繋いだ心は離さないわ「旅行に行きたいわ」
彼女の思いつきはいつだって思いつきだが、今日の彼女はさらにぶっ飛んでいた。
大学の課題もそつなくこなし、ファッション誌を読んでいたはずのメルトが突然、雑誌を閉じてそう言った。
「旅行? どこ行く?」
実を言うと、彼女がこの部屋に来てから一度として遠出をしたことはなかった。
「そうするとどこに行く? 紅葉が見頃なのは北海道とか東北とかだけだし……」
「紅葉もいいとは思うけど、そうね……」
お茶の時間だったので、オレがキッチンからいつもセットを持ってきてソファに座ると、彼女もいつもの席に座った。
──具体的には、オレの膝の上に。
あれから、彼女は積極的に自分の膝の上にのり、あれこれと要求するようになった。
もちろんそれを嫌がっていないどころか、オレもその体勢の方がむしろ楽しく感じてきた。
前はコントみたいなやりとりをすることもあったが、今では文字通り彼女の腕となれるほどに感覚を覚えてきた。
「温泉とかどうかしら。最近寒くなってきたし、ちょうどいい気もするわ」
「いいと思ういよ。どこか行きたい温泉とかあるの?」
自分からは見えていないが、彼女がスマホを操作しつつ、オレの指先にあったクッキーを食べ、そしてそのままスマホをいじり続けた。
「そうね……ここなんてどうかしら?」
そう見せられた場所は、よく見覚えのあるところだった。
「──……マジ?」
「あら、帰るのはおイヤ?」
「そういうことじゃないけど……わざわざオレの実家近くの温泉宿じゃなくてもよくない?」
そう、彼女が提示してきた場所はオレの実家からさして遠くない場所。とはいえ田舎の遠くないは都会のそれと比べるとスケールは違うが、比較的近いと言うことには変わりなかった。
「別にいいじゃない。それにアナタ一回も帰ってないでしょう? 確かに大きな火種になりそうだけど、だからと言って家族を蔑ろにするのはダメよ」
「それは……」
言葉が出なかった。今の言葉にそれだけ彼女の想いがのせられているかをよく知っているからだ。
彼女には家族がいない。強いて言えばオレやあの人が家族変わりなのかもしれないが、本物ではない。
そういう点では自分のためとは言え蔑ろにしているこの状況は、我慢できないのだろう。
「──じゃあ、ここの温泉宿にしようか」
「決まりね。週末でいいかしら?」
「うん。元々予定合わせてたしね」
スケージュールを合わせて何かをするわけというわけではない。いつものように起きていつものように過ごし、いつものように寝るだけの『何もない一日』。
ただの一日なのだが、いつも以上に密着してるだけの一日を一ヶ月に一回くらいは作っていた。
「じゃ、宿の予約よろしくね」
「うん」
「あとアナタの実家にも連絡しておきなさいよ」
「うん。──いやまって予想はしてたけどやっぱり?」
予想自体はしていた。がしかし、二人で実家に行くというのは、つまりは『そういうこと』に他ならない。
いつかはやらなければいけないことではあるのだが……。
「当然よ。こういうものは早めにしておいた方がいいわ。お互いに卒業してから行くのだとしたらもっと後になってしまうでしょうし」
「……わかったよ。けど、変装は本当にお願いね?」
「もちろんよ。でも私的には、バレて大騒ぎになっても構わないわよ?」
「心臓に悪いからやめて……」
怖いことを言っていながらも、彼女のリスクマネジメントは完璧だ。一線は超えないだろう。
内心少しは怖がりつつも、オレは宿の予約をして、今度帰ると実家に連絡をしたのだった。
*
「あら、待たせてしまったかしら」
「待ってないよ。オレも今出たところだし」
温泉宿に着いた頃にはすでに日が傾き、東京よりも寒い地域なので、早々と温泉に向かった。
家族風呂も混浴もなかったために別々の温泉に入ったが、お互いにほぼ貸切状態だったらしい。
「夕ご飯まで時間あるかしら」
お団子状に髪をまとめ、ほのかにゆげすらも見える気もするが、よく見ると彼女のアクアマリンの髪はまだ艶やかだった。
あの床に付きそうなくらい長い髪をすぐに乾かすというのがそもそも無理な話だ。
