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    しぶにもあげた【90年代、少年み増し、全部ふわふわ捏造、ただの後輩先輩距離感】のよみつ。ちょっと手直しした。こういうのを繰り返して、ここからどうなるのか、というのが好き

      雨が降り出すであろう兆しに、スンッと鼻を鳴らし向かい風を吸い込んだ。雨の匂いというのは、植物の油の匂いだと、昔教えてもらったことがある。それが本当かどうか調べるすべを当時の水戸は持ち得なかったが、小雨の気配を感じる度にふと思い返している。
     バイクを走らせながら、まだ日の高いはずの西の空に目を向けると、どんよりと沈んだ雲が広がっているのが見えた。重い一雨が来そうだ。そんな小さな予感が、今の水戸の心をいっそう憂うつにさせた。

     先ほどまで従事していたバイト先での出来事を思い返す。どうにもうまく立ちいかない日だった。
     水戸がレジでお釣りを手渡していたとき、商品の陳列をしていた新人が酒瓶を割ってしまったのだ。床がアルコールと瓶の破片でひどい有様になっていた。怪我はないか、と尋ねても慌てふためき覚束おぼつかない返答をする後輩──実際には水戸よりも年上だが──。その狼狽具合に叱責を浴びせる気にもならず、水戸は床の清掃を肩代わりして、レジの仕事を託した。用具入れからモップとちりとり、それから使い古された雑巾を手に取り、酒棚の横に黄色いサインスタンドを立てた。無心でフロアを片付けていく。平日の昼過ぎ、昼食用の弁当などを買いにくる団体がはけ、客の少ない時間帯に入っていたことがせめてもの救いだった。
     モップを掛け終わり、ゴミ袋に包んだ瓶の破片とアルコールが染み込んだ雑巾を裏手に持っていこうとするところで、店長に呼び止められた。水戸の顔色を伺うような面持ちで声をかけてきた中年の男に、雲行きのあやしさを感じる。そして、水戸のそういう直感は往々にして当たるのだ。
     開口一番、謝罪を告げてくる男によると、どうやらシフトの管理ミスがあったらしい。午前授業の日に重ねて入れたシフトだったが、夕方以降の予定が丸々消えてしまった。貴重な午後半休。以前から桜木や大楠たちが午後は用事があると言っていたため、バイトに精を出そうと意気込んでいた水戸の出鼻は早々にくじかれた。
     もっとも桜木の用事は、当日になって変更を余儀なくされたようだった。午前中の桜木によると、今日は体育館も使用できない日らしい。「この天才のキチョーな練習時間をうばうとは……」バスケ部に復帰後今までのように、いやそれ以上に練習にいそしむ桜木が、そう苦々しくこぼしていた。そこへやって来た晴子に「それなら市民体育館に行かないか」と誘われると、少年のように目を輝かせ「もちろんです!」と顔をほころばせる。にこにこと陽だまりのように微笑み合う二人を両目に映しながら、水戸も「がんばってこい!」と力強く送り出したのだ。こんなことなら、桜木や晴子に付いていって、練習を眺めていたほうがよっぽど有意義だったろう。
     ツイてない日、というやつかもしれない。重苦しい暗雲を眺めながら、学ランから着替えておいたのが唯一の救いだな、と水戸は心を落ち着けた。
     高架橋をくぐり抜けて、鼠色の空が待つ方角へエンジンをふかす。しかし、いつもは直進するはずの公道を、ふと思い立って右にハンドルを切った。寄り道をするつもりはなかったが、ただなんとなく、素直に直進する気にもならなかった。

     しばらくやみくもに愛車を走らせると、この数ヶ月ですっかり耳に馴染んだ音が聞こえてきた。ダンッダンッとボールを地面につく姿が、脳裏に容易く浮かび上がる。体育館の床とは違い少し乾いた音だが、実に軽やかなそれに、水戸はついつい引き寄せられてしまった。桜木がバスケットに関わる前であれば、決して抱かなかったであろう興味だ。その変化が、自分でも少しだけむずがゆい。
