は笑っている。垂れ下がった目尻もやはりどことなく甘い感じがするのに、眼差しだけやけに鋭い。細身のナイフ。いや、錐とか千枚通しの方がしっくりくるような尖りぶり。
「テメェこそ、誰だよ」
場地の友達なら、年上かもしれない。場地が家に招き入れるほどなのだから、創設メンバーとまではいかなくても、それなりに親しい相手なのだろう。そうは思いつつ、千冬は反射的に、というよりも本能的に反感を覚え、首筋の産毛を逆立てる思いで相手を睨みながら訪ねた。
「ハァ? 何だこの生意気なの。場地ィ、コイツ殺していいー!?」
「おい一虎、テメェ勝手に出てんじゃ――」
笑いながら虎の刺青野郎が声を張り上げたのと、呆れたような場地の言葉が、被った。団地の短い廊下に、まだ制服姿の場地が、かったるそうに髪を掻き上げながら現れ、千冬を見て、小さく目を瞠っている。
「……千冬」
「場地がウンコしてるから、代わりに出てやったんじゃん」
「テメェは引っ込んでろ」
場地が刺青野郎の学ランの背中を掴み、自分の背後に引っ張って移動させた。刺青野郎は「乱暴にすんなよー」と文句を言いつつヘラヘラ笑って、場地に逆らうふうもない。
「……何だ?」
場地の態度に、やはり千冬は違和感を覚える。今もまた目を逸らす様子を見ると、何だかひどくもどかしい気分になった。
(何でそんな顔すんだよ、場地さん)
場地は自分を友達だと言ってくれて、それでは身に余りすぎるし、後輩とか部下とかそんな立場の方がぴったりだと思うけれど――何にせよ、自分相手に、そんな後ろめたいような態度を見せることなんてないのに。邪魔だとか場違いだとか鬱陶しいだとか、オマエより大事な友達が来てるんだからさっさと帰れよとか、冷たくあしらってくれたって、こっちには何の文句を言うこともないのに。
「これ、母ちゃんからお裾分けっす。煮物」
「……煮物……」
場地の顔が歪んだのは、よりによって苦手な料理がいっぱいに詰まったタッパーを差し出されたせいだろう。
しぶしぶの態で千冬からタッパーを受け取る場地の肩に、刺青野郎が馴れ馴れしく腕を回した。
「場地ィ、オマエまだ煮物食えねーの?」
「噛む時スゲぇむなしーんだよ、コンニャクとかシイタケとかサトイモとか歯ごたえねぇやつがさぁ……」
「わっかんねー、手作りならウマいんじゃねーの? オレが代わりに食ってやろうか?」
「――ケースケ君は食べられないだろうから、涼子さんにって、母ちゃんが」
刺青野郎のセリフを遮るように、千冬は少し語調を強めて言った。圭介とか、涼子とか、わざわざ名前を出したのは、ちょっとしたマウンティングだったかも知れない。我がもの顔で場地の隣にいる刺青野郎が、千冬にはなぜか猛烈に気に食わなかった。
「あー、母ちゃん今日も夜勤だから、助かるワ。オバさんに礼言っといて」
「場地さんもう夕飯食いました?」
場地はそのまま家の中に引っ込もうとしている。千冬は考えるより先に、玄関のドアを掴んで爪先を三和土にねじ込んでいた。
「あ? まだだけど」
「オレもまだなんすよね。ここで食っていっていいっすか?」
本当はここに来る前に夕飯を済ませていたが、咄嗟に嘘をつく。千冬の言葉に、場地はあからさまに顔を曇らせた。
「家で食えよ。帰れ」
「えー、いいじゃん、オレが買ってきたカップ麺あるしさ」
渋る場地の肩に腕を乗せたまま、刺青野郎が妙に人懐こい表情を千冬に見せて笑う。場地が仕方なさそうに頷いた。千冬は、この刺青野郎はもしかしたら第一印象ほど嫌なヤツではないのかもしれないと思いつつも、なぜだか相手に対する反感を消せないまま、靴を脱いで場地の家に上がった。
