任務ついでに東京校に立ち寄った。
仕事ではない。硝子に会いに来たのだ。この後一緒に飲みに行く約束なのである。
約束なのに──────
「はぁーいマイハニー! もお〜っ遅いんだから、僕、待ちくたびれちゃったよ────あ、紹介するね。こちら、僕のカノジョの庵歌姫さんでぇすっ♡」
「は───────はぁ!? 何言ってんだてめえふざけんなバ」
「やだなあ歌姫、一週間ぶりに最愛のカレシに会えたからって興奮し過ぎぃ。僕も嬉しいけど、もうちょい、落ち着こっか。血圧上がると血管爆ぜるよ?」
「〜ッッ!!」
抱き寄せられて強制的に胸元に顔を押し付けられ、そのままぎゅうぎゅう締め上げられて窒息と圧迫で死ぬかと思った。声も拳も封じられ、何の反論も出来ないまま、すらすらと立板を流れる水の如く流暢に回る舌先八寸の嘘八百を間近に聞かされて、みるみるうちに顔が真っ赤に燃え上がる。
────どうして、こうなる。
それこそ、こめかみの血管は今にも破裂寸前だ。
握った拳を振り上げることも出来ず、口を塞がれ、ただぶるぶると震えるしかない己の無力と面倒事に人様を引き摺り込んだ諸悪の根源に憤怒を掻き立てていた。
修羅場のお相手はストーカーであったらしい。
「やー助かった! 相手、非術師のお嬢ちゃんだったからさあ〜、下手に手ぇ出せなくって」
「助かった、じゃねーよ! 高専のど真ん前で揉めやがって……勝手に巻き込むな!!」
「まあまあ、その代わり、ここは僕が奢るから。好きなだけ呑んでいいよ」
迷惑ついでに飲み会にまでついてきやがった五条のその台詞に一旦は溜飲を下げ、硝子と二人、喜び勇んで高い酒ばかりを頼んでやった。
「で? 何だってそんな、面白い事になったの?」
「他人事だと思って茶化すなよなー、硝子。結構面倒だったんだから」
曰く、元々彼女は依頼人の娘であったらしいのだが、仕事中にたまたま素顔を見られて一目惚れされたらしい。以降、何をどのように言ってもまるで聞く耳を持たず、付き纏われ続けているらしい。
酒の不味くなる話だ。
私はふんと鼻を鳴らした。
「物好きな子ね。いっそ付き合えば?」
「冗談やめてよ。歳下とか好みじゃねー」
「選り好みすんなよクズが。若くて可愛い子だったじゃない」
二十代前半くらいの、流行りに乗った、可愛らしい雰囲気の女性であった。自分の容姿に自覚的で、人目を意識してそのように整え振る舞っている節があった。遠目からもはっきりわかるくらい、五条を見詰める目がハートマークになっていたのを思い出す。
聞けばかなり乱暴な言葉であしらったこともあるそうなのだが、「そんなところも好き」と好感度を上げる手助けにしかならなかったらしい。相当いかれている。
何だ、お似合いじゃねえか。
白い目を向ける私に、五条もまた本気でうんざりした顔をする。
「歌姫、それ、面白くない。マジでやめろよ。今時ポストに髪の毛入りのラブレター投函するテンプレみたいなヤンデレ女、お断りだっつの」
「そ、それは……」
「なかなかに熱烈だね」
「だろーほんっと、うぜー……警察役に立たねーし。箱入りで時間と金だけは持て余してるから、あの手この手でストーキングしてくんの。家出る度に毎回監視撒く僕の身にもなってよ。プライバシーもクソもねえ」
珍しく、苛立ちも露わに舌打ちをくれる。家と職場が知られてしまい、毎回出待ちされているらしい。思ったよりも参っているようだった。
普段は姿を見られないようにこっそり出入りしているそうだが、今日はどうしても正門に出なければならない用があり、結果、捕まってしまったとのことである。私はそこへ通り掛かったというわけだ。
「……」
「だからさー今日、あのタイミングで歌姫来て、本ッ当に助かった〜っ。本命いるなら流石に諦めるみたいなこと言ってたし、歌姫見て大分意気消沈してたから、これでもう大丈夫っしょ」
「…………あっそう……」
それはよかったな、とは、素直に言い辛い。何しろ風評被害が酷い。面倒なストーカーの撃退に役立ったのであればまあ、良かったは良かったのだが、その代わりに私はこいつの彼女だと思われたわけだ。それは、嫌だ。ただの方便だとわかっていても不愉快である。大体、何故私なのだ。他に頼めそうな女はいなかったのか。いやもういっそ七海か伊知地あたりに頼めば良かったのに。
とはいえ本気で困っていた様子の五条が晴れやかに笑うのを見て、文句を重ねることも出来なかった。こんな男どうでもいいし寧ろ嫌いだし何なら酷い目に遭えばいいと常日頃から思うものの、だからと言って、本気で不幸になれと呪っているわけではない。
喉奥で蟠った不平不満を、酒で無理矢理に腹の中へと押し戻す。
あっという間にグラスが空になった。
いつもより少々ペースの早い私に、硝子が少しだけ眉を顰める。
「先輩、大丈夫です?」
