5章おまけ部屋には2人いた。
僕と、蒼純くんだ。
でも部屋にいるのは僕だけと言ってもいい。
彼は、蒼純くんはもう事切れて一時間ほど経つ。
彼の体は消えない痣と死斑で少しずつ紫色に蝕まれていた。
綺麗な肌が侵食される様は根から摘まれた花が萎れていくような美しさと類似して見えた。
摘まれた花を慈しむ様に。
僕は、蒼純くんの心臓に耳が当たるように胴に抱きつく。
どれだけ押し付けても心音は聞こえてこない。
当たり前だ。
僕が殺したんだから。
それを実感して、自然と口角が上がる。
そのまま顔を埋めて、甘えた猫のように彼に擦りつく。何をしても彼は無反応。僕が何をしても嫌がらない。喜ばない。
何度目かのキスをする。
きっと彼が生きている時にキスをしたら嫌がられたんだろうな。
なんの反応もない唇は、ついさっき僕に確かに相手があなたで良かったと告げた唇だ。
彼は僕の答えをきっと聞かなかったけど。
血のついた手は力なく手の平を天井に向け、仰向けになっている。
その手を持ち上げて血にも構わず頬に当てた。
身長は変わらないが、僕より蒼純くんの方がほんの少し手は小さいみたいだ。
血も既に臙脂色になって固まり始めているにも関わらず、貫通した傷口は痛々しく見えた。
ああ、そういえばベッドの上に付いた血は弁償になるのだろうか。
大広間にも向かわず殺害した上にベッドシーツまで汚してしまって、あの狐面の司会者には悪いことをした。
もうお詫びの言葉は入れてはいるが一切が終わってここを去る時にまた謝っておこう
人の首を絞めたのは6年ぶりだ。
初めて殺人をした時以来になる。
手のひらにはまだ動脈の感覚が残っていた。
僕の皮膚を押し上げてどうにか体に血を送ろうとする、あの感覚が。
彼の意思とは真逆の、健気な体の、僕への些細な反抗だった。
それが堪らなく愛しかった。
「あずみくん、返事してみてよ、ねぇ」
「あずみくん」
返事はない。
「本当に死んじゃったんだね」
瞼を指で押し上げて目を確認する。
光のない目だ。
僕の大好きな、蒼純くんの目だ。
僕が彼を好きになった1番大きな理由が殊更素晴らしさを増して、僕には寧ろ輝いて見えた。
死体が温もりを完全に失うのには、大体2時間は掛かる。
もう心臓は止まっているのに、毎秒ゆっくり完全な死へ向かっているまだ温かい体。
力の抜けた体は、泥酔した人の様に重たい。
体の下に腕を滑り込ませ少し起き上がらせると頭はだらんと首をのけぞらせるようにして下がる。僕がさっきまで絞めていた首はもうまるで意思がない無機物のようになっていた。
彼は今までどんな人生を送っていたのだろう。もう聞く術はない。
あまり良い待遇をされていたわけではない事は容易に想像がつくことだった。
きっと今日だって酷い悪夢をみていた。
おおかた、ここに来る前の記憶の夢を見たんだろう。
いじめか虐待か、僕が触れた時のあの警戒の目は一体どっちかな。
チョーカーを外した首には、既に首を幾度も絞められた跡が残っていた。
紫に変色した彼の首に残る最後の新しい赤い圧迫の跡は僕の手の形だった。
ああ、可哀想に。もうチョーカーをつけたところできっとこの跡は隠しきれない。
ベッドから降りて、床に落としたチョーカーを拾い上げる。
貰ってしまおうか。
そうだ、貰ってしまおう。
確か虎々那ちゃんも柳葉魚ちゃんの髪飾りを貰っていたから別に駄目な事ではない筈だ。
机の上にそっとチョーカーを置いておく。
彼が完全に冷たくなるまであとどれくらいだろう。
さっきそうしたようにもう一度彼に馬乗りになって首に手を添える。
