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    seki_shinya2ji

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    seki_shinya2ji

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    現在軸の侑北
    北さんのご家族についての捏造があります。

    なんでもないという喝采を最近北さんが女の所行っとるねん

    そう言った侑の頭にお玉を落とさなかっただけ、治は侑より優秀なんやと、傍観していた角名は思った。銀も同じく。

    「は?お前大丈夫か」
    「大丈夫や!せやから!!北さんが!!大丈夫やないかもやねん!」
    「北さんに限ってあらへんやろ……」

    銀は大人になって随分大人しくなった。仕事場では、かなり意図的に明るいらしい。その反動だと本人は言っていた。今日も全力で仕事をしたらしい。単純な肉体疲労は侑や角名のようなプロスポーツ選手には及ばなくても、治とは違うベクトルの疲労はあるだろう。今日のおにぎりになる「春鮭」と「小松菜」を頬張っている。酒は華金以外は飲まない、というストイックさには脱帽する。因みに侑は「飲まんとやっていけんわ!」と叫んでから飲んでいる。因みに今日は男子バレーボール世界選手権に伴う紅白戦のために、日本で練習を行っている。侑と角名は同じチームで紅組である。因みにスペシャルマッチと同じチーム分けのため、アランも一緒らしい。しかしアランは今日、別のところで飲んでいる。

    「ある!!電話の時に女の名前言う!!」
    「どうせ”アオイ”とか”ヒカル”とか、女の人か男の人かよく分かんない名前の人なんでしょ」
    「そうヒカル!!!!」

    ダァン!と叩かれたビールジョッキに「なんしとんじゃ我ェ!」と治の激昂が飛んできたが侑は気にしていない。「しまった、当たったんだ」と地雷を踏んでしまって急に帰りたくなった角名の腕を掴んで捉えてしまった。

    「ヒカルっていうねん!俺との電話中に!今!貴方と!電話しとるのは!!侑ですッ!!」
    「うるさぁ~」

    銀がベーコンアスパラを頬張り始めた。その姿を見ていると高校卒業時に「これで双子のツッコミせんでええと思うと……」と言って言葉を詰まらせていたのを思い出す。やっと解放された訳だから、任務の解放からスルースキルが格段に上がっている。

    「……ヒカル?ヒカルのことか?」

    明日の仕込みをしていた治が急に手を止めた。侑と鏡合わせのように似たような顔を突き合わせて、侑が口にしたその名前を繰り返していた。治のその言葉に侑も治と同じように驚いた顔をして治の顔を見ていた。

    「え、なん。サム、知っとんか」
    「おん。知っとる」
    「ほ、ホンマか!」
    「嘘ついてどないすんねん」

    そう言った治はゲンナリとした表情をして、またまな板に向かって作業を始めた。今はどうやら焼いていたなすの皮を剥いでいる。おにぎり宮人気突き出し・田楽ナスの準備らしい。余ったらきっとこちらに回ってくるだろう、というのが角名の本音だ。

    「ど、ど、だ、どないなやつ」
    「お前より賢い」

    バッサリと、茄子の皮をボッシュートしながら吐き捨てた治はそう言った。

    「顔よし、艶よし。愛想もよし。はっきりしとるし、ええやつや」

    賢い、綺麗、艶々、はっきり、愛想、そして総じていい人。ここまで6つも並び立てられたら侑としてはもう泣き言を言うしかない。

    「俺かて日本の司令塔やし〜……顔もアンアン載せてもろた〜〜……爪も艶々やし俺もええ子やんか〜〜〜……」
    「まぁ少なくとも、いい子ならここで酒は飲まないよね」

    つまり角名は北の家に帰れ、と遠回しに言っているが、侑が察しているのかは図りかねる。ケラケラと笑っている角名の元に、予想通り余った田楽ナスが届いた。待ってました!と角名が口に含むと、口の中で味噌と茄子が蕩けた。戦線離脱、一抜けだ。

    「明日侑休みやろ?俺もそいつに用あるし、一緒に確かめに行くか?」
    「HA?……なんでお前とデートせなあかんねん……」
    「北さんも来るから。面倒い奴やな」

    治はそう言ったが返事はなかった。
    酒臭い香りのまま、朝を迎えた。



    ――――――



    だから朝から大喧嘩だ。北の家に本来送る予定であったが、スポーツをする筋肉ダルマのような巨体が脱力して寝転がっているのだ。簡単に動くわけがない。しかも酒臭い。治としては礼を言われるものだと思っていたが、目覚めた時に「何でお前の面拝まなアカンねん!」と言われてしまった。しかしまき散らそうとした味噌汁には何も罪はないため色々堪えて「風呂入れ臭い加齢臭」と言ってやった。撃退は済んだしその後大人しく味噌汁も飲んだ。

    「ホンマにヒカルって誰なん」

    北の農園に向かう車の中。侑はスマホをいじりながら治に聞いた。画面にはインスタを開いている様子がある。大方角名が昨日上げたストーリーについてだろう。顔を歪めながら自らの失態を反省しているらしい。十分に反省してほしい。

    「昨日も言うたやないか、普通にええ奴やで」
    「せやから、写真とか」
    「ない。北さんなら持っとる。というかもうすぐ着くんやから。それまでの楽しみにしとけや」

    治がものすごく引っ張っていることに不信感はあるが、教えてくれないという事はそれまでだ。写真を持っていないとなると、容姿すら想像できない。どうにも何かを隠されている感じは不快感がある。

