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    seki_shinya2ji

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    seki_shinya2ji

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    絶対音感スナくん、完結
    アラベスク、アップライト・ピアノ、アルペジオ、そしてアンダンテ。

    [A]楽器を、一生の買い物とする。
    治は初めて楽器屋に行き、誓った。


    人生の中で、「一生モノの買い物」は何回行うことになるだろう。
    治は、アルバイトをして必死に貯めた金で安い空き店舗を購入した時にそう思った。
    治は侑とは少し違って「一生のお願い」をあまりしてこなかった。そりゃ、和牛のサーロインステーキと新鮮な海鮮丼、どちらがいいか、と聞かれた時は父親に「オトン、一生のお願いや。そのてんぷら定食辞めて和牛のサーロインステーキ頼んでや。俺はこの海鮮丼が食いたいねん。半分でええから和牛食いたい……」と幼いながら涙を滲ませて頼んだことはある。未だに両親からも兄弟からもネタにされる。
    一方で侑はかなりの頻度で「一生のお願い」をしていた。課題を忘れた時、腹が減った時、日直に遅れそうになった時、そして北に告白をする時。その現場を覗いていたことがあるのだが、あの日以来侑の「一生のお願い」はあまり聞かれなくなった。
    また治の知り合いであり片割れのチームメイトである日向翔陽はバレーのこと以外で「一生のお願い」をしているところは見たことがない。未だに「治さん、一生のお願いです。もう一回スパイク打って下さい……」と100万回頼み込まれている。ただそれだけだ。
    だからこそ、治は思う。『【一生物の何か】とは、その時の状況によって変動する。普遍的なものではなく、その時の必要最低限の欲求の塊』だと。確かに満たされると満足はするだろうが、それも一過性。買って仕舞えば、叶って仕舞えば、忘れることはなくても安定してそれが基盤になる。足元にある地面のようなものだ。ホームセンターでやっとの思いで購入して敷き固めてしまえば、初めは新しい土の感触にワクワクしても雑草が一つ生え始めた頃には当たり前のものだと思うようになる。
    それと似ている、と治は思っている。北が「何事も積み重ね」と言っているように、「一生の何か」は派手な一地層であっても、積み重なってしまえば他の日常と同化して一つの過去と化す。それを何度も重ねていけば他の地層と見分けがつかなくなってしまうのは道理で、回数が少なければ必然的に「一生の何か」地層は目を引くものになる。
    つまり、「これから普通になる派手な地層」が「一生の何か」なのだ。




