Coffee?Tea?Or My Name?ちりりんと。
ガラス製の扉を押し開いたら心地いい鈴の音がした。
少し眠たくて適当にコーヒーを買って行こうと思っただけだった。
店の中全体はオレンジ色のライドに照らされて、コーヒーの香りが店中に満ち溢れて、正直コーヒーは好きだから自分にしては嫌いではなくむしろかなりいい香りだ。
柔らかいジャズの中に僅かに話し声が混ざる。
なるほど、これは心地いいかもしれないと。
シンはそう思いながらカウンターへ向かった。
「すみません。ブラックをお願いします。」
店員の後ろに高く掲げられたメニューのボードも見ない。自分にとってブラックだけが唯一の選択だから。
「かしこまりました。他にご注文はございますか?」
スマホを見ていて店員の顔は見てないけど、銀の鈴のような声の持ち主の店員ではあった。
「いえ、結構です。」
「あの、宜しければこちらのドーナツはいかがでしょう?うちの新商品で人気ありますよ?」
やけにセールスしてくる店員だなとシンは思った。
「大丈夫です。」
「はあ…ですが、ブラックのみだと、胃に良くありませんよ?」
「は?」
やっとシンは目線をスマホから持ち上げようとすると。
白銀の髪色に、瞳色。
こんな妖精みたいな容姿が現実に存在するのかと一瞬疑ってしまう。
思わず息を吸い込むくらいに、美しかった。
「あっ、すみません!!余計なお世話をしてしまいました!!」
彼女は慌てて横に並んだ白いカップを手に取った。
「ホットでいいですよね?」
「あっ、はい。」
「えっと、その。」
「まだ何かあるんですか?」
「宜しければ、お名前を、教えてください。」
「は?」
「えっ?」
一瞬わけがわからなかった。なぜ?今自分の名前を聞かれた??
もう一度彼女を良く見てみると、彼女は左手でカップを手に、右手にマーカーペンを握っていた。
ああ。そういう。
そう言えば今時のコーヒーショップではこういうこともするのだな。
とシンはやっと納得する。
「結構です。そのままで構いません。」
別に大した名前ではないし。
「えっ、ですが。」
彼女があまりに困った顔をしてたから、ひと息を吐いてシンは再び口を開ける。
「では、お客さんAでお願いします。」
「えっ、あっ、え???」
「はい。A。」
「A…じゃなくて、いいんですが?!」
彼女は少し、取り乱して目を丸くして自分を見つめていた。
「なにか不都合でも?」
「いえ、それはないのですが。」
「ただ…」
「ただ?」
「貴方のような方は、初めてです。」
そう言って彼女はうふふと笑った。
では少々お待ちくださいと一言を置いて彼女はカップを持ったまま背を向けた。
一年前に起きた出来事をシンは今でも時々脳裏に過ぎる。
何時からか、このコーヒーショップに本を読んで時間を潰すのが日常になり、今日もそうしてる。
なぜこのことをずっと思い出すのかと言うと。
それは一つの、後悔だった。
そうだ。
シンは未だに、彼女の名前がわからないのだ。
毎日彼女がカウンターの中いるのを眺めるのも日常で、彼女も休んだこともなく、店の扉を推せば彼女の微笑む顔が目前に浮かぶ。
正直言って、この店は心地いい。
けどそれは自分が毎日通う理由にしては不十分だった。
あれから彼女からはずっと「Aさん」と呼ばれていた。
嫌いではないはずなのに、段々と嫌な気分になるのはなぜか。
「おお、やっぱりここにいたか。」
そうやって本を目線に泳がせながら考えてるうちにシンは肩を後ろから誰かに叩かれた。
目線を後ろにやると、
そこに立っているのは自分と同じくらいの年の少年少女。
それら全員は、自分と同じ大学の友達、とも言える存在である。
「なんで一人でコーヒー飲んでるの?私たちも呼んでよ!」
「まあ、一人になるのが好きっていう人もいるしさあ、特にシンも、ね。」
「確かにここのコーヒー、わたしも好きなのよね…!」
「ライデン、なぜここに連れてきた。」
「そんな嫌な顔すんじゃねぇよー。お前がいないから、どこ行ったかって聞かれたぞ」
「だからといって、クレナやアンジュまで。」
自分が見つけた、自分だけの安寧な場所が荒らされた気分だった。
「いやいや僕を忘れないでよね。凄く嫌な気分だけど。」
「それこそセオ、今頃はスケッチしてる時間じゃなかったか。」
「うーん、今日はなかなか進まなくて、ちょっと今日はやめようかなと思って。」
「ここ、座っていいか?」
と、ライデンはシンの向こうの席を指で指した。
「勝手にしろ。」
渋々な顔をしてシンは手の持った本の続きを再開する。
「やった!」
とクレナは嬉しそうにシンの横に座った。
「せっかくだから、ここのおススメってなに?」
とセオはカウンターの上に掲げたメニューボードをじっと見ていた。
「抹茶ラテと、モカフラペチーノはおススメだそうよ?」
「うーん。」
「よし!私決めた!」
とクレナは目をキラキラさせた。
「おお、じゃ注文しに行こうっか。」
と、ライデンが立ち上がる時だった。