     左手側の歩道の先にこじんまりとしたバスケットコートを囲んでいるフェンスが見えた。こんなところにコートなんてあったのか、とひとりごつ。周りを見渡しても、普段はわざわざ通らない道だったので知った店はなかった。一帯が住宅街ではないため、なんとか取り壊されずに残っている、といったところだろう。使えそうなら桜木にも教えてやろうか、そう思いながらバイクのエンジンブレーキをかけた。車速を落としガードレールの傍に付け、コートに目をやった。
     ダンッと一度ボールをついて、ふわりと男の身体が浮く。流れるような動作で、指先から放たれた球体は大きく弧を描いた。フェンスでへだたれたはずの視界に、鮮明にその像が映し出される。
     ──スパッ。気持ちのよい音に自然と胸が高鳴る。豪快さも派手さもない、その静かな音が今の水戸には心地良かった。バイクのエンジンを切り、誘われるかのようにフェンスの入口に歩を進めた。フェンス横に設置されたベンチの上に、男のものらしきスポーツバッグが置かれている。ひらいたファスナーの隙間から、折り畳まれた学生服がのぞいていた。
     コート内の男は、バウンドして転々と跳ねるボールを強く叩き息を吹き入れた。仮想の対戦相手を躱すかのように、再びスリーポイントラインまで下りてきた男が、またも軽やかな仕草でボールを放った。水戸は、その幾人の目を引くシュートが繰り返されるのを、ぼんやりと、しかし目に焼き付けるように、眺める。観客が自分ひとりだなんて贅沢。彼のことを慕う強面の番長が知れば、もっと声を出して応援しろ!と叱られるかもしれない。

     何本目だろうか、変わらず美しい放物線をたどるはずだったボールは、突然強く吹いた風によって軌道を外された。ガンッとリングの端にぶつかり、大きな音を立てる。水戸はその時ようやく、自身の頬や手の甲に水滴がぶつかっていることに気が付いた。知らぬうちに、雨雲が頭上までやって来ていた。知覚すると、ぱらぱらと降り始めた雨粒が視界に入ってくる。先刻とは一転して、冷えた雨の匂いが鼻をつく。通り雨ならいいが空一面を覆う雲を見るに、この調子では予想通り激しい雨量に見舞われそうだ。
     にもかかわらず、コートの中の男からは切り上げようという気配を感じなかった。水戸の視線の先には、再びボールを構える男の姿があった。まさか、このまま続けるつもりだろうか。スポーツマンは身体が資本だろ、と誰に言うでもなく眉をひそめた。
    「ミッチー!」だから思わず、声を上げてしまったのだ。
     ボールが手から放たれ、ふわりと放物線を描くのと同様に、ゆっくりと三井がこちらに振り返った。
    「は? み、水戸か!?」
     目を丸々と見開き、水戸をそのにとらえた。ゴールに吸い込まれたオレンジ色の円球が、地面に跳ね返って手前に転がってくる。三井はそれを大事そうに抱えると、早足で水戸のもとに駆け寄ってきた。 
    「おめー何でこんなとこにいんだよ!」
    「俺? 俺はバイトの帰り道」
     本来ならば通らない道ではあるが、わざわざ説明する必要はないだろうと思い、水戸は笑いながら問い返す。
    「ミッチーこそ。ここよく来るの? ……でも、湘北から離れてるし、武石中の学区だって結構遠くない?」
     三井は二度瞬きを繰り返し、首筋を掻いた。
    「よく……いや、たまーに来てんだよ、穴場だしな! それに今日は午後体育館使えねーから……ってそれは知ってっか」
    「……頑張ってんね」
    「まあな。……やれることはやって、取り返さねーと」
     水戸は、正面に立つ男が両手でバスケットボールを抱えなおす動作を見つめながら、うん、とだけ相槌をうった。
