Stranger in the full moon night夜も更けた暗い街の空を一人箒で飛ぶ時間が実は好きだ。
静まり返った誰もいない街は何の意思も思惑も孕んではいない。ただそこにあるだけの、景色の街。そんな空っぽの街の空虚な空にたった一人自分を放り出して、まるでこの世界の全てを掌握したような、この世界の全てから置き去りにされたような、そんな気持ちで景色を眺めるのだ。
「月が明るいな…」
今日はどうやら満月のようで、雲一つない──とまではいかずともまばらな水蒸気の塊は月を遮ることもなく夜空をゆっくりと漂っている。初秋の夜の空気は清涼で、火照った思考を冷ますのには丁度良い。
一人ぼっちだから何でも出来る。何をしても咎められやしない。らしくなく弱音を吐いても誰も聞いていないし、声をあげて泣いても誰にも聞こえない。ぼんやりと考え事をしても誰にも邪魔されないし、独り言を呟いても反応する者はいない。ここではいつもそうだ。とは言え別に弱音を吐いたり泣いたりした事は無い。ここでいつも一人で考え事をしている。孤独を色濃く感じられるこの場所では、誰にも邪魔されず存分に思考に沈む事が出来るから。今日もそのつもりでいたのだ、が──…
「おいそこの不良、こんな時間に何をしている。」
突然背後から声を掛けられ驚いて振り返ると、よく見知った顔が見たことのない間延びした雰囲気を纏い、箒の上から表情の抜け落ちたイエローアンバーをこちらに向けていた。"ばったり出くわす"という出来事が起こる確率が一番低いであろう人物だ。正直こんな所で、しかもこんな夜更けに会うとは思わなかった。
「不良って…オーターさんこそ何してるんですか。」
学校を卒業し大人の仲間入りを果たした身としては、同じ大人からの不良呼ばわりは心外である。学生と社会人での5歳差という隔たりは大きいように感じるが、大人同士での5歳差などあってないようなものだ。良い加減子供扱いはやめて欲しい。そんな感情から少し険のある返答になってしまったが、相手は特に気にした様子もなく会話を続ける。
「魔法局から帰る途中で飛んでいるお前を見かけたんだ。危険運転をしていたので取り締まりに来た。」
「危険運転…」
確かに今日は景色を見ながら飛んできたから、跨らずに横向きに乗っていた。だがそれだけで注意される謂れはない。別に法律違反ではないし、大体こういう乗り方をしている者は割といる。例えばマーガレット・マカロンとか。
そうやって言い返そうとしたが、マーガレット・マカロンと同じ乗り方をしていた事を認めるのが何となく嫌で結局黙り込んでしまった。
「…何か、あったのか?」
「え?」
頭の中でそんな下らない葛藤をしていたオレに向かって、その思考を断ち切るようにオーターさんが切り出す。急に話題を変えられたものだから、こちらは不意を突かれて間の抜けた声をあげてしまった。
「昨日から、いつもより少し覇気が無いように見える。」
少し遠慮がちに口にされた思いがけない言葉に、思わず目を瞠る。自分ではそんなつもりは全くないし、他の誰からもそんな事は言われていない。人をよく見ているカルドさんでさえ何も言わなかった。けれど、そうなる心当たりだけはしっかり思い当たる節がある。自身でさえ気付かない内に気落ちしていたのだろうか。ただ、一番そういう他人の機微に疎そうな人から指摘されるとは。
──というかこの人、他人の心配とかするんだな…
かなり失礼な印象を持っている自覚はあるが、この人が普段から他人の事などどうでも良いという振る舞いをしているのも事実なので仕方ない。それに加えて真逆の思想を持つ無愛想な後輩など目の上のたんこぶでしかないだろうに。珍しい事もあるものだ。
「…命日なんです、今日。両親の。」
"思い当たる節"を素直に白状してみる。だからと言ってやはり自分は気落ちしているかと言われたら否と答えるし、気を遣われるのはごめんだ。だからいつもと変わりなく、それこそ今日の夕飯のメニューでも答えるように抑揚の無いトーンで答えた。だと言うのに。
「お前は…こんな所にまで来なければ泣く事も出来ないのか。」