「へーきへーき。タダ酒だもの、呑まなきゃ損でしょ?」
「それもそうですが」
「そうそう。何かあってもあと僕が面倒見るし、安心してよ」
酒の一滴も飲めない下戸がけらけらと笑い、空のコップになみなみと酒を注いだ。
火を見るまでもなく、明らかな惨状である。
「んゔ……」
「よしよし」
高専において一、二を争う酒乱ぶりを発揮した歌姫は、酔っ払って暴れるだけ暴れると、糸が切れたようにぷつんと倒れて眠ってしまった。僕の膝に頭を乗せて、赤ら顔でうんうん唸っている。
もう呑めない、と寝言を零しているあたり、どうやら夢の中でも酒を呑んでいるらしいと察して思わず苦笑した。卓の上に散々空瓶を転がしておいて、まだ呑んでいたのか。
「ふ。可愛いね〜歌姫。相っ変わらず、単純」
「……君ね」
向かいで、残り僅かな日本酒を啜っている硝子が呆れ果てた様子で流し目を寄越す。
「わざと先輩潰したでしょ」
「えへ、わかるぅ?」
「…………あんまり、先輩困らせるなよ」
もしかして今日のストーカー騒ぎも狙ってやったんじゃないの、と穿った目を向けてくるので、これには心外だと頰を膨らませた。
「流石にそこまでしないって〜っ。歌姫がこっち来るなんて知らなかったし。────よっ、と」
「? 何する気?」
「写真。今日のアレでかなりダメージ与えたと思うんだけど、あと一回くらい、押し掛けてきそうな気ぃするんだよねえ……トドメの一撃、用意しとかなきゃでしょ」
「……怒られても知らないよ」
僕の膝枕で寝ている歌姫をぱしゃりとした後に、眠る彼女を膝の上に抱えて、くたりと肩にもたれかかる姿を画角に収めて自撮りする。何処をどう見ても酔いどれた彼女を介抱する彼氏にしか見えない、完璧な写真だ。我ながら最高の出来である。家に帰ったらパソコンとクラウドにも移して、しっかり保管しなくては。
ほくほく顔の僕に、硝子が冷めた目を投げ掛けている。目的と手段が入れ替わりつつあるのを見透かされていた。
────正直、さっきの歌姫の発言にはちょこちょこと頭に来ていた。意趣返しには少々物足りないものの、お代がこれならお釣りがくる。まあ、許してやってもいいかな、と思った。
と、そこへ、歌姫が呻き声を上げる。
「……ん、んん……」
「あ」
「…………ごじょう……なんでぇ?」
「……。歌姫が、酔っ払って寝ちゃったから。枕になってんの」
感謝してよね、と恩着せがましく言うとアルコールの抜け切らない寝起きの歌姫は、ぼんやりした目で僕を睨みつつ「ありがとう……?」と首を傾げた。表情と台詞が一致していない。キレているのか素直なのか、どっちなのやら。
しかし、これはこれで悪くはない。
「じゃあ、お礼のちゅーは?」
「なんでよ」
「ありがとうが足りない」
「……ちゅー、やだ。べつのにして」
「うーん、じゃ、ハグでいいよ」
嫌がる割にお礼をする気はあるのが面白い。そのくらいなら、と歌姫は腰を浮かせて、膝立ちになると僕の頭をがしっと抱き締めた。
「ん、これでいい?」
「いいよ。でも、もうちょいこのままね」
「しかたないわね……」
ぎゅーっ、と細い腕が首に絡んで柔らかい感触が顔に押し付けられる。
何という僥倖。
僕はずり落ちたサングラスを引き抜いて今この時の至福を思う存分に味わいつつ、硝子に小声で呼びかけた。
「硝子、硝子。これ、写真撮って……!」
「えぇ? 嫌だよ、私まで怒られるじゃない」
とは言いつつも硝子はスマホを取り出して、ぱしゃり、と一度だけシャッター音を響かせた。
後日。
任務帰りに高専までやってきた歌姫が、僕を見るなり血相を変えて詰め寄ってきた。
「────────ッ五条! てんめぇ……人が、酔っ払ってるのを、いいことに、何て写真を……ッ!! あれ消せよ!!」
「え、やだぁ〜っ。いいじゃん、可愛く撮れてるしぃ」
「んなことどうでもいいんだよ……! あんたあの写真、例のストーカー以外にも見せたでしょ! 高専中変な噂出回ってんだよ! ざけんな! 京都にまであることないこと届いてんだぞ!! せめて仲間内には否定しなさいよ!!」
「ほぉら、敵を騙すには味方から、っていうだろ? お陰でストーカー女も撃退出来たし、ほんと、何から何までありがとね〜っ、う、た、ひ、め♡」
「この馬鹿! 百遍シネ!!」
なお、あまりに歌姫が煩いのでその場でスマホのデータは消して見せたものの当然ながら二重三重にバックアップ済みであり、かつ、大本命の、歌姫が僕を抱き締めている写真に関してはそもそも表に出していない。寝顔を写した画像がスマホのアルバムから消えるのを見てほっとしているあたり、歌姫は全く覚えていないのだろう。硝子にも念入りに口止めしている。となれば、僕としては痛くも痒くもない。
表向きには悔しがるふりをして、ぷりぷりと怒る歌姫を横目に、内心大笑いをしていた。