「オレ、羽宮一虎。一虎でいいよ。オマエは?」
場地と並んで台所に向かいながら、刺青野郎――羽宮一虎が笑って千冬を振り返り言った。
「松野千冬」
「千冬か。よろしくな」
台所に入ると、一虎は勝手にヤカンで湯を沸かし始めた。慣れた態度は、この家に来慣れているからなのか、元々図々しいヤツだからなのか、千冬にはよくわからない。場地はダイニングテーブルの上で一虎が買って来たとかいうカップ麺の包装を剥いでいる。その隣に一虎がぴったりとくっついてきて、場地に凭れるようにしながら手許を覗き込んだ。
「オレ、シーフードね」
「あ? オマエが何がいいって聞くから、オレがシーフードって言ったんだろ。一個しかねぇのに」
「だって急にシーフードの気分になったんだもん」
「仕方ねぇなあ……」
ベタベタと場地に纏わり付く一虎の態度が、千冬にはどうしても不快だった。
(マイキー君だって、眠い時とか暇っぽい時に、あのくらい場地さんにくっつく時はあるけど……)
だがそれとは何か違う。何が違うのかはわからず、千冬はただ、しっかり食べた夕食が胃の中で凭れるような感触を味わった。
「……すみません場地さん、オレ、やっぱ帰ります」
吐き気すら催すようになってきて、気づけば、千冬はそんなことを口にしていた。場地が怪訝そうな顔を千冬に向ける。一虎は、まったく興味がないという素振りで、鼻歌を口遊みながらカップ麺のフタを開けている。
「母ちゃんに別の用事頼まれてたの思い出したんで。早く帰んねえとぶっ飛ばされちまう」
笑って言った自分を見る場地の表情が、どこかほっとしたような色になったことを、千冬は気のせいだと思いたかった。
「あっそ。じゃ、またな」
「っす。失礼します」
千冬は場地に向けて一礼してから、足早に場地家を後にした。自分の家に帰る間、帰り着いた自室のベッドに転がってからも、言い知れない胃のムカつきは止められなかった。
(何だ、アイツ)
羽宮一虎。結局アイツが場地の何なのかを聞くこともできなかった。
(オレが場地さんの人付き合いに口挟むとかぜってぇねぇけど……でも)
どうしても気に入らない。
不快というだけではなく、何か、不安だった。
◇◇◇
一虎と一緒にいる場地のところから、最初こそ逃げ出すように去ってしまった千冬だが、次の日からは無理矢理にでも二人の間に入り込むよう立ち回った。
「また来たのかよ」
団地の玄関先で、うんざりしたような場地の態度にも気づかないふりで、全力の笑顔を作る。お裾分けの口実もなく、学校から帰ってすぐ、場地の家に向かった。
「今日も一虎君来てるんでしょ、オレも混ぜてくださいよ」
以前であれば――場地のそばにいるのが一虎でなければ、千冬が絶対に言わなかったであろうセリフ。
「いーじゃん場地。千冬、入れよ」
場地の部屋から一虎の声がした。場地が舌打ちしている。まるで自分の家にいるかのような一虎の言葉に、千冬だってつい舌打ちしたくなったがどうにか堪える。
「やった。お邪魔しまーす」
「……関わるんじゃねぇよ、オマエは」
嬉しげな態度で靴を脱ぐ途中、低く吐き捨てるような場地の声が聞こえた。ハッとして千冬が思わず見遣ると、場地はまたどことなく気まずげな表情になって顔を逸らしている。
そんなにも、一虎と二人でいる時間を邪魔されたくなかったのだろうか。罪悪感と、場地に疎まれるのではという怯えを、千冬は力尽くで自分の胸の奥に押し込んだ。