目の前の男は僅かに眉間に力を入れ、呆れとも気遣わしげともとれる絶妙に微妙な顰め面を浮かべた。案外心配性なのかもしれない。長男の気質だろうか。それなら少しわかる。
「泣きに来たわけじゃありません。決意を新たにする為に、少し考え事をしたかっただけです。」
ここに至るまでの道のりと、これから行く先。その全てを決定付けたのが両親の死だったから、毎年命日には自分の行いを振り返り、現時点の立ち位置とこの先の道筋を確認して改めて志を胸に刻む。一年に一度のオレのルーティン。
両親の死はもう10年近く前の話だから、今更泣いたりしないし今までも泣いたことはない。そんな暇なく今日を生き延びる事を考えている内に悲しい期間は乗り越えた。ちなみに今も、目標に向かって直走る毎日にそんな暇はないわけだが。
「…そうか、邪魔をしてすまない。」
「いえ、別に…。」
邪魔というわけではない。この人はペラペラ無駄口を叩くような性格ではないし、積極的に他人のプライベートに踏み込むタイプでもない。自分は自分で邪魔だと感じたら相手が目上だろうと目下だろうと適当な理由をつけて当たり障りなく場を離れるくらいの事は出来る。そこまで考えて、ふと不思議に思う。今夜は一人で考え事をしたかった筈なのに、何故オレはこの人の事を普通に受け入れているんだろうか。珍しく心配されたからかもしれない。その珍しさに少し興味を惹かれたのだろう。そういう事にしておこう。考えた所でどうせわからないし、深く考えるような事でもない。
「今日は満月だな。」
「そうですね。」
言いながら月を見上げるオーターさんに倣い、オレも月を見上げる。内心少し驚いていた。この人が自分から世間話を振るなんて。しかも相手はオレだ。オーターさんなりの気分転換のつもりかもしれない。やはり気遣われているのだろう。意外とそういうところがあるというのは後輩たちから聞いていたが、いざそれを目の当たりにすると少し戸惑う。彼の庇護対象に自分が含まれているとは思っていなかったから。
青白い光を放つ綺麗な円状の衛星は相も変わらず静まり返った街を照らし、何もない路上を無数の影で賑わせている。街の明かりは月の満ち欠けと連動させているようで、月が明るい日はその風情を味わう事が出来るようにと明かりが灯らない仕組みになっているらしい。防犯面の不安については、各街灯に仕掛けられた"メデューサの瞳"により誰がどこで何をしていたのか24時間監視する事で解消されている。怪しい動きがあれば即魔法局内にあるもう片方の"瞳"が反応し、然るべき機関に自動的に連絡が行くというシステムだ。しかも街灯の目は対の目が反応した瞬間レーザー状の催眠魔法を放つという徹底ぶり。この目には子供時代によくよく世話になった。もちろん、救われたという意味で。初めてこのシステムを知った時は、考えた奴天才かと感動したものだ。そんな苦くも懐かしい過去を思い出していた所、突然オーターさんがわけのわからない事を言い出した。
「…月にはうさぎがいるそうだ。」
「はい?」
敢えて自分を棚に上げて言うが、全くもってこの人に似つかわしくない可愛らしい単語と、御伽噺のような逸話。うっかり何言ってんだあんたという感情を前面に出してしまったが、言葉にしなかっただけ偉いと思うので許されたい。
オーターさんはというと、そんなオレの反応を特に気にすることもなく、月を見上げたまま淡々と続きを話し始めた。
「以前読んだ小説の登場人物が言っていた。クレーターの形をうさぎに見立てた先人が言い出したんだと。」
「成程。」
言いながら再度月に顔を向けてみる。確かにそう思って見てみるとうさぎに見えなくもない。
「私もそれを読んだ時成程と思った。お前がうさぎを飼っている事を思い出してな。初めて見た時から、お前の瞳は満月のようだと思っていたから。」
「…そうですか。」