     話しかけたのは余計なお世話かもしれない。が、水戸が走り去ったあとも雨の中練習を続ける、その姿を想像すると不覚にも胸のあたりがざわめいた。自称あきらめのわるい・他称炎の──それから水戸の大切な友人をなんだかんだと可愛がる──男のことを、思いのほか気に入ってしまっている。あんなに、最悪と言っていいほどの出会いだったというのに。蓋を開けてみれば、男は水戸がどう頑張っても、嫌いになれない類いの人間だった。

    「まーでも!」努めて軽い口調でこぼす。「頑張んのはヒジョーに結構だけど! バスケットマンが身体冷やしちゃだめだろ?」
    「……お前! バスケットマンじゃなくても身体冷やすのはあんま良くねぇぞ」
     学内で三井と話しているときにも、稀にこうして真顔のまま正論が返ってくる。そういうとき水戸は大抵「そうだね」と笑い返すことしかできないのだ。
     そんな応酬を重ねる横で、肩を濡らす雨の量が刻々と増えてきている。
    「分かってるなら、早く行こう」
    「行こう、ってどこに。雨宿りか? それなら、どっかのコンビニにでも入るか」
    「コンビニだと本降りになったとき困るよ。ミッチーの家ここから近い?」
    「電車で二駅ちょいだけどよ。……あ、なんだその顔! 別に、送っていけなんて言うつもりねぇぞ!」
     水戸の思案顔をどう解釈したのか、明後日の方向に返答が来た。送ってくれと懇願されれば、水戸は送ってやるだろう。三井に限った話ではなく、それが知り合いであればおそらくそうするだろう、という水戸の自己分析である。
    「じゃあさ……俺ん家、近いから」
     来る?──なんて。思いつきで口から飛び出た言葉が、なかなかどうして良いアイディアに思えた。

     数回押し問答を繰り返し、柄にもなく意地になった水戸に、三井が折れるかたちで決着が着いた。
     水戸はバイクにまたがり挿したままの鍵を回すと、スポーツバッグを背負ってフルヘルメットを手にする三井を横目にとらえる。バスケットボールはそれと入れ替わりに、気持ちのいいほどすっぽりとシート下に収まった。
     ヘルメットを被り終えた三井が、よいしょ、と後部座席に横を向いて座る。
    「って何で、横座り? ちゃんと跨がって腰掴まないと危ねーって」
     首を振り向かせて忠告する水戸に、ガラスを通したくぐもった声が返ってくる。
    「ハズくねえ?」
    「何もハズくねーから。ほら!」
     戸惑いの基準がよくわからない三井の脚を後ろ手ではたき、座り直すように促した。ぶつぶつとぼやきながら三井がバイクに足をかける。車体がほんの少し揺れ、水戸は支えている足裏と掌に再度力を込めた。
     腰にがしりと腕が回され、背に温かい重みが加わる。一瞬、ざらりとしたもので心臓をなでつけられたような感覚に陥る。不可解な感覚に、水戸は首をかしげた。同じようにバイクの後部座席に乗せたことのある、桜木や野間たちには感じたことのないものだった。スポーツマンを乗せることへの緊張だろうか。ましてや相手は友人ほど親しくはない、それでいてぞんざいに扱いたいわけでもない存在だ。
     万が一のないよう細心の注意を払わねばならない。エンジンをかけ、腰に回る三井の腕の位置を数センチ上げさせた。アクセルを開け、弛く握ったクラッチレバーから、普段よりもゆっくりと指の力を抜く。走り出すと同時に、雨粒が向かい風を受けて顔に降りかかってきた。

     数分経ったころ、雨音とエンジン音に混じって三井の張った声が背後から届いた。
    「なぁー、今更だけど急に行っていいのか? オレ、手ぶらだしよう」
    「ああ、誰もいないと思うから気にしなくていーよ」
    「んー……そうか」