(だって、アイツと場地さんを一緒にいさせちゃ駄目な気がするんだ……)
数日前の東卍の集会の時、それとなくドラケンに「羽宮一虎って知ってますか」と訊ねてみた。副総長の顔色があんなふうに変わるところを、千冬は始めて見た。
『テメェ、その名前どこで聞いた』
『いや……たまたま、ウワサで……』
『……ああ。芭流覇羅のナンバースリーとかって、不良界隈でザワついてるってやつか』
『あっ、ハイ、ええと、そうっす』
『確かにアイツは元東卍だが、今じゃオレらの……マイキーの敵だ』
『マイキー君の……?』
『いいか、その名前をマイキーの前で出すなよ。東卍の中で一虎の名前は御法度だ。嗅ぎ回るんじゃねえ、いいな』
ドラケンにそれ以上のことは聞けなかった。ただ、一虎が元東卍だったということは千冬も初耳で、ひどく驚いた。芭流覇羅というチームは近頃東卍のメンバーにちょっかいをかけているとそれこそウワサになっていて、近々大きな抗争が起きるのではという雰囲気を、千冬も感じてはいた。その芭流覇羅に、羽宮一虎がいるという。
(で、その一虎と場地さんが一緒にいるってのは……)
東卍は別のチーム一緒にいたところで、とやかく言われるような集団ではない。そもそも場地の行動を制限できる人間なんて存在しないだろう。場地はチーム内で御法度とされている内輪揉めをやらかし、それをマイキーすら止めることができず、集会への出入り禁止措置を取るくらいがせいぜいだった。
(その内輪揉めだって、場地さんらしくねぇ)
あれほど仲間を大事にしていた場地が平然と同じチームのヤツらを半殺しにして回ったのが、千冬には理解できない。場地はその場の思いつきで立ち回るような荒っぽい行動を取っていると言われてはいる。だが千冬にはもっとちゃんと深いところで、少なくとも場地なりの理屈で動いていると感じていた。何より大切にしているのは『仲間』への想いだ。
(なのに東卍と敵対してる芭流覇羅の一虎と、親しくしてる)
場地の考えていることがわからない。
自分にそれを聞き出す権利はないと弁えてはいるが、放っておくことがどうしてもできない。
ドラケンの態度からしても、『マイキーの前で一虎の名前を出すな』という言葉からしても、一虎は元東卍という以上に彼らにとって浅からぬ因縁のある人間なのだろう。それを知る前から、羽宮一虎には何をしでかすかわからないような空気を感じる。
(できるだけ近くにいて、アイツが妙なことしでかしそうになったら、体張ってでも止めてやる)
そんな決意をおくびにも出さないように、千冬は何気ない態度を装って、場地の部屋に足を踏み入れた。
「よー、千冬」
一虎は我がもの顔で床に寝そべって漫画本を読んでいて、千冬を見ると胡散臭いくらい明るい笑顔を向けてきた。千冬は無言で会釈だけ返す。
「なー場地、これ続きねぇの? もう読み終わっちゃったんだけど」
「その続きなら、ウチだけど。てかオレのマンガだし」
「え、千冬こんな乙女チックなの読んでんの? ウケる」
げらげら笑う一虎を、普通に殴り飛ばしたくなる。続きを楽しみにするほど読んでおいてこの言い種だ。
「笑うんなら続き持ってこねえぞ」
「えー、何でだよ、持ってこいよ」
一虎は最初から馴れ馴れしい。誰にでも甘える態度が身についているのだろうか。やたら顔がいいので、そういう態度を取れば優しくされることを知っているのかもしれない。場地との関係云々をさて置いても、気に入らない男だ。
(東卍辞めたって、ナンパすぎてクビになったんじゃねぇの?)
