助けてよ、ヒーロー(3) 次の日から、千冬はいつものように場地の家に押しかけていくことをやめた。やめたというよりできなかった。
何となく、一虎や場地の顔をまともに見られる気がしなかったからだ。
だがそうして二人を避けている間にも、場地と一虎の間に何かあるのではと思うと、気が気じゃない。
(場地さんが寝てる間に……あんなこと……してたんだから、一虎は場地さんに、色々バレたくねえってことだろうけど……)
一虎が場地に対して妙に距離感が近い理由は、嫌というほどわかった。ろくでもない下心があるからだ。
ろくでもない下心、と言葉にして考えた瞬間、千冬は腹の奥が痛むような感触を味わった。
(……オレだって一緒だろ)
そんなもの、持っていないつもりだった。昨日までは。
今だって、場地にこんな気持ちを伝えたいだとか、場地とどうこうなりたいだとかは、絶対に考えていない。
(だって場地さんは、そういうんじゃねえだろ)
生まれて初めて尊敬して、憧れた相手。あの人にそんな薄汚い欲望なんて似合わない。
万が一一虎が力に任せて場地を襲ったところで、あいつがどれほどケンカの腕が立つのかは知らないが、あの場地圭介に敵うとも思えないし――。
(……でも)
考えたくもないことを想像して、千冬は、ぞっとした。
(もし一虎が場地さんに無理矢理迫ったら、力じゃなくて頼み込むとか脅すとか泣き落とすとかしたら、場地さん、受け入れちまうんじゃねえのか)
どうしてそう感じるのか、千冬もはっきり言葉にはできなかったが、場地に対する一虎の態度を思い出すにつけ、どうしてもそれを否定できない。
(場地さんと一虎の間に何があったのか、確かめねぇと……)
そう決心して、千冬は翌日になると学校の昼休みを待ち、怯みそうにある足を情けねえと叱咤しながら、場地の許へと向かった。
「ああ? 一虎とオレの関係? ……何でそんなこと聞くんだよ」
適当な理由をつけて屋上に誘い、さり気ないふりで訊ねてみたら、場地から返ってきたのは、露骨に迷惑そうな表情と声音だった。
「いや……すげぇ仲良さそうだから、いつからの知り合いなのかなって。単なる興味で」
マイキーとの関係を訊ねた時も、嫌そうに顔をしかめ、吐き捨てるように「幼なじみみなんだよ」と応えた。だがあれはある種、照れ隠しというか腐れ縁に対する苛立ちというか、そこまでマイナスではない感情が複雑に入り交じった挙句の反応だと、千冬にもわかったけれど。
今ははっきりと「立ち入るな」と、拒絶の色を場地から感じる。
「前からの知り合いなら、マイキー君とかドラケン君とかも知ってるんすかね?」
ドクドクと心臓を鳴らしながら、千冬は無邪気さを装ってそう言った。一虎の名前を出した時のドラケンの態度、「マイキーの前でその名前を出すな」という言葉を思い出しながら、半ば試す心地でそう言った千冬の胸倉を、場地が出し抜けに掴んだ。
「マイキーの前で一虎の名前を出すんじゃねえよ!」
「――」
何かしら反応はあるだろうと思っていたが、予想以上の場地の様子に、千冬は思わず目を見開く。
場地も、はっとしたように千冬のネクタイから手を離した。
「……悪ィ」
苛立ちを抑えるように、場地が今は結び目を解いている自分の髪をぐしゃぐしゃと片手で掻き回している。
「……一虎は昔、マイキーが東卍創った時のメンバーだ」
「えっ……」
東卍をクビになった、とは聞いていたが。
場地やドラケンたち同様、創設時のメンバーだというのは初耳だ。
(じゃあどうして東卍辞めたどころか、敵対チームに入ったのか、ますますわかんねえ)
「色々あったんだ。テメェは関係ないんだから、ごちゃごちゃ首突っ込むんじゃねえぞ」
「……ッス。すんません」
とりあえず千冬は殊勝に頭を下げておいた。これ以上は自分にもマイキーたちにも聞くなと釘を刺されたのだ。
「でも一虎クン、格好いいし優しいし、いい人っすよね!」
それから反吐が出そうなのを必死にこらえ、明るく場地に向けてそう言う。
「優しい……?」
「ほらラーメン一緒にって言ってくれたり、麦茶入れてくれたり。面倒見いいんだなーって」