    「……何で黙っとんねん」
    「何がや」
    「ヒカルって人間のこと」
    「いやそんなん決まっとるやん」

    治は至って平然と、ハンドルを握ってハンドルを握ったまま何となく答えた。侑は柄になくゴクリ、生唾を飲んだ。治の顔に穴を開けてやるつもりで見つめて吐けと念を送ったつもりだった。

    「おもろいからに決まっとるやん」

    その言葉を吐いた途端、口角がにやりと歪んだ治はもう堪えることを辞めた。ふ、ふふ、と小さく笑いがこみ上げる。しかし侑の胸中にはふつふつと怒りがこみ上げてくる。

    「馬鹿にしとんか」
    「は?しとるわけないやろ」
    「せやったら何でホンマのこと教えてくれんねん」

    今度は侑が我慢した。本当は胸倉掴んででも問い詰めたい気持である。侑からみて、治はあまりに不誠実であった。北が浮気しているなんて思っていないが、不安でないと言われると嘘になる。
    年末から5月まで、Vリーグのファイナルシーズンでかなりヒリついていた。そしてそれが終わってもオフが来るわけではない。赤鷹杯もあってそれから息つく暇なく海外遠征があった。しかしそれも終わった後は体のメンテナンスを兼ねてスペシャルマッチのチームアップのために関東にいた。昨今の情勢もあってリモートワークを関東で行いながらチームアップ練習を乗り切った。そして数日前、切りよく終えてやっと帰ってきた関西だが、これからはまた海外遠征である。今年も何かと試合が立て込んでいる。
    今回を逃すとまた会えるタイミングは数か月後。これが何度も続いていた。擦り切れそうな欲求と我慢からくるストレスをバレーとテレビ電話で乗り越えていたというのに、その電話口でコトは起こった。全く知らない人間の話をされる。溜まったものじゃないが、何やら朗らかに話している相手の顔を見ていると何も言えなくなって更に我慢していた。
    その堪忍袋のような中身の詰まった我慢袋を身内に面白半分でつつかれてしまえば破裂もする。
    邪魔をされていると思ってしまうのも無理はない。しかし北に会う前に事故によって棺桶を彼の元に送られるのは避けなければならない。と言っても北が侑の身元引受人になってくれる法律は現段階ではない。

    「……お前、北さんのこと信用しとらんのか」
    「俺は今北さんよりお前のことが信じられん」
    「それもそやな」

    治は一つため息をついた。
    治は一切侑のことを見ない。侑の命を乗せて車を走っているのだから目線を外すわけにはいかない。しかしタイミングよく最高のタイミングで赤く光った信号機。
    そこから目を逸らした治の目は意外としっかりと笑っていた。

    「お前ら、そっくりなんやな。ホンマ嫌味な位に似てきとんねん」

    流石にこの表情は侑も拍子抜けだ。しかしすぐに青信号に変わって車は走り出す。窓を少し開けているため、隙間から夏の風が吹き抜ける。侑は治の顔を見ても何も理解ができなかった。侑の顔はきっと間抜けな顔をしているだろう。しかし治はまた前を向いて、信号が変わるのを待ち始めた。

    「……え、こわ」
    「こんままアクセル踏んで欲しいんか?」
    「辞めろや」
    「いやでもこれマジで。お前と北さん、マジでおんなじコト言うてる」

    パ、と青信号に変わる。緑色の信号は青空との調和率がいい。青空を邪魔することなく進んでいいと軽く背中を押す。侑も少しだけ前につんのめった。

    「北さんと俺?」
    「おん。お前に似たんやろな。お前と似たようなこと北さんも言うてたんや」
    「……嘘やぁ」
    「嘘言うてどないすんねん」

    昨日も聞いた台詞である。今日のその言葉に呆れはなく、どちらかと言うと面白がっているような雰囲気まである。ジト目の先にいた片割れの表情からはどんな感情も読むことができなかった。

    「俺、最初よお分からんかってん」

    随分表情と調和したストレートな言葉があった。その言葉にいつかに抱いた反論の牙が口の中で疼いた。

    「あれな、単純に”知っとる先輩と家族になるん、なんやよぉ分からん感覚やな”って感じやったんや」

    ハンドルを滑った指が右のウィンカーを示した。ゆるりと停止して対向車を見送るとハンドルを切った。

    「やってそうやん。正月とか、結婚式とか、葬式とか。親族として会うんか~って思うとなんや変な感じして。今まで先輩で主将としか見たことなかってんから、ホンマに違和感やったんや」
    「ぶちのめすぞ」
    「まぁ最後まで聞いてくれ。ほんでもな。北さんもお前みたいに『侑が喜ぶモンってなんやろな』とか『アイツ今海外やけどちゃんと飯食えとるやろか』とか『怪我しとらんやろか』とか思う訳や。そういうん聞いてたら『なんや、オカンとかオトンとか俺とかと同じようなこと思うんやったらこの人家族やん』って。お前も北さんに『あの人浮気しとる!』とか言いながら大分心配しとったやろ。自分のことやなくて、北さんのことが」

    きょろ、と侑のことを見る大きな瞳に侑は心を見透かされたような思いだった。その瞳は、双子である侑とは少しだけ違う色をしている。
    きっと侑の顔に表情に出ていたのだろう。治はその微妙に何か言いたげな顔を見て見ぬふりをしてやり、再び前を向いた。緩やかにカーブする道は次第に田舎の道に変わってきている。外から香る空気の匂いにも変化がでてきた。その香りに誘われるふりをして目線を外した。すると治は軽く微笑みを浮かべた。