     背中の気配がモゾモゾと動く。
    「なぁー、近いって言ってたのに結構遠くねー?」
    「安全運転してるからね」
    「あー……そう」
     そんなやり取りを繰り返す間にも、雨足は徐々に強くなる。水戸は、ほんの僅かにスピード上げた。
     運のいいことに一度も信号に捕まることなく、最短の経路を辿ることができた。無言のまま、平坦だが少々入り組んだ通学路を走らせると、年期の入った小さな市営住宅が見えてくる。
     申し訳程度の軒下にバイクごと身を滑り込ませ、しっかりと停車させてから三井を降ろした。と同時に雨音が一段階大きくなる。水戸は、ヘルメットを外し息を吐く三井と顔を見合わせ、鏡のように目を見開いた。
    「セーフ」
    「ギリギリすぎだろ……」
     水戸の額から汗とも雨水ともつかない水滴がすべり落ちた。セットした髪も先ほどまでの面影はないのだろう、視界の端に雨水をまとって垂れ下がっている。
     水気を含んだ長袖とジーンズに、体温が奪われているのが自分でも分かった。
    「って、お前すっかり濡れねずみじゃねーか」眉を歪めた三井がちょっと待てよと言いながら、背に抱えていたスポーツバッグをのぞき始めた。
    「使ってねぇタオルがもう一枚あるから、それ……」
     タオルをあさる三井の腕を掴んだ。
    「わざわざ三井さんのもん汚さなくても、うち入ればあるから」
    「それもそうか」ハッと笑みをこぼす三井に、水戸も微笑を浮かべた。
     見上げた先にある三井の髪はヘルメットのおかげもあって、いつも通りさわさわと風になびいている。けれども首から下は、水戸と同様にしっかりと雨水に包まれていた。ともすれば、バスケをして汗をかいていた三井のほうがさらに身体が冷えているかもしれない。バイクに乗せる前に、ジャンパーを羽織らせておいて良かった。三井は小さい小さいと文句をこぼしたが、多少無理やりにでも着せたそれが、少しでもこのバスケットマンを守ってくれていたらと願う。目の前の袖からのぞく、水戸よりも逞しく造られた手指に、手をのばしかけて、やめた。
    「にしても、べたべたする! 天気予報の大嘘つきヤロウめ」
     三井のさっぱりとした短髪の奥で、ザァッザァッと音を立てる曇天が、なんとも不釣り合いだった。
    「……ごめん、こんなに濡らすつもりじゃなかったんだけど」
     思わず俯く水戸の前髪が、含んだ水の重みに耐えられずへたり込んだ。
    「は? ……なんでおめーが謝ってんだよ」眉を寄せながら三井がつぶやく。「お前が雨降らせてんのか? 違うだろ。謝る必要のないことでいちいち謝んなよ」
     その言葉に首を上持ちげると、むすっとした表情の三井がこちらを睨んでいた。そうかもしれない。意味もなく憂うつな気持ちになる、そんな日だから、つい余計なことを考えてしまう。
    「……ミッチー、今日まともだね」
     話しながら階段を登り始める水戸のあとを三井も慌てて追った。
    「あ!? オレはいつもまともなんだから、水戸が変なだけだろ!」
    「そうかも」
     肯定すると背後の邪気が消える。フンと鼻を鳴らした三井が、咳払いをしてそれから小さくうなった。
    「そんなことよりお前びしょびしょなんだから、着いたらちゃんとシャワーしろよ」
    「え? いやいや、俺よりもアンタでしょ。風邪ひいたら、バスケできねーよ」
     階段を登ってすぐ、三階の角部屋が水戸の住処だ。玄関扉横の牛乳受けに手を差し込み、鍵を取り出す。ひんやりと冷たい金属音が、雨音に紛れてかすかに響いた。
    「どうぞ」
     扉を開いて、三井を中へ促す。
    「お、おお。サンキュ」