笑う千冬に、場地は何か言いたそうな顔で口を開いてから、言葉を探して視線を彷徨わせている。
それに気づかないふりで千冬は続けた。
「また一緒に遊んでくださいよ、オレ一虎クンとは仲よくできそうだなーって思うんで」
「千冬」
「っと、そろそろ昼休み終わっちまうっすね、教室戻らねえと!」
場地の呼びかけも聞こえないふりをして、千冬はその場から身を翻した。
(やっぱ駄目だ、あの感じ、場地さんは一虎側だ)
場地から逃げるように屋上を出て、教室のある階へと続く階段を駆け下りながら、千冬はバクバクする心臓を持て余した。
(何があったのか全然わかんねぇけど、マイキー君は一虎にすげぇムカついてて、ドラケン君はマイキー君の味方で、で、場地さんは一虎の味方だ)
だとしたら、マイキーと一虎が揉めた時、場地は一虎を庇う側になる。
(まさかマイキー君と場地さんがやり合うなんてバカなこと、あるわけねぇけど……)
近々、東卍と芭流覇羅の間で抗争が起きるかもしれないというウワサを思い出し、千冬は無意識に奥歯を噛み締めた。
(や、絶対、場地さんが東卍裏切るとかありえねえ)
そう自分に言い聞かせようとするのに、千冬の中で、嫌な予感は次第に膨れ上がっていった。
そしてその予感は、最悪の形で実現した。
◇◇◇
「これで認めるだろ、半間クン。オレの芭流覇羅入り」
場地の声が遠く聞こえた。もうどれくらいの時間殴られ続けたのかわからない。視界が霞んでいるのは瞼が腫れ上がっているせいなのか、それとも視神経でもやられてしまったのかすらわからなかった。
(場地さん……)
場地と屋上で話してから数日後の放課後、芭流覇羅のアジトだとかいうゲーセンに呼び出された。場地が呼んでいるというので、見たこともない男たちの後に素直に着いていった。
あの翌日、場地が突然東卍を辞め、芭流覇羅に入ると宣言して以来、千冬は彼と会えなくなっていた。学校でガリ勉姿を目にはするが、昼休みも放課後もどんなに急いで場地の教室に向かってもすでに席はもぬけの殻、家にもいないし、電話もメールも無視されている。
呼び出しが何らかの罠であっても、その時はコイツらをボコればいいだけだ。そう思って辿り着いたゲーセンに場地はいた。
そして千冬はわけもわからず真正面から場地に殴られ、でも彼のすることに逆らう気も起きず、衆目の前で殴られ続けた。
(きっと何か意味があるんすよね、場地さん)
場地の拳は重く、二、三発でもう意識が遠のきかけていた。それでも場地のすることのひとつでも見逃したくなくて、千冬は床に倒れたままただ無抵抗にいた。
骨に響く痛み、流れる鼻血の生温かさ、それらすべて場地から与えられたものだと思えば気を失うのなんて勿体なかった。
「一虎ァ!」
誰かの声がした。半間とか場地に呼ばれていた、ひょろ長くて胡散臭い男のものだったと思う。
「用意できた?」
「――いや」
続く声には、聞き覚えがあった。
(一虎……)
ゲーセンに来た時にはいなかったはずだ。その姿を確かめたかったが、腫れ上がった瞼と血で視界は塞がったままだった。
「場地に近しい人間なんて、創設メンバー以外はソイツしかいなかったよ」
千冬の記憶にあるニヤけた顔立ちと同じくらい甘い声。場地の暴力を囃し立てる芭流覇羅のヤツらが集まって異様な熱気に包まれるゲーセンの空気にまったくそぐわないほど落ち着いた響き。
足音と共に、一虎の声が千冬の方へと近づいてくる。
「コイツを東卍に送ってやれば、マイキーも今度こそ完全に場地を見限るだろうよ」
顔に何か載せられる感触がした。――靴? 頬を踏み躙られている気がしたが、千冬はもうそれを払い除けるための力すら残っておらず、やめろ、と言ったつもりの唸り声しか漏らせなかった。
靴の裏の感触はすぐに腫れ上がった顔から離れ、今度は肩を蹴られて体が反転した。
「それに、もし場地がスパイだったとしても、芭流覇羅に入れるだけの価値はありますよ」
「フーン……ま、いっか」
笑い含みの一虎の声の後、軽い調子の半間の言葉が続く。
「よーし、本日をもって、場地圭介を芭流覇羅の一員とする!」
声を張り上げた半間の言葉に、千冬が殴られていた時以上に、ゲーセン中が湧いた。
