神経締め神経締め。それは魚の捌き方だ。
生きたままの魚を陸上に上げると放置するだけで猛烈なストレスがかかってしまう。魚は生きて海に戻りたくて暴れる。暴れた拍子にその身を打ち付けると傷が入り打ち身が出来てしまうのは人間と同じ。そういったストレスがかかるとナントカというナニがどうにかこうにかなって味が落ちる。
そのため神経を殺してしまうのだ。包丁を当てて暴れるその身を押さえつけて無理矢理麻酔無しで入刀しない。脳天や背筋に沿って針金を入れて魚に死を自覚させる前に〆る。言葉にするとこんな感じだろうか。
スナがこの捌き方を知ったのは、練に連れてきてもらった京都祇園の日本料亭で食事をしている時のことだ。真っ白な白粉を指までつけた舞妓がしゃなりしゃなりと教えてくれた。
「幸せな死に方をした魚なんですよ」
彼女はそう言って、スナに鯛の切り身を向けた。箸は漆塗りされて艶のある黒だった。そこに挟まった白身の鯛は脂がのってキラキラと光を反射させている。練は淡々と自らの手で食べているが、スナはそれが許されなかった。別に練の誕生日でもないのにこんな事になっているのか。それはマァ後から話すことにする。
スナは彼女からその刺身をきちんと箸から食わせてもらった。「フフ」と笑った舞妓の真意を図ろうとしてスナは失敗した。
「ええですよね。脳には痛覚神経はあらへんらしいですから、痛みなく死にはるみたいですし。ほんでスナさんに美味しゅう食べてもろて。羨ましいですわァ」
舞妓という生き物はその体全てが売り物である。頭のてっぺんから指先足先、全てが売り物だ。傷のないアクリルのような存在である彼女たちは透明感が高すぎて何も読めない人間だ。それがスナの考えだ。舞妓の意図が読み取れないスナは黙って鯛を咀嚼しているが、ほんのり甘い白身魚独特な味に目を閉じて悦に浸った。
「オリンさん、火ィ」
「はい」
途端に隣から人肌ほどの温度が離れていく。同時に布が擦れる畳の音。外では知らない人の話し声がほんの少しだけ聞こえる程度の静かな和室の一室だ。挙動1つ1つの音がよく耳に届く。
スナからすると、京言葉はとても珍しいものだ。同じ関西圏なのに関西弁とは思えない言葉を実際耳にすると驚く。関西弁なのに、関西弁ではない京言葉。「はい」も、いくら関西弁とはいえ「はい」の二文字は同じ声の高さ。でも京言葉になると「は」に少しだけアクセントがつく。それだけの小さな変化で、京の夜の鴨川が頭に浮かぶのだ。
目の前で練の煙草に火を着けているのが不快に思えない。銀色のヴィンテージジッポに添えられた白い指が室内灯に照らされて美しい。もしあの舞妓が北だったら、スナは暴れ散らかして皿が全て割れているだろう。舞妓に私情が見えないからか、それとも舞妓だから良いのか。スナの中では後者で答えが出ているからなのか、目の前の画が春画のようで見惚れている。ロングピースのバニラの香がそうさせているのかも知れないが、それに加えて百合のような幻臭がする。
「大耳さんも、ええ趣味してはりますなァ」
この舞妓は「お鈴」と言われている。読みは「オスズ」だ。しかしこの舞妓は「オスズちゃん」と呼んだ黒須に向かってこう言った。
「『すず』は呼びにくいかと思います。私の出は東北の小さな仏具店です。どうぞ、『オリン』と呼んでください」
と。おりん、つまり仏具のおりんだ。仏具のおりんは「お輪」とも書くが「お鈴」とも書く。このオヤジギャグとブラックジョークのスレスレをついたのはまだ18にもなっていない女だった。黒須はこの発言を大層気に入ったそうだ。そして「やっぱり女将の女は間違いないな」と上機嫌になったという。それからはお抱えのような立ち位置として、北組の人間は必ず彼女を指名するようになっていた。
「ええやろ」
そして今現在驚くほど上機嫌な大耳は煙草を咥えたまま笑っている。隣でずっとニコニコと笑っているお鈴。そうですね、とも、本当に悪趣味ですね、とも言わない。代わりに笑っているかのような笑顔だ。
「俺のやで」
「ウチがそないな人に見えとるやなんて。嫌やわ、心外どす」
舞妓が使う京言葉は「花街言葉」と言われる。そういう場所にやってきた人間の機嫌を損なわないように、直接的な表現の言葉を避けて婉曲的に物事を伝える。受け取った人間はその味わいある言葉を自己の暗黙下で言葉の真意を受け取り、その余韻を楽しむ。とにかく言っている事の意味は侮辱だとしても、それを相手に悟らせないようにする。それが花街言葉だろう。
そのため、このお鈴のような言葉遣いは絶対許されない。花街言葉に直すとすると「堪忍エ」。その一言で済む。これはこれで「ホンマええ加減にせえよクソエロジジイ」と「あまりに哀れで今にも共感羞恥で死にそうなので口を慎めジジイ」だったりするのかも知れないが。