千冬はそう疑いつつ、一虎からは離れた位置に腰を下ろした。場地は自分も適当に漫画本を手に取って、ベッド代わりに使っている押し入れの上段に上がった。片手間にコーラのペットボトルを空けている。
「オレも喉渇いたなー」
畳から身を起こし、露骨に物欲しげに一虎が場地の方を見て言った。それで千冬は何だかぎくりとなる。場地が、自分に対する時と同じように、気軽な様子に「じゃあ、半分コな」とコーラを渡すのではと思って。
「オレの飲みかけじゃ嫌なんだろ」
だが場地はそう言って、また自分だけでコーラを飲んだ。
「冷蔵庫に麦茶入ってるから、勝手に飲め」
「へーい」
一虎は案外素直に頷いて立ち上がった。
「千冬も飲む?」
呼びかけられて、千冬はなぜか驚いた。そんな親切な性格に見えなかったのだ。
「や、オレは……」
「コップ勝手に借りるなー」
訊ねておいて千冬の返事など聞かず、一虎はさっさと場地の部屋を出て行く。
「……コーラ嫌いなんすかね、一虎君?」
何となく困惑して千冬は独り言のように呟く。
「ケッペキショーなんだよアイツ。人の食いかけとか飲みかけとか嫌なんだと。お坊ちゃんだから」
「お坊ちゃん?」
お坊ちゃんが短ランにボンタン穿いて虎のタトゥーを入れるもんだろうかと、千冬は曖昧に頷いた。
「オマエはコーラのが好きだろ」
そう言って場地が無造作に飲みかけのコーラを投げて寄越し、慌ててそれを受け取ってから、千冬は無性に嬉しい気分で笑った。
「半分コっスね!」
「暑ちーからってたくさん飲むなよ」
「ってか、投げたら炭酸なんすから溢れちまうっすよ」
笑ったままコーラのキャップを開けようとした時、背後から出し抜けにそれを取り上げられた。ぎょっとして顔を上げると、笑顔の一虎がいた。
「人に麦茶入れさしといて、コーラ飲んでんじゃねえよ」
「……頼んでねぇし」
「ほら特別大サービスで氷入り」
「麦茶も氷も場地さんちのだろ、何でアンタがドヤ顔だよ……」
コーラの代わりに麦茶の入ったコップを持たされ、千冬は零さないようそれを素直に受け取るしかない。
場地も一虎もそこから無言で漫画を読み耽り始めたので、千冬も適当に場地の漫画を借りて、眺めるともなくページを眺めた。
(オレがいるからこんな感じなのか?)
二人きりでいてお互い黙って漫画を読み耽ることは、千冬と場地の間でもよくあった。一緒にいても何をするわけでもない時間が千冬は気に入っていたし、むしゃくしゃすれば二人でその辺の不良を叩きのめすのも楽しかったし、ちょっと遠出するかとバイクで流すのだって嬉しくて仕方なかった。
(この二人も、オレがいなけりゃ、もっとはしゃいだりすんのかな……)
ぼんやりしているうち、千冬の携帯が鳴った。母親からの電話だ。
『そろそろ夕飯なんだから早く帰ってきな、どうせ圭介君とこでしょ。お肉一杯焼いたから、圭介君も連れてきなさいよ』
千冬は押し入れの場地を見上げる。
「場地さん、母ちゃんがウチでメシどうかって」
場地は漫画本から目を上げ、ちらりと一虎を見てから、首を振った。
「一虎いっから」
「一虎君の分もあると思いますけど、肉いっぱい焼いたって言ってるし」
「お構いなくぅ」
壁に寄りかかって漫画に目を落としたまま一虎もひらひらと片手を振った。
「千冬のママのメシうまかったけど、もう腹一杯」
ママ、という言い回しが何だか千冬の癇に障る。だが自分の家に一虎が来るというのもしっくりこなかったので、「ああそうですか」と頷き、母親には一人で帰ると告げて、電話を切った。
「じゃあオレ、帰ります」
「おー。じゃあな」
「お疲れー」
二人とも漫画を読んだまま、千冬の挨拶に適当な返事を寄越す。その適当さに妙な虚しさを覚えつつ、千冬は場地の家を出た。
(何だかな、何ていうか……)
場地が自分を歓迎していないことはわかっている。一虎も、歓迎するような態度を見せつつ、その実自分に好意を持っていないことくらい、千冬にも伝わってきていた。だからこそ二人の間に居座っているのだ。
それにしても、場地と一虎がただ純粋に仲のいい友人同士というだけなら、千冬だって、こんなふうに邪険にされているのを承知で彼らの間に入り込むことなんてしないのに。
(でも、うまく言葉になんねぇ)
場地と一虎の間に流れる空気をどう説明すればいいのか。不快。不安。変にひりついたもの。最初の頃、場地は家に来た千冬を追い返そうとしたのに、一虎の「いいじゃん」という一言で折れた。場地は一虎と自分の間に千冬が入ることをよく思っていないのに、それでも千冬を迎え入れるのは、一虎が「いいじゃん」と言い続けているからだろう。
(……場地さんが? 自分は嫌なのに、一虎君のために折れる?)
