犬午前十一時半、錆びた校門に左手を掛けた葦宮は、ゼェ、と疲労感たっぷりの溜息を吐く。
背中にひしひしと感じる生徒達の視線が鬱陶しい。逃れることは難しくもないが、この男の前で余分な隙を見せたくはなかった。
「……」
雨でも降るのだろうか、燻る煙草の煙の向こうでは表情が窺い知れない。ちぃ、と思いの外大きく舌打ちが響き、白髪混じりの頭が揺れる。
とうに分かっていただろうに、さも今存在に気が付いたと言わんばかりに振り返る津詰は、こちらの神経を逆撫でする間抜け面を晒していた。
「おいおい、人の顔見て舌打ちは失礼だろ」
「うるっせえなア…お前さん霞ヶ関勤務だろうよ、何だってこんな頻繁に来やがるかねェ」
「お前さんが真っ当に生きてさえくれりゃ俺もお役御免なんだがな」
「…、どうだかなア。俺ぁ真面目に働いてるってェのに、何処ぞの誰かさんが信用してねえだけじゃアねぇか?」
「……」
色眼鏡越しに視線が刺さる。爪先から太腿、腰回りをじろりと回って胸元のポケットの膨らみに気が付いたのか眉が寄った。左胸に留まる視線にク、と口の端が吊り上がる。
「止してくれや旦那、買ったばっかの煙草に穴が空いちまわァ」
「…そうか、そりゃ悪かった。今のお前はただの校務員だもんな」
「おうよ。…つう訳でとっとと引き取ってもらえませんかねェ」
ちら、と右下に視線をやる。ややあって葦宮に倣い足元の“それ”に津詰が顔を向けると、タイミングを見計らったように、きゃん!と場違いな程可愛げのある鳴き声が響いた。
「…犬か?」
「猫に見えるんなら引退を勧めるぜ」
「野良犬だっつーからこう、厳しいやつを想像してたんだよ俺は。…こうも小さいとはなあ」
「ガリガリに痩せっちまってるし、可哀想だ何だってェ生徒が騒ぐもんでさ。手に負えねぇんだわ」
「おう、そんなら任された。どれ、手綱寄越せ」
「ほらよ」
何重か巻いた綱をそのまま手渡す。生徒の一人が縄跳びに使う綱を切って繋いだのだという、如何にも手作り感の溢れるそれは、子犬のふかふかとした縮毛に埋もれている。
「肋まで浮いてんな…飼主探すより先に飯だなこりゃ」
「ヘエ、お優しいこって。…マ、見つからなけりゃあこっちで引き取るさ」
気にするな、と笑顔で告げる。案の定顔を顰めた津詰の口が『何が目的だ?』と紡ごうとしたのだろう、険の増した双眸がじろりと葦宮を睨み付ける。
「…犬、好きだったのか」
随分と言葉を選ぶものだ。少しの間を置いてそっと置かれた世間話は、質問というより尋問の声色をしていた。
「いやア? 別に、人並みだよ」
「人並みの優しさってやつか」
「…アアー、そうそう。優しさだなア……」
しゃがみ込み、片手に収まる程度の頭を撫でる。引き裂いた布団の間から溢れ出る綿の手触りを思い出す。
「小せぇナリしてんのも都合が良い…、楽だろう?」
「……知らんが、番犬にするならデカい方が良いだろうよ」
「カッ…ハハハ…そうだなぁ、手前ンとこのもデケェしな」
「誰のこと言ってやがる」
「いんや? 別に…」
立ち上がる。随分と懐かれてしまったのか、ズボンの裾に纏わりついては、かしかしと伸びた爪で構えと主張する様は可愛らしかった。
小さく、弱々しいナリで、従順で。文句と言えばこの鳴き声くらいのもので。
「じゃあな、旦那。後ァ頼まア」
「…おう、任せとけ。デカく育ててやるよ」
千切れそうな程尻尾を振る小さな獣を津詰が抱き上げる。
踵を返し、やや丸まった背中が遠のいて行くのを眺めながら、葦宮は改めて舌打ちを溢した。
後ァ首斬りゃ終いだったってのに。