お鈴はそういう言葉を使用しない。「嫌や、いうことは、きちんと言わへんと。特にそういう人には」というのが彼女の主張らしい。嫌なことをされがちなのではなくて、倫理観が欠如した状態でも「お金を払ってくれたのなら」「良しとしなければならない」世界だ。一石を投じたい訳では無いらしいが、彼女の存在はかなり異質ながら正常な感情を持つ人間らしいだろう。
「ほなスナさん。もう一口行きまひょか?」
いつの間にかスナの隣に座っていたお鈴は、今度はハモの刺身の準備をしている。ハモの刺身なんて中々食べられないモノを目の前にちょっとだけうろたえてしまう。
「ハモか。旬やな」
「ヘエ」
白い指に添えられたスダチの濃い緑色の皮。既に粗塩が振られているが一気にスダチの爽やかな香がイ草の香に混じって腹が急激に空いてきた。
「リンは蛇やから、ほぼ同族やな」
「蛇どすか」
「オン」
美味いな、と呟く練はハモの骨を砕きながら笑っていた。咀嚼音はあまり聞こえないが、ポリポリと音が聞こえてきそうだ。白身魚が好きな男だから笑顔になることをスナは理解しているが、納得ができなくてハモを前に無表情になっている。
お鈴は「スナは蛇」という言葉の真意を追求してこない。勿論スナの背中にいるのが蛇だということを知るはずがない。だが聞いてこないあたり、察しているのかもしれない。背中に蛇の彫り物がなされていることも、ハモの切り身如きに機嫌を悪くしている理由も。だからお鈴は敢えて聞いてみることにした。
「ハモはお嫌いどすか?」
もう既にハモの切り身はお鈴の箸に抓まれてスナに向けられている。スダチの香水を着けたハモを憎たらしく睨んだスナに笑いが堪えられなくなった大耳は遂に日本酒を噴出してしまった。口の端から少しだけ日本酒を垂らしてちょっと無様だが、普段無口で強面な男が、強かに酒に酔い笑っているのを見ていると心がくすぐったくなってしまった。完全に不覚だったということは、きっとスナも酔っているのだろう。コロコロと声に出して笑っていたのはお鈴。お鈴の名に恥じない、鈴のような笑い声だった。
「おイタがすぎました。ホンマ堪忍エ」
「ああスナ拗ねんなや……グクッ」
「本当に腹立つング」
「ええなぁええ酒のサカナやわ」
「ホンマどすなァ」
不満を言おうと口を開いた瞬間に突っ込まれたハモは骨が細かく切られている。ハモは蛇のような体の構造をしているため、骨を完全に抜ききる事が出来ない。そのため骨切りという手法で骨を切り砕いて食べるのが主流だ。だから必然的に細かくなった骨を噛み砕いて食べる事になる。スナはそんなハモを思いっきり噛み締めてやった。奥歯で磨り潰して犬歯で髪
切るように食べてやった。しかし目の前にある皿には飾りがなされている切り身が数個残っている。
スナの感情は、正しく嫉妬だ。蛇と似ているが同じものではない。それでも同族を褒めて自分に関しては何も言わないのなら拗ねるのも無理はないのだろう。そして目の前の二人は結託してスナが拗ねるように言葉を選んで、それを楽しんでいる。腹が立つ。自分のナカで逝ってしまう癖に。堪え性のない早漏の癖に。ムカムカと怒気を孕み始めているスナにお鈴はお猪口を差し出した。
「ホレスナさん。堪忍エ」
この女は人を揶揄うために「堪忍エ」という。そんな気はしていたが、いざそう思うと京言葉にすら腹が立ち始める。
「ホンマ、骨も神経も入れ上げてもォて。かァいらしいお人どすなァ」
「せやろせやろ」
練も同じように日本酒を煽っては、その余韻を口に残したままハモを噛み締めている。その目はスナを見ている。真っすぐ見つめて、まるで見せつけるようにして蛇のようなハモを咀嚼していた。お鈴はそんな大耳を知っているのか知らないのか。ニコニコ笑顔を崩すことなく空いた練のお猪口に日本酒を注いだ。
「もう骨まで食うてやる約束しとるからなァ」
「ヘェ」
「それは俺も同じです」
「こんな骨太の骨も食うてまうんですか。怖いお人」
「誰がデブや」
「こんな図太いことやってはるのに。こっちも怖いお人ですわァ」
骨まで丸ごと食ってしまった鯉を蛇が見ている。入れ込んでいるのはどちらも同じだが、お鈴は特に興味は無かった。初めから鯉の愛玩具になっている蛇と、蛇に振り回されている鯉。どっちもどっちでただの乳繰り合いにしか見て取れなかった。
スナは怒っているのだろうが怒っていないのが見て取れる。練はそもそもその締まりのない顔を晒している自覚がなさそう。まるで神経が死んでしまっているようだ。酒を摂取してしまったせいだろうか。神経締めは幸せな死に方だとお鈴は思っているが、これはこれで幸せなのかも知れない。盲目具合がどうにも幸せそうだ、と脳死で思ってしまう。つまりは呆れているのだが。
とにかく、神経までも互いが侵食しあっているようなやり取りに鳥肌が収まらない。けどこれが仕事だ、と腕の発疹を悟られないように笑い続けることを心掛けた。
だからお鈴の心の中はこうだ。
「大の大人が、恥ずかしないんやろか」だ。