    「家族って心配するもんやな。俺も北さんのこと、何回も心配しとったん見とる。お前の知らんところで北さんも苦労しとる」
    「なんでお前が知っとるねん」
    「米の話やから。それにお前に弱いとこ見せるん嫌いなん、お前の方が知っとるやろ。嫉妬は醜いで」
    「うるさい」
    「でも、俺は北さんに愛情は抱けても”好き”は抱けんかってん」

    橋が見えた。ここから二つ程信号を過ぎた先で左折すると後は一本道。北の家が本当に近づいている。

    「せやから、家族になるんは簡単なことやったし、同時に”人を好きになる”って、ホンマに凄いことなんやって、思ってん」
    「……」
    「お前ら二人の”心配”は、家族愛からくる心配とは違う。家族愛も含めた”好き”やん。その温度感がマジで一緒やねん。俺は二人の間に常におるから分かる」

    遂に車が左に傾いた。体幹を維持するなら少し右に体を傾けるべきなのだろう。しかしもうどうにも体幹が支えられない。そのまま左に流されてしまった。

    「そっくりやねん。どっちがどっちに似たんか分からんくらい。言うてることおんなじやし、モノ食べる時の作法が俺に似とって、なんか違和感あってどこか既視感あんねん。もう、これを愛って言わんかったらなんて言うんや?」

    一本道の先にあるものは人によって違う。今のこの二人の場合は北の家だが、治の先にあるのは家族の家で、侑にとっては会いたい人がいる場所。この解釈の違いが愛であるのだ。恋の期間はとおの昔に過ぎていた。子猫の興味と同じように感情が動くたびに「こんな感情はこの人にしか抱かない」と何度思ったか。今は間違いなく愛であった。恋を寄せ集めてできた愛は、二人の慣習が似てくるまで浸透していたようだ。侑は知らなかった愛情を治に見抜かれて、あろうことが治に指摘されてしまった。わなわなと羞恥とむず痒い感覚に鳩尾が疼いた。

    「せやから、ちょっと腹立ったんもあんねん。こんな二人揃っておんなじコト思っとる馬鹿二人、互いのことになったら鈍チンなんやから。そうやな、お前の質問に答えるんやったら……。面白い1・いたずら心1・約束8や。ごめん」

    素直に謝ってもらうのもなんだかむず痒い。今朝まで信じられない程幼稚な理由で喧嘩をしたというのに、同じ人間とは思えなかった。侑は思わず心臓を抑えたくなって服に皺を作った。「な、んや、ねん……」と言った言葉もあまりにも弱弱しく消えてしまいそうになっていた。治からすると急にしおらしくなって少し気味が悪いが、それでも不安が消えているのならそれで良かった。なにせこれから侑は世紀の出会いを果たすのだから。



    ――――――



    「北さん~」

    北は田んぼの畦道に立っていた。農作業用の格好をした北は治が声を上げて初めて二人のことに気付いた。田んぼには水が張られて空が反射している。そこには既に今年の稲が植えられている。すっかりトラクターを操れるようになっているため、真っすぐ、丁寧に等間隔に植えられた緑は風に靡いて爽やかであった。

    「なんや侑も来とったんか」
    「なんやってなんすか……」
    「連絡してくれたら良かったんに」
    「スンマセン。俺が急に誘ったんです」

    北は駆け寄りながら二人に近づいてくる。少し日に焼けている肌を見ると、随分会っていない時を感じてしまった。それがなんだか悔しくて侑は少しだけ目線を逸らした。

    「あの、北さん」
    「ん?」
    「ヒカル、おります?」

    治が早速侑的本題に首を突っ込んだ。ギクリとしたのは侑の方である。肩が少し上下した。抑えることが出来なかったが、心臓はドクリと跳ねた。

    「ああヒカル?昨日からおるで、今日は土曜やからな。今何しよるやろか」

    ちょっと見てくるわ、と言って苦笑した北を見送った。ここまで侑は北と「なんや侑も来とったんか」「なんやってなんすか」しか交わしていないというのに、治とはその倍の数の会話をしている。これを一般的に『置いてきぼり』というのだが侑が入る隙間なんてどこにもないくらいスムーズにコトは運ばれて行ってしまった。北の背中はあっという間に玄関に吸い込まれてあっという間に見えなくなっている。こうなると待つしかないのだが、治のように笑って待っている余裕なんて侑にない。土曜日だから何か関係あるのか。昨日からいる、というのはどういう意味なのか。今何かしていたら問題があるのか。そう考えるとみるみるうちに侑の視線が地面へと向けられていく。その視界に映った足元の水路。何という種類か分からない雑草の葉が流されていく。まるで自分のようだ、と客観的に思っていたりいなかったり。侑の感情は今や水路の水圧をも超えていく。

    「侑、治」

    そういって呼ばれた先にいた北は玄関から半身だけ身を見せて二人のことを見ていた。足元は先程まで黒い長靴を履いていたが今はサンダルだ。虫刺され防止のアームカバーとビニール手袋も脱いで半袖のシャツから日にあまり焼けていない腕が見えている。その白い腕が、二人を拱いている。
    その手に導かれるように二人は足を玄関に向ける。治の足取りは知ったように軽く明るい。一方で侑は何も知らないレベル1の勇者のようで重たく不安が滲んでいる。