    =======




    音叉を奏でる倫太郎の姿を見た治。ポー____……と夜に溶けていくような音がAという音だと知ったのは、倫太郎と風呂に入るのが定着し始めたある夜だった。
    「A___……」
    倫太郎の口から出てきた鼻歌のロングトーンが、浴室に溶ける。倫太郎の指は、未だに綺麗なままだ。水仕事はしているが衛生面を考えておにぎり宮では薄手のビニール手袋をするようになった。ご時世というものだが、それは倫太郎の指の荒れを抑えることに繋がっていた。その手は今お湯が張られた浴槽の底についている。揺らめいた水面は倫太郎の手を悪戯に歪めている。治の耳に揺らぐことなく届く倫太郎の音叉は、耳によく馴染んだ。
    「お邪魔しま〜す……」
    一気に溢れていくお湯を止めることはしない。治の風呂は短いが、倫太郎の風呂は長い。この後は倫太郎の一曲を聞いて風呂から上がればいい。
    「今日は何の曲なん?」
    「う〜……」
    倫太郎はいつも悩んでしまう。
    「【朝】、とか」
    「【朝】?」
    治は基本的に音楽についての知識が無い。音程も、Aを「アー」だと言っている治だが、小学校から高校までの音楽の授業では「ラ」の音である事を忘れているだけだ。そのため「ソ」の音のことを「ゲー」と言ってはならないし、「シ」の音を「ハー」と言ってはならない。何も理解ができないのだ。それは音楽でもそうだ。第九の事を「大工さんの歌か?」とテンプレートの返答をしたのを倫太郎は忘れられない。しかし人とは不思議なもので、曲を聴くと思い出すことができるのだ。
    「こんな感じの曲です」
    そういって倫太郎は曲の一部を口ずさむ。すると治は「あ~!」と言いたげな表情をする。倫太郎は声楽出身ではないが嗜んでは居た程度。母親がソプラノ歌手だったことと絶対音感の持ち主であったことも相まって、皮肉にも歌は上手かった。
    以前はこの能力が鬱陶しくもあったし憎かった。しかし今は少しだけ違う。治から「ええ声が店にあって嬉しいわ」と言ってくれて、風呂の時間になると治は倫太郎の歌を聴いてくれる。それだけで嬉しいものがあった。
    治は倫太郎の歌を聴くことが、最近の日課でもある。時々皿洗い中に鼻歌が聞こえることもあるが、特に咎める意味もないし何より聴いていると忙殺されて荒んだ心が和むのだ。
    だから倫太郎も心が和む。上手・下手、更には点数化される事もなく、競うことのない音楽が心を荒ませる訳がない。知らない曲をチョイスしても知っている曲をチョイスしても、治は否定しないし点数はいつも満点をくれる。幼い頃から欲しかったものを、治は簡単にくれる。それだけで十分なのだ。
    歌った一節が終わると倫太郎の顔は更に明るくなっている。狭すぎる浴槽に男が二人。元々二人で入るために作られた浴槽ではないため、狭すぎるが距離が埋まる。朝、というタイトルの通り、一緒の布団で寝て起きた時のような距離感だ。
    19歳とは恐ろしいもので、セイヨクは制欲と書かずに性欲とストレートに書く。倫太郎が来てもうすぐ10ヶ月、想いを衝動で伝えてしまって7ヶ月程になるが、恐ろしいことにもう体は何度も重ねた。倫太郎に猛烈に強請られるのだ。心を許してからの懐き方はどこか既視感があるものだった。それが、学生時代に寄ってきた黒い子猫であったことを思い出したのはつい最近のことだった。子猫並みの懐き方をした倫太郎だが、心の拠り所を維持するために必死であったのは間違いない。こうしないと治の好意に応えられないと思っていたためだ。