さっき部屋を見た時にドライヤーはあったから、戻ったら乾かしてあげよう。
「30分くらいはあるかな。ご飯は部屋だし、戻る?」
「外のお店を見るのもいいでしょうけど……まぁ湯冷めしてしまうでしょうし、戻りましょうか」
「オッケー。じゃあ、はい」
そう言いながらオレは手を差し出した。
その手を彼女は無言で掴み、そして指を絡めた。
絡めた時に僅かに感じた無機物の感触。
つまりはアレなのだが、こうしてつけて出歩くのは、なんだか新鮮なので、湯上がりで上昇気味な心臓の音が、さらに速く強く聞こえた。
「のぼせ気味かしら? 手を繋いだだけでもわかるわよ?」
「少しだけ、かな。メルトと指輪をはめてこうしているのが新鮮だからさらにね」
「純粋ねぇ……そろそろ慣れて欲しいものだし、何より明日もその調子なら格好がつかないわよ」
「善処するけど……それはメルトにも言えることじゃない?」
少なくともオレはいい。面識があるどころの話じゃないし、話を進めることもできる。
だがメルトにとっては父さん以外は面識がない。
誰かに怖気付くような彼女ではないということはよく知っているが、どういう反応をお互いに見せるのか心配でならなかった。
「問題ないわ。それに……」
指だけが絡められていたのが、抱き寄せられ、自分の右腕とメルトの左腕が絡まり、肩がピッタリと密着した。
「自分の恋よ。それくらい自分で守れるわ」
「──そっか。心配するだけ無駄だったね」
「当然よ。挨拶に行くくらいで萎縮するなら、とっくに丸くなってるわ」
「もう少し丸くなってくれてるとオレとしては嬉しいんだけどねぇ……」
ぼやきながらも、彼女に歩調を合わせ、二人で部屋に戻った。
*
「疲れた?」
「大丈夫よ。それにしても、アナタがなんでそんな感じになったか、わかった気がするわ」
「それ褒めてる?」
「もちろんよ」
──結局、メルトは言葉通り完璧に挨拶をこなした。
父さんはともかく母さんは最初びっくりしていたようだったが、一瞬で打ち解け、あっさりと結婚を許してくれたのだった。
丁寧な挨拶に始まり、最初のことこそぼかしたものの、あの事件のことに関しては全て話した。
母さんには初めて聞かせる話だったので、父さんともどもめちゃくちゃ怒られたが、メルトに怒りの矛先が向くことはなく、むしろあの人に電話を繋げさせてお礼までいう始末だった。
まぁ……数年前に自分の子供が捕まったなんて事実知ったらそれもそうなるか……。
最終的に二人は快諾してくれて、残りのしがらみは時間が解決してくれるのみとなった。
父さんに日本酒の瓶を取り出して『泊まっていきな』なんて言われたがお互いに明日は予定があったし、今度は泊まる気で帰ると説得して、今に至るというわけだ。
「少し寝ててもいいよ。降りる駅まで時間あるし」
「大丈夫よ。それよりも、左手ちょうだい?」
疑問形で話しているが、既にオレの左手は彼女の服の袖の中だ。ガッチリとホールドされて、降りる駅に着くまでは離してくれないだろう。
「これ以上何渡すの? 存在?」
「少なくとも薬指は未来永劫私のものね。それはともかく体温よ体温。もっとちょうだい」
オレの体温、つまりはもっと強く握ってほしいということだ。
今の段階よりももっと力をこめ、指輪が彼女の細い手に食い込むほどに握りしめる。
それに応えるようにメルトの頬は紅く染まった。
「リツカ」
「うん」
「愛した相手が、アナタで本当によかったわ」
……こんな公然の場で歯の浮くようなセリフを……電車の中に一人もいないからいいものを。
「──再来年あたりに同じ言葉が聞けると嬉しいな」
再来年。つまりは彼女が大学を卒業する年。
そこからの予定の調整はあるだろうが、メルトが卒業してからそう時間も立たずに手続きも挙式もしてしまうのだろう。
「もちろん。なんならことあるごとに言ってもいいのよ?」
「それはナシで。なんかありがたみがなくなっちゃうから」
「そう? ならいいわ」
オレの肩に頭を預け、ふわりとそう言った。
「この手、離さないでね」
「メルトが離しても、絶対に掴みにいくよ」