ラフ・ウィズ・ミー 初めてソレを握らされたのは八歳か九歳の時だったと思う。
黒くて重い、鉄の塊。おもちゃみたいに簡単に渡してきたのは悪ガキ仲間の兄ちゃんで、オレと同じくソレを初めて手にした同い年くらいの仲間たちは「カッコイー!」と興奮気味に瞳を輝かせ、取り合うように次々手に取っては眺め回した。
この世界には魔法という絶対的な力があるが、スラム街には魔力を持っている人間はそういない。ここで絶対的に人を支配する力は魔法ではなく――拳銃。魔法と同じくらいに簡単に人の命を奪える道具だ。
引き鉄を引いて、パァンと一発。興奮と少しの不安でハイになりながら、空虚を狙って構えるフリをしてパァンと呟いてみれば、まるで自分が誰よりも強くなった気がして心が震えた。
かっこいい。
多分、その時感じたのは本当にそれだけだ。
「姉ちゃん、これピストル?」
初めて実際に実弾を撃ったのはそれから二年くらいして。
兵役から戻ってきた近所の姉ちゃんの家に遊びに行った時、ベッドサイドのチェストの下に黒い塊を見つけた。
高校を卒業したら軍隊に入るのはこの辺りでは珍しくない。ご飯も三食食べられるし、教育だって受けさせてもらえる。今のままではまともな将来に辿り着けないことを知っている若者は、一発逆転を目指して命を賭ける。姉ちゃんもその一人だった。
兵役から戻ってきたといってもしばらくの間は緊急時には軍に呼び出されて働かされる立場。銃の腕が落ちないように気を使うというのもよく聞く話だ。
初めて銃に触れた時より以前から時々、路地裏でソレを手にしている人を見かけることはあったが、自分の手に取ったのはこれで二回目だ。やっぱりずっしりと重い。なんとなくセーフティレバーを外してスライドに手をかけてみた。
「コラッ! ソレはおもちゃじゃねぇぞ、ラギー!」
スライドが固くてうまく引けずにいると、危険を察知した姉ちゃんの拳骨が降ってきた。流石に五年間も軍隊で鍛えてきた腕力で殴られると痛い。もしかしたら拳銃なんてこの拳の前には歯が立たないんじゃないかってくらい、脳天が痺れた。
反射的に拳銃を足の上に落とすと、恨みがましく涙目で頭を押さえる。そんなオレを無視して、姉ちゃんは拳銃を取り上げ、ついてこいと顎で玄関の方を指し示た。
何だろうと頭をさすりつつついていく。姉ちゃんがスタスタと歩き出したのは草原の方向だ。
「それ拾って」
その途中、道端に落ちていたビール瓶を姉ちゃんが拾った。ついでにオレにもそばに落ちている空き缶を拾うよう指差して。
とりあえず言われた通りにしながら誰もいない草原まで出ると、姉ちゃんは腰くらいの高さの岩の上に瓶を置いた。何も言われなかったが、その隣におずおずと缶を置いてチラリと見上げれば、よしと頷かれた。
お行儀よく並んだ瓶と缶を姉ちゃんは目を細めて見つめ、ポケットから一本煙草を取り出すと無言で火をつけた。自分たち以外、動物すらいない静寂の中で、黄土色の草がサワサワと揺れる。
それは酷く穏やかで、何でだろう、急に泣き出したくなった。
ゆっくりと煙をくゆらせて、目の前の草原ではないどこか遠くの思い出を見つめていたアンニュイな横顔が、ふと時を取り戻したかのようにこちらを振り返った。
「おいで、ラギー。撃たせてあげるよ。本当はいけないんだけどね。スラムにいんだ。覚えておいた方がいい」
「え⁉︎」
実弾だってタダじゃない。最近は値上がりもしているっていうのに面白半分の子供に撃たせてくれるなんて思いもしなかった。腕を引かれるままに岩から数メートル距離を取るが、驚きっぱなしで現実味が感じられない。
けれどその戸惑いを吹き飛ばすように、カシュッとスライドが擦れる音がして、姉ちゃんが背後に立った。そのまま拳銃を握らされる。ひび割れた手に包まれるようにして手のひらの中の拳銃に意識を寄せる。
重くて、両手で構えていても焦点がフラフラと揺れ動く。もしかしたら重さではなく激しい心臓の鼓動のせいかもしれないが、瓶を狙おうとするたびにわずかに狙いがブレるのだ。
「撃ち方自体は知ってるの?」
「トリガーを引けばいいんスよね?」
「そう。だけど違う。みんな勘違いしてるけど、一気に引いちゃ駄目」
姉ちゃんの手の力が強くなった。グリップのざらついた凹凸が手のひらに食い込むくらい、強く。トリガーガードに入れた指の上にも指を重ねられ、ググッと引き鉄が後ろに下がった。