自分だって良くしてくれた治に絆されていつの間にか恋に近い感情を抱いているのは間違いない。しかしそうだとしても、治の愛情は明らかに恋慕と家族愛が一緒になっていたのを倫太郎は察していた。倫太郎は今でも恋と家族愛の区別がつかない。それでも家族愛は既に持っていたため、後は恋慕を埋めることに専念することにした。その結果がセックスだっただけだ。一応処女はまだであったため、捧げることは決めていた。そこからは横這いだが、この関係が続いていることが倫太郎の精神安定剤でもあった。
    「知っとるわそれ。専門学校の朝の清掃ン時に流れとった」
    「そうなんだ」
    そういってクスクス笑っている倫太郎は頬が赤くなっている。一番初めに風呂に入った時はお互い無言で、安っぽい天上から落ちてきた水滴の音に肩を強張らせていた。そんな男の表情とは思えない一面だ。時々抜ける敬語にどこか昂ぶりを覚えるのは内緒だ。
    「俺も、中等行ってる時の朝かかってました。だからめっちゃ嫌いで」
    「嫌い?思い出すからか?」
    「うー。まぁそんな感じ?」
    その言葉に治は首を傾げる。『始まってしまう感じ』とは。朝だから始まって当然だ、と初めは思った。しかしその言葉の端と表情から何となく言葉の真意を理解してしまった。倫太郎は学校での思い出に良いものがないのだろう。一番核の部分は聞いたことがないが、なんとなく聞いた雰囲気だといい思い出がないのだろう。自分の高校生時代と比較してしまう分、どうしても倫太郎の過去を聞くことが阻まれてしまう。対照的であるという予測は容易に立ってしまっていた。
    「角名さ」
    「うん」
    「もう一回楽器触ってみたいって思う?」
    先程まで歌っていた顔がそのまま固まってしまった。初めてこういった話に踏み込むことになる。楽器の話は今までどんな楽器を演奏したことがあるのか、と質問したことがある。その時は「ピアノが一番。その次にバイオリンと、ちょっとだけフルート」と応えていたことがある。その時に「バイオリンは生活のために売りました。あんまり金にはなりませんでしたが」と笑っていた顔があまりにも痛々しくてそれ以上の言葉が出てこなかったことがあった。それ以来の話題だった。
    「うー……ん__?今はいいかな」
    倫太郎は首を傾げながらも拒否の言葉で応えた。その顔には寂しそうな表情は見て取れず、意外にも肩を空かせてみせている。予想していない倫太郎の答えに今度は治が驚いていた。
    「え、そうなん?」
    そうなると治は次に余計なことを考え始める。倫太郎の返事はまるで音楽に未練がないような言い方であった。そうなると隔日で聞いている知っている音楽についての話に乗る気ではないような気がしてならないのだ。自分も思い当たる節はある。自分の片割れがバレーの選手になる、しかし同じくらいの技量を持った自分はバレーの道には進まない。そのことで周囲からとやかく言われてしまい、嫌な思いをした。あれと似たおせっかいをかけてしまったのではないか、と考えている最中だ。
    「はい。俺、音楽がしたくて生まれた訳じゃないし、ピアノがしたくてここに来た訳じゃないので」
    「……なんとなく、分かる気がする」
    「そうなんですね」
    倫太郎の肌が徐々に濃いピンク色に変わり始めているが、治は徐々に赤みが増してきている。
    「あっつ。出よや」
    「はい」
    一気にお湯が溢れて飛び散る。治はただ胸の内に小さな好奇心を抱えて風呂場から出た。