     左手にあるリビングのガラス戸から、ほんの僅かな光が漏れている。ぼんやりと浮かび上がる廊下が、二人を迎え入れた。短い廊下の先には、カーテンが閉められた薄暗い和室が見える。
     お邪魔します、の声に、お邪魔されますとややおどけて返す。
     扉を閉めると、狭い玄関にぎゅうっと男二人が、押し込まれた。
    「うおっ。ミッチー立ち止まってないで、上がっていいよ」
    「服濡れてんだけど」
    「そんなんいいから。はいはい、かばんも降ろして」
     三井の肩からスポーツバッグを抜き取りフローリングに降ろすと、その背を柔く押した。触れたジャンパーが冷たい。
    「てめっ」
     前のめりになった三井が、ようやく靴を脱いで足を踏み入れる。
    「さっさと洗っちゃうから、服も脱いで。あ、でも着替えがないか。花道が置いてってる服借りる?」
    「んや、学ランがスポバの中にある」
    「ああ、そうだった。じゃあ、脱いで脱いで。そんで、身体温めてきて!」
     これ以上冷たい衣類をまとっていてほしくなくて、水戸は三井の服に手をかけた。
    「うぉい! 服くらい自分で脱げるわ、バカ! だいたい、お前が先に行ってこいよ!」
     このままでは、先に入れ、いやお前が入れ、と堂々巡りになりそうだ。どうしたもんか、と水戸が息を吐くと、眉間にシワを寄せた三井が「じゃあもう、一緒に入ればよくねーか?」と、やれやれといった態度で提案してきた。
    「え?」
    「お前が折れないんだから、そうするしかないだろ? まぁ、オレも入らせてもらいたいし」
    「いやだからお先にどうぞって言ってんのに」
    「それじゃオレの気が済まねえの! びしょびしょのくせに!」三井は眉を吊り上げた。「なんだよ。男同士なんだから、気にする必要ねぇだろ」
    「いや……うーん」
     例えば、親友たちと銭湯に入るのは平気、しかし狭い風呂場に二人で入るは、それなりに巫山戯ていないと多分無理、水戸はそう思う。三井にはそういう感覚はないのかもしれないけれど。
    「ミッチー、知らないおじさんとでもお風呂入れる人?」
    「んだそれ! 嫌に決まってんだろ! おい、それオレが知らないおっさんって言いたいのか!? てめーまじでぶっ飛ば……へっ、ぶしッ!」
     三井が鼻をすすった。嫌に決まってるらしい。
    「……うちの浴室狭いけどいい?」
    「いい。いい。もうなんでもいいから、シャワー浴びようぜ」
     観念した水戸が、「こっち」と三井を脱衣所まで誘導する。洗面台の電灯のスイッチを癖でカチカチと二度押しして、明かりをつける。と、その瞬間、背後からガンッと音がした。振り向くと、しゃがみこみ頭部に手を当てる三井の姿がある。
    「痛ってェ!!」
    「だ、大丈夫!?」
    「大丈夫じゃねー……」
     意気消沈したかのような、体躯に似合わないか細い声が返ってきた。脱衣所の鴨居に思いの外強く頭をぶつけた三井は涙目になりながら、水戸を見上げた。
     そういえば、と桜木も身長が伸びだした頃はよくここでヘッドバットを決めて、今の三井と同じように涙を溜めていたことを思い出した。数回繰り返したあとは、慣れたもんだとばかりにひょいとくぐり抜けていたので、頭をぶつける高さだということを失念していた。
     水戸は、痛がりながら頭をさすっている三井の手の甲に自分の掌を重ねた。掌の下の身体がピクリと震える。雨に濡れて、冷えた三井の手は、それでも水戸より温かかった。水戸が数回撫でつけると、目を白黒させていた三井がやっと言葉を発した。
    「何してんだ?」
     不思議でならないといった声色だった。
    「撫でてる」
    「それは、わかってっけど」
     水戸はしゃがみこんで三井と視線を合わせた。