シンは片手で持った本をぱっと閉じて、立ち上がった。
「おれが行く。」
「なに?どうしたのシン。」
とセオに懐疑の目をされたにも関わらず。
「なにがいい。」
「じゃあ…僕は普通のラテでいい。」
「私はモカチョコチップスフラペチーノ!チョコシロップ多め!」
「抹茶ホットでお願いね。」
「俺はセオと同じなやつで。」
「わかった。」
と一言を残してカウンターへ向かった。
「うふふ、可愛いらしい注文ですね。」
と彼女に何故か笑われた。
「可愛い、ですか?」
「ええ、チョコシロップ多めですね。わかりました。」
「あっ、いや、それはおれのではくて、」
「知ってますよ?ご友人のですよね?」
「…はい。」
「勘違いしないでくださいね。ただ、普段ブラックしか頼めない方なので、ちょっとおかしいな気分になっただけです…」
「は…」
自分は彼女の中にそういう印象なのがわかった。
「随分と可愛らしいお友達ですね。」
「…。そうですか?」
「ええ。目をキラキラしていて、可愛らしいです。」
さっきからずっと目の前で笑顔を披露してくる、そういう貴女も。
と、言いたいところだか。
シンは口を噤んだ。
「ですがAさんも、優しいお方ですね。」
「優しい…。おれが…ですか?」
「ええ。ご友人の分も注文を手伝ったのではありませんか。友達思いですね。」
果たしてそうなのだろうかと、シンは自身に聞いた。
「おお来た来た」
遠くてシンが飲み物を四杯乗ったトレイを持ってこっちに向かってるのを見えたのはライデンだった。
無言でトレイを机の上に置くと、シンは本を取りまた読み始めた。
「まって、これはなんだ。」
「いや悪趣味過ぎるでしょ。」
「なんで私はDなの?」
「ちなみにわたしはEよ。」
それぞれが手に持った飲み物を見て不思議そうな目をしていた。
「じゃあAは誰なの?」
とクレナは聞く。
不意にセオは随分前に置いてあったシンのそれを覗くと。
「ほら、A。ここ。」
「本当だ!お客さんAって書いてる!」
「なるほど、だから俺らはお客さんBCDEなわけか。」
「もしかしてこれがここの売りなのかな。」
「うーん、違うと思うのだけれど…。前に来た時はちゃんと名前は聞かれたのよ?」
「おれが、そう書けと、言ったから。」
ずっと閉じたままだったその口はようやく開いた。
「お前な…」
ライデンは呆れたような顔をしてシンにはそれが見えていない。見ようともしない。
「別に大した名前じゃあないだろう。」
「まあ、横に描いてたにっこりが可愛いから別にいいじゃん」
お前らにさき越されてたまるか。
と、密かに思った。
いつかは、彼女に自分の名前が言える日がくるのだろうかと。
シンは心の奥底で思った。
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「いつものブラックですね。こちらに、どうぞ。」
ここを訪れたのは何回目か。ある日に注文をする前に彼女は既にコーヒーを用意していた。
「えっ。どうしてですか?」
「いつも同じ時間に来てくださるので、今日もそろそろなのではないのでしょうかと思って、先に用意しておりました。」
「は…」
「もちろん時間はちゃんと見計らって淹れたのでまだ熱々ですよ!」
「ありがとうございます。」
それからは毎日行く度に彼女は事前にコーヒーを用意してくれた。
「お客さんA」と書いたまま。
前はなんの問題もなくてむしろ何も考えてなかったから特に気にしてはいないのだが。
今となってはそれは自分への墓穴だった。
まさか自分のどうでもいい行為が自分を追い詰めてしまったのは思ってもいなかった。
そう思いながらシンは決意をし、オーダーカウンターへ足を運んだ。
「こんにちは!今日は暑いですね!」
「そう…ですね。」
「こんな暑い日なのに、ホットも飲めるなんてやっぱり感心してしまいます。」
「貴女はダメなんですか?」
「えっとそうですね。わたしでしたら、きっと冷たいものを頼んでしまいますね。」
「そうなんですね。では、この中に一番好きなのはどれですか?」
シンは目線を彼女の後ろのボードに移した。
「えっと、そうですね。アイスカプチーノでしょうか。あとチョコレートフラペチーノもいいですね…クリームいっぱい乗っていて、甘くて美味しいですし。」
後者のそれはさぞかし美味しいのだろうな。
それだけわかりやすく彼女は幸せそうな顔で話していたから。
「ん?」
さっき受け取ったばかりのコーヒーカップ。そこに違和感を感じる。
いつもの「お客さんA」だったけど。
その横にいつものにっこりが描いていて、さらにその横にあるのは。
「これは?」
「うふふ、気付きましたね。」
「?」
「はい、昨日はお友達の注文もしてくださった貴方さまが大変良くできましたので、今日は大きい花丸をプレゼントします!」
ばちばちと、シンは目を瞬かせて、また手に持ったそれを見つめていた。
「子供でもあるまいし…。」
けれど、嫌な気はしなかった。
本当に。貴女はそういうところだから…。