「ゆっくり狙いを定めてトリガーを絞るの。大切なものを撫でるみたいに」
「大切なもの?」
「そう。大切なものにはゆっくり触れたいだろ?」
よくわからない、と振り向こうとしたら、それを止めるように吐き出された煙が顔の横を流れていった。思わずそちら側の目を細めれば、薄く笑う唇が耳に押し付けられて。
「キスだって、性急なもんじゃなくってゆっくり、ねっとり、存在を確かめるようにやる方がいい。覚えておきな」
「姉ちゃん!」
チュゥ……と耳殻に揶揄うような唇が吸い付いて、カッと顔に熱が集まる。クックッと意地悪な笑い声が鼓膜を叩いた。
「前を見な、ラギー。ちゃんと狙って」
ググッとまた引き鉄に触れる指を押し込まれた。それでもまだ十パーセントも引けてはいない。
「映画なんかでよくあるけど、片目を閉じるのも駄目だよ。距離感がバグるからね。両目をかっぴらいて見るんだ。絶対に目を逸らさないで」
そう言われて、眇めていた目を見開いた。姉ちゃんが支えているおかげでもう銃身はふらついていない。両目で真っ直ぐ瓶を見つめる。
「撃った瞬間に上に腕を跳ね上げても駄目。最後までターゲットから逸れないようにするんだ。反動があるから腕にしっかり力を入れな」
パァンと口にしながら初めて銃を構えた時は、そういえば腕を跳ね上げるふりをしたっけか。よくよく考えればあれは反動で勝手に上がってしまう銃身を基にした動作のはずで、本当に撃つ時に自分から跳ね上げてしまっては狙いに当たるはずがないと、今さら当たり前のことに気づく。
コクリと頷いで、細い腕を真っ直ぐ伸ばした。
「決して驚かないように」
ググッとさらに引き鉄が下がる。
「銃弾が飛び出す衝撃にも」
突風が吹いたが、目は閉じない。
「銃声にも」
瓶は静かに待っている。
「的に当たった瞬間も」
カチリと引き鉄が抵抗する力が指先に走った。
「当たった人間が倒れることにも」
そのまま一気に指を押し込めれば、パァンと乾いた音が草原に響き渡った。
「そしてそれで人が死んでも」
銃弾に当たって砕けたボトルの上半分が岩にぶつかる、パリンと軽い硬質な音がほとんど同時に耳に届く。
じぃんと発砲の衝撃が肘の辺りまで駆け上がってきて、一瞬小さく息を呑んだ。けれどそんな事よりも、最後に姉ちゃんが口にした言葉の衝撃が強すぎて、割れた瓶を呆然と見つめる。
もしもこれが人間だったら、多分死んでいた。狙い通り、真ん中に一発。そういう当たり方だった。
「手、痺れた? 一人だとまだ撃てないから悪戯するんじゃないよ。重いでしょ、拳銃って」
笑みとも怒りとも取れない感情を乗せて姉ちゃんは口端をわずかに歪めた。指の間に挟んでいた煙草を咥えると、あんなに固いスライドをいとも簡単に滑らせて、ブレる事なく缶を撃ち抜く。その素早さと手軽さに、心臓が大きく跳ねた。
「軽い……」
「え?」
無意識のうちに零れた言葉に、姉ちゃんが目を丸める。けれどザワザワと言葉にできない感情が腹の底から湧き上がってきて止まらない。
「軽いッス、それ……」
そんなに軽く、人を撃つのか。そんなに軽く――人が死ぬのか。
去年の暮れにクラスメイトが一人死んだ。兄貴がギャングに入っているやつだった。喧嘩に巻き込まれて、兄貴でも、敵対ギャングでもなく、ただそこにいただけのそいつが撃たれた。
運が悪かったんだ、とみんな言っていた。オレだってそう思った。すべて運だ。そこにいたのも、ここに生まれたのも、誰よりも早くその時が来たのも、運が悪かっただけ。
仕方ないじゃないか。だって実際に引いてみた引き鉄は思っていた以上に軽かった。大人じゃなくても、体格が大きいやつならきっとあの固いスライドだって姉ちゃんみたいに軽々滑らせる。銃身はブレない。
それでも……オレには重いと思った鉄の塊は、あいつの命よりも重くはなかったはずだ。
「ふーん、そっかぁ。軽いか」
銃そのものの重さの話じゃないと姉ちゃんはわかってくれたのだろう。ぽわりと輪っかの煙を吐き出して、無感情で呟いた。悲しみも怒りも悔しさも、綺麗な横顔には何も浮かんでいない。
「でも残念だね。この軽さがさ、ラギーもいつか悔しくなくなるよ。苦しくなくなるよ。悔しくも苦しくもなくなったことが寂しくはなるかもしれないけど、この軽さが当たり前になる。これで撃つものも軽くなる。まるで最初から何もなかったみたいに」
それって、その吐き出している煙みたいにッスか?
