その日は特に任務もなく、穏やかな一日だった。
「先生、経験人数は?」
「わあやだ悠仁のえっちぃ、そんなこと聞いちゃうー?」
退屈凌ぎにトランプを始め、好みの女の話になり、初恋はどうだの告白されたことはあるかだのと女子高生ばりにきゃっきゃうふふと恋愛トークを繰り広げていたところ流れで訊かれた質問に、僕はきゃあと可愛らしく恥じらいながらもそっと顔の前に指を立てた。
すると、悠仁も恵も揃って手札から視線を持ち上げて、突き出した僕の手をじいっと見つめる。
「四人……」
「へえ……四人……」
「ちょっとぉ。二人とも、何か失礼なこと考えてなーい?」
息のあった調子で胡乱な表情を披露する男子二人の顔に、「思ったよりも断然少ない」としっかり書いてあった。
全く心外である。
僕はこれ見よがしに口を尖らせた。
「そりゃ僕、こーんなにイケメンだし、はちゃめちゃにモテますけど。でも、取っ替え引っ替え遊んだりなんかしてないよ。好きになったら一途だし」
「ちなみに、内訳は」
「遊び三の本命一人」
「…………」
「…………」
「言っとくけど、遊んでたのは付き合う前だけだからね。浮気したこととかないから。ここ十年とちょっと、ずーっとカノジョ一筋ですから」
誤解なきよう念押しする。ここで妙な勘違いをされて、後々それが彼女の耳に入ろうものならば別れを切り出されることは必至である。それは、絶対に避けたい。
語気強く言い含める僕に、逆に怪しい、とでも言いたげな顔つきをした恵が、軽く目を瞠る。
「そんなに長いんですか、今カノ」
「そうだよ。てか、そこそんな驚くとこ?」
「えっ、先生、今付き合ってんのッ?」
「だからそうだよ……ねえ、何でそんな意外そうわけ? 二人して僕のこと何だと思ってんの?」
そう言えば、憂太にも似たような事を言われた覚えがあるなあと思い出した。そんなに女にだらしなく見えるのだろうか、僕。仕事が仕事なので構ってやれているとは言い難いが、それはお互い様であるし、それでも限られた時間を可能な限り愛情表現に費やしているつもりなのだが。
僕は本格的にむくれた。
知らないからこその、他意のない反応だとわかっている。しかし、だからこそ、ちょっと傷つく。伊達で十年も交際はしない。将来設計は既に立案済み、僕は本気も本気だが、そうは見えないと言われているようで腹立たしい。
もしも、彼女も同じように感じていたらどうしよう。愛されていると思っているから遠距離でも安心して放し飼いにしていられるのに、実は違いました、なんて言われたら勢い余って何をするか自分でもわからない。
「おっと、電話だ」
「誰から?」
「噂をすれば、だよ。────はぁい、マイスウィートハニー。おひさ」
何の用、と電話越しにとびっきり甘い美声を聞かせてやればスマホの向こうから地を這うような呻き声と鋭い舌打ちが聞こえた。通話早々気味の悪いことを言うな、と唸る。酷い。
僕は笑った。
「電話早々怒んないでよ。で? どしたの」
すると彼女は不機嫌そうに、今どこ、と尋ねてくる。
東京に用があるからついでに寄るとは言っていたが、ちょうど今、高専に着いたらしい。
まだ正門を越えたばかりらしく、どこへ向かえばいいのかと言うので僕はかたんと椅子をひいて立ち上がった。
「ああ、いいよ。そこ居て、僕が行くから。……うん、じゃ、また後で」
ぷつんと通話を終えた後で、僕は悠仁の札から一枚引き抜き、揃った手札を机の上に投げて残った一枚を恵の手札に差し込んだ。
「げ……」
「うっわ、やっぱ先生がババ持ってた……」
「それじゃ僕、もう行くから。午後の授業も励み給えよ、学生諸君」