(場地さん)
場地がどんな顔をしているのか見たくて、千冬は必死に目を凝らす。
だが次第に腫れを増す瞳を開くことはできず、過ぎた痛みのせいで、千冬はそのまま気を失った。
◇◇◇
目を覚ました時には、自室のベッドで眠っていた。母親に聞いても誰が送り届けてくれたのかわからなかったが、千冬には、正解なんて簡単にわかった。
(いくらでも使い捨ててくれていいのに)
立てなくなるほどボコボコに殴りつけておいて、家まで運んでくれるとか。やってることがおかしくて、めちゃくちゃで――そういうところを、千冬はどうしようもなく好きだと思う。思ってしまう。
場地が手を抜いたようにも思えなかったが、人並み外れて頑丈な千冬の体は、三日もすれば普通に動き回れるようになった。ひどくダメージを受けた右目だけ、当分はガーゼで保護しなければならない程度。全身痣だらけだったが、骨も折れていないしヒビすら入っていない。
学校はサボっておきながら、母親が仕事に出かけているのをいいことに、夕方になると千冬は家を出た。団地の外階段に腰を下ろし、じっと時を過ごす。
そう待つまでもなく、目当ての人物が姿を現した。
学校帰りの場地は、学校で見かけるようなガリ勉姿ではなく、髪を解いてネクタイは弛め、ブレザーの前もすべて明け切った、見るからに素行不良の格好になっている。いつも家に戻るまでガリ勉姿だったのに、今日はたまたまそれなのか、それとも学校でも取り繕うのをやめてしまったのか、学校を休んでいた千冬にはわからない。
「場地さん」
立ち上がった千冬がよびかけても、場地は一瞥も寄越さず、無言で脇を通り抜けて階段を上っていってしまった。
千冬はそれに追い縋ることはせず、再び階段に腰を下ろす。
しばらくすると、もう一人、待っていた相手が現れた。
一虎は鼻歌交じりに歩いてきて、千冬を見ると、足を止めて薄く笑った。軽く首を傾げると、右耳の鈴がリンと鳴って、千冬にはやたら耳障りだった。
「何だ、生きてたのか、オマエ」
「アンタには残念だろうけどな」
千冬はにこりともせず、一虎に返す。
「どうせならぶっ殺せばよかったのに。ま、オマエなんか殺ってパクられるんじゃ、これから始まる東卍との抗争に参加できなくてつまんねーか」
「アンタに頼みがあるんだけど」
階段を下りながら千冬が言うと、一虎が怪訝そうな顔になる。
「あ?」
「オレ、芭流覇羅に入りたいんだよな。半間ってのにナシつけてくんねえ? アンタ、一応ナンバースリーなんだろ?」
「……」
一虎が完全に、表情から笑みを消した。
「バカじゃねえ? せっかく場地が踏み絵でオマエ――東卍裏切ったの認められて芭流覇羅入ったのに、オマエまで来ちゃったら意味ねえじゃん」
そんなこともわからないのかと、軽蔑しきった眼差しを浴びせられながら、千冬は一虎の前までゆっくり歩いて行く。
一虎が軽蔑というより、嫌悪の表情で、間近にやってきた千冬を見下ろしている。
「オレを仲間にするってなら、そりゃ意味ねえだろうけど」
千冬はやたら大きな一虎の目を見返した。
「アンタがオレを『使う』ならいいんじゃねえ?」
「使う?」
わけがわからない、というように眉根を寄せる一虎の方へ、千冬は身を寄せた。
笑いを含んだ声で、その耳許に囁く。
「アンタ、場地さんに惚れてんだろ」
一瞬、一虎が息を飲むのがわかった。すぐに取り繕うような笑みを浮かべるが、その頬が強張っているのも。
「はぁ? オマエ、何言って……」
「場地さんの寝顔で抜いてたじゃん」
笑いながら言ってやる途中で、一虎が千冬の胸倉を荒っぽく掴んだ。
怒鳴りつけてやろうというように口を開くのに、言葉が出ていないようで、ただ目許を火のように赤くして千冬を睨みつけている。
羞恥のためではなく、怒りのために赤くなっているということが、あまりに強く胸元を掴む一虎の力で千冬にも伝わってくる。
「……殺すぞ」
「心配しなくても、場地さんにバラしたりはしねえって」
本気の殺意を感じて、千冬は笑い出したくなった。それを堪えようとしても、薄笑いが消せない。一虎の瞳に映る自分のその笑みが吐き気を催すほど醜悪だと感じながら、じっと相手をみつめる。