    「オトンとオカンは今日外に買い物行っとるから、絶好のチャンスや」
    「へー」
    「せやけど、静かにこい」

    少し落とされた声に思わず肩をすくめた。北の顔は少しだけ柔らかい。侑には意味が分からないながらも、その顔を見ること自体に嫌悪は無い。北にその顔をさせているのが自分でないことは悔しい限りであるが、心穏やかであることは嬉しい限りだ。靴を脱いで揃えていると、治の言葉が過ぎる。「似ている」というのはこういうことを言うのだろうか。確かに侑自身、大人になってから靴を揃えるようになっていた。北の行動を見ていたからだろう。そして靴を揃えたら北を思い出して心の背筋が伸びるのだ。今までしていなかったのは恥ずかしいが、それでも靴一つで北のことを思い出して強くいられるのであれば、侑にとってそれ以上の力はない。しかしその力も今では不安で萎んでいる。大男三人が歩けば廊下が時々悲鳴を上げる。その音にすらビクついてしまう。それくらい今の自分は情けない。ふと一団は廊下が続いた最奥にあった襖の前で止まった。先頭を歩いていた北の背筋は今でも伸びているのに、背中から溢れる雰囲気は丸かった。

    「姉ちゃん」
    「はーい」

    襖の向こうから女性の声。侑はドクンとまた心臓がなったがそれをいなした。姉だ。北の姉に声をかけただけだ、と自分に言いつけた。

    「入んで」
    「ええよー」

    そういって襖が開かれた先。侑は感嘆の声を上げた。




    ――――――




    ふわりと香ったのはミルクの匂い。畳の匂いももちろんあるが、それとは全くカテゴリーの違う、天然に甘い匂い。匂いに暖かさがある。この匂い、どこかで、なんて言わなくてもいい。
    ふくよかな頬はピンク色で丸々としている。白桃のようなその肌には確かに生きている生命を感じた。

    「……あかちゃん……」

    言葉に出して何かが溢れてきた。母親である北の姉に抱かれているその命の塊が、あまりにも愛おしい程に愛らしかった。髪なんて薄くしか生えていないというのに、時折何かを探すようにして動く唇に涙が零れそうだった。

    「侑くん、ヒカルやで。初めましてやんな?」
    「は、」

    昨日から話題の中心にあった『ヒカル』という人物。それは北の姉が腹を痛めて芽吹かせた命の新芽そのものであった。畳の中央にいた北の姉の周りにはベビーグッズや布団など、色んなグッズが並んでいる。そんな姉に声をかけられて自分が赤子以外の視線を独り占めしていることに気が付いた。

    「しんすけさ、あかちゃ……」

    思わず無意識に零れたのは『信介さん』という呼び名。しかし北もその言葉よりも呆然として譫言のように『赤ちゃん』と連呼している侑の方が面白い。こんなに人は驚くと語彙を失うのか、と思った。しかしどこか既視感があったのは治のせいだろう。治も今でこそ少し慣れているが初めて会った時は侑と同じように立ち尽くしていた。

    「丁度侑が海外遠征行った後に生まれてん。3月30日。よお晴れとった日やったから『ヒカル』。『光』の一字やねん。かわええやろ」
    「あかちゃ……かわええ、です……」

    思わず長い膝をついた。無意識についた膝と一緒に目線がくるりと丸い瞳と同じ高さになる。また小さな唇が動く。何かを食べているようだ。

    「一応お前に報告はしてんけど、そん時のお前、時差ボケしとったみたいで何や眠そうやってん。せやからまた連絡しよ思てずっとタイミングが合わんかったわ」

    もうすぐ4ヶ月やで。と更に情報が追加される。しかしその情報よりも目の前で生きているまろい生き物に侑は夢中だ。触っているわけではない、だというのにその感覚が分かっているような気がする。手の行き場を失ったまま彷徨わせているくらいが丁度よかった。しかしその感覚に浸る間もなく、思ったことがあり侑は北の姉の顔を見た。

    「お義姉、さん、すみませ、俺何も用意しとらん」

    侑の口から出てきた謝罪の言葉がぎこちなく上の空だった。ふと思い出したことを理性無く零したような言葉であった。しかし北の姉は特に気にした様子はない。証拠に「国内リーグで優勝した選手がウチの子を可愛いって言うてくれて嬉しいわ」と笑っている。ほんわりと笑った顔の目尻は北と似たようなモノを感じた。
    すると腕の中で母親に向かって小さなクリームパンが伸びる。侑の節っぽく癖がついた指とは全く違う、クリームパンのような手は暖かそうであった。母はその手を取って指一つで繋いでやった。

    「ほらヒカル、おじさんやで」

    そう言ってその手をゆるゆると振って見せた。何も分かっていない顔で母親の顔を見つめるヒカルと同じ顔をしているのは侑だ。ぽかんと空いた口は侑とヒカル、全く同じである。

    「お、じさ……」
    「あ、ちゃうで!叔父さんって意味やで!?」
    「姉ちゃん、あんま変わってないで」

    北の苦笑も姉の顔も面白いものだったので治は笑っていた。しかし侑は頭を振った。昨日も深酒をしたし、少し寝坊した。北の家に来る前に風呂はきちんと入ったが、もしかしたら髭の剃り残しがあったかもしれない。服装は勿論決めてきたが、もしかしたら年相応出なかったのかもしれない。そう思い始めると止まらない。侑は混乱しているのだ。