負けた方の罰ゲーム忘れんなよ、とにやにや言い置くと恵も悠仁もぎくりとした。有耶無耶にする気だったのだろうが、そうはいかない。
ぎこちなく顔を見合わせる生徒二人を置いて僕は建屋を後にして、正門の方へと向かう。足取りは軽い。彼女に会うのは二週間ぶりか。今回は割と短く済んだが、これを逃せば次いつ会えるともわからない。仕事に託けて頻繁に電話はしていても、やはり、五感に直で味わう本物には到底及ばないものだ。
「────う、た、ひ、め♡」
「うぎゃっ」
スマホに目を落としたまま振り返ることのない後ろ姿に、がばり、と抱き着く。結果、鼓膜に響いた女らしさを欠いた雄叫びに、色気がないなあなんて上辺ばかりの文句を垂れながら華奢な体をぎゅうっと抱き締めた。いつもと装いが違うこともあり、布越しにも彼女本来の柔らかさをはっきりと感じる。
毛先に癖の出た黒髪に鼻先を埋めて、深く、息をする。
髪の合間から覗いた耳殻をぱくりと食むと、悲鳴とも怒声ともつかない金切り声と共に拳が振り上げられた。
「ば、馬鹿が! この変態! 往来で何してくれんのよ!?」
「隙見せる方が悪いんじゃなーい? てかこのくらいスキンシップの範疇じゃん、いちいちかりかりしないでよ。……久しぶりだね、元気してた?」
「だとしても諸々順番がオカシイでしょッ」
まともに振る舞う気がないのかと顔を赤らめた歌姫は、腕の中で強引に体を捻り、どん、と僕の胸を叩く。
痛くはない。彼女だって本気ではない。
それでも僕は大袈裟に胸を押さえ、腕を解いた。
「う……歌姫のゴリラ……暴力反対……」
「おちょくってんじゃねえぞてめえ」
「まあまあ、落ち着きなよ。短気は損気ってよく言うでしょ? ほらほら、どうどう」
「じゃあ積極的に煽んのやめろ馬鹿!」
自覚はあっても自制の効かない歌姫である。鼓膜を劈く絶叫に、ああやっぱり、歌姫はこうでなくっちゃなあとしみじみ感じ入る。
出来ればもう少し楽しみたいところだが、折角のデート前にこれ以上機嫌を損ねるのは得策ではない。僕は一旦薄笑いを引っ込めて、行き場なく握り締められた小さな拳を捕まえるとそのまま口元に寄せてキスをした。
「ッ」
「会いたかった。浮かれて、調子乗ってごめんね?」
「……」
「にしても今日、スーツなんだね。珍し。似合ってるけど」
「…………ッ」
「折角だし、ご飯、ちょっといいとこ行く?」
フォーマル、というにも少々かっちりし過ぎではあるが、その格好であれば大概の店には入れるだろう。
細い腰を引き寄せて微笑えば、歌姫はそわそわと落ち着きのない様子で身動ぎをしつつそっぽを向いた。
今度は照れている。
本当に、わかりやすい。
「べ、べつに、その辺でいいわよっ……ていうか、近いっ、から。離せ」
「やーだ。別にいいでしょお? 隠してないんだし。今仕事中じゃないし」
「仕事中じゃなくたって職場だし、第一、生徒に見られたら面目立たないでしょうが……!」
「僕気にしないから」
「私が! 気にする! の!」
品行方正な優等生の歌姫らしい、実にお上品な見解である。
が、同意はしかねる。
僕はさらっと無視をして、腰に回した腕により力を込めた。
歌姫は慌てる。
「ちょ……もうっ、五条!」
「いい加減諦めなって。大体、騒げば騒ぐほど目立つよ? 誰かに見られたくないなら静かにしないと」
「ぐ……」
「はい。じゃあ、さっさと行こうね」
お昼何が食べたいの、と尋ねると頬を赤らめ顔の中心にぐしゃっと力を込めていた歌姫は、和食、とやけくそ気味に叫んだ。
なお、このやり取りは後を付けて来た悠仁と恵に一部始終目撃されており、覗きの罰として真希のスカートを捲ってくるようにミッションを課すわけだがそれはまた別の話である。