「えっと…ご迷惑でしたか…?」
「迷惑ではありません。ありがとうございます。」
「それは、良かったです。ではお好きな席に、」
「もう一個、ください。」
「…?はい?どれでしょう?」
「貴女のお気に入りの、それを。」
「それは、カプチーノでしょうか?」
「いえ。チョコレートフラペチーノです。」
「ふえ?!あの、それは、非常に甘くて、お口に合うのかどうかも、」
「それがいいです。お願いします。」
「あっ、はい。わかりました。」
そうして彼女はいつもの白いカップではなく、もう少し横にあった透明なそれを手に取って、右手にはいつものマーカーペンを手に取った。
「いつもと同じで、いいですよね?」
「いいえ。」
聞いてください。
おれに。
名前を。
思わず祈ってしまった。
おれの名前を、聞いてくれるのだろうか。
聞いてくれると、いいなあ。
「えっと。」
「…。」
「では、宜しければお名前を教えてくださいませんか?」
目の前に聞いてくださいという圧を感じてしまった彼女は改めて彼の名を聞いた。
「シンエイ・ノウゼンといいます。」
無性に嬉しかった。
名前を聞いてくれただけでドクンと心臓が跳ねる。
「えっと、フルネームで書いて欲しいですか?」
「あっ、ではシンと。」
「呼んでください。」
今度は彼女が目を何度か瞬きをして、わけがわからなさそうに自分を見ていた。
「わ…かりました。」
そうして名前をカップの上に書いていく。
「名札のそれ、ミリーゼというのは苗字なんですか?」
彼女は胸元の名札に目が行って、ふと手が止まった。
「はい。そうなんです。」
「では下の名前はなんと言うんですか。」
「…。したの、なまえですか?」
「はい。」
少女はわからなかった。なぜ自分の名前を聞かれたのか。
「えっと、なんで、下の名前を…?」
「知りたいです。」
「え?」
「貴女の名前が、知りたいです。」
「へぇ?!」
みるみる赤くなっていく彼女の顔。熟したトマトみたいに赤くなった彼女はあまりにも可愛くて思わずじーっと見てしまう。
「ちょっとあなた、うちの店員を口説くのをやめてもらいます??」
店長らしきものが裏から出てきてこっちに来た。
「この子、いつもあなたたちには困ってるのです!困らせないで貰いませんか!あと…」
「つ、作ってきます!!!!」
店長の話を遮って彼女はカップで口元を隠し、振り向いて下の棚からチョコレートパウダーを取り出した。
「もうなんなんですか、あなた、いつも困るって言ってたじゃないですか。」
店長がもの凄く不可解な顔をしながら裏へと戻って行った。
こうなっては仕方ない。
また今度にするか。
とシンは諦め、スマホをポケットから取り出して、いじりながら静かにカウンターで待っていた。
「お、お待たせしました。」
「ご注文のチョコレートフラペチーノです。」
「ありがとうございます。」
何も考えずにシンはそれを受け取っていつもの窓際の席に座った。
振り向いて彼女を見てみると、なにやらもの凄く落ち着けない様子で、なにかあったのだろうか。
もしかして自分に名前を聞かれたから?
そう言えばさっきあの店長が言っていた、いつも困っていたとか。
いつも聞かれるとああなるのか?
本当にそうならば、困るのはこっちになるけど。
何故なら今の彼女は控えめに言っても凄く可愛い。
そんな彼女を誰かに見せられるのは死んでもごめんだから。
「甘っ。」
彼女から受け取ったチョコレートフラペチーノを一口飲んで、心底甘いと思った。
自分には甘すぎるそれを眺めて、ふと何かに気付いた。
「シン」と書いたその表面、その後ろに何か書いてあった。
くるりとカップを回し、その上に乗った文字を確認した後、
シンは思わず口角を上げてしまった。
『ヴラディレーナです。』
『レーナと呼んでください。』
レーナ。
彼女はレーナというのか。
レーナ。
レーナ。
心の中で何度も復唱したその名。
なんだか自分の名前を教えられたより何倍も嬉しい。
もう一度彼女へ目線を向くと、彼女はあわあわしながら横に並んだ展示ボックスからチラシを取って顔を隠していた。
顔が真っ赤なのは隠せてはいないのだけれど。
貴女のことを
もっと知りたくなってしまった。
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その日からシンの部屋にある、いつも使ってる机の上にコーヒーカップが二つ並んだ。
所謂綺麗なものではなく、見ればわかるほどそれはコーヒーショップでしか見られないそれで、
白いのそれは『お客さんA』と書いて、透明なそれは『シン』と書いて、さらにその裏に何か書いてある。
手に取ろうとすると本人に睨まれるので未だに手を出したものはいない。
さらにそんな彼の友人からは
「ついにお客さんAから卒業したんだ。放ってやれ。」
と、誰もが聞いて必然的にわけのわからない顔になる。
それは当然である。
本人でしか知らないことを、他人に知る由もなく。
もっとも、教えてやるつもりも毛頭ないけれど。