    「侑、お前がオジサンやったら俺も姉ちゃんもオジサンとオバハンやからな」
    「信介?」

    流石の北でも姉には敵わないらしく、姉の言葉に小さく笑うことで納めた。頬を抓まれているが怒っている様子も痛がっている様子もない。しかしそんな姉弟の戯れも半ばに、北は口を開いた。

    「せやから侑」

    そう言って北と姉は顔を見合わせて笑った。そして2人揃って正座して侑に向かい合う。侑もその二人に倣って正座する。高校生の時からそうなのだが、北の前で正座をすることが圧倒的に思う侑。大半は怒られている時だが、北にプロポーズをした時は真剣で神妙な侑の顔を見た北が、「座って話そや」と誘って正座を促したことがある。そして北の家に初めてパートナーとして行った時も正座をした。実のところ、その時以来、北の家に上がったことはない。北の両親からの返答が何もなかったためだ。リアクションがない、ということは侑にとってかなりのストレスであった。もちろん侑はプロのバレーボーラーである。休日は練習があるし、国内リーグの試合だけでなく日本代表としての練習も海外遠征もある。なかなか北とすら会えていない日々が続いていたのに、北の両親や家族に会えている訳がない。だからだろう。こうして畳の上に正座するのは、本当に久しぶりである。
    そんな慣れない畳の上で仰々しく正座をすると額から汗が吹き出しそうになる。
    しかし目の前にはにこやかな北姉弟がいる。そのアンバランスさが侑の胃を圧迫した。

    「侑、お前はこの子の叔父さんやねん」

    ただそれだけの言葉を理解するのに、侑の脳は歓喜と混乱と、小さな拒否を覚えた。しかし言葉にする、と考えると「嫌や」「嬉しい」「本当に?」「あり得へん」「叔父さんって」「そういうこと?」「信じられへん」「信じてええんか」の全てが正解なのだ。しかし最適解がない。侑が北の言葉を信じられないでいるためだ。北の事は信じている。信じているが、それとこれとは別のように思う。北のことを信じているから、信じられないまである。それは心のどこかで歓喜していて、もしこの歓喜が勘違いだった時を怯えているのだ。
    結局侑の弱さを自らが自覚して、その弱さが憎かったのだ。

    「侑……?」
    「あ……や……え……?」
    「侑くん」

    口を開いたのは北の姉であった。小さな命を小さく揺らしながら侑に声をかけていた。とろみのある声はまるで子守歌で、侑に言って聞かせているように聞こえる。しかしその揺らめきを止めて、腕の中にいたヒカルを布団に寝かせた。アーと何事かを呟いていたヒカルは今度は北のズボンの裾を握って遊んでいる。北は特に抵抗することなくそのままにしている。今度はフーと息をついた音が姉のほうから聞こえる。一度目を閉じて北と似た大きな瞳を侑に向けた。

    「これは侑くんの顔を見て言いたかってん。まず、我儘のせいで大事な報告黙ってしまってしもてごめんなさい」

    きちんと謝る姿には北の面影がある。北が姉の真似をしたのかもしれないが、きっと北の家の人間は丁寧なのだろう。年下相手でも非があると分かればきちんと謝るのだろう。侑もその伸びた背中に思わず「え、いや」と姿勢を反復した。

    「あと、……侑くんと親族になるってことは、今の法律やと……うん。私と旦那みたいに上手く認められんかも知らん」

    そこまで言うと黙ってしまった。侑が見た姉の表情はあまりにも苦しそうで侑は「あの、無理には」と口を挟んだ。この言葉の先にあるのは敗北感だ。しかし姉は「でも」と言って侑を見た。必死な顔をしている人を見て躊躇ってしまう位には人の心があるらしい。それとも同じような顔をした北が姉の隣にいるからか。こういう北の顔にとことん弱い侑だ。

    「でも、私と旦那が迎えられて、信介と侑くんが認められんのは理に適ってないよな、って言うんが、私らの今思ってることやねん。せやから、せやから……我儘やって分かっとるけど、侑くん」

    この子の叔父さんになってくれる?

    目の奥が歓喜に震えているのが分かったが知らないフリをした。
    侑は姉の顔から目が離せなかった。

    「あつむ」

    でも、全て遅かった。

    「ゥグ、ぅ」

    そんな顔で見つめられたらこんな声が出てしまった。

    「……男前が、台無しや」
    「惚れた、くぜに」
    「うん」

    せっかくセットした髪を振り乱して首を横に振る。髪が顔に張り付いた。しかし構うことなく肩を揺らした。止める方法が分からないため、蛇口を開けたままに声を食いしばった歯の隙間から吐き出した。いつの間にか握りしめていた拳に水が落ちる。喉の奥が笑うように震えた。「ただいま〜」と女性の声が聞こえるまで、侑は正座したまま、北に抱き締められて泣いていた。


    ……


    良かったな。
    車で一足先に帰ると言い出したのは治であった。素直な祝福はどうにもくすぐったい。しかし侑も随分大人になっている上に感情が浮ついているためか、「おん、ありがとぉ」とこちらも素直な返答が口から出てきた。そんな侑を見て治は苦笑した。今の侑の感覚が分かろうとしなくても分かってしまったためだ。

