壁ドンネタ――――シンは、
キスが上手い。
何がきっかけでこんなことを考え始めたのかは正直自分でさえわからない。
気付いたら気になって仕方がなかった。
眉間に皺を作りながらレーナはヒールの音を立てて廊下を歩いた。
最初の一回目は自分からしたもので、そもそもあの時はああいう状況だったから上手いか下手かはよくわからなかった。
自分が下手かもとは思ったことはあるのだけれど。
二回目のそれは、思い出すだけで顔が熱くなり、心臓が跳ねてしまう程のものだった。
体が引き寄せられ、唇から理不尽に酸素を奪われ、目眩がしてしまいそうなそれは、忘れることなど出来るはずもなく。
自分にしては激しい過ぎるそれはどう考えてでも初めてする人に出来るそれではなかった。不意にそう思った。
あれから何度も口づけはしたが、いつもシンに主導権握られてるのがちょっと憎らしくて悔しい。一体彼はどこで習ったのだ。
もしかすると、習ったのではなく、経験からだとすれば…?妥当な考えだけどそう考えるのは嫌。
昔よりシンのことももっと知れたけど。けれど。それでも彼のことに関してはどうしても知らない部分があり、そこに関してはずっと欠けていた。
共有の出来ない86区のシンのこと。
あの頃の生活はどんなものだったのか、あとは。
自分の知らない、彼とほかの人の関係性。
きっと当時は女性の仲間も沢山いて、シンも…かっこいいから…そう言えば時々クレナがシンに対して好意を抱いているような気がしてたけど気の所為でしょうか…。
むっ。
そう思うと無自覚に頬を膨らませてしまうレーナ。
「レーナ?」
と、後ろから声をかけられた。相変わらず足音がない彼にもそろそろ慣れてきた。
「シン。」
ちょっとだけ不機嫌に見えるレーナを見てシンは少し頭を傾ける。
「何かあったのか?」
「いえ。何でもありません。」
「…明らかに怒ってるような顔してるけど。」
「そ、それは、」
レーナは目を少し泳がせて、引き結んだその口を再び開けると。
「シンが、わたしの思ってたよりも…上手かったからです…」
「上手かった?何が?」
そんな不思議そうな顔を見けられてもとレーナは密かに思った。
「その、キ、キスです。」
「…そうなのか…。」
「じ、自覚ないんですか?」
なぜかちょっとだけ、腹が立った。
「でしょうね。きっとシンには数も数えられないほど経験したのでしょうね。特に86区にいた頃は…」
「待って、それはなんの話だ。おれは…」
「それ以上言わなくても大丈夫です…っ」
自分がどれ程必死に彼が紡ごうとする言葉の続きを止めようとしたのか。
シンのことが知りたい。もっともっと知りたい。けれど過去にシンと関係を持った女性の話なんて…
矛盾してるのは自分でも知ってる。けど嫌な気にしかなれなくて。それを知るのを拒んでしまった。
「わ、わたしだって、全く、経験がないわけではないんですよ…ほら…最初の一回目はわたしからでしたし…」
我ながら何でそんな嘘を…強がりをしてしまったのか。心の奥底で自分を殴りたいとさえ思えた。
気付けばシンは無言で自分を見ていた。
「…シン?」
その顔を覗き込もうとすると彼に手首を捕まれ、廊下の隅にある死角に連れ込まれた。
肩を押され、背中に硬い感触が当たった。恐らくそれは壁だった。
レーナの前に立つシンは左手をレーナの顔の横に支え、右手はポケットに入ったまま。
シンはぐっと顔を近づけていく。
「それって。つまり。」
「おれの前にも男がいたってことで、いいのか?」
「えっ。」
これはやらかしてしまった。何故自分はあんなことを口にしたのかを。今すぐにでも自分を土の中に埋めたいくらい。
シンは目を細めて笑った。けれどレーナにはわかる。その笑みは笑ってなどいなかった。
「あ、あの、聞いてください、わたし、」
小さく真正面に自分を覆い被さるその胸元を手で押してみたものの、ビックともしなかった。
「まだ話の途中だけど。」
「えっ、はい。すみません…」
「つまり言いたいことは。おれより経験豊富ってことでいいんだな。」
「ち、違うんです...さっきのは…」
「もう遅い。」
「え…」
「では経験豊富な大佐殿に、レクチャーして貰うか。」
「ぜひその莫大な経験をおれにも授かってください。大佐。」
弁明しようにもできなかった。遠慮無しに塞がれる唇に言葉を発することも出来ず、貪られていく。
ああ。
これはきっと、シンの話を聞こうとしないわたしヘの罰なんでしょう。きちんと聞けば良かったと、後悔を噛み締める。
思えば時々向けて来る獰猛で凶暴なその血赤に自分は遠に逃げ場は無くしていた。
自分にだけ向けるそれは、それでも愛おしくて仕方がない。
だって、
一人で戦場を駆け抜けることをも恐れず、孤高の死神、そんな貴方こそが
わたしの初恋ですから。
ゆっくりとシンの首に両腕を回して、レーナは目を伏せた。