君が無理をしている時の合図を、知っている。
まず怒らない。よく笑う。僕の下らない悪戯に呆れた顔を見せることはあるけれど、声を荒げるようなことはしない。終始上の空だ。いつもなら僕の話なんてどうでもいいと言わんばかりの太々しさで、へいへいと生返事を寄越しながらも、単語一つ漏らさずにちゃんと聞いてくれるのに。
そして極め付けに、別れ際、とびきり綺麗に笑って見せる。
特別なその笑顔が僕の為に用意された紛い物だと知るまでに、そこまで時間はかからなかった。だって、昔からずっと、君のことを見ている。些細な変化も見逃しはしないのだ。そして、光の輪の中でかえって翳む太陽のようなそれは、雨の予兆である。
見栄っ張りで意地っ張りの君のことだから、僕の前では、泣きたくはないのだろう。
知ってるよ。解ってる。
それでも僕は、無理にでも、暴いてしまいたくて堪らない。
「────ぇ」
「ばぁか。まだ帰んない」
「ッ」
「ねえ、何かあったでしょ。僕に言えないこと? 秘密にしててもいいけど、言わないなら調べるよ。素直に白状した方がいーんじゃない?」
がちゃん、と押して開いた扉が何も吐き出さないまま音を立てて閉じた。僕は玄関口に立って呆然とする歌姫を抱き締めて、小さな耳に悪態を吐く。
馬鹿。ほんっと、馬鹿。
僕が帰ってしまってから、一人で泣こうなんて魂胆だろうがそうはさせない。
「っは、離し、て!」
「やだ。歌姫が泣くまでこのままだから」
「な……泣かないわよ! 大体、何でそんなことしなくちゃなんないのよ!?」
「だって、歌姫如きが僕に隠し事とか百年早くない? それにほら、僕の歌姫が、僕の知らないところで、僕以外の何かに振り回されてるなんて腹立つでしょ」
「は」
「泣いてよ。今、ここで。理由なんて言わなくてもいいから」
一人で我慢されるのは困るのだ。話を聞いてやったところで、僕は、君の代わりに泣いてやることなんて出来ないのだから。
心にもない慰めは口にしない。共感もない。精々、こうして抱き締めているのが関の山。
僕にも見られたくないというのなら仕方ない、そのくらい我慢してやるから、だからせめて、此処には居させてよ。
君が一番辛い時にいつでも駆け付けられるわけじゃあないのだから、手が届く距離にいる時まで、何でもないふりで、いってらっしゃいなんて突き離さないで欲しかった。
「……っ、ほ、んとに、大したことじゃ」
「んなもんどうでもいいんだって。ちょっとくらい甘えてよ。僕、彼氏でしょ? 手離しに頼ってよ」
「……」
「で? 本当の本当に、平気?」
「…………ッ」
ぎゅう、と潰すように抱き締めていた歌姫が、自分から僕の胸に顔を埋めて、上着の背中をぐしゃぐしゃに引っ張った。
五条のくせに、と小さな声でもごもご唸っているのが聞こえる。
ぐすりと鼻を鳴らす音もして、ようやくか、と僕は肩から力を抜いた。
「よしよし。もう、しょーがない歌姫ちゃんですねえ。……何があったの?」
「言わなくていいって言った……」
「言わなくてもいいけど、そしたら勝手に調べるよ」
「調べんなよ…………だから、嫌だったのよ。あんたに言うの」
「ふうん。やっぱ、僕に言えないような理由なんだぁ。へえー」
面白くない。物凄く。面白くない。
歌姫の反応からして大体のところ検討はついたが、それはそれで腹立たしい。誰だよ僕の女に因縁付けた奴。
まあそちらはおいおい適切に処置するとして、何はともあれ、今は目の前の泣き虫の方が重要である。
あやすように背中を撫でた。
ひくりとしゃくり上げた歌姫は、顔は上げないままで僕にきつくしがみついている。
「……余計なこと、するんじゃないわよ。色々言われたから、ちょっと落ち込んでるだけ。その場ですぐやり返したし、あんたの出番はないの。すっこんでろ」
「えー? こんなぐずぐずしてんのにぃ? ほんとかなあ」
「ほ、本当だっての! ……いいから黙って、胸だけ貸してなさいよ……それで、充分なんだから」
「…………はーい」
まあ、仕方ない。当面のところは取り敢えず、大人しくしているふりくらいはしておこう。
艶々とした黒髪に頬擦りをした。素直じゃない僕の恋人は、隠せもしないのに内緒にしたがるので何かと手間がかかる。困ったものだ。一緒に泣いたり怒ったりはしてやれないけれど、君の強がりを守ってやるくらいの技量はあるのに。
一言、助けて、と言ってくれたらいくらでも手を差し伸べてやれる。
なのにそれを言わないのが歌姫で、そういう彼女を好きになったわけなのだが、やはり、こうも自立心旺盛だとちょっと不安だ。僕の目の届かないところで、無理をして、潰れてしまいやしないだろうか。せめて、東京に居てくれたら、もっと頻繁に様子がわかるのに。
仕事の都合で仕方のないこととは言え、不満である。特級呪術師と御三家当主の特権で人事を操作してやろうか。
「……いてっ」
「あんたまた良からぬこと考えてるでしょ。やめなさいよ。余計なことすんな」
こういう時ばかり、勘が鋭い。
ぱしん、と僕の頭を叩いて腕の中から抜け出していった歌姫は、怒り目でこちらを睨んでいる。今さっきのような、形ばかりが美しく整った笑みは跡形もなく消え去った。
目尻をほんのり赤くして、苛立ちにぎらりと強く光る瞳に、僕は笑みを零す。
通常運転だ。これならもう、大丈夫。
「ひっどいなあ。心配してるだけなのに。傷ついちゃったから、帰ろっかなー」
「あーそう。帰れ帰れ」
「…………本当にもう、帰るよ。時間ないし」
「ッ」
「どうにも駄目な時は、すぐ電話しろよ。何とかする」
しっしっと犬でも追い払うような仕草を掻い潜り、瞼の上にキスをする。
歌姫は一瞬身を竦め、離れてゆく僕を見上げてきょとんとし、それからくしゃりと顔を歪めた。
「……ん」
「約束」
じわりと滲んだ涙を親指で拭い取り、じゃあね、と名残惜しくも踵を返す。
ドアノブを捻るがちゃりという金属音に、これで正真正銘お別れだと、後ろ髪を引かれて振り返れば泣きそうな顔の歌姫がぐちゃぐちゃの顔に無理に笑顔を浮かべてこう言った。
「馬鹿。あんまり、甘やかさないでよ」
頑張るから、心配ないで、そんなことを最後の最後に言い出すものだから僕は呆れて唸った。
「馬鹿はどっち? 頑張るな、って言ってんだけど」
この女、全然人の話聞いてない。大体、惚れた女を甘やかさずにどうしろというのか。
わからずやめ、とむっとしながら扉を押す。これはもう、あれだ。さくっと仕事を済ませて、沢山時間を作るしかない。
「いってくる」
「……いってらっしゃい」
背を向けた僕に、歌姫が、むくれた顔で小さく手を振った。