    ======



    いらっしゃいませ、という言葉を治はよく発する。自らの店を持っているのだから当然である。そのためか「いらっしゃいませ」という言葉が聞こえなかったこの店に、少しだけ違和感を覚えた。

    見たのは高校生以来であるから、今から10年以上前の話である。金色、黒光り、ガラスの反射、そして青や赤。全ての色が反射して妙に煌めくその空間に、治は強烈な場違いな空気を肌で嫌程感じていた。カタカナが異様に多い空間には「コンクール」「優勝」「ハーモニー」「アンサンブル」など、これもまた聞き馴染みの無い文字の羅列が雑誌の表紙に描かれている。どうにも居心地が悪くなってしまう心の座り所を探していると唐突に声が飛んできた。
    「何か、お探しですか」
    声をかけられるとは思わなかった。振り返った先にいた男性は、治のことを見ていた。自然であり不自然な真っ黒な髪と、肌には青髭すら残っていない整った肌。年齢がよく分からない男性であることは間違いないが、どうにも言葉が出てこなかったのは緊張していたからだろう。どうせなら、北でも片割れでも連れてくるべきであったと後悔している治だ。
    「え、っと」
    「お兄さん、ピアノ引かへんのに」
    「え」
    驚くのも当然だ。まだ「え」と「と」しか発生していないのに想像以上の言葉が返ってきた。
    「簡単ですわ。確かに体格ええから打楽器奏者はあり得るやろけど、この店には打楽器扱ってへんからな。そうなると、肺活量のいる楽器が候補に上がるけど、お兄さんの指、あかぎれの痕とかサカムケ多いし、指にマメも見られへんし。やからピアノは少なくともしとらんやろし、水回りの仕事しとる人やろ。それにこんなガタイのええお兄さんがキョロキョロしとったら、流石に声かけますよ」
    ニコニコと笑われてしまうと居た堪れない気持ちになってしまう。全く知らない人間にここまで言い当てられてしまうと、顔が熱くなっているのが自分だからこそ分かる。治は今猛烈に恥ずかしい思いをしている。
    「で、何をお探しで」
    「え、と、その。楽器の相場を」
    「なんの楽器?」
    物腰は柔らかい。関西人は言葉に棘がある気がする、と以前倫太郎が言っていたのを思い出す。「嫌か」という言葉にも棘があるような気がした治はこの時「そうかぁ」と応えた。否定も肯定もしない中途半端な言葉に一番棘があるのではないかと不安になったが、今では関西弁に慣れている様子だ。最終的に倫太郎の真似をすると「なんか変」と言われてしまう。
    この店員男性の関西弁は丸みのある関西弁であった。治は音楽や楽器の知識はないため代わりに弁解すると丁度バス・クラリネットのような声だ。棘のない声だと、治は思った。
    「よく、知らんのです」
    「知らん?自分の楽器やないんですか」
    「はい。えと、ぱーと、なーに……」
    「デュオ?」
    「じゅお?」
    「……なるほどな?」
    すると男性は治のことをこまねいて店の中にある椅子に座った。傍らにはパンフレットの棚がある。どうやら何かを見せてもらえるらしい。そう察した治は大きな体を畳むかのようにして、抜き足差し足で男性のもとに近づいた。ガラスのショーウィンドウの先にあった黒い椅子に座るとギシリと鳴る。そして男性は紙を取り出してバインダーに挟んで、治に向き合った。
    「まず、君はパートナーに楽器を送りたいと」
    「はい」
    「で、自分には知識がないと」
    「はい」
    「じゃあ、どれがどの楽器かも分からんと」
    「はい……」
    徐々に尻すぼみになってしまう。この言葉には棘を感じなくても圧を感じる。どこかで聞いた記憶があるのは、高校生まで遡ることになりそうだった。男性はそんな治を見て、苦笑いを浮かべて手元にあるパンフレットを手にした。
    「相場だけっていうならパンフレットだけで十分かもしれんな。これがピアノで、こっちがクラリネット、バイオリンはこれで、これがトランペット」
    まず差し出されたのがこの4冊だった。同じ構造のパンフレットではないが、どの楽器も明らかに着飾っているにも関わらずありのままで美しい姿で写真を撮られている。身が千々籠るような思いがする程に美しい写真は、治が普段見ている食材のパンフレットとはまた違う艶やかさがあった。
    「こん中にある?」
    「え、と。ピアノと、バイオリンは、聞いたことが」
    そういうと男性はクラリネットとトランペットが描かれているパンフレットを下げて、まずピアノのパンフレットを開いた。
    「―――」
    驚くのも無理はない。そこにあったのはグランドピアノだ。ただ黒いステージにぽつんと置かれているそれの大きさは、パンフレットに収まるほどの大きさに縮小されている。しかしスポットライト一つに当たってしまえば、その存在感は圧倒的であった。妙に神々しく思えた。治が知っている海苔のような輝きとはまた違う黒に心が揺れた。目が眩んだ。このままではこの楽器から目が離せなくなってしまう、と焦った治はその瞳を右下へ動かした。
    「……は?」
    そこにあったのは、いつの日だったか、死ぬほど働いて懸命に貯めた数字と似たような数字だった。喉から妙な空気が抜けてそこが乾いていく。
    国産のグランドピアノの最新モデルだという。それなら納得なのだが、初めて見た治にとってはまた違った意味で眩暈がした。冷や汗がタラリ。
    治が経営者になって改めて思ったことは、金ほど目が眩むものはないということだ。モノを売るときは勿論だが、モノを買う時も目が眩む。それは色んな意味で。だからこそ目が眩んだ。学生時代も思ったが、金を稼ぐということは過酷でありながら生活するためには必要不可欠である。働き始めると余計にそう思うようになり、自らの店を構えて従業員を雇うと尚更強く思うようになった。金を集めるのは、その身を削るということなのだ。
    そしてその集めた金は、時として呆気なく消えてしまう時がある。倫太郎は、この金額を幼いながら知っていたのだろうか。それとも知らずにいたのか。どちらにせよ、この金額はあの痩身にはあまりにも負荷が大きすぎる。金で判断するのは少し下品だと言われてしまうかもしれないが、治はそう思わずには居られなかった。それほどに大きな金額であった。
    「楽器はな、高価やねん」
    男性はぽつりと呟いた。米粒程の大きさの言葉には30キロ以上の重さがあった。
    「楽器は、使い捨てのラップとかプラスチック玩具のプップー楽器とは違うんや。下手したら同じ楽器を一生使うことやってできる。例えば、10万円の中古車と、2000万円の新車やったら、どっちを大事にする。そら、2000万よな?楽器も車と似とって、10年20年使える一点ものなんや。しかも弦を張る、調律をする。響きが変わらんように木を曲げる、みたいなことをしとったら職人の維持費もかかる。そないしとったらどんどん上がってしまうねん」
    「……納得です」
    「話が分かるやつやん」
    ニヒルに笑われてしまったが、この説明をするのも胃が痛むだろう。まるで購入を進めないかのような言葉選びに、やはり関西弁には棘があるのかもしれない、と治は思った。




