アポローンの娘たちよ秋といえば。食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋。そろそろオフに登山の計画でも立てようか。キノコに紅葉と、秋の山は沢山の自然の恵みでいっぱいである。
そう思って、鞄から手帳を取り出そうとしたところ、腕をイヤホンのコードに引っ掛けた。
途端に耳に流れ込む、音、それから話し声。
がたんごとん、がたんごとん。
「…あのおばさん、事あるごとに口挟んでくるからもう……」
がたんごとん、がたんごとん。
「ねぇお母さん、どの駅で降りるのー?」
「二駅さーき。それより靴をぬーがーなーいーの」
がたんごとん、がたんごとん。
「何、先輩からメールきたの」
「そうそう、ホルンの」
「あー強いとこに行った」
「うんー。あたしもこっちの高校来ないかってさー」
「あそこ、今年も地方行ったんでしょ?マジ強いよね」
「そうだよー。先輩はまだ一年だから、メンバーには入ってないらしいんだけど。本当に強いし、楽しいから来なよーって」
「んで、どーすんの」
「えっ行かなーい」
「だよねー」
「言うと思った」
「えーだって××も○○もいかないでしょー」
「無理無理。先輩たちはほら、金賞とったから結構それで選んだらしいんだけどさ、正直ウチに出来ると思えないんだよね」
「そうねー、私ももういいかな。好きに弾いてる方が性に合うし。なんか色々言われながらやるの疲れちゃった」
「わかるー。多分高校から先はもっとしんどくなるよー。あたしには無理かなー」
「ねぇねぇあんたさ、こないだのテストでA判定出したんでしょ、そこ第一志望にするの?」
「したいんだけど、まぐれじゃないかって言われてるから、なんとしても次も成績維持が絶対条件」
「やば!親キビシーんだねー」
がたんごとん、がたんごとん。
ホルン。吹奏楽の話だろうか。
ちらり、と声のした方向を見れば、制服姿の女子…中学生に見える。涼と大吾もこの後合流するはずなので、およそ学校帰りだろう。
そんな世界もあるものなのだな、と、なんとなく気になったその気持ちを横に置いて、九十九一希はもう一度イヤホンを耳にはめた。
◆
少し早めに着いた事務所は、思ったより静かだった。プロデューサーは今、仕事中のユニットの付き添いに行っているらしい。前の人はいないので、もう入れますよ、という賢の言葉と部屋の鍵をありがたく受け取って、目的の部屋に歩を進める。
次のCDリリースの予定が決まったそうで、先日新しく楽譜を貰った。今日はそのボーカルレッスンの日である。おれたちがアイドルになった理由を大切に、それでいて少しアイドルとしてのチャレンジも感じる曲。仮歌こそ何回か聞いたものの、曲よりも歌詞の方が頭に入ってしまった。新しい言葉を読む瞬間は、何度味わっても変わらず、胸の高鳴りを感じる。
ふと、バイオリンの音が聞こえたような気がした。耳をすませてみれば、微かではあるが、確かに誰かが弾いている音がする。一歩歩くごとに、その音は微かではあるが確かに近づいていった。
目的の部屋の隣、そしておそらく音の出所に辿り着いて、そっと部屋を覗いてみる。すると、見覚えのある後ろ姿が見えた。
ああ彼か、と思って、扉を開ける。気づかれる様子はない。よほど夢中になっているのか。扉を閉め、着込んでいた上着とそれから鞄を置きながら、何気なく声をかけた。
「神楽さんは、バイオリンが好きなんだな」
さっきまでたおやかな旋律を奏でていたバイオリンが、ギュッ、と悲鳴をあげた。同時に、少しつり気味の暁がこちらを向く。
「……すまない、驚かせるつもりはなかったんだが」
「い、いえ、こちらこそ…思ったより夢中になってしまっていたのだな…」
しゅん、と濡れた子犬のようになった神楽に、一希は率直な感想を述べた。