「場地さんの代わり、してやるよ」
「……」
一虎が、千冬の言葉の意味を理解しかねたように目を見開く。
「溜まってんじゃねぇの? でも、場地さんは全然色恋沙汰に興味がねぇの、アンタだってわかってんだろ。だからそれ、オレが解消してやるって言ってんだよ」
一虎の執着を、場地から他に向ける。
三日ベッドで寝転びながら辿り着いた千冬の答えがそれだった。
(バカなのもメチャクチャなのもわかってるけど、何でもいいから、コイツの意識を別んとこに……オレに、向けさせてやる)
新たな執着でも、憎悪でも、軽蔑でも、少しでも一虎の頭の中から場地圭介を減らせるのであれば。
「今すぐヤッてやってもいいぜ、どうせこれから場地さんち行くっていうんで興奮してんだろ。オレがアンタの右手代わりに」
加減のない一撃が来るのはわかっていたが、千冬は避けることもなく、一虎の拳を頬で受けた。予想していたので無様に倒れずに済んだが、一虎は二撃、三撃と、力任せに千冬の胸倉を掴んだまま頬を殴りつけてくる。
「テメェ……マジで殺すぞ」
「じゃあ場地さんにアンタの気持ち、オレが伝えてやろうか? 友達なのに寝顔で抜くような気持ちで好きだって――」
四発目。やっと塞がった鼻の粘膜の傷が勢いよく破れて血が噴き出す。口の中も切れた。顔の腫れが引き始めたところだったのに、また面相もわからないほど膨れ上がってしまうかもしれない。それでも千冬は構わなかった。
「場地さんがアンタに惚れることなんてないだろうけど、必死に頼み込んだら、やらせてくれるかもしんねえじゃん。場地さん、アンタに何か負い目みてぇなモンがあるみたいだし」
「……」
五発目を入れようとした一虎の手が、千冬の頬に当たる寸前でビクリと止まる。
(図星か)
当てずっぽうのようなものだったが、千冬が感じていた予測は、一虎も等しく感じていたものだったらしい。
「アンタがオレをボコって従わせてるってことでさ。半間クンに、話つけてよ、一虎クン」
一虎は無言のまま、しばらく千冬の胸元を締め上げ続けていたが、不意にその手が弛んだ。かと思うと、掴んだ時と同様荒っぽく突き飛ばされ、千冬はそのまま地面に倒れ込む。
「……場地に言ったら、マジで殺すからな」
千冬は口中に溜まった血交じりの唾液を地面に吐き出した。
それが答えだと受け取ったように、一虎が苛立った仕種で踵を返す。場地の家には向かわず、そのまま来た道を戻っていった。
千冬はその足音を聞きながら、地面に大の字に転がる。
「痛ってぇ……」
ナンパな見た目に反して、一虎のパンチは強烈だった。東卍の創設メンバーだというくらいだから思ったよりケンカの腕が立つのか、それとも本気で自分を殺す気だったせいなのか。
どっちでもいい。多分今ので、交渉成立だ。
安堵と喜びと虚しさの綯い交じった気分で空を見上げた時、階段を下りてくる靴音が千冬の耳に届いた。すぐに、見慣れた人の顔が上からこちらを覗き込んで来る姿が視界に入る。
「……何やってんだ、テメェ」
場地だった。一瞬ぎょっとしたが、一虎も千冬も声を殺して話していたから、会話を聞かれていたわけではないだろう。だとしたら殴る音や気配を聞きつけて外に出てきたのだろうか、そう思ったら何だか可笑しくなった。
「何でもないっす」
先刻自分を無視した場地が、険しい表情であれ声をかけてくれたことが、千冬には嬉しくて仕方がない。
場地の差し出した手に、千冬はためらいなく掴まった。
(オレのこと、やっぱりまだ、仲間だって思ってくれてるんだ)
きっとこんなところを芭流覇羅のヤツらに見られたら、あの『踏み絵』とやらは、一虎の言うとおり台なしだろうに。
「オレ以外のヤツにのされてんじゃねぇよ」
吐き捨てるように言われた場地の言葉に舞い上がらずにはいられない。
「はいっ」
力一杯頷く千冬の視界の片隅に、団地の敷地を出る手前で立ち止まる一虎の姿が映った。
一虎がじっとこちらを見ている――気がする。
「邪魔だから退けただけだ。さっさと家に帰れ、目障りだ」
邪険に言う場地に頷きながら、千冬は顔が痛むのも気にせず、笑みを浮かべずにはいられなかった。