    「痛いの痛いの飛んでいけ〜ってやつだよ」
     そう言うと、三井はぽかんと呆気にとられた顔をしたのち、カッと口を開けて白い歯を見せた。
    「何」水戸がぶっきらぼうに問う。
    「ははっ。久々にその言葉聞いたし、水戸の口から出るのが意外で」
     わははと口角を上げる現金な面を眺めながら、水戸はハァとため息を吐いた。
    「まあ、そんだけ笑えんなら、痛いのどっか行っただろ。もう、とっとと入るから服脱げ!」
    「怒んなって! かわいいとこあんだな、と思っただけだろ」
     三井がシャツを脱ぎながら肘でつついてくる。そのシャツを奪い取って、自分のシャツとまとめて洗濯機に放り込んだ。先に粉洗剤をふりかけて、電源をつける。最新式には遠く及ばないが、ボタン一つで済む、便利なものだ。
     三井に脱いだ服を入れるよう伝えて、水戸はジーンズとパンツに手をかけると、はたと動きを止めた。すぐ隣を一瞥すると、黙々と裸に近づいていく三井が目の端に映った。相手が何も気にしていないのだから、自分も気にする必要はないのだろう。──だが、なぜだか妙に落ち着かない。
     水戸は先にシャワーハンドルを捻るため、風呂場に足を踏み入れた。すりガラスでできた小さな換気窓から、灰色の光がぼんやりと射し込んでいる。水滴の残るバスルームの床が白く光った。
     シャワーノズルを浴槽に向けてから、赤いハンドルを二三回、それから水色を軽く回して、ザァッと降り注いでいる水に手をかざす。こうしておかないと、湯が適温になるまで冷たい思いをしなくてはならないからだ。決して、三井の前で裸になるのが気恥ずかしいからではない。
    「みとー」
    背後からこちらを伺う声が落ちてきた。振り向くと、身を縮こませ渋い顔をした三井が、折れ戸の隙間からのぞき込んでいる。
    「入っていいか」
    「どㅡぞどーぞ」
     三井と入れ替わる形で浴室を出た。中では、湯加減を確かめた三井の「アチッ」という叫びが反響していた。水戸は再び息を吐くと、パンツのゴムに手をかけて思い切りよくスボンごと脱ぎ捨てた。ついでに床に置きっぱなしになっていた昨日の下着も引っ掴んで、洗濯機に投げ込む。スタートボタンを押した直後に、あれ?ミッチーって下着はあるんだっけ?と疑問が沸いたが、ゴウンと起動音を上げた機械を前に水戸は考えるのをやめた。
     浴室の折れ戸を開けると、湯気がもくもくと立ち込めていた。シャワーノズルから勢いよく吹き出す温水が、眼前の引き締まった身体に叩きつけられている。ザザザッ。水滴が跳ねて、水戸の顔にかかった。
     冷静になってはいけない、と己を鼓舞し、浴室に身体をすべり込ませた。案の定身体が触れ合いそうになるが、その狭さのおかげで水戸にも湯が飛んでくる。三井が「わりい」と振り返りつつ、シャワーヘッドをこちらに傾けた。
     丁度良い温かさの雨に、無意識に力の入っていた身体がほぐれる。つむじから顔に流れ落ちてくる湯を両手で乱暴に払い、止めていた息を吐いて、顔を上げた。視界の左に、こちらを見つめる三井がいる。
    「どうかした?」
    「別に?」
     何かを言いたげに見えた顔がそっぽを向く。しばしの沈黙が落ち、シャワーの跳ねる音だけが耳に反響していた。

    「あったかいね」
    「おー」
     のほほんとした声色が返ってくる。水戸は自分の指先を握り、しっかりと温まった体温を自覚した。先ほど撫でた三井の指の温度を思い出す。冷えていても水戸より温かいあの手指は、今ならもっと、熱いくらいだろうか。ちらりと三井の手を垣間見て、自分の思考回路に足元がすくんだ。
     何考えてんだか。邪念を振り払うように、頭を左右に振る。髪から飛び散った水滴が三井の顔に直撃したのか、非難の声が上がった。