    ======




    「今日は、ラ・カンパネラ」
    「なん、なに?」
    「ラ・カンパネラ」
    「ら・かんぱねら」
    今日もオルゴール・倫太郎は安定して音を紡ぐ。その音を脳内でつなぎながら、浮かんでくるのはあの黒塗りの1000万円のグランドピアノであった。いつかあのピアノに、と思うほど、自分がどうしても届かないものに思えてしまって仕方がない。諦めたくはないが、どうしても越えられないモノを感じている。
    なんでもかんでも、ありとあらゆるもの、古今東西森羅万象、までいかなくても、金に糸目を付けずに見境なく与えることはできない。治は倫太郎を思っているのと同時に、倫太郎を養っている。どうしてもしてやりたいが、倫太郎を思うと、あの金額には流石に手が出ない。時々あのパンフレットを見てアップライトピアノ、というものに目が行きがちなのが、どうしても悔しい。治はアップライトピアノを知らなかった。ピアノと言えば、体育館の壇上に持ってこられていたあの形をしたグランドピアノであった。あのピアノがどうしても良かった。与えるならあのピアノが良いと思った。
    鼻歌は途切れない。湯の心地と相まってどうにも眠ってしまいそうな心地だ。溺死は勘弁である。しかし聞こえる音は勝手にピアノと声の連弾を脳内で始める。
    そういえば、今思えばグランドピアノを置いている場所がないことに気が付いた。そして襲う絶望にため息が出そうになった。アップライトピアノなら、辛うじて?そうやって諦めを付けようとしているのもなんだかムカつく。
    ふと、音が止まった。フレーズが終わったそうだ。今日も満足げな倫太郎の顔を見れば、その絶望も和らぐというもの。何事も単純である。しかし倫太郎の顔を見れば見る程、グランドピアノの椅子に座る倫太郎が、幻想として立ち上がる。やっぱり何事も単純ではないのだ。
    「……倫太郎は」
    「?はい」
    「ピアノっていくらするんか知っとるんか?」
    「……おれ、要らないですよ」
    「違うねん。たまたま、動画サイトで倫太郎が言うてた曲の全部聞いてたら楽器の話しとったから」
    これは事実だ。治は、倫太郎が口ずさんだ曲を動画サイトで一度フル尺で聞く。そして、楽器屋に行ってからというものの、楽器についての動画をよく見るようになった。
    「俺知らんかったんや」
    「普通は知らないですよ」
    「たっかいんやな」
    「うん。高い」
    ただでさえ狭い浴槽の中で、倫太郎の長い脚が動いてぶつかる。嫌な感じはしないが、窮屈なのは変わらない。
    「高いのは分かる。でもだから、その高いものを子供に押し付けるって。それって俺を殺すことじゃないですか?」
    「……お前ならそういうと思っとった」
    事実ではなかった。嘘をついた。そういうとは思っていなかった。証拠に言葉の頭に休符ができた。
    治は一体何を期待していたのか。頭を鈍器で殴られたような衝撃であった。
    それは明らかな治への最大級の警戒であった。子猫が見知らぬ大人に威嚇するのとは明らかに違う。牽制を越えたシャットアウトであった。倫太郎の言葉は「子供」を「俺」に置き換えることができる。倫太郎は治の行為を最大級の言葉で拒絶した。
    では何と言ってほしかったのだろうか。考えるだけで頭が冷えていく思いだ。
    倫太郎にとって自分のために用意されたピアノは、絞首台と同じである。
    記憶が甦ること以上に「弾け」と命令されて用意されたものは不要だ、ということだ。
    治は途方に暮れる必要はない。それでも少し立ち止まることは許されるだろう。
    倫太郎は音楽が好きだ。それは治の目から見ても明らかだ。でも、これ以上の音楽のインプットは必要がないのだろう。だからこそアウトプットして欲しかったのだ。
    「なぁ」
    「はい」
    「俺、倫太郎のピアノ聞いてみたい」
    そう、アウトプットが欲しかったんだ。言葉にしてみたら単調でいかに面白みがない文字面だろうか。しかし込められた感情はあまりにも複雑で難解であった。倫太郎は治の言葉の真意を図り、押し黙ってしまった。治の表情も、決意が固まり切っていない表情をしている。
    倫太郎は(この人は話を聞いていたのか?)と思った。怪訝な顔をしているだろうことは倫太郎自身が知っている。それでもそう思わずにはいられなかった。
    「……嫌、です」
    キッパリ断ることは出来なかった。しかし断りたかったから断った。それ以上も以下もない。倫太郎は指図されて弾くピアノは、もううんざりであった。弾くならもっと伸び伸びと。どこまでも飛んでいくような音が出るピアノと場面に出会いたい。聞きたい、という要望ではなく、弾きたいという自らの欲求から産まれる音が欲しかった。
    「知っとる」
    治はキッパリと断った。しかし断りたかったわけではない。どうしても倫太郎の音を聞いてみたい。歌声も良いが、湯気というオブラートに包まれていない倫太郎の音楽がほしかった。だから楽器屋にまで足を運んだ。
    「せやから、ピアノは買わん」
    「……」
    ますます意味が分からなくなってしまった倫太郎は、とうとう黙ってしまった。どうしたらよいのだ。だんだん逆上せてきているような気がして頭がぼんやりとする。治が何を求めているのか分からない。理解ができない、というのは辛いものだ。音楽の解釈も、誰とも分かち合うことができなかった学生時代を思い出す。胸を締め付けられるような思いが喉を締める。
    「もう風呂、出よや」
    ああこの人も手枷を。
    倫太郎は小さく絶望した。
    ピッチが変わった。





