白い恋 最後、あの馬鹿が、私に触れたのはいつだったか。
「……。歌姫」
「見てない」
「……」
「何も、見てない。あんたのことなんて知らない。……だから、もうちょっと、このままでいさせてよ」
「…………」
ごつごつと角の立つ骨と見かけによらず分厚い筋肉の感触に、胸に抱き込んだ白い頭の髪の硬さ、強く抱き込むあまりにずれたサングラスがかちゃりと音を立てて綺麗な鼻筋に食い込んで、痛い、と薄っぺらな低音でぼやきながらも痛いくらいに抱き返されたこと、全部、はっきり覚えている。
あれからもう、十年は、疾うに過ぎた。
──────昨日のことのように全てが鮮明に思い出せるのは、きっと、今のあいつがどんな姿形でいるのかを何一つ知らないままでいるからだ。
京都での交流会が終わった。
結果は、東京校の圧勝である。人数合わせで強引に連れられてきたらしい一年は、五条の我儘で秘匿死刑から高専への編入に至ったという噂の特級過呪怨霊憑きの男の子で、団体戦でも個人戦でも、こちらの生徒が攻撃に転じた途端彼に取り憑いた呪霊の迎撃に遭い、あっという間に決着がついた。
秘匿死刑の決定も頷けるほどの凶悪さに、思わず顔を引き攣らせた一方、おろおろと気弱そうな素振りでここぞという時にきちんと呪霊を抑え込んだ姿に感心もした。短い間に、よく、ここまで。元はただの一般人だと聞いていたが、隠れた素養があったのかもしれなかった。
「……」
「ンフフ〜、ね、どう? 僕の生徒。なかなかやるでしょお〜」
「…………ちっ。そうね、あんたんとこの学生はね」
閉会の挨拶を済ませ職員室に戻ろうとしたところ、何故だか後ろをついてきた五条に向かって舌打ちをくれる。事実としてうちの生徒は負けてしまったのだから、その発言自体には特別異論はない。ないのだが、こうも得意げに胸を張られては腹も立つというものだ。
あと単純に、とにかくこいつがむかつく。
ぎろ、と横目に睨むと、視線が合った途端にぱっと奴が笑った。
「やぁだ歌姫ったら、怖い顔しちゃってー。もしかして、うちが勝ったからって僻んでるぅ?」
「馬鹿っ、そんなんじゃないわよッ。そりゃ、負けちゃったのは、悔しいけど……でも、うちの子たちだって、頑張ったもの」
お互い全力を尽くした結果にとやかく言うほど野暮じゃないわと唸れば、五条は一瞬きょとんとして、かと思えば額を抑えてげらげらと笑い出した。
「ぐっ、ふふ、ははっ……ったく、年一の交流会でそんな建前だけのスポ根持ち出すのなんて、歌姫くらいじゃね? あー、おっかし」
こんなもん東と西に分かれてマウントの取り合いしてるだけじゃん、と五条は言う。
私はむっとした。
が、言い返せない。
正直そういう側面が強いことは、私自身、学生時代からよくわかっている。下らない派閥争いに学生たちが巻き込まれるのは本意でないし、どうせなら試合を通じて仲良くなってくれれば、と思うものの実際には上から下までばちばちと火花を散らしている有様だ。
同じ呪術師同士、仲間なのだから、もっとこう、馴れ合うとまでいかなくても友好的な関係を築けないものなのだろうか。
……まあ、同じ呪術師でも、歳下のくせに生意気ばかりで先輩を敬う気配もないこの馬鹿とはどうにも分かり合えそうもない私が、言えたことではないのかもしれないけれど。
「お」
「ぁ」
かつん、と。
古くなって反り上がり、角の浮いた床板にブーツの爪先が引っ掛かった。物思いに耽るあまり足元が疎かで、反応が遅れる。隣を歩く五条を何とか引き剥がせないかと、常にない早足で歩いていたのも良くなかった。勢いよく、体が前に傾ぐ。
ぎょっとして、咄嗟に体勢を整えようとしたその時に、私よりも早く五条が反応する。
「っ……あ、ありが、と……」
「どういたしまして。──にしても歌姫、ほんっと、トロいねえ」
よくもまあそんな程度の低さで今まで生き残ってきたものだと、私の二の腕を掴んだ五条が、やれやれとばかりに肩を竦める。
嫌味ったらしい台詞に感謝の気持ちなど一瞬で吹き飛んだ。腕を掴む手を振り払い、ふざけるなよと怒鳴り散らしてずんずん大股に前を行く。
五条はまだ追ってくる。
へらへらしている。むかつく。
「ね、今日の夜、ひま? 飯行こうよ」
「断る」
「まあまあ、そう言わずに。タダ酒だよ、僕の奢りだよ?」
「断るったら断る!」
私は奥歯を噛み締めて、いっそ走るような速度で足を動かし、掴まれたはずの右腕をぐっと握る。
体を支える圧迫感に温度はなかった。空気が締め付けるような感触は、明らかに、無下限術式の効果である。
────五条は、決して、私に触れない。
こんな日常的なやりとりですら徹底的に拒んでいるくせにどうして顔を合わせる毎にいちいち人に付き纏うのかと、理解不能なマイルールを振り翳して私を振り回す身勝手さに、腹が立って仕方がなくて。
……………………まあ、結局、夜は奢られたんだけど。
五条家の血統に時折現れる特別な呪眼に加え相伝術式を継ぎ、かつそれを極め、鼻歌混じりに常時展開するまでに至った。正しく最強。
他を寄せ付けない圧倒的な強者でありながら、いや、だからこそなのか、五条という男は昔も今も無礼で型破りてとにかく巫山戯ている。良くも悪くも堅苦しいところはないので、生憎と尊敬はされないが、学生にも親しまれてはいるようだ。気安く肩を組んで騒いでいるのを遠目に見て、私にはあんなことしないくせに、と内心むっとしてしまったのを思い出す。