良くは思われていないだろうと思っていた相手から初めて聞かされた自分の印象をどう受け止めたら良いのかわからず、随分素っ気ない返事をしてしまった。だがわからないのでこれ以上反応しようがない。少なくとも趣味と容姿は好意的に受け止められているという事で良いのだろうか。そんな事を考えていたら、急にオーターさんがこちらを真っ直ぐ見つめてくる。何故かとても真剣な顔をしていて、少し身構えた。
「私は月が好きなんだ。」
「………ああ、それでここに。」
何を言われるかと思えば単なる興味の話で、盛大に肩透かしを喰らった気分だ。
──その話そんな真剣な顔で言う必要あったか?お陰でいらん心配したじゃねえか。
けれどようやく合点がいった。普段あまり話すわけでもなく、特に仲良くもない年下の同僚の素行を取り締まったり、元気がないと心配して来るような柄でもない人がどうしてわざわざこんな所まで来たのか。単純に月見に来ただけだ。そこにたまたま見知った顔がいて、たまたま昨日から落ち込んでるように見えていたから話を聞いてみただけのこと。
そんな風に一人納得していたら、オーターさんは月に視線を戻して、何故かいつもの彼特有の長いため息を吐き出した。
「まあ、伝わるとは思っていなかったがな。」
「何の話ですか?」
普段からよくわからん人だと思っているが、今日はいつにも増してわからない。好きな物の話をしているのでは無かったのか。月が好きで月見に来た。そこにたまたまオレがいた。オレがうさぎ好きで目が満月に似ていると思っていたから月にまつわる逸話を思い出した。だからそれをオレに話した。それだけの事ではないのか。一連の会話の中に何か別の意味が含まれていたとして、そんなもの知る由もない。オレはこの人の事をほとんど知らないのだから。
おそらくとても怪訝な顔を向けてしまっている自覚があるが不可解なものは不可解なのだから仕方ない。そんな不躾な態度にもかかわらず、オーターさんは何を思ったかフッと表情を和らげ「今にわかる」とだけ言った。
この人がここまで砕けた表情をするのを、オレはこの時初めて目の当たりにした。自分も大概表情の変化に乏しいと言われるが、この人程ではない。これを言うと何故か否定されるが。
──この人でも笑うことあるのか
思ってから、それはそうだろうと思い直す。誰だってある程度気を許した相手に対してはこんな表情を見せることもあるだろう。自分だってそうだ。ただ今まで必要以上に関わった事が無かったから知りようもなかっただけで。そこまで考えてふと気付く。仮に今の表情が気を許した相手に向けたものなら、オレはこの人からある程度気を許されているということになるのでは、と。
あまり関わる機会がなかった人だ。その上無駄な争いは避けて然るべきと自分からも必要以上に関わろうとしなかった。だからこそ、偏見もあったのだと思う。今もまだ、この人が持つ優しさを向ける対象に自分が含まれているという事にいまいちピンと来ていない。だが少なくとも今日この人と話をしてみて、今まで知らなかった人となりや興味の対象を知る事が出来たのは素直に良かったと思う。人となりを知れば誤解も解ける。そうして歩み寄るきっかけになれば、たとえ思想の違う相手でも相互理解が叶うかも知れない。己の目指す世の中は、万人を納得させなければそうそう得られる物ではない。味方は多ければ多い程心強く、盤石な体制で物事を進めることができる。少なくとも雑談くらいは許されるようだから、今度は自分からも声を掛けてみようか。
「オーターさん、心配して下さってありがとうございます。」
その第一歩として試しに素直に感謝を伝えてみたら、思いの外優しげな微笑を向けられて一つ鼓動が跳ねた。先程この人も笑う事があると認識したばかりなのに、何をここまで驚くことがあるのだろう。いや、そもそもこの感情は驚きと表現して良い物だろうか。やはりいくら考えてもわからない。何だか今日はわからない事ばかりだ。
わからない事を延々考え続けるのは非効率だし時間の無駄だ。オーターさんが今にわかると言ったように、今はわからなくても時間が経てば急に理解が及ぶこともあるだろう。18年の人生の中で、案外そういうものだと認識している。だから今はとりあえず考えることはやめて、この珍しい状況に身を委ねてみる事にした。