    夕方、泣いている侑と北、姉とそして帰ってきた北の父と母に囲まれている間、治はヒカルと二人で遊んでいた。うーとヒカルが言えば治が「うー」と口を尖らせる。ヒカルが笑えば治も笑った。昔は子供なんて興味がなかったのに、食に関する仕事を始めてから急激に子供のことが愛らしくなっていた。子供とは感性が素直で言葉は真っすぐだ。そんな子供から「美味しい」と言ってもらえると嬉しいことこの上ない。

    ―――俺もお前の叔父さんやで~

    ヒカルのクリームパンが治に向かって伸びる。侑と違って何度か会っている治。初め会った3月の末は宇宙人のような見た目であったが、すっかり人間の赤ちゃんになっている。その時視察に行っていた他県のお土産を落としてしまったのもいい思い出だ。

    ―――かわええな~

    侑は今、北の両親と一緒に話をしているだろう。北と北の姉と話している時も廊下で待っていた。立ち聞きするつもりは無かったが、どうしてか足が根を張っていた。その結果、あんなに泣く片割れの声を聞くことができたし、最後の公式戦が初戦敗退だったとしても泣かなかった主将が壁の向こうで泣いていた。

    ―――罪な子や。あんな大の大人泣かして

    しかし治にとってはそれだけでも収穫は十分だった。このクリームパンのような手や桃のような頬に血が通っている限り、侑とっても北にとっても精神的な支柱の一つになることは間違いない。それだけでも、一番二人に近い第三者である治は、嬉しかった。
    法律に認められないからなんだ、と言えるのは第三者だけである。法治国家にいる以上、法律が全てである。これはもちろんいい意味もあるが、反面悪い意味ももちろんある。法律が守ってくれるのに、法律に当てはまらない人間が自らの身内にいるのだ。心配しないはずがない。
    どうしても幸せになってほしい。治はいつでもそう願っている。男同士という問題に意図せず絡んでしまった高校生の時からそう思っていた。その時から二人はどうにも危うく不安定であるのに手を繋ぎ続けていた。その姿を見てはいつも心から心配していた。二人には、二人しか支柱がない。「人は支え合って出来ている」というのは漢字だけの話で、実際に一人が一人を支えて生きる、なんてことは到底不可能だ。互いが互いしか支えられないようであれば、片方が倒れたらたちまち駄目になってしまう。そんな二人を治は見たくなかった。

    ―――ぉ、あブ
    ―――ん~?

    治の指を握って可能な限り振り回すヒカル。治の指が完全に遊び道具になっているが、治としては一向に構わない。可愛くて仕方がない。
    前述したように、治は、ヒカルが二人にとって精神的支柱として一本加わったと思っている。しかしヒカルをモノ扱いしたい訳ではない。二人のために生きてほしいとも思わない。2人がこれから前向きに二人で歩くために背中を押してくれる存在であれば、それでいいだけだ。だからヒカルが二人のためだけの太陽になった今日あの瞬間から、治は心の底から安堵していた。

    ―――おおきなれよ~……
    ―――ぅあー

    意味がなくても返事をしている。ヒカルは丸い目を治に向けていた。


    治が「良かったな」と言えば「ありがとぉ」という。二人とも緊張の糸が切れてしまってどうにも締まらない。侑はこのまま北家にお泊りだ。これから治と侑が会えるのは試合会場だけになるかもしれない。そう思うと治は自然と口を開いていた。

    ―――よかった
    ―――……おん
    ―――お前が金メダル取った時より良かったかもしらん
    ―――ぶっ飛ばすで
    ―――あん時も安心したけど、今回も安心した
    ―――……お前はオカンか
    ―――何言うたら正解なんか分からんけど……
    ―――お前もポンコツやからな
    ―――しばくぞ。……せやな、結婚式とか報告会すんなら、ウチ使てええで

    とびきりの笑顔ができたと治は我ながら思っていた。侑はその言葉に今日一番の目の大きさを見せて、そして治と同じ顔をした。拳と拳が合わせて喜びを表わしたのは、いつ以来だっただろう、と治は車の運転をしながら思っていた。




    ――――――




    夜更け。ジトリとした昼の熱が糸を引いている。湿気も相まって風呂上がりの肌が若干鬱陶しく感じる気温だった。目の腫れは風呂に入ったことで温められて若干緩和された。しかし朝とは大違いの顔に、後から風呂に入って今上がってきた北が噴出した。

    「お岩さんや」
    「誰のせいやと」

    くすくすと笑っている北の顔を見て侑は安心した。窓辺からは生ぬるい風が網戸の目をすり抜けていたため、北は扇風機のスイッチを入れた。

    「クーラー入れるか?」
    「ええですってば。体冷やすん嫌いなんです」

    いつもの口癖にも安心する材料の一つだ。温い風に変わって扇風機の冷風が吹き抜ける。うっすら浮かんでいた汗がサラリと乾いていった。

    「……治から聞いたで」

    敷かれている布団の上でヤスリを使用していた侑の前に座った。髪は若干濡れているが短髪の髪はすぐに乾くだろう。北の言葉に侑は目線だけを向けて見た。そこにはバツの悪そうな顔をした北が既にいた。

    「ヒカルのこと、女やと勘違いさせとったんやろ」
    「まぁ……はい」
    「すまんかった。この通り」
    「へ!?ええ!?」

    しっかり正座した北は侑に向かって頭を下げた。侑は慌ててその肩を掴んだ。「近所迷惑やで」と北に言われて慌てて口を塞ぐのは昔から変わらない。

    「いやあの全然気にしてなくて!それより北さんが俺のこと慮ってくれてたんに感動もしてたというかなんというか」
    「早口やな」
    「と、とりあえず土下座やめましょ!?」