聞きかけて、寂しそうに揺れた瞳に口を閉じる。聞かない方が優しい気がした。
「ねぇ、ラギー。アタシが死んだらさ、ちょっと泣いてよ。ちゃんと生きてたんだよなぁって一瞬考えて、泣いて。多分死んでからしばらくして、ようやく風の噂に聞くんだろうけど」
銃を太陽に翳して、姉ちゃんはそんな日が来ることを信じていないように告げた。
多分、間に合わないと思っているんだ。オレが悔しさも苦しさも感じなくなる日はすぐそこなのだろう。逆にいえば、姉ちゃんはその間くらいは生きていられると思っているのだ。毎日何人も消えていくこの町で。
「姉ちゃんはオレが死んだら泣いてくれんスか? 取引の基本は等価交換ッスよ?」
胸をざわつかせる不安を押し殺して、ジョークを言うようにニカッと笑う。
姉ちゃんは、答えなかった――ただ寂しそうに、軽く首を傾げたんだ。
「ラギー先輩! 何してるんすか!」
突然肩を掴まれて、白昼夢から目覚めた。その途端、聞こえてきたのはいくつもの怒号と悲鳴。目の前には黒い塊。手のひらに載るくらいの小さなものではない。それよりももっと大きくて、強大なもの。オーバーブロットの塊だ。
「あー……シシシッ、走馬灯見てたわ……サンキュー、ジャックくん」
対峙しているのは道路脇で拾い上げた空き瓶でも、裏路地のギャングでもない。レオナ・キングスカラー。自分のボスとして認められると思った男の成れの果て。
あの日、姉ちゃんが言った通り、友人が少しずつ消えていく環境にはもう慣れた。それだけじゃない。自分の拳の重みにも、それを繰り出す軽さにももう慣れた。ゴミ溜め育ちのハイエナを見下し、蔑み、攻撃しようとしてくるクズどもの喉元に何の感慨もなしに喰いかかる程度には感情なんか薄れている。
今の自分の手の中には銃の代わりに手に入れたマジカルペンがある。『人を支配できる力』という根本は変わらない、新たな武器。大きく息を吸い、ゆっくりとそれを掲げる。
「なんでだろうな、姉ちゃん」
大切なものを撫でるように、ゆっくりと。
絞るように指を滑らせて、マジカルペンを握りしめる。
「王様なんかいらないのに」
両目を見開き、対象から目を離さずに。
数メートル先で咆哮する我を失った獅子を狙う。
「誰かが壊れていくのを見るのも慣れたのに」
腕に力を込めて、ブレないように固定する。
ズズズッ、と琥珀色の魔法石にブロットの影が現れても気にしない。
「アンタのこと考えても、もう泣ける気もしないのに」
決して驚かないように。
覚悟を決める。
「あの人がいなくなるのが怖い」
水系攻撃魔法が発動する衝撃にも。
ペン先は絶対にブレさせない。
「レオナさん」
鼓膜を破るような怒涛の水音にも。
怯まない。
「戻ってこいよ」
攻撃が当たり、ターゲットは倒れても。
最後の一滴まで魔力を注ぐ。
――純黒の獅子が咆哮した。響き渡る、絶命の歌。
ゆっくりと倒れゆくボスの姿に、足が勝手に駆け出した。地面にドサリと落ちた体の横にすぐさま膝をつき、意識を失っても動き続けている心臓の鼓動を確かめる。
「あぁ……生きてる……」
ポソリと呟いて胸を撫で下ろした瞬間、何故だろう、笑いが込み上げてきた。なのに体がガタガタと震える。今なら人の命の軽さに対する悔しさや苦しさを少しは思い出せる気がした。
「シシシッ……あーあ」
けれど、残念だ。確証を持つことはまだできないらしい。苦しげに動く胸板に手を置いて、空を仰ぐ。
手のひらの下の鼓動を失った時、あの空と同じ色をしたこの両の目からは涙が溢れるか。それを知るのは今日ではない。
「アンタ、起きたら覚悟してくださいよ」
ならば代わりに思い切り笑ってやろう。自分と同じように諦め癖がついている王様を無理やり一緒に笑わせてやる。
「王様、バンザーイ……シシシッ」
だから、頼むからアンタのために零す涙がこの心に残っているかなんて、この先もずっと教えさせないでくれよ、レオナさん――。