    「なんだよ急に! あ、もう出るか?」
    「うん。じゅうぶん温まったし」
     平然とそう答えると、三井が「じゃあオレも」と頷きつつシャワーハンドルに手を回した。水戸は浴室の扉を──外気が侵入しないように──開けて、掛けておいたバスタオルを二枚、すばやく掴んで引き入れた。
     小綺麗な方のタオルを三井に手渡す。あんがと、としおらしく身体の水気を切る姿から、目線を外して声をかける。
    「そういや、ミッチー。パンツも洗濯してるけど、替えあるの?」
     ゲッ!と、どんな顔をしているのか想像に難くないうめき声が返された。やはり持っていなかったようだ。
    「か、借りても……いいか」
     力無くおずおずと伺い立てる三井を見上げた水戸は、口もとに微笑を滲ませてながら頷いた。

     ドライヤーを手に取り、乱雑に巻き付けられたコードを解いて、洗面台のコンセントに挿す。片手間にフェイスタオルで濡れ髪をたたいた。新しい衣服に着替えた己の隣、鏡の中に、ワイシャツと学ランのズボンをまとった三井が映っている。
    「使う?」
    「おお、サンキュー」
     水戸からそれを受け取った三井は、強風に短い髪をなびかせながら「そういや」とドライヤーに負けじと大きな声を出した。
    「言おうか悩んだんだけどよぉ、やっぱ気になってしゃーねえから言っていいかー?」
     風音の隙間に、間延びした声が響く。──カチリ。ものの一分で乾ききったのか、三井はドライヤーのスイッチを切って、鏡越しの水戸の顔を見据えている。やけに真剣な面持ちに、心臓が一拍、跳ねるように鼓動した。
    「どうしたの」
     問いかけた声がかすかに上擦った気がしたが、自分ではわからなかった。鏡の中の三井をじっと見つめる。
    「お前……」
    「うん」
    「その」一息つく。「……お前んち、三一〇号室って! 水戸じゃねえか!?」
     鏡越しに見つめ合っていた三井が、目を見開きながら実物の水戸の方に勢いよく首を回した。
    「え? ……何?」
    「だァから、サンイチゼロってミトだろ、って! 語呂合わせな!」
     三井は丁寧に指折り、数字の身振り手振りを交えて、水戸に力説してくる。
    「いやー、ちょおっとガキっぽいかと思ったけど、ずっと気になって頭ん中占領されるのも困るから、言っちまった。わはは」
     破顔する男に、親友たちの姿が重なった。
    「それ、花道たちにも言われたことあるわ」
    「おっ、やっぱ皆思うよな! でも待て、あいつらと同じ思考回路なのか? オレは……」
    「しかも小学校のとき」
     そう言うと三井が苦い顔をする。それを見て、水戸は思わず肩を揺らした。
    「ははっ! いいじゃん。俺、その語呂合わせ好きだしさ。久しぶりに言われたからびっくりしたけど! しかもデケー高校生の口から!」
     こみ上げる笑いを堪えきれず、三井の肩を軽くたたくと半開きの双眼に睨みつけられた。
    「怒んないでよ、ミッチー」
     三井は舌打ちをしてから、怒ってねー、と唇を突き出し険しい顔つきを保っていた。くるりと水戸に背を向けると、脱衣所から一歩外へ長い脚を伸ばす。今度は頭をぶつけなかった。
     それから、ちらりと右手の和室に目をやって、「こっち、お前の部屋?」と指差す。横顔が好奇心に染まるのが見て取れた。
    「うん」
     三井はつま先をそちらに向けると、のそりと足を動かした。止めようと思えば止められる、それくらい緩慢な動きだったが、水戸は黙ってその背に連なり自室の前に立つ。