    ======





    電子ピアノの調律は狂う。
    その原因はスピーカーの調整がほとんどの理由を占める。中身の調整が間に合っていない可能性もあるが、結局のところスピーカーが籠っていたら、どんな電子という人工物でもピッチが狂う。
    この世に完璧がないと分かっているのに、完璧である絶対音感を手に入れた自分は。
    そう思わずにはいられない日々を過ごしてきた。
    完璧主義を謳った記憶はない。ただ、明らかに狂ったものを正そうとして手を伸ばしたら、手が負けてしまった。狂ったものは永遠に狂ったまま。狂ってしまえば最期で、今あるものから、なにも知らない新しい部品に変えないと正常には戻らない。
    人間関係もそうなのかもしれない、と倫太郎は思う。人との縁や上下関係を大切にするこの国では理解されないのかもしれないが、人と言うものは所詮無機物の代替品と同じなのかもしれない。あの外されたピアノのパートも、違う学生が代わりをしただろう。母のお眼鏡に適わなかった自分の役も、もしかしたら妹への愛情に変わっているのかもしれない。
    それと同じように、治にも、自分の代わりがあるのだ、と。倫太郎は心の底から、そう思っている。

    治のスマホの調子が悪くなったのが、水曜日の夕方頃であった。幸い次の日木曜日の予定はない。店が休みだ。スマホを購入した家電屋に向かうことを決めた治に、倫太郎が「俺も行きたい」と言い出したのが、夜、終業後であった。
    その日の夜の倫太郎は普段以上に物静かで言葉が少なかった。心地が悪かった訳ではないが、心配するのは当然だった。
    「どないしたん」
    そう言った治の言葉も少なかったが「なんでもないです」と言った倫太郎も言葉が少なかった。19歳だ。28の治との精神的成熟度に差があることなんて必然だ。答えが見つかるまでは程よい言葉かけ、倫太郎と同じく19の頃に欲しかった言葉を選んでかけようと決意したところだ。
    倫太郎は、夜の日課である音叉を、その日は一度しか鳴らさなかった。
    朝、先に起きたのは倫太郎の方だった。




    ======




    「イラッシャイマセ~!」
    高い声は苦手だった。店内にかかっているBGMも、どうしても受け入れられない。音楽学校時代は練習漬けで休日は練習かコンクールであったため、外出などほとんどしてこなかった。
    「ほなちょっと行ってくるけど、一緒に来んの?」
    「はい。遮音のヘッドフォンが欲しいんで俺はそっちに行ってます」
    「分かった。終わったらこっち戻ってきてや」
    その言葉の最後に添えられていた笑顔が店内のBGMを一瞬止めた。それくらいに心は安らぐ。大きすぎるBGMは不快で堪らなかったが、あれがあればどうにかなる。結局音を消すのは上回る大きな音ではなく聞こえない衝撃である。
    天井にぶら下がった吊り看板を目印に歩くたびに頭が痛むような思いだった。どうしても欲しかった訳ではないが、そろそろ貯金を崩してもいいかもしれないと思いここまで来た。先に頭が崩れそうだが。
    並んでいるモノを見てまずメーカーを確認する。そして性能を読んで、金額を確認する。ヘッドフォン1つ買うくらいの金なら貯まっている。治との生活音に苦痛を覚えているのではなく、何となく、倫太郎の中で絶対音感が崩れている感覚があったからだ。