いや、もしあんなことされたら多分その場で殴りかかっているだろうから、しなくてもいいのだけど。でも、違う。そういうことじゃない。
「中途半端は、無理、だから」
「……」
苦々しげにそう告げられてから、もうすぐ両手でも指の足りない年月になりそうだ。
五条は、私に、触れない。
ほんの僅かたりとも。髪の毛一本、小指の爪の先も引っ掛からない。私に奴が触れないのと同じように、私も奴には触れられない。
それは、願掛けにも近いものだと思う。
いつか、必ず、叶えたい望みが叶えられるように。
巻き込まれた私にしてみればいい迷惑だ。己に害を為す物だけを選択して弾く全自動の術式に、マニュアルで、わざわざ、排除対象として組み込まれていると知った時の私の気持ちなど、五条は、知る由もないのだろう。
「……」
またか。
玄関先で配達員から受け取ったばかりの花束を手に溜息を吐く。
十二月七日である。
何故、よりによって、この日なのか。
自分の誕生日に、いつも小馬鹿にしている歳上の女に花を贈る風習など聞いたことがない。新手の嫌がらせなのかと当初疑った一方で、本来ならば、祝われ贈り物を受け取る立場の人間がこうして後にも残らない物を寄越してくるあたり、頼むから今日に免じて受け取ってくれと、そんな意図が見え透いて、込み上げる苛立ちのまま手にしたそれを無下に扱うことも出来なくなった。
この十年というもの毎年繰り返される恒例行事に、私もまた、何の成長もなくただその場に立ち尽くす。青い包装紙に、白い薔薇が三本。いつも同じ、甘い香り。メッセージはおろか贈り主のはっきりわかるようなものすらないが、それでも私は、これが奴の仕業だと確信している。
一回目だけは、手渡し、だったのだ。
以降は何もかも記憶の再現のようにそっくり同じまま繰り返されていて、ただ、こうして、花を受け取る私の年齢だけが一つずつ増えている。
いつまでこんなことが続くのだろう。
いや、仕方がないのもあの男なりの誠意なのも、解っては、いるけれど。
でも、それにしたって、一年に一回、泣き落とすように花を贈りつけてくるだけで引き留められるような安い女だと思われているようで癪に障る。
こんなもの、いっそ、このままゴミ箱に突っ込んでやろうか。今更慌てて泣いて縋ったって聞いてなんかやらない。柄でもないのに気障ったらしく花なんて贈っちゃって、あんたはそれで満足かもだけど私はそうじゃないんだから。
「……ッもう、ほんっと、むかつく……っ」
かさかさと、小さな花束を潰さないように抱き締めて、ひやりと滑らかな花弁に鼻先を押し付ける。
鼻腔に直接染みる花の香は、甘いものばかりかっくらっていながら平然と体型を維持する三十路手前の馬鹿男の隣に立ったかのような錯覚を呼んだ。甘い顔立ちに、戯けた仕草。手の届く距離にいたところで私には触れることさえままならない。ただ、ふわりと、砂糖菓子のような甘さが香るのが、唯一あいつとの距離が限りなく狭まったことを知らせてくれるものだった。
けれども今私の腕の中にあるものは、三つも下のくせに図体もでかければ態度もでかい不躾な後輩の男ではない。非力を嗤われるこの私ですら簡単に握り潰せてしまうような、華奢で可憐な、白い薔薇の花が三輪。
……馬鹿。馬鹿馬鹿。
ほんっとに馬鹿。
花なんて寄越されたって迷惑なのよ。どんなに頑張っても、すぐ、枯れちゃうし。最後にはどうしたってゴミ箱行き、どうせなら、もっと長持ちする物寄越せっての。せめてプリザーブドフラワーにするとか、やりようなんて幾らでもあるでしょ。
増える分には構わないのよ。
場所なんて、文句言いながらでもいくらだって用意するし。簡単に壊れて無くなるようなものはやめてよ。未練がましくぎりぎりまでテーブルに飾った花が枯れて腐って散る姿を一人で眺める私の気も、知らないで。しんどいのよ。いつも。傍にいられないって、そう、言われてるみたいで。
わかってるわよ。
まだ、何も終わってない。あんたには、やらなくちゃならないことがある。だから、今は、私の隣には来られないんでしょ。ちゃんと解ってる。
でもだからって、何で薔薇なのよ。しかも、白。決まって三本。毎年毎年飽きもせず律儀に同じものを同じ日に寄越して、いちいち念押ししなくたって、あの日からずっと、黙って待っていてあげてるじゃない。
待って、いられるわよ。
こんなもの、なくたって。
寂しくたって腹が立ったって憎たらしく思っても、まだ、あんたが好きなのよ。散々身勝手に振り回されて迷惑被ってるのに、自分でもまるで意味がわかんない。とっくに愛想なんて尽かしてる筈が、でもやっぱり、あんたを諦めたくないの。
待ってて手に入るようなものなら、いくらだって、待てるわよ。
────だけど、
「いつまで、待たせん、のよ……ッ」
いつまでだって、待っていてあげる。そのつもりだけど。
でもだからって、あんまり放ったらかしにしておいたら、そのうち別にいい男見つけてころっと転んじゃうかもしれないんだから。
その時後悔したってもう知らないと涙ぐみ、丁寧に包装を解き、新聞紙に包み直し、水切りをして深水に浸けると部屋の片隅で埃を被っていた花瓶を引っ張り出して、それを綺麗に濯いでから、花を活けた。