     六畳の和室の奥。小さな窓に取り付けられたカーテンから、光が漏れている。閉められていない窓からわずかに風が入ってきて、薄っぺらいその布を揺らした。うっすらと湿った土の匂いが部屋を通り過ぎる。
    「お、もう晴れてんじゃねーのか?」
     そう言いながら、ずいっと水戸の部屋に踏み込んだ三井が、揺れているカーテンとレースを勢いよく開けた。
    「ほら」振り返った三井の向こうに、澄んだ空が見える。
     部屋が暗かったせいか、やけに眩しく感じて水戸は目を細めた。晴れわたった青空をバックにたたずむ三井を見つめる。午後の光が男の輪郭をなぞっている。窓枠に収まったそこだけが模範解答みたいで、なんだか笑えた。ただこの部屋にいることだけが場違いに感じて、水戸は重ねて笑みをこぼした。
    「つうか、お前窓開けっぱなしかよ」網戸もしねーで、と呆れ顔の三井がカーテンを揺する。
    「通りでちょっとカーテン濡れてんだ。ちゃんと閉めとけよ」
    「……うん」
     眉尻を下げた水戸を一目した三井が、よし!と元気よく両手を叩いた。
    「水戸、髪乾いたか? バスケしに行こーぜ!」
     学生服に身を包み、そんなことを口走る。窓の外と同じくらい、晴れやかな顔で水戸に笑いかけてくる。よく変わる表情かおだ。
    「まだジャージ洗濯中だし、乾燥機ないから、乾くまで時間かかるよ」
     だからまだここにいて、なんて思ったつもりは毛頭ないが、名残惜しい気がして、おのずとしみったれた声色になった。
    「あー。あ、じゃあバスケしてる間に乾かす、とか!」名案、と自信ありげに返される。
    「フッ、ほんとにバスケ好きだね、皆。いいことだけどさ。……でも、俺じゃ相手にならないでしょ」
    「む……。んじゃ、パス出してくれよ! それならできんだろ?」
     三井が無邪気な顔で笑いかけてくる。その表情が案外気に入っているので、水戸は結局「はいはい」とかぶりを振った。
    「で、それ、見返りは? ダッツとか奢ってくれんの?」
    「見返り!? おま、生意気な!」
    「ははっ。冗談冗談」
     目を見張り、身体ごとグイッと近寄ってきた三井。それをひらりと躱して、水戸は部屋の窓に手をかけた。気持ちの良い風に吹かれ、身体が軽くなった気がする。
    「……じゃあ、雨が降ったら、そしたらまたうちで雨宿りしてよ」
     窓を閉めながら、振り返る。すぐ近くにある、三井のひそめられた眉を見上げた。
    「雨の日だけかよ」
     ぼそりと零れ落ちた囁きは聞こえないふりをして、にこりと微笑んでみせる。片頬を膨らませた三井が、人差し指で水戸のおでこをつついた。
    「正直言って、見返りとか関係なくアイスくらい奢ってやるし! それに」
     何か言いたげに口ごもる様を眺めながら、水戸は頬を緩めた。歯に衣着せぬ物言いをするこの男が、たまに言い淀む瞬間も、どうやら好ましく思っているらしいと他人事のように認識する。
    「やさしーね、ミッチー」
    「だぁーー、その顔やめろ。やっぱ前言撤回すんぞ」
    「やだ」握りこぶしを作った三井の手を上から押さえつけて、引き寄せた。「それに、二言のある男はモテねーよ」
     一瞬の瞬きののち、再び水戸を睨み付けようと落とされた三井の視線とかち合う。存外薄い色をした瞳が、陽の光を浴びて輝いて見えた。
    「オレはバスケ一筋だから、モテとかカンケーねえけど!?」
     強がりのように聞こえる台詞は、目の前のバスケットマンが発すると途端に真実味を帯びて、水戸の自室に響く。ははっうるせ、と笑う水戸の声に重なるように、遠くで洗い終わりを告げる機械音が小さく鳴った。


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