「楽しそうだった。穏やかで、伸びやかで。好きな曲なのか」
ぴょん、と擬音が聞こえるかのように顔を上げた神楽の目は輝いていて、けれどもすぐに考え込む表情になった。
「好きな曲でもありますが、と、いうよりは」
バイオリンを弾けるなら、どの曲でも楽しい。
そう告げられた言葉に、思わず考え込んでしまったらしい。
「…九十九さん…?」
「あ、…ああ、すまない。えーと、」
なんだか今日は思考がまとまってないな、と思いながら一希は、
「神楽さんのバイオリンを聞いてみたいんだが、いいだろうか」
と、一つ、思いついたことを言った。
レッスンまでは時間があるし、特にかしこまりもしなくて良いので、好きなように弾いてくれ、と半ば言いくるめるようにして、また始まった神楽のバイオリンを聞きながら、思考がぼんやりと動き出す。
神楽麗。元ヴァイオリニスト。人前で弾けなくなった、と言っていたか。
詳しいことはわからないが、多分それは、技術的なものではないのだろう、ということは、今一希が聴いているバイオリンが証明している。であれば、それはもっと、精神的なものなのだろう。誰かと比べられて、他人に、あるいは自分に追い詰められて弾けなくなった音楽家などたくさんいる。おそらく、我々の目に見えるよりも、ずっと多く。
でも、彼の場合はそうじゃないのではないか、と一希は思った。神楽は、普段からよくバイオリンが弾きたい、という。同じユニットの都築が弾く備え付けのピアノと一緒にデュエットしているのを見たこともある。それはつまり、バイオリンを弾くこと自体は嫌いにならなかったし、知っている人の前ではバイオリンを弾けるということだ。
でなければ、今こうやって、自分の目の前であんなに穏やかなバイオリンが弾けるはずがない、と、バイオリンを弾く神楽の顔が微かに微笑んでいるのをぼんやり見る。しかし、なんとなく、さっきの曲の方が気に入っているのだろうか。今も楽しくないわけでは無いのだろうが、さっきの方が、なんとなく、もっと音が楽しかったような気がする。
と、そこまで考えて、先程聞いた会話を思い出した。おそらく楽器をやるのであろう女子学生は、上に登れば登るほど辛い、と言った。神楽麗のいた場所は、おそらくその一番先であろう。プロとして、常に誰かの上をいくことを求められる、厳しい世界。そこにしか付随しない世界も確かにあるのだろうな、と想像がつく。それが具体的にどんな世界なのかは、入ったことのない一希には具体的にはわからないが。
そのうちの何が原因となったのかわからないけれど、一度舞台を降りた今、まだ神楽麗はバイオリンを弾いている。「好きに弾く方が楽」と言った学生のように、プロの世界が性に合わなかっただけで、バイオリンを弾くことそのものは嫌いでは———あ、いや。
一希は一つ、バイオリンを続けるに足る理由に思い当たった。それは自身にも覚えがあるもので、———ああ、そういえば、ムーサの司っていたのは詩歌だった。詩と歌。言葉と音楽。もしかしたらこの少年はおれと、同じように、
「…あ」
伸びやかな重音が空に消えたので、まとまろうとしていた思考は手をすり抜けていった。我に返って、パチパチパチ、と拍手をしてみれば、少年はふわりと笑って軽くお辞儀をした。
「さっきとはまた違った曲だったが、やっぱり楽しそうだ。でもさっきの曲の方が好きなのだろうか」
「そうですね。さっきの曲は、特に気に入っている曲でした」
「うん、聞いててよくわかった」
「…そんなに、ですか?」
「そんなに、だ」
「なんとなく、気恥ずかしいですね」
ふふふ、と年下の少年ははにかんでみせて、それと、と言葉を続けた。
「最初は少し緊張しましたが、九十九さんが何か考え込んでいる様子だったので、何か、助けになれていれば、と思ったんです」
「…気づいていたのか」