もう僕の手を押し上げる脈はない。
体温もほのかに感じる程度だ。
あんなに抵抗していたのに、もう僕の腕を掴む事すらしない。
彼の血がついた僕の服が、抵抗の激しさを表していた。
僕の服の右腕部分は、彼の血で酷いことになっていた。
「君の抵抗は、君を虐げた人への抵抗?それとも、僕へ?君は抵抗してる時、きっと僕を見てくれてなかったね。僕が愛してるって言った時に君が少し力を抜いたのを僕は知ってるよ。もう一切抵抗してこないけど、僕を受け入れてくれたって事でいいの?僕を見てくれてるから無抵抗なんでしょう?君が死んでいようが生きていようがそこは論点じゃないよ。君が僕に何もしてこないって事実が全部証明してくれてるんだから」
嘘だ。自分でも分かってる。
出鱈目な理論だ。
馬鹿げていることも知っている。
もう彼は僕の話なんて聞いていないんだから、別に何を言ったって僕の自由だろう。
これは僕の肥大化した支配欲だ。
もう、どうしようもないくらいの。
死体は人形ではないから、どうしたって腐ってしまう。
もし死体が腐りさえしなければ、僕のこの欲求は収まるのだろうか。
死体以前に殺害行為自体にも意味を持たせてしまっている以上無理な話かもしれない。
でも、きっとこの支配欲はそうすれば満たされるんだ。
蒼純くんを連れて帰れたらいいのに。
腐らないで、ずっとずっとそばで眠っていてくれたら良かったのに。
僕は、君の側で他の誰かを殺すような事は絶対にしないから。
「ねぇ、蒼純くん、僕はどうしたらいいかな?今更普通になろうなんて、もう思わないけれど、今でも少し悩んじゃうんだ」
こんな事をいつまで続けるのかとか、普通に生きられたならどんなに楽だったかとか、仮に普通に生きていたならこんなに素敵な感動はなかっただろうとか。
例えば過去の同級生や、今の大学の友人なんかが僕の悩んでいる顔を見れば笑うだろう。
お前らしくないな、と戸惑うだろう。
僕は完璧な人間じゃない。
そんな風に振る舞っているだけだ。
蒼純くんも、きっと。
だけど僕らは初めからずっとそうだ。
何も完璧なんかじゃない。
痣を隠してまで優しく笑う。
「あずみくん、君を僕の代わりにして、ごめんね」
僕はずっと、こんな僕が嫌いだったんだ。
確証はない。
自分の事が好きか嫌いかなんて正直自分では分からない。
僕によく似た君を殺して、満足するなんて。
世間とずれてしまった分の自分を殺したくて、そうすれば救われると思って。
蒼純くんを殺しても、別に自分は何も変わらなかった。
もちろん蒼純くんの全てを自分の代わりにして殺した訳じゃない。
もっと複雑で、まとまりがなくて、一言では説明がつかない。
物事には色々な側面があるから。
それでも君を愛してる気持ちは本当だった。
君のつまらなそうな色が浮かぶ目は優しげで心地よかったし、君の歪んだ表情も可愛かった。
首を絞める僕の手の微かな隙間で喉仏を動かして、掠れた声で話すのも。
「もう、朝になるね」
そろそろ司会者が蒼純くんを回収しに来る頃だろう。
僕は蒼純くんの頭を軽く撫でて部屋のドアへ目をやる。
記憶は月日が経っていずれ曖昧になるものだ。
もう2度と同じミスはしたくない。
歳をとって、大事な人が分からなくなってうまわぬように。
監視カメラの映像を残したUSBメモリと引き換えに蒼純くんの遺体は持っていかれてしまう。
でも、僕が君を忘れる事はないよ。
君の家族や、友人が忘れてしまっても、僕はずっと君の事を忘れずにいるから。
おはよう、そして、さようなら。