深夜2時、パンとココア さく、さく、さく。深夜の台所に、食パンの悲鳴が響く。硬めに焼き上げられた小さな一斤のそれを、端から二センチ程の厚さに切っていく。ぱたり、と倒れた“みみ”の部分は申し訳ないけれどそのままにして、改めてもう一度三センチ程のあたりに刃を立てる。さく、さく、さく、さく。四度斬りつけた程度で身を分たれてしまうくらい小さな食パンを、一切れだけ。
皆が寝静まった夜更けに小腹がすいて、ひっそり抜け出し何か無いかと台所に顔を覗かせたら目があった手のひらほどの食パン。おそらく明日の朝ごはんにニキが買ってきたのだろう。一切れぐらいなら許してもらえるだろうと手を伸ばした時、トラックの鳴き声が遠く響いた。咎められているように聞こえるのは気のせいだろう。
さて、このパンをどうしてくれよう、と冷蔵庫の方を振り返ったら、入り口の暗闇の中に人影が見えて背筋が凍った。目を凝らして見れば、はらり、と崩れる勿忘草色。
「なんっ……や、HiMERUはんか。驚かせんといてや、おるなら一言声でも掛けぇ」
「ふふ……すみません。桜河が夜中にひとり、どんな悪行を働いているのか気になったものですから」
声をかければようやくぬぅ、と闇から現れる細長い身体。少しだけ身を屈めながらこちらに歩み寄ってきたそれは、こんな時間にパンですか、と誰しもが予測できた言葉を紡いだ。
「うーん……どうしてもお腹が空いてもうて。よかったらHiMERUはんも“共犯者”になってくれへん?」
答えは予測できていた。断った後、少し咎めるような事を言うのだ。アイドルたるもの体調管理がどうの、体型維持がこうの言って。
「そうですね、ではその“みみ”の方を頂きましょうか」
「さよけ……って、ん?」
だから用意しておいた返事をするつもりだったのだ。それなのに、その人は予想外の事をなんの迷いもなく言うものだから。
「た、食べるん? こんな夜更けに、HiMERUはんが? パンを?」
「なんですか、その幽霊でも見たような顔は……」
ぱちくりと瞬きを繰り返す。そんな顔をしているつもりは無かったが、曰くそのような顔をしているらしい。
「見ていた限りどうやら、せっかく切ったのに食べないつもりなのでしょう?」
そんなの、可哀想じゃないですか、と。倒れたパンのみみを手に取って笑った。
そんなこと言っても、明日の朝になればそれは速攻でニキの腹の中へ収まるだろうし、一体何が可哀想なのかが全くわからない。くすくすと楽しそうに笑う姿からは、どうも“秘密の共有”を楽しんでいるそぶりすら伺える。普段の彼の振る舞いからはあまり想像できない姿に、不思議半分、ときめき半分と言ったところだった。
「それではHiMERUは珈琲を……いえ、ココアを入れましょうか。睡眠に良いとされていますから」
「おん、ありがとさん……あ、HiMERUはんはパンに何つけるん?」
パンの耳を元の位置に戻した彼は、自分の横をするりと通り抜けてカップを取りに向かった。コト、コトン、と二つ用意される音を背中に、冷蔵庫を開ける。パンに乗せられそうな物はと中を見回せば、ニキの買ってきた生クリームとフルーツ、ニキの作ったローストビーフ、燐音の取ってきたピーナツバター、ニキの買ってきたレタスとウィンナー、HiMERUの買ってきたジャム、ニキお手製のマーマレード、この間の仕事でお裾分けして貰った蜂蜜。殆どがニキのもので埋め尽くされている冷蔵庫にも慣れてしまった。それにしても選択肢があり過ぎてもそれはそれで困るのだな、と首を捻ったところで、チッチッチ、とコンロに火をつける音が聞こえて冷蔵庫を開けたまま振り返る。
「HiMERUはそのまま……いや、蜂蜜でもかけましょうか。ふふ、甘いものに甘いものになってしまいますが」
たかだか深夜のつまみ食いなのに、そんな本格的にココアを作るだろうか。いや、今現在彼が作っているのだから作るのだろうが。そもそもココアの本格的がどこからとか知ったことでは無いが。ミルクパンにヘラを擦り付ける手つきを訝しげに見つめていたら、冷蔵庫がピーピーと泣いた。
「ほおん……ほならわしも蜂蜜にしよか」
急いで蜂蜜を手に取ってドアを閉めて、冷蔵庫を泣き止ませる。すぐ隣のオーブントースターに小さな食パンを二切れ並べて、タイマーを回した。特にする事も無いので、じわと真っ赤に熱を持つ庫内をじっと見つめる。ガラス越しの熱で目が乾くのを感じた。