    それはそこはかとなく感じる不安だ。倫太郎は確かに絶対音感のせいで狂った。親が勝手に縁を結んで勝手に縁を切ってくる要因になった程には狂った。
    それでも、それが遠のいていく感覚は、心の底が不安定になることと同じだ。
    月曜日の夜のことだ。3日前。
    Aの音が、分からなかった。
    音叉を鳴らした時にそう思った。初めは自分の集中が切れているのだと思った。疲れているのだと思った。だからもう一度鳴らした。分からなかった。
    不安になって調べた。【絶対音感 無くなる】そこにあった文字は「長い間音楽に触れていない場合」「過多なストレスの影響」という文字が妙に浮かんできた。よく考えるとそうだった。ここ数か月、いやもうすぐ1年か。音楽という音楽に触れてこなかった。もとより聞かないJ-POPは余計に分からなくなったし、治にきちんとアウトプットしている分クラシックはマジだとしても、間違いなく数年分は指を動かしていない。
    何故か焦った。それはそれは、猛烈に焦った。もしかして自分は知らない間に泥沼にいるのではないかと、焦った。
    治のせいではない。この生活のせいではない。ならこの呪いのせい?それも違う。そもそもこの能力を捨てたかったはずなのに、どうして?この混乱の方が大きかった。
    それほどにAの音が倫太郎の中に根付いていたのに気付いたのが、水曜日の勤務中であった。
    とりあえず音楽を聞こうと思った。これがないと自分の中の何かが崩れてしまう。顔が、脳が、ぼろぼろと崩れるような音が聞こえてくる。誰かが笑ってヒタヒタと歩いてくる足の裏の音がする。この音は、絶対音感より不快であった。
    それを払拭するために、倫太郎はヘッドフォンを購入することを決意したのだ。音楽を聞くためで、必要以上の音をシャットアウトするために。もちろん必要以上には使わない。倫太郎にとって、治のAと音叉のAは精神安定上どうしても必要になっている。安定のために音楽が聴けるヘッドフォンがほしいのだ。イヤホンでも最近のモノは性能が高いため、こちらの方がいいかと倫太郎は思ったが、今までの耳の記憶としてヘッドフォンの方が落ち着くと判断した。
    (ご贔屓の、メーカーは……)
    ここは贔屓のメーカーのものが見つかればいい。ざぁっと目を通してロゴを見つけるだけの作業だ。
    (性能……)
    とりあえず倫太郎が求めているノイズキャンセリングは基本搭載らしい。有線か無線かは、圧倒的に有線。聞いているものが外に漏れる事故は避けたいし、今までずっと有線を使ってきた。ただこの点はそれほど拘りがない。色こそ特に拘りは無いが、派手な色は避けたい。ピンクとか、オレンジとか白とか。できれば黒とか暗い赤みたいな色であればいい。
    値段は最後に見る項目だとしても、あまり高すぎるものを買うとかえって使いにくく感じてしまう。
    倫太郎が最終的に選んだそれは、全ての商品の平均値くらいの値段の、黒いヘッドフォンであった。少しマットな商品写真も相まって、倫太郎は商品棚から箱を一つ選んで手にした。白い指が黒い箱に良く映える。それに気が付いているのは店員の女性だけで、倫太郎自身は気が付いていない。それを抱えて近くにあるレジカウンターに持っていく。
    「11328円です」
    「はい」
    値は張った。だとしてもパッケージにエレガントに書かれた【没入感】の文字には勝てない。給料を貰い始めて初めての大きな買い物だ。少し胸が大きく鼓動したが、声は落ち着いて発声しようと努めた。お釣りは627円。小銭とレシートを受け取って、その箱を紙袋に入れてもらった。あとは、治の元に帰るだけだ。きっと合流するのは携帯キャリアの場所だろう。戻るのも簡単だ、この距離で迷うような馬鹿ではない。

    _____!!!!!


    大きなピアノの音が響いた。ランダムでとんでもなくでたらめに選ばれた5音以上の和音を倫太郎は聞き分けてしまい、肩をすくめた。「こら!アカンで!」という母親の声が聞こえる。ああ子供のいたずらか、と心で言い聞かせて安心させる。それでも鼓動はBPM=100は越えているだろう。思わず見てしまった視界の先にはアップライトピアノ型の黒い電子ピアノが一台。男児の手を母親が強引に取って引き摺るようにしてピアノから遠ざかっているのが見えた。倫太郎はその姿を自分と母親を重ねてしまった。年頃も性別も同じであったが、向かっているベクトルは真逆だ。あの親子はピアノから遠ざかっていき、倫太郎はピアノに向かって歩いていく。
    倫太郎にとってピアノを弾くことは、楽しいことだったはずだ。誰にも強制されてはならない、自主性と表現を受け入れて楽しむ柔軟で柔和な行為だったはずだ。
    強制で遠ざけられたあの青年も、強制的にピアノを弾かされた倫太郎少年も。誰がどこで、間違ってしまったのか。
    ぽつんと残されてしまったピアノは、電気屋の能天気なBGMに馴染めないように取り残されてしまっていた。その孤独感に倫太郎は共鳴するように、近づいた。