    侑の焦っている言葉にやっと北はその身を起こした。顔はやっぱり浮かなくてその表情に侑は更に焦った。掴んだ肩は離すことはできなくて、オロついた侑の視線と真っすぐな北の視線がぶつかった。

    「そんなつもりは無かったんやけど」
    「分かってます。俺のこと考えて連絡してくれんのいつもの事やないですか」
    「でも早めに言うとくべきやった」
    「ええんです。それどころか2歩下がっても一気に5歩進めたんですから」
    「そんでも気になったままやったんやろ」
    「でも俺、優勝したし、アジアも準ですけど優勝しましたよ」
    「おめでとう」
    「ありがとうございます」

    初めて北と侑が顔を見合わせて笑いあった。空気が和んだことによって北の緊張が緩んだ。侑もまた安堵を覚えた。

    「俺もちょっと浮ついてしもてアカンのですけど」
    「俺もや」
    「今回は怒っとるとかそういうんは吹っ飛ぶくらいのことがあったんで」
    「そう、やな」
    「なんで、俺はもう怒る意味を無くしました」
    「侑はそれでええんか」

    北の顔はいつだって真剣だ。意思確認をするときは必ずそうだ。初めて付き合った時も、大学に進んだ時も、同棲を始めた時も、プロポーズした時だって、何度も侑の意思を確認していた。

    「ホンマにお前は俺のことが好きなんか?」「俺も勘違いしてまうから」「お前俺と一緒におって問題ないんか」「お前はそれでええんか」「お前はそれがええんか」「ずっと?いつまでや」「永遠なんてホンマにあると思てるんか?」「ホンマに?」「お前は俺と一緒におってくれるんか?」

    北は、侑のことが信じられない訳ではない。北はずっと自分の気持ちを信じられないでいたのだ。
    侑の感情が本物だっていうことは目を見れば分かる。侑は分かりやすい。嘘を言う時は眼球が右に動く。真剣な話をしていると目線を追ってくる。北が目線を外したら肩を掴んでも顎を掴んでも目線を合わせてくる(暴力ではないので安心してほしい)。泣いている姿を見られたくなくて言い訳をしても、その顔が見たいと言って目線を合わせるまでの力技をする。
    しかし北はいつまでたっても自分の気持ちが信じられなかった。そこまでして侑は北に真摯で真っすぐであるのに、自分がその思いに応えられているのか、いつも不安で自信が持てず、疑心暗鬼であった。バレーは違う。練習する時間があって練習をすればおのずと自信になる。しかし恋愛は違う。ましてや相手は同性のプロスポーツ選手である。どうしてもその経歴に北自身という汚点を作るわけにはいかないのに、練習ができないまま、恋愛を初めてした。何をしても緊張するし不安になる。アランに「緊張する意味が分からん」と言った自分が憎い。緊張する、人とは緊張して指先が冷えることを、初めて知った。姉と母が恋愛ドラマを見て不安そうな顔をしている主人公に共感していた意味を知った。そして自らがその主人公たちと同じ感情を抱いていることが信じられずにいた。
    しかしもう今の感情を疑うことも、侑と過ごす時間が長くなるにつれて感覚は薄れていたのも確かだ。自分に少しは自信が着いた、というのが一番の要因だが、それが時に不安になることがある。同棲を始めた頃から、自分に素直であることは侑に何かを我慢させているのではないか、と不安になる。今日がまさしくそれだ。北も浮かれてはいたが、その浮遊感に侑が着いて来ていないならそれは沈没と同じだ。それでは意味がない。北と同じ位置に侑がいないと何もかもが意味をなさない。
    つまり北はいつも不安だ。なにかと不安だ。心配ばかりで、不安だ。それと同じくらい、それ以上に、侑のことが大切で大事で好きなのだ。選手としても男性としても。
    今の侑は笑っている。笑って応えた。

    「はい。俺今めっちゃ幸せです」

    この回答だけで北の心は満足した。自信に変わる音がする。ため息のようなその音に侑はまた笑って見せた。その顔が北に自信をもたらしていることに気付くのも時間の問題だ。
    北もやっと表情は柔和なものになった。侑も安心できるというものだ。侑はその手を握って更に明るい丸い声で言った。
    北の口角と口の中がむずむずと疼き始めた。

    「……ン、ふ」
    「……?」
    「ンフ、フ……ハハハ」
    「え~~~?」

    北の笑い声は年々変わっている。侑と付き合い始めた時は控えめに笑っていた。しかし卒業式の時だ。大号泣しているアランに爆笑しているのを侑に見られてしまったことがあった。その後から、様子を見ながら徐々に笑い方が派手になっている。今のように口を開いてよく笑うようになった。侑は今度こそ眉毛を提げて笑った。拍子に肩から力が抜けたのが分かった。

    「……え~?ふへへ、なんでぇ?」
    「ハハ、ッ……フ、フハ、ハ」
    「あ~~……ハハ、ハハ、ッ」

    侑は北の腕を引いた。北の自重に身を任せて載ってきた重さには温度があって、侑はひどく安心した。北が着ているTシャツから伝染する体温が妙に現実感があって重たい。続いてじっとりと濡れた。ポロポロと零した笑いは球体のような音で、まるで零れる涙のようだった。撥水加工がされていない肌ではずるずると零れるだけな涙は右からも左からも零れる。肩に水たまりが出来そうな勢いだったが侑が構うはずもない。金メダルを獲った時すら零れなかった涙が縁まで押し迫っている。鼻の奥が痛んだ。