「はい。こうやってお願いをされることは、あまりないので、その、気になって。普段はあんまり観客の方を見つめるようなことはしないんですけど…」
ということは、さっきの音は、単に楽しくなかったとかそういうものではなくて、こちらに心を配っていたこともあったのだろうか。
わたしの演奏を聞くことでそれが解決したらいいな、と、少し、と話す神楽を見て、なんとなく、この少年のことを黙って探るような真似をしたのが申し訳なくなって、一希は口を開いた。
「その、少し、考えていたんだ。来る時の電車で、学生の話が聞こえて」
これからも音楽を続けるか否か。学生たちは全員、無理だ、と言った。もっと上に行けば、もっと辛い目にあうから、と。
「神楽さんは、どうしてバイオリンを続けたのだろう、と」
「どうして、ですか」
うーむ、と少し考えて、神楽は少し困ったような笑みを浮かべた。
「その、正直なところ、バイオリンを止めるという選択肢を思いついたことが、ない」
「思いついたことが」
「ないんです。わたしの人生は常に音楽と、バイオリンとあって、それと離れる人生なんて思いつきもしなかった」
「………」
思わず面食らった一希に、何か勘違いしたのか、神楽は慌てて、
「でも、自分で選んだことですよ!ちゃんと、わたしはバイオリンが好きです」
と言ったので、一希はもう一度、
「それは、音を聞いていればわかる。バイオリンが嫌いだったら、あんな艶やかで、たおやかで、シルクの砂みたいな肌触りにはならない」
と返した。
神楽はちょっと驚いた後、シルクの砂のような音、というのは、初めて言われました、と笑った。
◆
ボーカルレッスンが終わり、涼と大吾を送っていく、とプロデューサーが階下へ行ったので、事務所に戻ったところ、いくつかの見知った顔とともに、昼間合わせた顔があった。
「神楽さん」
「あ、九十九さん。レッスン終わったんですか」
「ああ。神楽さんは何を…」
机の上に目をやれば、譜面の束が二つ。片方の束は、自分たちにも見覚えのある楽譜。もう片方は、手書きの音符が並んでいる。さらに神楽の向かいのソファに目をやれば、ブランケットがかけられた都築が寝ていた。
「途中まで楽譜を書いていたのですけど、寝てしまって。プロデューサーに任せて帰っても良かったのですが」
「それなら、今プロデューサーが涼たちを送るために車を出すと言っていた。 乗せてもらったらどうだろう」
「そうします。…ところで。昼間、わたしに言ったでしょう?「バイオリンをなぜ続けたのか」と」
「………ああ」
ここでその話が出てくると思わなかったので、少し反応が遅れた。しかし、少年は気に留める様子もなく、続けて言葉を紡ぐ。
「考えたことも無かった、と気づいたので、少し考えてみたのだけれど…多分わたしは、これからも弾き続けるのだろうし、それを後悔することもないのだと思う」
「…そうか」
「風邪をひいた時も、うなされながらバイオリンを探していた、と家族に笑われたほどだから、きっと、起き上がれなくなっても弓をとりつづけるのだと思う。だから、その、なぜ続けるのか、という答えに対しては、わたしだから、というような答えしか返せない…の…で、すが」
恐る恐る、というように、一希の顔を覗き込みながら言った神楽の言葉を聞いて、
「…もしかして、それを言うために残っていたのか」
と、一希は思わず尋ねた。
「それも、少し。…迷惑だっただろうか」
「いや」
ただ、その生真面目さに驚いただけで。
あれは少し、少し一希が自分自身と重ねてしまったが故に、少し踏み込んでしまっただけであって。それを、ここまで真剣に考えてくれる人がいるというのは、思いつかなかった。
「その、事務所でバイオリンを弾いてて、そういうことを聞かれたのは初めてだったから、ちゃんと答えたいと思ったのだ」
