何でもない幸せ、なんて、望むべくもない。
けれど。
「歌姫」
「なによ」
「──もしも、の話だけどさ」
今回の騒動が収まって。宿儺の件が解決して。
恵や悠仁、野薔薇が、今よりずっと強くなって。
僕が、最強ではなくなったら。
御三家の、五条の柵を捨てられたら。
そうしたら。
「もし────もしも、そんな日が来たら。一文なしで身一つの僕と、一生一緒に居てくれる?」
「……あんたねえ」
もしかしてそれプロポーズのつもりなの、と歌姫は唾でも吐きそうな渋面を浮かべた。
「また、馬鹿なこと言って。言っとくけどそれ、プロポーズとしては最悪の部類だからね」
「ええ? そんなに言う?」
「当然でしょ。堂々ヒモ宣言かよ。……でも、まあ」
さらり、と眼の前に艶やかな黒が垂れた。
肌触りの良い髪が、帷のように互いの顔を囲う。嗅ぎ慣れた甘い香りがふわりと満ち、見上げた先には歌姫しかいない。
今この瞬間だけ、まるで、世界を二人きりに切り取られたような気がした。
彼女の他には僕しかいない今だからだろう。冗談めかした僕の問い掛けに、歌姫は、真面目な顔をしてこう言った。
「いいわよ」
「──」
「もし、本当に、そんな日が来たら。……その時は、仕方ないから貰ってあげる」
あんたみたいな問題児、放っておいたら他に迷惑がかかりかねないもの。
そう言って、溜息混じりに鼻を鳴らして、額に口付けをくれた。
あやすように髪を撫でて、抱き締められる。今の今まで重ねていた肌が、遮るものなく再びぴたりと寄り添った。包むように押し当てられる熱と柔さに生理的な反射として欲が首を擡げる一方で、じわりと胸の奥が温まり、全身から力が抜けた。
ほっと息を吐いて、抱き返す。
「本当に? 約束してくれる?」
「いいわよ。まあ、万一そんなことにでもなれば、の話だけど」
所詮は絵空事だと軽い調子で笑い飛ばされる。僕も同じように笑った。事実、その通りだと思う。もしも、という前置きがなければ成り立たないような夢物語だ。
だが。
しかし、確かに言質は取った。
冗談でも何でも、一度した口約束を軽々しく覆すような歌姫じゃあない。僕は正真正銘本気だし、そうと分かっていて、彼女が茶化して誤魔化すなんてこともあり得ない。
ならば、今ここで、僕と彼女に呪いを掛けよう。
この先の、あるかどうかもわからない未来を、願って。
「歌姫。指切り、しよ?」
「……子供っぽいわね」
「まあまあ」
文句は言いつつ差し出された小指に、僕もまた小指を絡める。
ゆびきりげんまん。
うそをついたらはりせんぼん。
今でこそ児戯めいたやり取りでしかないが、それは本来、男女が不変の愛を誓う呪いである。
「…………ふふ。これ、思ったより、笑えないやつだよね」
「馬鹿。笑いながら言ってんじゃないわよ」
「ごめん。だって、嬉しくて」
絡めた小指を解いて抱き合った。甘えて縋る僕を、歌姫はやれやれとばかりに受け入れる。調子に乗って首筋を噛んだら叩かれた。見えるところに跡はつけるなと、常日頃から重々言い付けられている。
まあ、彼女の言うことを、まともに聞き入れたことはないけれど。
「約束。忘れないでね、歌姫」
「あんたこそ、後になって気が変わっても知らないんだから」
軽口を叩き合って、二人、そのまま絡まり合って眠った。
それはいつかの遠い日、冬を目前にした、寒々しい夜のこと。
「────────歌姫」
「ッこの…………馬鹿!」
心配させやがってと、喪服姿で駆け出した彼女を抱き留める。
記憶にあるよりも痩せて頼りない体を掻き抱いて、甘い香りを胸一杯に吸い込んで、黒い旋毛に頬を擦り寄せた。
傷を負って、以前よりも柔くなった肌で、柔らかい髪の感触を味わう。
「ねえ僕、ほんと、なーんにも残らなかったんだけどさ……約束通り、歌姫、貰ってくれる?」
「この後に及んでごちゃごちゃ煩い。はっ倒すわよ」
「わあ怖ぁい」
果たして、誓いは成就した。
僕らには証し立ての小指も、万回の拳骨も千本の針も必要ない。
かつての呪縛も、こうなった今にしてみれば、祝福に相違ないだろう。
傷だらけになった僕の顔を両手で捕まえて、視線を合わせて、歌姫が睨む。
「……貰うわよ。当然でしょ、約束なんだから。馬鹿悟」
「うん。ごめん、馬鹿言った」
あいしてる。
泣いて怒ってと忙しない恋人を抱き締めて、口付けた。
昏く永い冬を越えた、春。
吹き荒ぶ風に桜が散って、宙を舞った。