とぽぽ、と液体が注がれる音がして、首を回せばココアがふたつ出来たところだった。カップを両手に持った人影が、後ろ失礼しますよ、と空気を揺らす。そこまで広くは無い台所を、少しも触れずに行き違う。一足先にテーブルについてカップを二つ置く彼を見て、台所でこっそりパンを齧ってさっさと寝ようと思っていた事を今さら思い出した。貴重な体験ができたのだから、別に、良いが。ココアの水面を覗き込んだ彼の髪がまた一束、はらりと落ちた。
チーン、と大きなベルの音がして、現実に引き戻される。慌てて振り返ったがどうやら焦げてはおらず、ほっと胸を撫で下ろした。小さなパンふたつをひとつの大きな皿にそろりと移して、もう片方の手に蜂蜜を持ってテーブルに向かう。ぱ、と顔を上げて嬉しそうに微笑む彼に、お待ち遠さん、なんて言ってみたりして。
「ほれ、蜂蜜」
「……いいえ、桜河にかけて欲しいです。好きなだけ」
椅子に座りながら蜂蜜を手渡そうとしたのに、彼は手をテーブルの下にしまったままそう言って笑った。今晩はずっと挙動が不審である。しかしそこをつついて欲しいわけでも無さそうだったので、気にしないフリをして蜂蜜の蓋を開けた。
自分の方にはくるりと一周、彼の方にはだくだくと溢れるほどにかけてやった。いじわるのつもりだったのかもしれない。せっかく共犯者になってくれたのに、嫌味を言われた訳でも無いのに。顔を上げれば、困ったような笑顔をした彼が居た。少しだけ胸がすく。自分のぶんにがぶりとかじりつけば、蜂蜜の甘さまでもが優しかった。
「ありがとうございます」
片手で持てる大きさの食パンを手に取って、齧る。さっきより硬くなったみみの部分が、サク、と軽い音を立てる。薄い唇と舌が、溢れそうな蜂蜜を溢すまいと啜ったり舐めたり忙しなく動く。そのくせ口の周りや手をべとべとにしたりはしない。大したもんやな、と口をついて出てしまい、また困ったように眉を下げて笑われた。彼の視線を辿れば、手元のパンから蜂蜜が机に垂れていた。
あちゃー、とやけに落ち着いた自分が俯瞰している。残っていたパンを全て口の中に捩じ込んで、皿の上で指を払う。ティッシュで拭き取ろうとしたら、指先に着いてしまった。どんなに拭いてもべたべたするので、仕方なくべろりと舐めてからもう一度拭く。うん、取れた。
お行儀が悪いですよ、と空耳が聞こえて、はっと顔を上げた。いつもならそう言うであろう彼は、いつのまにかパンを食べ終えてなにやら愛おしい生き物でも見るような目でこちらを見ていた。調子が狂う。
「……今日はわしを甘やかす日なんか?」
「そんなものがあるのですか?」
「ぬしはんに聞いとんのやろ」
ふふ、と楽しそうに笑ったその人はカップを両手で持って口に寄せた。ほぅとひとつ息を吐いて、髪と同じ勿忘草色の睫毛が震える。全く、意図が読めない。こちらは誰かさんのように推理が得意な訳では無いのだ。真似をしてココアを胃に落としてみたら、やっぱり包み込むような甘さに全ての思考力を奪われた。嚥下する度に瞼が重くなる気すらしてくる。ココアの甘さと彼の眼差しの甘さが、比例する。
「桜河? 片付けはHiMERUがしますから、もう寝てしまって良いですよ」
ぬしはんがわしを甘やかしたいなら、そうさせたろ。とことん甘えさせて貰うわ。頭の中ではそう言ったけれど、音になったのは「おん」の二文字だけだった。ふらふらと動くほどに胃の中のパンがココアを吸って膨らんで、眠くなる気がする。気をつけてくださいね、と蜂蜜にもココアにも負けないくらい甘ったるい声を背中に受けながら、テーブルを後にした。
***
翌朝、食パンの姿はどこにも無かった。おそらくニキの胃の中だろう。五センチ程欠けていた事は一言も咎められなかったし、話題にも上げられなかった。なんだか昨日の事は全て夢の中の出来事だったかのような、不思議な感覚。
しかし確かにパンも食べたしココアも飲んだよなあ、と台所に来てみたものの、綺麗に片付けられたそれらからは昨夜の気配を感じ取る事はできなかった。
「桜河、おはようございます」
「あ、HiMERUはん……おはようはん」
昨日までこのカップはどんな顔をしていたのだったか。じ、と見つめていたら、きちんと入り口の前から声をかけながらHiMERUが入ってきた。するりと目の前のカップを取って、手際良くドリップバッグコーヒーを淹れる。当たり前のように、昨晩の事など一言も喋らない。真っ白なカップは、もう珈琲の色になってしまった。
「なあ、HiMERUはん、昨日のココアの作り方、教えてくれへん?」
「? なんのことでしょう?」
一瞬キョトンと不思議そうな顔をして、それからふわりと微笑んで。わしにはそれが、本気なのか嘘なのか、判別がつかなかった。