    ======




    一番初めに押したキーは白鍵、Aだった。ポーン、と投げるように均一に伸びた音に人工物から産まれた音だと実感した。グランドピアノは、主な材質が木で出来ているものがほとんどだ。白いグランドピアノでも同じ。透明なグランドピアノはまた別だが。木は、程よく音を飲み込んで音にまろみと自然へ還る余韻を生み出す。電子的に作られた音は、それはそれで面白い。人間が小さな脳みそと自分の音感と音楽人生をかけて作り出した「ピアノの音」がそれだ。いくつもの人間の知力と傲慢とエゴが混ざった音だ。これで演奏するのも悪くはない。きっと色のあるモノが作れると、倫太郎は思っている。
    「倫太郎」
    先程より肩が上がった気がした。
    「ええの買えたんか?」
    「ッ、……はい」
    そう言って紙袋を少しだけ持ち上げて見せるとのぞき込まれた。黒髪が少しだけ顔に近づく。それだけで声が聞き取り易くなり安心する。
    「かっこええやん」
    この、【ええ】の部分が、Aなのだ。伸びる音がAであるから倫太郎は落ち着くのだ。だから倫太郎の返事が「ん」の一言になってしまったのだ。
    「治さんは?」
    「俺のはなんや、スマホの中の掃除したらええなるらしいから、ちょっとの間預けとる。今日中に戻ってくるんやと」
    「良かったですね」
    「……なぁ、弾いてや」
    子供のような声が聞こえる。しかし倫太郎は毅然として応えた。
    「駄目です。買う気もないのに弾くのはルール違反です」
    それは確かだ。買う気もないのに椅子に座るのは、ただの出しゃばりである。倫太郎はお上りではない。ここはこの姿勢を崩すつもりはない。
    「じゃあ買うんならええんか?」
    「要りません」
    「俺がいる」
    「なんでですか。俺は弾きません」
    「俺が弾く」
    その言葉に、倫太郎は目を丸くした。そして少しづつ笑いがこみ上げて来て、必然的に笑い始めた。人前であるから爆笑はできないが、本当は声が出そうな程に笑いそうだった。その代わりさっき大きく飛び上がった肩が震えている。
    「ピアノ、習うんですか……」
    「好奇心や」
    「良いと思います」
    音楽は自由で強制されてはならない、と思っている倫太郎らしい言葉であった。しかしどうにも小馬鹿にしたような雰囲気が残るのは、間違いなく笑いを堪えているからだろう。
    「まあ買えんことはないし、店に置いたらまた雰囲気出るやろし、上に置いてもええな。……で、これってピアノなん?」
    治は今度はGの音を選んで白鍵を押した。その音は間違いなくGの音で、調律は狂っていないことを示していた。
    「ピアノですよ、電子ピアノです。木が使われないし何より電子なので音の広がりとかをチューナーでいじることができる画期的なピアノです。その分コストダウンしてるからこんなに安いんです」
    「ふーん」
    少し知識が先行してしまったが嘘は言っていない。少しオタクっぽくなってしまったが、出てしまった言葉は戻らないので、これからは言葉少な目にしていたらいいのだ。倫太郎は口を閉じて治のことを見た。
    「試弾、しとこや」
    指を指した先にある「試弾の際はこちらのヘッドフォンを使用してください」の文字。まんまと、店舗側の策にハマってしまった倫太郎であった。



    ―――――――――――



    「じゃあ、いくよ」
    倫太郎の言葉を聞いた治は(緊張しとんか)と思った。いつの間にか外れた敬語に気が付いたのは、この空間にいる治だけである。そんな事を思いながら、治はヘッドフォンを付けた。もう一つあったヘッドフォンは倫太郎の耳に付けられている。治のための客席と、倫太郎のための舞台が整えられた。
    初めに弾いたのは、Cであった。鍵盤の沈み込みを確認する。そこからアルペジオ。初めまして、はじめまして、と丁寧に挨拶をするように鍵盤を押し込む。指に馴染む感覚はあまりないが、だとしてもやはり人間が作ったものなだけあって、まるでピアノのようだった。

    1つ、息をついた。
    緊張していた。
    倫太郎は初めてだった。

    誰かのために、ピアノを弾くのは、人生で初めてであった。
    だから猶更、こんなチープな舞台の方が、良い気がした。




    ―――




    治は、特別綺麗な何かを思いつくことがなかった。
    ただただ美しいと思った。途中で止まってしまった音も、涙に濡れて美しいと思った。
    美しいなんて言葉、高校生の時の古文現代語訳以来使ったことが無い。でも不思議と気恥ずかしい思いはなかった。
    なぜならこの言葉しか当てはまらなかったからだ。
    題名は知らない。でも、記憶の片隅が「どこかで聞いた」と言っている。
    そんな薄い記憶のベールを被っている心地のいい曲はその日以来、治のためだけの曲となった。
    第一番から以降を、その日は聞けなかった。




    =======




    選んだ曲を、倫太郎は今日も弾く。閉店後の店の片隅に、異物のように置かれたピアノに座って、治の水洗いを自然の音に、今日も弾く。
    楽譜は要らない。あれから毎日ソルフェージュのように弾いている。
    絶対音感は、少しずつだが取り戻しつつある。毎日が音に溢れていることから心に平穏が戻った証拠だ。倫太郎は、間違いなく安堵していて嬉しい思いだった。
    性に奔放で自由で美しいモノが好きだった作曲家に思いを馳せるようなことはない。それでも倫太郎の求めた自由な音楽は、この狭くて少し古い店舗の中にあった。
    好き勝手に弾いてもいい。弾かなくてもいい。
    座りたいから、指が待っているから、ちょっと安っぽい電子ピアノの電源を入れる。

    不意に止んだ水音に、指が止まった。振り返ると、そこには倫太郎の手枷を解いた人物が居た。

    「今日も綺麗やな」

    その言葉に倫太郎は笑った。
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