    「……、良かったですね、北さん……ッ」
    「よかった、よかった、あつむ、ぅ」

    いつも冷静沈着で、物腰丁寧、凛と伸びた背筋の、侑の主将はどこにもいなかった。侑の前でしか見られない北の姿だとしても、初めて見る姿であった。二人で映画を見た時でも、感動ものの動物映画ですら泣いている侑のことを慰める位には余裕のある侑の数歩先にいる大人が、北であった。だからこそ、米のことや侑の活躍のことになると子供のように笑う姿にギャップを感じていた。しかし、今の北はどうだろうか。侑に縋って何度も名前を呼んで侑のTシャツを握っていた。皺ができているだろうが、自らの背中を確認することはできない。それでも震えている拳だけで察することはできた。

    きっと、彼はこの家で孤独と孤立を密かに感じていたのだろう。遠征に行っている侑は、基本的に独り身ではあったが、電話さえ繋いでしまえば北と繋がることはできていた。しかし孤独は感じない。理屈は簡単で、それは「侑にとっての第三者が、この話題を否定的に触れてくる存在がいないと分かっていた」ことが一番の要因である。独り身であることは確かに孤独だが、北が感じていたのは孤立。孤独と孤立は似て非なる。愛をもってしても物質的に越えられない。精神的に越えることができたとしても、それは一時的なもの。ひとたび、「自分たちのことをどう思っているのか分からない人間の目」というものは、恐ろしいのだ。
    家族だから、拒否はされたくない。しかしその拒否を北が否定するのは可笑しい、そう思っているのは当本人だからこその悩みでもある。理屈っぽい北らしいと言えば、北らしい。

    その緊張と孤立から解放されたのだ。北を思うと侑が歓喜と後悔の涙を流しそうになるのも無理はない。しかし侑は侑で、「自分が泣く資格はないだろう」と思いながら北を抱き締めて涙を堪えている。どうにも、自分は恵まれている環境にいた、と北の涙を見て思ったからだ。侑はこれと言って苦労した思いは、ゼロでは無いにしても目立ってはない。おかげでバレーに専念することができて結果を残すことができたのだから。しかしそれは北が配慮して侑に見せて来なかったからだろう。そう思うと、北のように泣くことができなかった。

    高校生の時に初めてハグしてから、何度抱き締めたか分からない互いの体は随分様変わりした。高校生という未成熟な体から成熟した大人の筋肉へ。何度抱き締めて質感を覚え直したとしても、今日ほどに温度を抱き締めていると思うことは後にも先にも、きっとないだろう。

    この感覚は、今日だけのモノ。

    二人は呼吸が落ち着くまでの間、何度も何度も、何度も。刻み込んで沁み込ませて馴染むまで、何度も名前を呼びあった。熱い息と体のせいで、風呂に入った後だというのに汗が浮かんで溶け合った。
    呼吸の足並みが合い始めたころ、やっと北の涙が止まった。



    …………




    「落ち着きましたか?」
    「……ん」

    ずび、と鼻を啜ったがあまり効果は無かった。鼻にかかった声と真っ赤に腫れてしまった北の瞼は侑のことを馬鹿にできないものになってしまった。ぼんやりと視線を彷徨わせて北はティッシュを手にして鼻をかんだ。そしてまたぼんやりと視線をどこかに飛ばした。

    「……今日はとりあえずこのまま寝ましょ?」
    「……」

    その言葉に北の視線がやっと侑に絡んだ。徐々に力が戻ってきているように感じる視線は侑の内側を伺うようだった。侑は北のことを特別疑り深い人という認識ではないが、侑のこととなると特別慎重になるという印象はある。高校生の時からあまり変わっていない北の一面でもある。

    「泣くんも体力いるし、俺も普段泣かんからちょっと疲れました」
    「……」

    北からの返答はなかった。しかし暫くして「……ん」と返事をした。侑は北の手から鼻をかんだ後の残骸を抜き取って屑籠に放り込んだ。そしてその残骸の代わりに自らの指を差し込んで敷かれた布団に引き込んだ。
    抵抗がない北。もしかしたらこんな北は初めてかもしれない、と驚きは隠せないが、なんだか北がヒカルのように見えてきた。少しむくんでしまった顔や指は赤子のようであった。きっと普通の人なら気付けない指の変化は、侑だからこそ気付けたのだろう。
    侑はその指を一本一本指圧していく。冬になると念入りにクリームを練り込むが、今日は簡易版。侑の瞼ももうそろそろドロップしそうだ。北もほとんど夢の世界に飛び立っている。いつもより高い体温に扇風機の人口風が滑っていく。首を横に振ると頭から脚に向かって献身的に撫でてくれる。冷風はこの時期、やはり心地がいい。

    「……きたさん」

    侑は左手中指を指圧しながら北に声をかけた。北はやっと眠りについたようで、腫れた瞼のまま規則正しく呼吸を繰り返している。侑の視線の先には珍しく月が出ている。丁度その光が部屋の中に少しだけ差し込んでいる。畳の匂いが薄まって北のシャンプーの香りが強くなる。短く切られてもなお、愛おしさは短くなることはない。

    「おやすみなさい」

    扇風機が手を振った。
    月は握られた薬指を照らした。
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