「そうか。…ありがとう」
「お、お礼を言われるほどのことではないと思うが」
焦っているのか、プロデューサーと相対している時の口調になってるな、と気づいた。
「神楽さん」
「な、なんだろうか」
「また、バイオリンを聞かせてほしい」
「そんなことでよければ」
いつでもいいです、と約束にも満たない小さなやりとり。また話し方が戻ったな、と一希はどこか頭の隅で考えた。残念だと思ったのかどうかは、判断がつかない。
◆
プロデューサーの運転する車に乗り込んだ、涼と大吾、それから神楽と都築を見送って、一人になった。途端に、夜の空気の肌寒さが刺さるように感じる。
何人かいた成人の仲間たちは、まだ何かを詰めるようであったが、涼と大吾がいなくなった今ここで、一希一人で特にやることもない。プロデューサーは一希のことも送ると言ったが、少し寄りたいところがある、と若干の誇張表現で断った。
そうして思い出すのはやはり、今朝からの一連の出来事である。
あの少年は、「起き上がれなくなってもバイオリンをとる」と言った。「それを後悔することはないだろう」とも。一度舞台から堕とされてなおそう言えるのだから、恐らく彼はやってのけるのだろう。たとえ指が思うように動かなくなったとしても、どんなに拙い音色になろうと、彼は弓を取り続けるのだ。その理由を、一希は知っている。
レッスン室で、バイオリンを弾く神楽を見ながら、一希は「同じだ」と思った。一度バイオリンによって辛い目にあったはずなのに、なお楽しそうに弾く神楽。それと、文章が書けてしまったために父の身代わりとなり、そして今ここにいる自分。書けてしまったから「こうなった」のに、一希は未だに言葉を綴るのをやめられない。
プロデューサーに言われたことがある。「文章を書いているときの九十九さんは楽しそうだ」と。それに確か一希は、「文章を書くのは、楽しい」と返した、と思う。
ああ、そうだ。文章を書くのは楽しい。読むのだって大好きだ。今でだって、新曲をもらえば真っ先に詞を見に行く。定期購読していた文芸誌も読み続けているし、本棚も増える一方だ。CDの売り文句だって書いてみたいし、いつか、これは本当にいつかの話だけれども、作詞だってしてみたい。自分の紡いだ言葉を音楽に乗せて、涼と大吾と、それから自分の声で皆に届ける。もし本当にそんなことができるなら、どんなに幸福な時間足り得るだろう。
「ゴーストライター」という仮面を脱ぎ捨てても、九十九一希から文章は離れていかなかった。むしろ、やりたいことが増えているような気すらする。文章を書く、それによって、一度散々悩み抜き、忘れ難い傷となっているというのに!
それは、まるで、
「呪いだな」
と、一希は自嘲気味に呟いた。
しかし、その呪いを、一希自身は重荷には感じない。きっと、元ヴァイオリニストの少年だってそうだろう。それに、この呪いにかかった人なら、古今東西、ごまんといる。彼らは、時に名声を得、時に苦悶に満ちた人生を送り、偶に自分の体を傷つけたり、あるいは無理にでも動かしながら、自分の生きた証を残すのだ。
世界はそれを、芸術家と呼ぶ。
時代によっては酔狂とも言われたそれを続ける心地、そのほんの端くれなのだろうが、九十九一希には理解できてしまうのだ。世界の全てを置き去りにしても、手を伸ばさずにはいられないきらめき、あるいは地獄の煮こごり。毒かも薬かもわからないそれに、我々は生かされている。
ムーサに魅入られた我々は、まるで呪いのようなそれに、時に傷つけられながらも、手放すことなどできない。これは、好きだとか嫌いだとかそういう話ではなくて、ただシンプルに、おれたちの体がそういう風に出来てしまっている、と、それだけなのだ。
はぁっ、と吐いた息が白い。芸術の秋も深まる頃合である。