一番の違和感はそこなのかもしれない。
(何かものすげぇ、嫌だ)
なぜそこまで嫌なのかはわからなかったが、千冬はとにかく、どうしても、そんな二人の関係が――場地の態度が、嫌で仕方がない。
晴れない気分で家に戻り、夕食を食べる間も、風呂に入る間も、ずっと場地と一虎のことが千冬の頭から離れなかった。今頃二人で何をしているのだろう。何を話しているのだろう。そんなことばかり気になる。
風呂を上がってベッドに潜り込んでも、目が冴えていてどうにもならない。千冬は思い切って起き上がり、本棚から一虎が続きを読みたいと言っていた漫画本を数冊手に取ると、母親にバレないよう家を抜け出した。
(今日、涼子さん夜勤の日だよな)
一虎はもう自分の家に帰ったのか、それとも場地の家に泊まるつもりなのか。そう長い時間一緒にいたわけでもないし、長々会話を交わしたこともないが、何となく、一虎があまり家に帰りたがらないふうなのは千冬も察していた。アンタは家でメシ食わねえの、と訊ねたら、家にメシなんてねえよと笑って答えたその眼差しと声の調子から。
どうにかして、もうちょっと踏み込んだことを聞いてみる決意を、団地の薄暗い階段を上りながら千冬は固める。場地と一虎はどういう関係なのか。なぜ一虎は東卍を辞めたのか。場地と一虎が、どういう関係なのか。
そう決めたつもりだったのに、場地の家の前までやってきて、千冬はふと考えを変えた。魔が差した、と言った方が正しかったかもしれない。
(……オレがいない時、二人がどんな感じなのか、知りてぇ)
そっと玄関のドアノブに手をかける。音を立てないよう気をつけてノブを回すと、鍵が掛かっていなかった。千冬が家を出た時に場地は部屋に残っていたから、もしかしたらと思っていたのだ。
細心の注意を払ってドアを開く。三和土に、まだ一虎のシューズが残っている。やっぱり、と思いながら、足音を殺して千冬は自分も靴を脱ぎ捨てた。忍び足で廊下を進み、電気がつけっぱなしの台所には誰もいないことを確認する。そのままさらに進んで、場地の部屋の前までやってきた。入口の襖が細く開いている。千冬は後ろめたさに脂汗を掻きそうになりつつ、そっとその隙間から部屋の中を覗き見た。
「――」
何が起きているのか、自分の目で見たものを、千冬はしばらくの間理解できなかった。
「……っ、……ふ……」
仰向けに眠っている場地。その隣に座っている一虎。
一虎は場地の顔を見下ろし、小さく息を乱していた。
(何……やってんだ、アイツ……)
静かに寝入っている場地の姿をみつめながら、一虎の右手が、自分のボンタンの中で緩く動いている。
「……場地……」
掠れた、切なげな、甘い声。
そこに明らかな欲望を感じ取った瞬間、千冬は見てはならないものを覗き見た気分で――実際、そうとしか言えない状況で――廊下を後退った。絶対に物音を立ててはいけない。来た時以上に神経を使って廊下を戻り、玄関を出て、永遠に感じるくらい長い時間をかけてドアを閉めたあと、弾かれたようにその場を駆け出す。
(何だ今の、何だ今の、何だ今の……)
三段飛ばしに階段を駆け下り、自分の家のある二階も通りすぎ、建物の外に出る。闇雲に走った。乱雑に置かれた自転車置き場の前を走り、団地の敷地を抜け、さらに走り続ける。
(一虎、アイツ……!)
見間違いだと自分を誤魔化すには、一虎の漏らした声が、吐息が、生々すぎた。
千冬だって男なんだから、あれが何を意味していたのか、わからないはずがない。
場地の姿を見て、一虎は、自慰行為をしていた。
――場地に欲情して、自分を慰めていたのだ。
(最悪だ……!)
胸の中がぐちゃぐちゃだった。頭の中も。
ようやく足を止めて、歩道の半ばで蹲る。口許を押さえて小さく嗚咽を漏らした。
気持ち悪い。吐きそうだ。
最悪なのは、一虎の行為に嫌悪感を持ったからじゃない。この吐き気はそのせいじゃない。いっそそうならよかった。
一虎が体の欲望込みで場地を想っていると理解した瞬間、気づいてしまったのだ。
一虎の姿を見た瞬間自分の中に湧き上がった感情を。
(オレも、場地さんを)
自分だって、一虎と同じ欲を、場地に対して持っているのだと。